過去の今日の出来事etSETOraですヨ(=^◇^=)

過去の今日の浜省さんとetSETOraだヨ(=^◇^=)


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 ┃ ♪fanfare♪  ┃Mr.Children
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 Mr.Children 2作目の配信限定シングル作品
 2009(平成21)年唯一のシングル作品
‡2009(平成21)年11月16日(月) 着うた   配信開始
 2009(平成21)年12月02日(水) 着うたフル 配信開始
 https://ja.wikipedia.org/wiki/Here_comes_my_love
************************ http://www.mrchildren.jp
 http://www.mrchildren.jp/disco/#download/download02
 https://ja.wikipedia.org/wiki/Fanfare_(Mr.Childrenの曲)
 音源◆https://music.amazon.co.jp/albums/B07D37DNBK/B07D38JN9B
 音源◆https://music.amazon.co.jp/albums/B07D37N9NR/B07D37P8Y1
 mora◆https://mora.jp/package/43000034/TFCC-86341/
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①┃ 第9回ポピュラーソングコンテストつま恋本選会 ┃
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
 1975(昭和50)年05月18日(日) つま恋エキシビションホール
 入賞:♪傷ついた翼♪ 中島みゆき
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②┃ ♪時代♪/♪傷ついた翼♪ ┃
 ┗━━━━━━━━━━━━━┛中島みゆき
 1975(昭和50)年12月21日(日) 発売
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③┃ 第6回世界歌謡祭 ┃日本武道館
 ┗━━━━━━━━━┛(財)ヤマハ音楽振興会 
 1975(昭和50)年11月15日(土) 予選 17:30開場 18:30開演
‡1975(昭和50)年11月16日(日) 本選 14:00開場 15:00開演
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①https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%9E%E3%83%8F%E3%83%9D%E3%83%94%E3%83%A5%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%82%BD%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%B9%E3%83%88#%E7%AC%AC9%E5%9B%9E%E3%83%9D%E3%83%94%E3%83%A5%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%82%BD%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%B9%E3%83%88%E3%81%A4%E3%81%BE%E6%81%8B%E6%9C%AC%E9%81%B8%E4%BC%9A
②https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%82%E4%BB%A3_(%E4%B8%AD%E5%B3%B6%E3%81%BF%E3%82%86%E3%81%8D%E3%81%AE%E6%9B%B2)
③https://www.yamaha-mf.or.jp/history/e-history/wpsf/wpsf6.html
③https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E7%95%8C%E6%AD%8C%E8%AC%A1%E7%A5%AD
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 大バッシング ギター1本の「時代」に秘めた思い
