過去の今日の出来事etSETOraですヨ(=^◇^=)

過去の今日の浜省さんとetSETOraだヨ(=^◇^=)


>松田聖子さんに胸キュン!@鹿田 聖様

ぶちご丁寧な返信ありがとうございます(=^◇^=)ゞ
鹿田 聖様が書いて下さった収録曲をよく見ると
LP盤は、A麺 2曲目の♪秘密の花園♪
CD盤 4曲目の♪マドラス・チェックの恋人♪
LP盤、CD盤、共に1曲だけ違う選曲収録ですね。
もっとよく見ると
♪渚のバルコニー♪のB面♪レモネードの夏♪が
LP盤、CD盤 共に収録されていませんね。
もっともっともっとよく観察すると
収録曲全部、呉田軽穂ことムーミン。。。
ユーミンの珠玉の作品ばかりでぶちぶち最高です!
とまあここまでわかったふりして書いてきましたが、
Wikipediaの受け売りです(=^◇^=)ゞ
『Seiko-Train』といっても
列車の歌は
♪赤いスイートピー♪と♪ボン・ボヤージュ♪
の2曲だけですね。
でも、最高にイカしたナウい曲ばっかりで
うれしいたのしいだいすきで
HAPPY SUNDAYな気分になります☆\(=^◇^=)/☆
この素敵な聖子様鉄道写真を見続けていると
『SEIKO TRAIN』に乗り
風に吹かれて ひとり静かに
SEIKO・TOWNを旅してみたい気分になるのは
風が野ばらを震わせるからでしょうか?
なんてね(聖笑)


■武道館コンサートネット配信スタート♪
 2022(令和四)年02月11日(金・祝)
『SHOGO HAMADA / 40th Anniversary ON THE ROAD 2022 LIVE at 武道館』ファンクラブ会員限定ネット配信が、本日よりスタートしました!
 2022(令和四)年02月11日(金・祝) 12:00~配信開始
†2022(令和四)年02月14日(月)23:59
※事前に配信視聴チケットをご購入いただいている方が対象です。ご覧になった方はぜひ、コメント欄に感想をお寄せください♪
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
■浜田省吾『ON THE ROAD 2022 LIVE at 武道館』ファンクラブ会員限定ネット配信 販売サイト不具合に関するご案内
 2022(令和四)年01月21日(金) INFORMATION配信
 本日(1月21日)12時より配信視聴チケットの販売を開始いたしましたが、チケット受付システムに不具合が発生したため、一時的にサイトを停止させていただいておりました。現在不具合が解消し販売を再開しております。ファンクラブ会員の皆様には大変なご迷惑をおかけいたしましたこと、謹んでお詫び申し上げます。
 株式会社ロードアンドスカイ
 株式会社エブリィ・エンタテインメント
●配信視聴チケット販売サイトhttps://sh-fcct2021.jp/
●配信視聴チケット購入に関する問合せ【インフォメーションセンター】https://sh-fcct2021.jp/contact/faq
※新型コロナウイルス感染症の情勢に鑑み、お電話でのお問合わせ業務を当面の間、停止させていただきます。
ご不便をおかけいたしますが、何卒ご了承くださいますようお願い申し上げます。

 1980年代を謳歌!『異邦人』からイカ天まで「俺たちの一発屋」名曲・青春プレーバック
‡2022(令和四)年02月14日(月) 11:01 週刊女性PRIME [シュージョプライム] 
 清原果耶主演ドラマ『ファイトソング』で、シンガー役の間宮祥太郎が「世界で一番嫌いな言葉」としたのが“一発屋”。今回は、かつて確かに眩い輝きを放った、1980年代に青春を送った人なら誰もが知る「名曲」を歌ったミュージシャンをプレーバック!一番嫌いな言葉?そんなの関係ねぇ!思い出と共に色あせない、俺たちの、私たちの一発屋たちーー。
 写真◆左から森川由加里、哀川翔、柳葉敏郎、風見しんご 週刊女性PRIME
■'70年代末~'80年代初め 異邦人、完全無欠、ピカピカ、ついには猫まで一発ヒット■松原みきという歌手をご存じだろうか。1979年に『真夜中のドア』でデビュー。おしゃれなシティーポップスを歌える実力派として人気を得たが、2004年に44歳の若さで病死した。そんな悲運の歌姫が今、再評価されている。一昨年、インドネシアのユーチューバーが『真夜中のドア』をカバー。これを機に、海外のチャートで1位になるなど世界的にヒットしたのだ。松原がデビューしたころの日本は、世界第2位の経済大国に躍進。音楽にもその豊かさが反映され始めていた。演歌のような湿っぽいものより「ニューミュージック」と呼ばれたポップなものが好まれるようになり、歌の舞台もグローバル化。その一例が、庄野真代の『飛んでイスタンブール』(1978年)であり、松原のひと月前にデビューした久保田早紀の『異邦人』(1979年)だ。
■“ユーミンの再来”と称された■シルクロードをイメージさせる『異邦人』は翌1980年にかけて、オリコン1位を7週にわたって独走する大ヒット。今となっては一発屋だが、当時は久保田はユーミンの再来などと呼ばれた。彼女にとってもユーミンは憧れの存在だったが、その後はヒット曲に恵まれず、結婚を機に教会音楽家に転向する。その理由について、彼女は「男女の愛を歌うラブソングの上手な人は、ほかにたくさんいます」としたうえで、「私は違うタイプのラブソングを歌っていきたい」と、語った。なお『異邦人』はカラーテレビのCMソングでもあった。同様に、斉藤哲夫の『いまのキミはピカピカに光って』(1980年)や五十嵐浩晃の『ペガサスの朝』(1980年)ザ・ヴィーナスの『キッスは目にして!』(1981年)もCMつながりでヒット。『いまのキミは~』は宮崎美子が世に出たカメラのCMソングだ。宮崎がいまもピカピカなおかげで、ちょくちょく流れるラッキーな曲である。