 2021(令和三)年01月10日(日) 12:00配信 日刊スポーツ
 写真◆中島みゆきの名曲「時代」のジャケット
【写真】20年1月、「ラスト・ツアー『結果オーライ』」で歌う中島みゆき
 名曲やヒット曲の秘話を紹介する連載「歌っていいな」の第24回は、中島みゆきの名曲「時代」です。デビュー当時、ステージで見せたパフォーマンスが批判されましたが、そこには胸に秘めていたある思いがありました。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
 今では考えられないことだが、デビュー当時の中島みゆきには「生意気」「ツッパリ」といったイメージが先行していた。北海道出身の中島が、全国区に躍り出たのは、
 1975(昭和50)年11月16日(日)に東京・日本武道館で行われた第6回世界歌謡祭だった。中島は「時代」でグランプリを獲得したが、そのステージで起きた“事件”が「生意気」イメージを生むことになる。世界歌謡祭には、その年のポピュラーソングコンテスト(ポプコン)で優勝した新人歌手が自動的に出場した。中島もそうした新人の1人だった。グランプリ受賞後のアンコールで、中島はオーケストラの指揮者に何やら耳打ちした。そして突然、伴奏なしのギター1本で「時代」を歌い始めた。歌謡祭前半のエントリー曲紹介では、フルオーケストラをバックに「時代」を力強く歌っていた。しかし、アンコールでは一転してオーケストラの演奏を自ら制止し、ギター1本で歌ったのだ。まさに前代未聞の新人だった。オーケストラのメンバーや現場スタッフは激怒した。新聞や雑誌にはバッシング記事が相次いだ。しかし、ギター1本で「時代」を歌ったのは決して中島のわがままではなかった。自らを発掘してくれた“恩人”へのお礼のつもりだったのだ。その恩人とは、ヤマハ音楽振興会の理事長で、ヤマハのワンマン社長として当時知られていた川上源一さんだった。69年にポプコンを創設した川上さんは、毎年全国から寄せられた応募曲を全曲聴いた。中島が「時代」を応募した74年はポプコン人気のピークで、応募曲は軽く1万曲を超えた。川上さんはその中で「時代」を耳に留めた。無名だった中島を浜松の自宅に呼び、こう激励した。「あなたは、すごい詞を書く。将来、詞で勝負するようなアーティストに育ってほしい。できれば、大音量をバックにするよりも、ギター1本で歌ったほうが、あなたの詞が人々に伝わると思います」。中島はその言葉を心に刻み、世界歌謡祭のラストでギター1本で切々と「時代」を歌い上げた。振興会で世界歌謡祭の担当者だった山口昌則さんは「当時、ポプコンの担当者たちはサウンドばかり注目していて、はっきり言って詞は盲点でした。中島さんの詞の可能性に注目したのは川上さんだけ。今でも頭が下がる思いです」と振り返る。ポプコンは86年に終了し、川上さんも同族経営が批判を浴びヤマハを離れた。そして時代は巡り、時は流れた。95年、中島が浜松でコンサートを行った時、川上さんが車いす姿で会場を訪れた。川上さんを見た中島は、世界歌謡祭でも見せなかった涙を、ステージ上でボロボロと流した。【特別取材班】
 1997(平成九)年12月10日(水) ※この記事は97年12月10日付の日刊スポーツに掲載されたものです。一部、加筆修正しました。連載「歌っていいな」は毎週日曜日に配信しています。
 https://news.yahoo.co.jp/articles/da9a90fc9dd5649c28d106ae16f8086f7d80e7a8

 

 

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 ┃ON THE ROAD '88 FATHER'S SON┃
 ┗━━━━━━━━━━━━━━┛後半戦 日程
‡073 1988(昭和63)年11月16日(水) 神奈川県民ホール
 http://www.flashandshadow.com/shogo/live/on/on1988.html
 https://ameblo.jp/chiharu1997/entry-11600186984.html
 http://ameblo.jp/futabayama69/entry-10819384548.html
 http://www9.plala.or.jp/bt-pearl/dear_memories.html
 89.1.28♪ON THE ROAD♪映像◆http://www.nicovideo.jp/watch/sm13810282#

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 ┃ 浜田省吾 #32 『FATHER'S SON』 ┃
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 2017(平成29)年01月14日(土) 今回は
 1988(昭和63)年03月16日(水)に発売された浜田省吾さんのアルバム『FATHER'S SON』の話です。
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 1987(昭和62)年11月01日(日)
 1987(昭和62)年11月02日(月)
 1987(昭和62)年11月04日(水)の三日間と、間に石渡長門くんのリハーサルを挟んで、
 1987(昭和62)年11月11日(水)と
 1987(昭和62)年11月14日(土)の計五日間、目黒のヤマハスタジオと初台のレオミュージックスタジオ、新宿のミュージックシティスタジオで、ニューアルバムのプリ・プロダクションを行った後、
‡1987(昭和62)年11月16日(月)から信濃町のソニースタジオで、ぼくの担当する曲のレコーディングが始まった。ぼくがアレンジを担当した曲は後に「NEW YEARS EVE」「DARKNESS IN THE HEART (少年の夏)」とタイトルが付けられる2曲。今回のアルバムのアレンジは町支さんが3曲、古村くんが1曲、ぼくが2曲、梁くんが4曲を担当することになっていた。キーボードプレイヤーが二人になったことで、どちらがどの楽器を担当するか梁くんと話し合った。基本的には自分がアレンジした曲は自分が弾くということになったが、曲によってはぼくのアレンジした曲で梁くんがピアノを弾いたり、梁くんのアレンジでぼくがピアノを弾いたりした曲もあった。町支さんと古村くんのアレンジした曲でも、レコーディングをしながら楽器の分担を決めて行った。ぼくは今回2曲だけのアレンジだったが、サウンドを考えるのに結構時間がかかった。特に「DARKNESS IN THE HEART (少年の夏)」は、浜田さんからの要望と自分のイメージするサウンドが合致するまで、何度も試行錯誤を繰り返した。まずは打ち込みによるシンセベースのラインを考えることから始めた。8ビートでフレーズをシーケンスするようなクールなベースのラインを作った。そしてそれに呼応するようなタイトなリズムのドラムのパターンを考えた。リズムの上に乗っかる楽器は、イントロとアウトロのテーマを吹くサックスとギターの掛け合いのフレーズや、間奏のブレイク部分やサビのバックで繰り返されるストリングスのライン等、細部に渡ってフレーズを譜面に書き込んだ。レコーディングは断続的に
 1988(昭和63)年の1月の終わりまで続いた。ちょうどこの頃ぼくは幼馴染みでもある、石渡長門くんという新人のシンガーのレコーディングとライブも受け持っていたので、それこそ目の廻るような忙しさだった。渋谷のTake Off7とエッグマンで行われた石渡くんのライブは、江澤くんと古村くんにも手伝って貰った。アルバム『FATHER'S SON』に参加した主なレコーディングメンバーは以下の通り。
    ドラムス:高橋伸之
     ベース:江澤宏明
     ギター:町支寛二
   キーボード:梁邦彦 板倉雅一
    サックス:古村敏比古
  トラッペット:小林正弘
  トロンボーン:清岡太郎
 パーカッション:ペッカー 他にも曲によってはゲストのミュージシャンに参加してもらった。「NEW YEARS EVE」では、宮野弘紀さんにガットギターを弾いてもらった。この曲のアレンジは音数を少なくして、淡々とした中にも情感が溢れるようなイメージで作り込んだ。宮野さんの奏でるガットギターは、浜田さんのボーカルに寄り添うような素晴らしい演奏だった。『FATHER'S SON』のレコーディングは、それまでのアルバムのレコーディングよりも更にアレンジを担当した者が中心になって行われたため、J・BOYの時よりもシステマチックに行われた。ぼくもすべての現場に居合わせた訳では無いので、自分のアレンジした曲以外の曲のリズム録りが終わって、しばらくしてスタジオに行くと、たくさんの楽器がダビングされていて驚いたことも多々あった。
 写真◆『FATHER'S SON』のレコーディングが行われた信濃町ソニースタジオの壁に書かれたマイケル・ジャクソン直筆のサインの前で。
**************** http://air.edisc.jp/ima/
  http://mi-mychronicle.blogspot.jp/2017/01/32-fathers-son.html
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 ┃ 浜田省吾 #07 因島 ┃