■“ツッパリブーム”と「なめ猫」■コミカル路線では、アラジンの『完全無欠のロックンローラー』やシュガーの『ウエディング・ベル』(ともに1981年)といった一発ヒットが。ただ、アラジンのリーダー・高原兄は約30年後、島田紳助と組み、ヘキサゴンファミリーの作曲担当として二発目を当てた。また、又吉&なめんなよの『なめんなよ』(1981年)なんてキワモノ的一発も。猫にツッパリルックを着せて楽しむ「なめ猫」ブームから派生した曲だ。歌っていたのはもちろん、猫ではなく人間。ちゃんとしたバンドのボーカルだった。さらに、ツッパリブームの総本山・横浜銀蝿一家からは、紅麗威甦(グリース)が『ぶりっこROCK'N ROLL』(1982年)をヒットさせた。聖子ちゃん人気にも便乗した、あざとい曲だ。ボーカルを務めていたのは、杉本哲太である。かと思えば、その対極的な魅力で売れたのが、堀江淳の『メモリーグラス』(1981年)。女性っぽい歌い方や容姿と曲のハマり具合がこれ以上ないほど絶妙だった。ほかには、あみんの『待つわ』や一風堂の『すみれ September Love』(ともに1982年)もこの時期を代表する一発ヒット。ただ、あみんの岡村孝子はその後、ソロで成功したし、一風堂の見岳章は『川の流れのように』(美空ひばり)などの作曲者として歌謡史に大きな足跡を残すことになる。この人たちにとって、才能は一発で枯れるものではなかったわけだ。
■'80年代ど真ん中 アイドルの陰で吠えた人、泣かせた人、流行りに乗った人■1980年代中盤は、アイドルの時代だ。1980年デビューの松田聖子や田原俊彦、1982年デビューの中森明菜、1985年デビューのおニャン子クラブといった顔ぶれがオリコン1位を独占した。そのぶん、アイドル以外の人は一発屋になりやすい。例えば、せつない恋を歌い上げたちょっと地味な男性歌手たちである。『想い出がいっぱい』(1983年)のH2Oに『初恋』(1983年)の村下孝蔵、『シャイニン・オン 君が哀しい』(1985年)のLOOK。『想い出が~』はアニメ『みゆき』(フジテレビ系)のエンディング曲で、彼らのデビュー第2弾はドラマ『翔んだカップル』(フジテレビ系)のエンディング曲だった。当時のラブコメブームにぴたりとハマったデュオといえる。
■ドラマ主題歌が大ヒット■これに対し、女性シンガーは吠えまくった。『ボヘミアン』(1983年)の葛城ユキに『ふられ気分でROCK'N' ROLL』(1984年)のTOM CAT『ヒーロー』(1984年)の麻倉未稀、『翼の折れたエンジェル』(1985年)の中村あゆみ。このうち『ヒーロー』はドラマ『スクール☆ウォーズ』(TBS系)の主題歌である。実はこの時期、TBSのドラマから特大の一発ヒットがいくつも生まれた。1985年には『金曜日の妻たちへ3』の主題歌『恋におちて』(小林明子)、1986年には『男女7人夏物語』の主題歌『CHA-CHA-CHA』(石井明美)、1987年には『男女7人秋物語』の主題歌『SHOW ME』(森川由加里)という具合だ。『金妻』は不倫ドラマで『恋におちて』も不倫ソング。「土曜の夜と日曜の貴方」が欲しいとか「ダイヤル回して手を止めた」といったリアルでその時代っぽい歌詞が共感を生んだ。また、小林はのちに、カーペンターズのリチャードに「カレンに似ている」と気に入られたボーカルの持ち主。不倫ソングなのに、どこか清々しいところも支持につながったのだろう。一方、アイドル系でも一発屋的な人がいる。例えば『僕笑っちゃいます』(1983年)の風見しんごだ。歌よりもダンスや笑いが売りだったが、隙間狙いの戦略は長続きしなかった。それでも、第4弾『涙のtake a chance』で見せたブレイクダンスは語り草だ。最近も『中居正広のダンスな会』(テレビ朝日系)で当時の映像が紹介され、ネットをざわつかせた。ちなみに、風見はデビュー前、劇男零心会という集団に属し、原宿で踊っていた。この集団はその後、劇男一世風靡となる。そのメインメンバーたちが結成したのが、一世風靡セピアだ。1984年にデビュー曲『前略、道の上より』がヒット。哀川翔や柳葉敏郎がここから大成していった。また、この時期はチェッカーズがアイドルバンドとして絶大な人気を誇ったが、二匹目のどじょう的な感じで売れたのが『バージンブルー』(1984年)のSALLY。こちらはチェック柄ではなく、市松模様の衣装で歌ったりした。そして、カルロス・トシキも忘れられない存在だ。杉山清貴&オメガトライブから杉山がソロになるにあたって、1986オメガトライブとして再出発した際、ボーカルとして加入。デビュー曲『君は1000%』(1986年)などをヒットさせた。日系ブラジル人で、童顔と片言という甘いテイストで人気者に。現在はブラジルで農業に従事し、ニンニクの品種改良などをやっているという。
■「クロマティに似てるほう」■女性では、BaBeというアイドル的デュオもいた。業界ドラマ『アナウンサーぷっつん物語』(フジテレビ系)の主題歌『I Don't Know!』(1987年)がヒット。ただ、翌年デビューのWinkほどにはメンバーの名前を覚えてもらえず「クロマティに似てるほう」「富田靖子みたいなほう」などと呼ばれていたものだ。ところで、1980年代は広告主導の時代でもあった。CMのキャッチコピーがそのまま歌になり、ヒットしたケースも多い。中原めいこの『君たちキウイ・パパイア・マンゴーだね。』(1984年)はその典型だ。カタカナ系の食べ物が憧れだった時代の空気も反映されている。同様に、カタカナ系の職業も憧れの対象に。スタイリストにコンサルタント、さらには空間プロデューサーを名乗る人もいた。そんな世相から生まれたのが、ややの『夜霧のハウスマヌカン』(1986年)だ。おしゃれな仕事に見えても、食事はシャケ弁当だったり、カリアゲヘアは毛を剃るのが大変だったり、などなど、その実態をおちょくった内容。歌ったのが、ポップス出身なのに北島三郎に拾われた苦労人の女性歌手だったところも含め、なんでもあり的な1980年代を象徴する一発ヒットである。