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 2016(平成28)年03月24日(木)
 ぼくは浜田省吾さんのツアーで全国津々浦々を廻りましたが、その中でも何カ所か印象に残っている場所があります。今回はそんな場所の一つ、因島でのコンサートのことを思い出してみます。
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 1979(昭和54)年11月08日(木)から、関西学院大学での学園祭出演を皮切りに始まった、浜田省吾の関西~中国ツアーは、
 1979(昭和54)年11月11日(日) 福山大学学園祭 
 1979(昭和54)年11月13日(火) 因島市民会館 
 1979(昭和54)年11月15日(木) 萩市民会館 
‡1979(昭和54)年11月16日(金) 三次文化会館 
 1979(昭和54)年11月18日(日) 山口大学学園祭 
 1979(昭和54)年11月19日(月) 高梁市民会館と廻る、約二週間の日程のツアーだった。
 1979(昭和54)年11月11日(日)に広島の福山大学での学園祭を終えたぼく達は、
 1979(昭和54)年11月12日(月)に三原から船で因島に入った。因島は現在は尾道市に属しているが、当時は因島市として独立していた。島に着いてすぐにぼく達は、二階建ての簡素な作りの旅館に連れて行かれた。旅館というよりも、まるでどこかの会社の保養所みたいだな、とぼくは思った。明日のコンサートまでオフなので、浜田さんとバンドのメンバーは二組に別れて休日を過ごすことにした。ドラムの俊ちゃんとギターの町支くんは、どこからか二千円の竿を買って来て、釣りに行くと張り切っている。ぼくとキーボードのいっぺいちゃん、ベースのブンちゃん、そして浜田さんの四人はレンタカーを借りて島を一周することにした。さっそく小さな車を借りて来て、ブンちゃんの運転で島をドライブした。走り出してすぐに大きな造船所が見えて来た。因島は当時、造船の島と呼ばれていて日立の巨大な造船所があった。その時も一隻の船を造っている最中で、ぼく達はその大きさに息を呑んだ。造船所を見たり車の中で音楽を聴いたりして、はしゃいでいたぼく達四人だったが、四方を海に囲まれた小さな島なので、そんなに時間を要することなく島を一周してしまった。それでもぼく達は美しい景色を堪能することが出来て満足だった。釣りチームの二人は、今夜の夕食のおかずを釣ってくると豪語して出かけて行ったが、釣果はゼロであった。釣れたての魚を期待していたぼく達は大いにガッカリした。明けて
 1979(昭和54)年11月13日(火)、因島市民会館でのコンサートの日になった。会場の因島市民会館は約千人ほどのキャパの小さな会館で、どこか懐かしい雰囲気のする建物だった。こんな小さな島でコンサートをやって、果たしてお客さんは来てくれるのか心配していたぼく達だったが、コンサートが始まってみたら客席はほぼ満杯で、ぼく達は胸を撫で下ろした。コンサートが始まってステージから客席を見渡すと、おそらく今日来た大半の方が、初めて浜田さんのコンサートを観るのではないかと思われるようなムードが、何となく全体に漂っていた。そして大音量でのコンサートにちょっと戸惑っている風でもあった。この日のセットリストは以下の通り。
 01.ひとりぼっちのハイウェイ
 02.愛を眠らせて
 03.朝のシルエット
 04.いつかもうすぐ
 05.いつわりの日々
 06.恋の西武新宿線
 07.愛のかけひき
 08.涙あふれて
 09.片思い
 10.幻想庭園
 11.風を感じて
 12.今夜はごきげん
 アンコール
 13.さよならの前に
 14.ミッドナイト・ブルートレイン  オープニングの「ひとりぼっちのハイウェイ」の前には、オーバーチャーのようなちょっとした長めのイントロが付いていた。「朝のシルエット」は町支、岡島、板倉の三声によるアカペラのコーラスから始まるアレンジだった。エンディングの「今夜はごきげん」アンコールの「さよならの前」は、レコードになったアレンジとは、かなり違う感じのアレンジで演奏していた。 浜田さんもぼく達バンドも、いつもとはちょっと違う雰囲気に最初は緊張したが、終わってみればいつものように盛り上がったコンサートになった。コンサート終了後、地元の方々も交えての打ち上げが行われた。中には村上水軍の末裔の方もいらしていて、とても興味深い話を聞くことが出来た。海の幸を堪能したぼく達は、すっかりいい気分になって、満天の夜空を眺めながら歩いて旅館まで帰った。
 写真◆1979(昭和54)年頃。ヒゲを生やしていた。 
**************** http://air.edisc.jp/ima/
 http://mi-mychronicle.blogspot.jp/2016/03/7.html