■'80年代末~'90年代初め 「イカ天」と「やまかつ」が起こした一発屋バブル■1988年ともなると、アイドルブームも下火に。そんななか、ある大物アイドルがボーカルを務めたロックバンドが一発屋になった。ラ・ムーだ。工藤静香あたりがやるならともかく、ラ・ムーを始めたのはロックとは程遠いイメージの菊池桃子。デビュー曲『愛は心の仕事です』には、
■「桃子なのにラ・ムーなのはなぜなの?」■と題された解説文が挿入されていたが、その答えは曲を聴いてもわからなかった。また、秋元康が手がけた男性アイドルグループ・幕末塾もすぐに失速。秋元系ではおニャン子の男性版・息っ子クラブに続く一発屋となった。それでも、彦摩呂がグルメタレントとして生き残ったおかげで、たまに話題になる。先日も『あいつ今何してる?』(テレビ朝日系)で元メンバーが集まり、デビュー曲『Come on Let's Dance』(1989年)を披露していた。しかし、アイドルは下火でも、日本は元気だった。バブル経済が絶頂に向かいつつあり、それを象徴するような一発ヒットがCMから誕生。時任三郎が“牛若丸三郎太”名義で「24時間戦えますか」と歌った『勇気のしるし』(1989年)や、鷲尾いさ子と鉄骨娘が「ソーレソーレ」と踊った『鉄骨娘』(1990年)である。また『私の彼はサラリーマン』(1989年)のような珍品も。大手企業社員の2人組・SHINE'S(シャインズ)によるコミックソングだ。
■「イカ天」と「やまかつ」■そして、1989年には一発屋と縁の深いふたつの番組がスタート。『三宅裕司のいかすバンド天国』(TBS系)と『邦ちゃんのやまだかつてないテレビ』(フジテレビ系)である。前者は「イカ天」ブームを巻き起こし、数多くのアマチュアバンドを世に送り出した。なかでも『さよなら人類』(1990年)のたまはオリコン初登場1位や『紅白』出場といった快挙を達成。ただ、アンダーグラウンドな芸風を自覚していた彼らは意外とさめていた。メンバーのひとりは、「もし、百人が百人、たまをいいと思ったら、気持ち悪すぎます」などと語っていたものだ。少数派向きという傾向は『お江戸』(1990年)のカブキロックスなど、多くの「イカ天」系バンドにも当てはまる。今も生き残っているのは『恋しくて』(1990年)のBEGINくらいだろうか。一方、後者は山田邦子の冠番組で、テーマ曲にKANの『愛は勝つ』(1990年)や大事MANブラザーズバンドの『それが大事』(1991年)が使われ、爆発的にヒットした。どちらも年をまたぐかたちで、オリコン1位を独走。つまり、2年連続して年末年始に一発屋ソングが流れまくったわけだ。こちらは「イカ天」系とは逆に、万人受けするポジティブなメッセージが売り。ただ、それだけでやっていけるほど芸能界も人生も甘くない。そこがわかっていたのか『愛は勝つ』のカップリングは『それでもふられてしまう男(やつ)』という曲だった。
■一発でも当てるのはすごい■ほかに、沢田知可子の『会いたい』(1990年)やJAYWALKの『何も言えなくて…夏』(1991年)平松愛理の『部屋とYシャツと私』(1992年)といった一発ヒットが誕生したが、このあたりからJポップの時代が本格化する。「イカ天」に出た際、なぜか酷評されて落とされたGLAYをはじめ、長く安定して売れるアーティストが続々と登場。一発屋が生まれにくくなっていくわけだ。ところで、現在放送中のドラマ『ファイトソング』(TBS系)はヒロインが一発屋シンガーに恋をする話。そのシンガーは「一発屋」について「世界でいちばん嫌いな言葉だ」などと言ったりする。とはいえ、ほとんどの人がデビューしても何も残せずに消えていくなか、一発でも当てるというのはやっぱりすごい。一発屋もまた、勝ち組なのだ。
 寄稿:宝泉薫(ほうせん・かおる)アイドル、二次元、流行歌、ダイエットなど、さまざまなジャンルをテーマに執筆。近著に『平成「一発屋」見聞録』(言視舎)『平成の死 追悼は生きる糧』(KKベストセラーズ)
 https://news.yahoo.co.jp/articles/0436f0ad485695bf06a0d14cc9de23da86d79e29

2nd 1990(平成二)年02月14日(水) プレゼント https://ja.wikipedia.org/wiki/JITTERIN%27JINN#.E3.82.B7.E3.83.B3.E3.82.B0.E3.83.AB
ジッタリン・ジンの「プレゼント」替え歌
創価が私にくれたもの カラーコピーのご本尊
創価が私にくれたもの 聖教新聞啓蒙紙
創価が私にくれたもの 広布基金の申し込み
創価が私にくれたもの 選挙のFの一覧表
創価が私にくれたもの 活動漬けの生活
創価が私にくれたもの 意味不明な役職
創価が私にくれたもの 三色カラーの文房具
創価が私にくれたもの センセーマンセー書籍類
大好きだったけど 詐欺だったなんて
ダイサクだったけど 嘘のプレジデント
バイバイ創価学会 さよならしてあげるわ
https://signifie.wordpress.com/2015/08/08/11%e6%9c%8818%e6%97%a5%e3%81%ab%e8%84%b1%e4%bc%9a%e3%81%97%e3%81%be%e3%81%99%ef%bc%81%e5%ae%a3%e8%a8%80/#comment-13899

 国生さゆり『バレンタイン・キッス』一強問題 昭和の王道ソングが36年愛されるワケ
‡2022(令和四)年02月14日(月) 7:00配信 8760 by postseven
 意中の相手にチョコレートを贈り、愛を告白する……。そんなロマンティックな日にもかかわらず、意外に少ない「バレンタイン・ソング」。特に昭和は国生さゆり『バレンタイン・キッス』(1986年)一強状態。なぜなのか?──。その謎について、1980年代~1990年代のエンタメ事情に詳しいライターの田中稲さんが考察します。
 写真◆『バレンタイン・キッス』国生さゆりwithおニャン子クラブ(提供:ソニー・ミュージックダイレクト)
【写真6枚】国生さゆりのデビュー当時のはにかむ笑顔写真。すらりとした全身ショット、おニャン子メンバーの集合写真も
■36年、ずっと『バレンタイン・キッス』■恋する人の胸騒ぎが聞こえてきそうな今日。
‡2月14日、バレンタインデーである。本命チョコ義理チョコ友チョコが飛び交っていることだろう。ちなみに私は「我チョコ」。プレゼント用のチョコレートを買い、自分でリボンを解いて食べる。これが数十年続いている。とほほ!学生の頃、好きな人に板チョコにリボンを掛けて用意したことがあったっけ。渡せないまま2日ほど経ち、チョコがカバンの底でバキバキに割れていたなあ……。ああ、甘酸っぱい(情けない)思い出が甦る。どんなに時が過ぎようとも、どんな展開を迎えようとも、この時期に私の頭の中で鳴るのはただ一曲。『バレンタイン・キッス』である。いや、私だけではなく1986年に思春期を過ごした多くのレディ&メンズはそうではなかろうか。平成に入ってからは、松浦亜弥の『チョコレート魂』やPerfumeの『チョコレイト・ディスコ』が出てきたが、昭和のバレンタインソングの大ヒットはこれ一強だったのである。常々不思議に思っていた。バレンタインソングが少なすぎる。様々なお菓子メーカーが「バレンタインにチョコを送ろう」と仕掛け、実際に盛り上がり出したのが1970年代半ば。アイドル全盛期のど真ん中に当てはまる。愛すべき恋愛ソングを生み出すヒットメーカーはたくさんいた。好きな人にチョコレートを渡し気持ちを伝えるというイベントなんて、最高に腕が鳴るテーマではないか。松本伊代ちゃんの『チョコの国からトロトロ』とか、シブがき隊の『チョコがNAINAIバレンタインSHOCK!』とかあったら絶対聴いたのに!素人目線ではわからないバレンタインソングのハードルがあったのでは……。ということで、「バレンタインに聴きたい歌ランキング」などを見て理由を考えてみた。その結果、
【1】シングル曲でバレンタインと歌詞に入れてしまうと、曲の旬が
‡2月14日前後という短期間に限られ売りにくい。そもそもバレンタインは普通の恋愛ソングでも対応可能。
【2】バレンタインという「ン」が2つも出てくる単語がけっこう歌詞として使いにくい。
【3】実はたくさんあったのだが『バレンタイン・キッス』の衝撃が凄すぎて我々の記憶から消え去ってしまった。というロマンの欠片もない3つの考えに至ったが、どうだろう……。いや、答えは求めない。エンタメは、ミステリアスくらいがちょうどいい。
■嗚呼、いろんなトキメキを思い出す■ただ、どんなにバレンタインのヒットソングがあったとしても、国生さゆりの『バレンタイン・キッス』は間違いなく王道になっていただろう。それほどの名曲である。おニャン子クラブがユニットやソロなど、アメーバのように形を変え、曲を乱発していた1985年から1987年。『セーラー服を脱がさないで』でドン引きし、彼女たちに苦手意識があった私だが、大好きな曲もたくさんあった。『バレンタイン・キッス』もその一つ。この歌のヒロインは、チョコレートを“あなたにあげちゃう”としているが、実際あげるのはチョコではない。2番で“自分の唇”と言っているではないか。タイトルが『バレンタイン・キッス』なので当たり前なのだが、なんと積極的な!さらに今改めて聴いて萌えるのが「テレフォンコール」という単語。この曲が発売された1986年、一応携帯電話(ポータブル電話)は、あるにはあったが、お相撲さんの弁当箱みたいなやつで、ズバリ業務用。一般人はまだまだ家の固定電話を使っていた。好きな人と話したいのに、お母様もしくはお父様が「もしもし?」と出てくるのも日常茶飯事。慌てて切った、という経験のある方、静かに挙手お願いします……。分かります、好きな人と話せなかった寂しさと、好きな人の親御さんに迷惑行為をしてしまった罪悪感の混在。忘れよう、苦しくなるから!嗚呼、いろんなトキメキを思い出す『バレンタイン・キッス』。このキュートな楽曲を、国生さゆりがものすごく覚えやすい振り付けで歌うという、隙のない戦略。国生さゆりは正直歌が上手いとは言えないが、声が破壊的に可愛い。そして強気な眼差しとポニーテールも素晴らしい。すべてが青春。昭和のバレンタインヒット曲は少ないが、その寂しさをこの一曲で埋めてくれる、そのくらいのパワーがある。
■久々にキーワード検索をかけたら…■名曲はカバーされるもの。ということで、amazonで『バレンタイン・キッス』で検索をかけてみた。するとなんということでしょう……。国生さゆりや渡り廊下走り隊7を押さえトップに並んでいたのは、アニメ「テニスの王子様」の越前リョーマ氏だった。私が数十年間『バレンタイン・キッス』を街やラジオで聴き流し済ませていた隙に、世の中では何が起こっていたのだろう。調べてみたら、アニメ『テニスの王子様』では18年も前から『バレンタイン・キッス』をカバーしていたというではないか。そして今年はアニメ20周年。おめでとうございます! そんなアニバーサリーイヤーに情報を知ることが出来たのは、ある意味運命。越前リョーマの歌声、聴こう。名曲、そしてバレンタインは新しい出会いと好奇心をくれる。シャラララ……。