 https://ja.wikipedia.org/wiki/THE_FUSE
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1999(平成11)年11月16日(火) 渋谷公会堂(1日目)
01.詩人の鐘
02.Hello Rock&Roll City
03.終りなき疾走
04.街角の天使
05.DADDY'S TOWN
06.MAINSTREET
07.恋の西武新宿線
08.ロマンスブルー
09.GIVE ME ONE MORE CHANCE
10.Because I love you
11.モノクロームの虹
12.DANCE
13.境界線上のアリア
14.MONEY
15.J.BOY
16.家路
E1.BASEBALL KID'S ROCK
E2.LOVE HAS NO PRIDE
E3.悲しみの岸辺
E4.ON THE ROAD 
E5.悲しみは雪のように

1999(平成11)年11月17日(水) 渋谷公会堂(2日目)
01.詩人の鐘
02.Hello Rock&Roll City
03.勝利への道
04.モダンガール
05.さよならゲーム
06.君がいるところがMy Sweet Home
07.路地裏の少年
08.愛という名のもとに
09.GIVE ME ONE MORE CHANCE
10.Because I love you
11.愛の世代の前に
12.Big Boy Blues
13.八月の歌
14.MONEY
15.J.BOY
16.家路
E1.ラストショー
E2.モノクロームの虹
E3.Midnight Flight~ひとりぼっちのクリスマスイブ
E4.ON THE ROAD
E5.Midnight Blue Train

まず、注目してほしいのは・・・同じツアーの 同じ会場(2days公演)なのに 1日目と2日目で同じ曲を歌ったのは たったの9曲ですヨ!つまり、その他は全て日替わり曲だったというわけです。
こりゃ~、(同じツアーとはいえ)たっくさん参加したくなっちゃいますよね♪とっちゃんが今回紹介したいエピソードは、この渋谷公会堂公演の初日に起こったのです!つまり、11月16日のほう・・・。セトリ7曲目に注目していただけますか♪そう、恋の西武新宿線あ、後日某音楽雑誌の渋公レポで、省吾さまの天敵(笑)渋谷陽一さんが「愛の」西武新宿線って書いちゃったんでした(笑)。 渋谷さんのミスなのか?はたまた編集・出版側のミスなのか?その真相はいまだ薮の中ですが・・・。
それはさておき、 この7曲目というポジションは、省吾さまがアコギ1本で弾き語りをしてくださるコーナーなのですが、省吾さま曰わく
「東京公演ともなると、コアでディープなファンが集まってくれてると思うから、滅多にやらないレアな曲を用意しました・・・。」 そういって演奏してくれた曲が この恋の西武新宿線だったのです。
「この曲って、1人じゃ歌えないから、コーラスパートはしっかりみんなが歌ってね!大丈夫だよね?コアな人達ばっかなんだから・・・信じてるからね!」
といふわけで、さほど練習もせずに歌い始めたのですが、結果はコーラスがバラバラ(笑)省吾さま、「みんなを信じてたのに・・・どうしてくれるんだよ~???(笑)」って(*^_^*)その時、客席から間髪問わず「ギブミィ~ワンモアチャ~ンス!」って、掛け声がかかったのです(笑)うますぎるよね~♪ はっきりいってかなりのジェラシーでした・・・。まさに ここで言わなきゃどこで言う?っていうくらいのナイスな掛け声(笑)省吾さま自身も内心「うまいこといいやがって~」って思われたはずなんです♪実際、言われた刹那、誰から聞いたのぉ~そんな噂を~♪って一瞬歌い出しを歌ってるはずなんですよね・・・。でも、すぐさまやめちゃったんです。「あれ、なんでやめちゃうの?もったいない!」って思いましたから。それもそのはず、セトリ9曲目にご注目!2曲後に セトリイン されてたんですよね(^m^) ププッ!えっと・・・あとはそうだな~LOVE HAS NO PRIDEに話をもどすと、ステージで歌われる時のポイントとしては歌い終わってからのダンス(振り付け)でしょうかね。PVの中でも外人ダンサーズが踊っているあの振り付け♪省吾さまはもちろん、客席もみーんな同じ振り付けをしてて、会場が一体感に包まれます♪ストリングスのお姉様がた(※)もやってましたよね。(※矢野さん、岩戸さん、大沼さん、船田さん)
絵文字にするとこんな感じですかね・・・(ノ・∀)ノ゛(ノ^▽)ノ゛(ノ´△)ノ゛  \(ー▼\)えっとぉ~ (笑) 次いきましょか・・・(^_^;)あ・・・歌詞の中で彼女の目の前に積まれている札束の単位は 大丈夫ですか?