 ◆ライター・田中稲さん◆1969年生まれ。昭和歌謡・ドラマ、アイドル、世代研究を中心に執筆している。著書に『昭和歌謡 出る単 1008語』(誠文堂新光社)、『そろそろ日本の全世代についてまとめておこうか。』(青月社)がある。大阪の編集プロダクション・オフィステイクオーに所属し、『刑事ドラマ・ミステリーがよくわかる警察入門』(実業之日本社)など多数に執筆参加。他、ネットメディアへの寄稿多数。現在、CREA WEBで「勝手に再ブーム」を連載中。
 https://news.yahoo.co.jp/articles/89d206f118228419466f8e481c5e11c620e6830b
 ┏━━━━━━━━━━┓
 ┃♪はぐれそうな天使♪┃
 ┗━━━━━━━━━━┛
 1985(昭和60)年09月10日(火) 来生たかお リリース
 1986(昭和61)年03月20日(木) 岡村 孝子 リリース
 1986(昭和61)年12月20日(土)『Noel』PV収録
 2006(平成18)年12月13日(水)『Noel』DVD化
 1986(昭和61)年05月24日(土)&25日(日) ホンダプリモデー
 1986(昭和61)年10月04日(土)&05日(日) ホンダF-1 ワールド・グランプリフェア
 1986(昭和61)年11月08日(土)&09日(日) ホンダプリモフェア
 1986(昭和61)年12月06日(土)&07日(日) ホンダプリモ 大商談会
‡1987(昭和62)年02月14日(土)&15日(日) オールホンダ 春の大商談会
 1987(昭和62)年03月14日(土)&15日(日) 春のホンダプリモデー
 映像◆44秒から映像◆http://www.nicovideo.jp/watch/sm14656473
 映像◆1986(昭和61)年CM ホンダ トゥデイ 青山育ちのハンサムです。今井美樹 https://youtu.be/wQ4E0X8MvkU
 
 映像◆来生たかお 編 今井美樹 HONDA TODAY CM  https://youtu.be/pI0F2_NT5-0
 
 懐かし車CM集1985 映像◆https://youtu.be/na14GE0Ztj4
 
 映像◆はぐれそうな天使(HONDA today CM 今井美樹)岡村孝子https://youtu.be/gSFZDMiv4jc
 
 1985~1986映像◆https://youtu.be/_HexZv7EdXE
 
 1985年音源◆ホンダトゥディ ラジオCM  1985年 https://youtu.be/GsmJEOdHeLM
 
 1986削除映像◆https://youtu.be/g6vtEkwIFlI キミとなら仲良くできる。
 1986(昭和61)年05月24日(土)&25日(日) ホンダプリモデー
 削除映像◆1987 ホンダ トゥデイ(JW1)HONDA today  https://youtu.be/r9qHx5hSPBM
 '86 グッドデザイン選定商品
 1987(昭和62)年前半 ホンダ トゥデイ「21世紀のハンサムです。」
 1987(昭和62)年後半 ホンダ トゥデイ「ポシェット誕生」
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 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%AF%E3%81%90%E3%82%8C%E3%81%9D%E3%81%86%E3%81%AA%E5%A4%A9%E4%BD%BF
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1972年2月14日、オリコンチャートのトップに立ったのは、ペドロ&カプリシャス「別れの朝」だった
2017年02月14日 執筆者:丸芽志悟
1972年(昭和47年)の本日2月14日オリコンチャートのトップに立ったのは、ペドロ&カプリシャスのファーストシングル「別れの朝」である。
69年暮れから70年初頭にかけて14週間オリコンチャート首位を独走した皆川おさむ「黒ネコのタンゴ」がクールファイブにその座を譲ってから2年間、そこからの反動のごとくオリコン首位は所謂「アダルトコンテンポラリー」一色となった。それこそ藤圭子と小柳ルミ子が若手として健闘したくらいで、あとは叩き上げ期間が長かった森山加代子、由紀さおり、渚ゆう子、加藤登紀子、尾崎紀世彦、湯原昌幸といったメンツがずらりと並ぶ。「よこはま・たそがれ」で幸先いいスタートを切った五木ひろしでさえ、それ以前に3つの芸名でレコードを出しながら鳴かず飛ばずの日々が続いていた。今で言うアイドルヲタクに該当する方々は何にお金を使っていたのだという疑問が芽生えそうだが、今振り返れば中堅?ベテラン組に属していた彼らの歌でさえ、当時のちびっ子達は平気で口ずさんでいたのである。幅広い層に訴えることがヒット曲の最大勝因だった時代だ。
72年を迎え、まず1位に飛び込んできたのが平田隆夫とセルスターズ「悪魔がにくい」。そしてその座を奪ったのがこの「別れの朝」だ。数多のラテンバンドで経験を積んだリーダーが、新しいサウンドの波を感じて結成したバンドのデビュー曲という共通項を持ったこの2曲は、たちまち万人の心を捉えた。
カプリシャスのリードシンガーというと、高橋真梨子(当時は高橋まり)というイメージがあまりにも強いが、初代ヴォーカリスト・前野曜子の功績を決して見逃してはいけない。元々時代に先んじ過ぎていたバンド、リッキー&960ポンドで活動し、70年には西丘有理名義でソロシングル「朝を待たずに」をリリースしているが、翌年ペドロ梅村に抜擢されカプリシャスに参加。ソウルフルな外見から繰り出される伸びやかな歌声で、カプリシャスサウンドの基礎を築いた。しかし、シングル3枚とアルバム2枚を録音した後、諸事情が重なり脱退。73年に二代目ヴォーカリストとして高橋まりが加入し、「ジョニィへの伝言」「五番街のマリーへ」と大ヒットを連発することになる。前野曜子は79年に映画『蘇える金狼』の主題歌を歌ってカムバックしたが、闘病の末88年7月31日に帰らぬ人となっている。
現在は5代目ヴォーカリストとして桜井美香を迎え、なおも精力的に活動しているペドロ&カプリシャスだが、こうしてヴォーカリストの変遷を見ていると、音楽性は全く異なるがディープ・パープルと重なる部分を感じる。1曲のヒットを名刺として印象付けた前野=ロッド・エヴァンス期、バンドの顔と音楽性を確立したと言える高橋=イアン・ギラン期、派手なヒットはなかったものの安定した活動を保った松平直子=デヴィッド・カヴァーデイル期。もっとも現在をジョー・リン・ターナー期に例えるのは間違ってると思いますが…。
話を「別れの朝」に戻すと、同曲はオーストリアの国民的歌手、ウド・ユルゲンスが歌った「Was ich dir sagen will」がオリジナル。「夕映えのふたり」の邦題が付けられた彼のヴァージョンも同時期オリコンで17位に食い込んでいる。ピアノをメインとしたアレンジで朗々と歌い上げるスタイルで、カプリシャスの洒落たアレンジと別の曲のような印象。66年ユーロヴィジョン・コンテストで優勝した「メルシー・シェリー」が紹介されて以来、日本でも地道に人気を獲得していた人で、68年の「ふたりの夜明け」はカルトGSの代表格、ザ・タックスマンによるカヴァー(「嘆きのキング」のB面収録)も知られている。
カプリシャスヴァージョンは4週間1位を独走した後、当時国民的アイドルだった天地真理の2作目「ちいさな恋」にその座を明け渡す。いよいよアイドルの天下がやってくる最初の兆候となった。
以前セルスターズの項で書いたように、彼らやザ・キャラクターズ、さらにニューキラーズといった、この時期に活躍したMOR系男女混成バンドの音楽が、ソフトロック?和物レアグルーヴを通過して「ラヴ・サウンズ」という括りの元再発見されている現在。カプリシャスは3大ヒット曲やヴォーカリストの強烈な存在感がたたったのか、見直しが遅れているような印象を感じる。後進の世代にも訴えかけられるコンピレーションの1枚でも出れば、そんな状況は変わってくるのではないかと思わずにいられないけど、まずは現役一筋を貫く彼らに拍手。
≪著者略歴≫丸芽志悟 (まるめ・しご) : 不毛な青春時代?レコード会社勤務を経て、ネットを拠点とする「好き者」として音楽啓蒙活動を開始。『アングラ・カーニバル』『60sビート・ガールズ・コレクション』(共にテイチク)等再発CDの共同監修、ライヴ及びDJイベントの主催をFine Vacation Company名義で手がける。近年は即興演奏を軸とした自由形態バンドRacco-1000を率い活動、フルートなどを担当。  
 http://music-calendar.jp/2017021401

 8月25日デビュー!ピンク・レディーはテレビ黄金期が生んだ “はじめての味覚”
 2022(令和四)年8月25日(木) 06:00『Re:minder』配信
 1977(昭和52)年12月05日(月) ピンク・レディーのベストアルバム「ベスト・ヒット・アルバム」がリリースされた日
■ピンク・レディーがデビュー! キャッチフレーズは“はじめての味覚(あじ)”
 ♪ペッパー警部 邪魔をしないで
  ペッパー警部 私たちこれからいいところ♪
 抜群のハーモニーとリズム感を持つミイとケイがピンク・レディーとしてデビューしたのは
 1976(昭和51)年8月25日(水)のこと。キャッチフレーズの “はじめての味覚(あじ)” には「誰もやっていないことをしよう」というスタッフの想いが込められていた。事実、デビュー曲の「ペッパー警部」は歌謡曲としては斬新なブラスロック調のソウルフルなサウンド。大胆なミニスカートや、ディスコダンスをベースにした振り付けにも十分なインパクトがあった。
 1976(昭和51)年9月6日(月)付けのオリコンで99位に初登場した「ペッパー警部」は翌週100位圏外に落ちたのち78位に再浮上。以後、着実にランクを上げ、10月25日付で48位と初めて左ページ(1~50位)に入る。
 1976(昭和51)年10月14日(木)の新宿音楽祭からプロジェクトに参加したデザイナーの野口よう子(当時は “野口庸子”)は「ミニで光り物がついているものを」という事務所からの注文を受けてスパンコールを多用した衣装を制作。デビュー時はテニスウェア風のシンプルなミニスカートだったが、ここからキラキラした華やかなステージ衣装がピンク・レディーのトレードマークとなる。同音楽祭で銀賞を受賞した2人は
 1976(昭和51)年11月16日(火)の日本歌謡大賞で新人賞7組の一角に食い込み、
 1976(昭和51)年11月19日(金)の日本レコード大賞でも新人賞5組に選ばれる。上昇気流に乗った「ペッパー警部」は
 1976(昭和51)年11月29日(月)付けのオリコンで初のトップ10入り(8位)、翌年
 1977(昭和52)年1月17日(月)付けではセカンドシングル「S・O・S」との2曲同時トップ10入りも達成する。
■ 第7回日本歌謡大賞新人賞受賞者
 朝田のぼる / 白いスカーフ(40位)
 角川博 / 嘘でもいいの(38位)
 内藤やす子 / 想い出ぼろぼろ(9位)※放送音楽新人賞受賞
 新沼謙治 / 嫁に来ないか(31位)※放送音楽新人賞受賞
 ピンク・レディー / ペッパー警部(29位)
 三木聖子 / まちぶせ(47位)
 吉田真梨 / 水色の星(39位)
▼第18回日本レコード大賞新人賞受賞者
 芦川よしみ / 雪ごもり(100位圏外)
 角川博 / 嘘でもいいの