ミリオン(×)単位
ビリオン(○)単位
ですからね!ミリオンは、みな浜大丈夫ですよね?ミリオンセラー とかって日常でもよく耳にしますもんね。そう、単位は100万です。つまり、ミリオン(セラー)シングルといえば、100万枚売り上げを記録したシングルということになります。・・・でも、ラブハズの歌詞は ビリオン(BILLION)ですからね (^o^)bこれ、アメリカでは約10億。 イギリスでは1兆を意味します(^_^;)つまり、あの娘はどんなにお金を積んでも(10億だろうが1兆だろうが)、俺とは寝てくれない。という意味ですけど、ま例えですからね。つまりは、あのこは彼以外はもう見向きもしない。恋は盲目・・・。あんなサイテーな男なのに・・・。 と言いたいわけです。
某・カラオケの歌詞テロップは ミリオン に誤記されてますから注意です!また、同じく某・カラオケの「青空のゆくえ」のOh Darlin' cry over you ~ 夕暮れの砂浜を歩く~ のOh Darlin'  が 踊れ! に誤記されてます(笑)嘘のようなホントの話です♪(^m^)とっちゃんが、それを踊りながら歌ったのは言うまでもありません(笑)ぢゃ、今日は最後にこんな話しを省吾さまの楽曲。「あれ、これって俺のこと歌ってるみたいぢゃん!」「あら、省吾さん・・・どうしてこんなにあたしの気持ちがわかるのっ?あたしの事を曲にしたみたい・・・。」なんて経験ございませんか。
こと、GIVE ME ONE MORE CHANCE に関して言えば鉄腕アトムが・・・ロボコンが・・・ドラえもんが・・・コロ助が・・・思ったはずなんです!!!「えっ!わたしの曲?」「わっ!おいらの曲?」「おっ!僕の曲?」「んっ!吾輩の曲なりか?」って・・・。機械(マシン)のように冷たく働くだけの奴ぅ~ Yes たぶん本当さ~~~♪ (笑)おあとがよろしいようで m(_ _)m
http://ameblo.jp/futabayama69/entry-11193449789.htmlラブ

 

40年前の本日、中島みゆき「時代」が第6回世界歌謡祭でグランプリを受賞
2015年11月16日 執筆者:前田祥丈
1975年11月16日、1975年のこの日、中島みゆきの「時代」が第6回世界歌謡祭でグランプリを獲得した。
同年の12月21日、「時代」はセカンドシングルとしてリリースされた。デビューシングル「アザミ嬢のララバイ」はすでに9月25日に発表されていたが、中島みゆきが初めて認知されたのはやはり「時代」であり、今でもこの曲を中島みゆきのデビュー作だと思っている人は少なくないだろう。
僕自身はこの曲をリアルタイムで聴いていた。しかし、まだ感覚の中に激動の時代だった70年の余韻が残っていた僕に、この曲は挫折した志をシニカルに歌っているように聴こえた。だから、しばらくは彼女の世界に深入りする気にはなれなかった。
それが変わったのは1980年代に入ってからだ。81年にリリースされたアルバム『臨月』を偶然に聴いた時に、深い抒情性をサラリと浮き上がらせるポップなサウンドメイキングに惹きつけられた。そして、その印象を決定的にしたのが同年10月のシングル「悪女」だった。「悪女」は、それまでの暗くて情念的な中島みゆきイメージから抜け出したリアリティとポップさとが融合した時代の音楽だと思った。そう思ったのは僕だけではないらしく、「悪女」はチャート1位を獲得するスマッシュヒットとなった。
「悪女」を聴いた後、僕は改めて70年代の中島みゆきの楽曲を聴き直した。そして、久しぶりに聴いた「時代」は、以前とはまったく違うメッセージを伝えてきた。あれ、この曲はこんなにポジティブだっけ。
その時、すぐに気付いたわけではないけれど、以前よりも真面目に中島みゆきの曲を聴くようになって思い当たることがあった。「悪女」は、けっして中島みゆきがその路線を変えた作品ではない。中島みゆきの本質は、たぶんデビューの頃から変わってはいない。変わったのは、時代に想いを届ける手法だ。時代にリアリティを伝えられる音は常に変化している。いわゆる流行とは違う“時代の音”というのは確かにあるのだ。中島みゆきが、その後も大胆なサウンドアプローチを行い、それぞれの時代に大ヒット曲を生み出していった背景には、彼女の変わらないメッセージをどの時代にもリアルに伝えていこうとする努力があったのだろう。そんなアプローチがあるからこそ、中島みゆきの曲はナツメロにならずに、それぞれの時代にリアルな問いかけを続けているのだと思う。
ちょっとマジメに言えば、中島みゆきの曲を聴くということは、そんな彼女のリアルな問いかけをどう受け止め、自分がどう応えられるのかを確認することなのかもしれない。
「時代」のメッセージがまったく違うものに聴こえた僕の体験も、その時々の僕自身の心情が反映されていたということなのだろう。
 http://music-calendar.jp/2015111601

 8月25日デビュー!ピンク・レディーはテレビ黄金期が生んだ “はじめての味覚”
 2022(令和四)年8月25日(木) 06:00『Re:minder』配信
 1977(昭和52)年12月05日(月) ピンク・レディーのベストアルバム「ベスト・ヒット・アルバム」がリリースされた日
■ピンク・レディーがデビュー! キャッチフレーズは“はじめての味覚(あじ)”
 ♪ペッパー警部 邪魔をしないで
  ペッパー警部 私たちこれからいいところ♪
 抜群のハーモニーとリズム感を持つミイとケイがピンク・レディーとしてデビューしたのは
 1976(昭和51)年8月25日(水)のこと。キャッチフレーズの “はじめての味覚(あじ)” には「誰もやっていないことをしよう」というスタッフの想いが込められていた。事実、デビュー曲の「ペッパー警部」は歌謡曲としては斬新なブラスロック調のソウルフルなサウンド。大胆なミニスカートや、ディスコダンスをベースにした振り付けにも十分なインパクトがあった。
 1976(昭和51)年9月6日(月)付けのオリコンで99位に初登場した「ペッパー警部」は翌週100位圏外に落ちたのち78位に再浮上。以後、着実にランクを上げ、10月25日付で48位と初めて左ページ(1~50位)に入る。
 1976(昭和51)年10月14日(木)の新宿音楽祭からプロジェクトに参加したデザイナーの野口よう子(当時は “野口庸子”)は「ミニで光り物がついているものを」という事務所からの注文を受けてスパンコールを多用した衣装を制作。デビュー時はテニスウェア風のシンプルなミニスカートだったが、ここからキラキラした華やかなステージ衣装がピンク・レディーのトレードマークとなる。同音楽祭で銀賞を受賞した2人は
‡1976(昭和51)年11月16日(火)の日本歌謡大賞で新人賞7組の一角に食い込み、
 1976(昭和51)年11月19日(金)の日本レコード大賞でも新人賞5組に選ばれる。上昇気流に乗った「ペッパー警部」は
 1976(昭和51)年11月29日(月)付けのオリコンで初のトップ10入り(8位)、翌年
 1977(昭和52)年1月17日(月)付けではセカンドシングル「S・O・S」との2曲同時トップ10入りも達成する。
■ 第7回日本歌謡大賞新人賞受賞者
 朝田のぼる / 白いスカーフ(40位)
 角川博 / 嘘でもいいの(38位)
 内藤やす子 / 想い出ぼろぼろ(9位)※放送音楽新人賞受賞
 新沼謙治 / 嫁に来ないか(31位)※放送音楽新人賞受賞
 ピンク・レディー / ペッパー警部(29位)
 三木聖子 / まちぶせ(47位)
 吉田真梨 / 水色の星(39位)
▼第18回日本レコード大賞新人賞受賞者
 芦川よしみ / 雪ごもり(100位圏外)
 角川博 / 嘘でもいいの
 内藤やす子 / 想い出ぼろぼろ ※最優秀新人賞受賞
 新沼謙治 / 嫁に来ないか
 ピンク・レディー / ペッパー警部
(注)カッコ内は出場時点でのオリコン最高位
筆者は当時小学生だったが、この秋から冬にかけての空気の変化は今でもよく憶えている。まず新しもの好きの男子が「ペッパー警部」の股開きステップを面白おかしく真似して笑いをとり、やがて女子が休み時間のたびにミイとケイのパートを決めて、お互いの振りをチェックしながら歌い始めたのだ。それまでも教室でヒデキやキャンディーズの振り付けの一部を真似することはあった。が、あちこちでペアになった2人がフルで歌い踊る、そんな光景は“はじめて”だった。