 内藤やす子 / 想い出ぼろぼろ ※最優秀新人賞受賞
 新沼謙治 / 嫁に来ないか
 ピンク・レディー / ペッパー警部
(注)カッコ内は出場時点でのオリコン最高位
筆者は当時小学生だったが、この秋から冬にかけての空気の変化は今でもよく憶えている。まず新しもの好きの男子が「ペッパー警部」の股開きステップを面白おかしく真似して笑いをとり、やがて女子が休み時間のたびにミイとケイのパートを決めて、お互いの振りをチェックしながら歌い始めたのだ。それまでも教室でヒデキやキャンディーズの振り付けの一部を真似することはあった。が、あちこちでペアになった2人がフルで歌い踊る、そんな光景は“はじめて”だった。
■吹き荒れたピンク・タイフーン、大スターになったポイントとは?■年が明けた1977年、ピンク・タイフーンはさらに吹き荒れた。
‡1977(昭和52)年2月14日付けオリコンで「S・O・S」が初の1位を獲得すると、3月には単月で35本のテレビ番組に出演。瞬く間に時代の寵児となった2人は「邪魔をしないで」「私たち これからいいところ」とばかり、歌謡界の記録を次々と塗り替えていく。以下、オリコンでの快進撃ぶりを振り返ろう。
  1977年9月:天地真理を抜いてシングル4作連続1位(最終的には9作)
  1977年11月:天地真理・小柳ルミ子を抜いて通算24週目のシングル1位を獲得(最終的には63週)
  1978年2月:史上初のシングル2作連続ミリオン(最終的には5作)
  1978年12月:史上初のシングル年間トップ3を独占
  1979年4月:史上初のシングルセールス1000万枚突破
■「スター誕生!」でスカウトの札を上げた相馬一比古と飯田久彦の情熱■ピンク・レディーがここまでの大スターになれたのはなぜか。筆者は5つのキーポイントがあったからだと考えている。まずは『スター誕生!』(日本テレビ系)でミイとケイにスカウトの札を挙げた2人の人物の情熱である。その2人とは、所属事務所・T&Cミュージック(スカウト時点では“アクト・ワン・エンタープライズ”)の制作プロデューサーだった相馬一比古と、所属レコード会社・ビクター音楽産業(現JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント)のディレクターだった飯田久彦――。相馬は芸映でいしだあゆみ、西城秀樹、浅田美代子らを手がけた敏腕マネージャーで、スカウト直後の面談で「君たちをアメリカのショービジネスで勝負させたい」と、いきなり大きな夢を語ったという。一方の飯田は60年代に「ルイジアナ・ママ」などのカバーポップスでヒットを飛ばした元歌手で、1972年にディレクターに転身。このときは「ザ・ピーナッツのような、歌って踊れるデュオを作りたい」との想いで札を挙げる。ビクター社内では同じ決戦大会に出場していた清水由貴子を推す声が圧倒的だったが、それを抑え込んでのスカウトだった。洋楽志向で、歌って踊れるエンターテイナーを自分の手で育てたいという男たちに見込まれたからこそピンク・レディーは誕生したというわけだ。
■阿久悠、都倉俊一、土居甫、野口よう子… 終結した気鋭のクリエイターたち■第2のポイントは進取の気性に富んだ気鋭のクリエイターたちが集結したこと。メンバーは作詞家の阿久悠、作曲家・編曲家の都倉俊一、振付師の土居甫、ファッションデザイナーの野口よう子だ。企画の中心となった阿久は山本リンダ、フィンガー5に次ぐ“絵空事路線”を設定。先にタイトルとコンセプトを決め、それをもとに都倉が作ったメロディに詞をはめていく手法で多くの楽曲が制作されていく。阿久・都倉のアクトクコンビが生み出した“3分間のアニメーション”の世界観を振り付けと衣装でさらに増幅したのが土居と野口であった。
■ミイとケイの向上心■第3のポイントはミイとケイのポテンシャルと向上心だ。2人はもともと地元静岡のヤマハで2年以上、ソウルフルな曲をミニスカートにブーツ姿で踊りながら歌っていた実力派。『スタ誕』でフォーク調の「部屋を出て下さい」を歌ったのは、その方が純朴に見られて、合格する可能性が高まるだろうという計算の上でのことだった。それゆえ一時はフォークデュオとして売り出される可能性もあったが、程なくして「ペッパー警部」とB面の「乾杯お嬢さん」が完成。いずれもダンサブルな楽曲で、2人が望む路線でデビューすることが決定する。当時は一部で「こんな風に変えられちゃって可哀想」と見る向きもあったが、本人たちはノリノリ。『スタ誕』合格からわずか半年後にデビューすることができたのは、彼女たちにそういう曲を歌いこなせる素養があったからに他ならない。またアイドルとしては遅めの18歳でのデビューというのも結果的にはよかった。高校卒業を間近に控えた『スタ誕』出場まで、進学も就職も決まっていなかった2人は「もう後がない」状態。ラストチャンスでようやくプロになれたことが「歌い続けていくためにはどんなことも乗り越えていく」という強い想いに結びつく。睡眠1~2時間の殺人的なスケジュールに追われながら全米進出を果たすまでに成長したのは、あくなき向上心があったからに違いない。さらにもう1つ、18歳でのデビューは、阿久が仕組んだ「カラリとしたお色気路線」を体現するにもちょうどいい年齢だった。
■新興事務所が可能にした慣例にとらわれない冒険■第4のポイントは新興事務所の所属だったことが挙げられる。T&Cミュージックは脱サラした証券マンと生保マンが1976年4月に設立したばかりの新会社。制作部長に就任した相馬以外は芸能界での実績がないメンバーだったが、それが業界の慣例にとらわれない冒険を可能とする。「君たちをアメリカのショービジネスで勝負させたい」という相馬の夢が短期間で叶ったのはT&Cがベンチャー企業だったからといえるだろう。
■ビクターに他にいなかった有力新人■そして第5のポイントは1976年のビクターに有力新人がいなかったことである。1972年の麻丘めぐみ以来、桜田淳子、西川峰子、岩崎宏美…と、毎年日本レコード大賞の新人賞5枠に新人を送り込んできたビクターだが、1976年はその席がぽっかりと空いていた。当時の宣伝マンの証言によると、当初の宣伝費はピンク・レディーと同じ日にデビューした女性5人組のフラワーキッスの方が多かったらしいが(それほど2人が期待されていなかったという証しでもある)、「ペッパー警部」が動き始めたことでイチオシに昇格。暮れの音楽祭に向けてプロモーションが加速していく。「歴史にIFはない」と言うが、もし8月以前にビクターからデビューした新人がそこそこのヒットを記録していたら、ピンク・レディーが新人賞レースに参戦する余地はなかったであろう。それはともかく――。この5つのキーポイントで国民的アイドルに上り詰めたピンク・レディーを、筆者はテレビの黄金期が生んだ最強のスターだと捉えている。まずは時代背景を確認しておこう。
■カラーテレビの急速な普及と視聴環境■1973年に白黒テレビを抜いたカラーテレビの世帯普及率は彼女たちがデビューした1976年に93.7%に到達。家庭用ビデオの調査が始まるのはその2年後で(1978年の世帯普及率はわずか1.3%)、テレビはリアルタイムで視聴するものだった。当時の番組表を見ると、30分もしくは1時間枠が基本で、今のように長尺のバラエティは皆無。歌謡界が元気だった時代性を反映して、プライムタイム(19時~23時)の歌番組は週に10本、歌のコーナーがあるバラエティも週に8本放送されていた(1976年時点)。現在は『CDTVライブ!ライブ!』(TBS系)、『SONGS』(NHK総合)、『ミュージックステーション』(テレビ朝日系)の3本しかないことを考えると隔世の感がある。カラーテレビの普及で華やかなステージや衣装がより楽しめるようになったことも大きく、年末の音楽番組は軒並み高視聴率を獲得。各局が自社主催の音楽祭を開催し、いわゆる賞レースがいちばん盛り上がったのは70年代後半だった。その頂点はジュリーが「勝手にしやがれ」、ピンク・レディーが「ウォンテッド(指名手配)」でグランプリを目指した1977年だったと言えるだろう。
▼2大音楽祭の歴代視聴率トップ5
・日本レコード大賞
 1位:1977年 50.8%
 2位:1972年 46.5%
 3位:1974年 45.7%
 4位:1973年 44.1%
 5位:1979年 43.3%
・日本歌謡大賞
 1位:1973年 47.4%
 2位:1977年 46.3%
 3位:1974年 45.3%
 4位:1976年 41.8%
 5位:1980年 40.1%
■広告費でテレビが新聞を抜いた! 初代CM女王はピンク・レディー■ブラウン管時代のテレビは画角が「4:3」だったため、一度に映すのは2人が精いっぱい。それまでのアイドルは動きの少ない手振りが主流だったが、本格的なダンスを見せたピンク・レディーは “引き” で撮られることも多かったため、ミイとケイはなるべく距離を開けず、カメラに収まるようにしていたという。ピンク・レディーの場合、ラメやスパンコールをふんだんに使った煌びやかな衣装もカラーテレビ向きだった。デザイナーの野口は新宿音楽祭で初めて衣装を手がけたとき、ステージではキラキラして見えたのに、テレビでは黒にしか見えなくてショックを受けたと述懐しているが、その後は工夫を重ねたのだろう。新曲が出るたびに様々な色違いを用意して、「今日はどんな衣装だろう」という興味を引き付けていく。事務所によると、1977~1978年は年間300本以上のテレビ番組に出演したミイとケイ。多いときは週に5本のレギュラーや冠番組を抱えていたが、それと同じくらい凄まじかったのがCM出演だ。牛乳石鹸、松下電器、神州一味噌、雪印乳業、アサヒ玩具、日清食品、日本ハム、片倉工業、学習研究社、大日本除虫菊、日本コカ・コーラなど、名だたるスポンサーと契約。文字通り、テレビで観ない日はない活躍ぶりだった。ちなみに日本の広告費でテレビが新聞を抜いたのは1975年。カラーの普及でテレビの媒体力がさらに増したことの反映と見ていいだろう。ピンク・レディーはテレビが黄金期を迎えたときの初代CM女王だったのだ。
■ピンク・レディー45周年PLUSプロジェクト稼働中!動向から目を離すな!■そんな彼女たちの軌跡が丸ごと楽しめる、おいしいアルバムがつい先日、配信を開始した。
 1977(昭和52)年12月5日(月)に発売され、累計でミリオンセラーとなった『ベスト・ヒット・アルバム』の収録曲に、その後リリースされたシングルA面を追加した全31曲の復刻盤だ。オリジナル盤はオリコンのLPチャートで11週連続の1位を記録し、1978年の年間1位も獲得。別バージョンの「UFO」や初期シングルのカップリング曲、ミイとケイのソロ曲も網羅している。今回の配信にあたっては最新のデジタル・リマスタリングを施し、96kHz/24bitのハイレゾ音源も同時リリース。さらにこの最新リマスターを使用した高音質SHM-CDのリイシュー盤も
 2022(令和四)年9月21日(水)に発売される(内容は2003年の紙ジャケットCDと同じ)。今日でデビュー46周年を迎えたピンク・レディー。ビクターによると、今年から来年にかけて「ピンク・レディー45周年PLUS」プロジェクトとして様々な情報発信やリリースを予定しているという。モンスターデュオの動向に注目したい。
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 ピンク・レディー「ペッパー警部」伝説の幕開けはスター誕生の合格からわずか半年!
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