■吹き荒れたピンク・タイフーン、大スターになったポイントとは?■年が明けた1977年、ピンク・タイフーンはさらに吹き荒れた。
 1977(昭和52)年2月14日付けオリコンで「S・O・S」が初の1位を獲得すると、3月には単月で35本のテレビ番組に出演。瞬く間に時代の寵児となった2人は「邪魔をしないで」「私たち これからいいところ」とばかり、歌謡界の記録を次々と塗り替えていく。以下、オリコンでの快進撃ぶりを振り返ろう。
  1977年9月:天地真理を抜いてシングル4作連続1位(最終的には9作)
  1977年11月:天地真理・小柳ルミ子を抜いて通算24週目のシングル1位を獲得(最終的には63週)
  1978年2月:史上初のシングル2作連続ミリオン(最終的には5作)
  1978年12月:史上初のシングル年間トップ3を独占
  1979年4月:史上初のシングルセールス1000万枚突破
■「スター誕生!」でスカウトの札を上げた相馬一比古と飯田久彦の情熱■ピンク・レディーがここまでの大スターになれたのはなぜか。筆者は5つのキーポイントがあったからだと考えている。まずは『スター誕生!』(日本テレビ系)でミイとケイにスカウトの札を挙げた2人の人物の情熱である。その2人とは、所属事務所・T&Cミュージック(スカウト時点では“アクト・ワン・エンタープライズ”)の制作プロデューサーだった相馬一比古と、所属レコード会社・ビクター音楽産業(現JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント)のディレクターだった飯田久彦――。相馬は芸映でいしだあゆみ、西城秀樹、浅田美代子らを手がけた敏腕マネージャーで、スカウト直後の面談で「君たちをアメリカのショービジネスで勝負させたい」と、いきなり大きな夢を語ったという。一方の飯田は60年代に「ルイジアナ・ママ」などのカバーポップスでヒットを飛ばした元歌手で、1972年にディレクターに転身。このときは「ザ・ピーナッツのような、歌って踊れるデュオを作りたい」との想いで札を挙げる。ビクター社内では同じ決戦大会に出場していた清水由貴子を推す声が圧倒的だったが、それを抑え込んでのスカウトだった。洋楽志向で、歌って踊れるエンターテイナーを自分の手で育てたいという男たちに見込まれたからこそピンク・レディーは誕生したというわけだ。
■阿久悠、都倉俊一、土居甫、野口よう子… 終結した気鋭のクリエイターたち■第2のポイントは進取の気性に富んだ気鋭のクリエイターたちが集結したこと。メンバーは作詞家の阿久悠、作曲家・編曲家の都倉俊一、振付師の土居甫、ファッションデザイナーの野口よう子だ。企画の中心となった阿久は山本リンダ、フィンガー5に次ぐ“絵空事路線”を設定。先にタイトルとコンセプトを決め、それをもとに都倉が作ったメロディに詞をはめていく手法で多くの楽曲が制作されていく。阿久・都倉のアクトクコンビが生み出した“3分間のアニメーション”の世界観を振り付けと衣装でさらに増幅したのが土居と野口であった。
■ミイとケイの向上心■第3のポイントはミイとケイのポテンシャルと向上心だ。2人はもともと地元静岡のヤマハで2年以上、ソウルフルな曲をミニスカートにブーツ姿で踊りながら歌っていた実力派。『スタ誕』でフォーク調の「部屋を出て下さい」を歌ったのは、その方が純朴に見られて、合格する可能性が高まるだろうという計算の上でのことだった。それゆえ一時はフォークデュオとして売り出される可能性もあったが、程なくして「ペッパー警部」とB面の「乾杯お嬢さん」が完成。いずれもダンサブルな楽曲で、2人が望む路線でデビューすることが決定する。当時は一部で「こんな風に変えられちゃって可哀想」と見る向きもあったが、本人たちはノリノリ。『スタ誕』合格からわずか半年後にデビューすることができたのは、彼女たちにそういう曲を歌いこなせる素養があったからに他ならない。またアイドルとしては遅めの18歳でのデビューというのも結果的にはよかった。高校卒業を間近に控えた『スタ誕』出場まで、進学も就職も決まっていなかった2人は「もう後がない」状態。ラストチャンスでようやくプロになれたことが「歌い続けていくためにはどんなことも乗り越えていく」という強い想いに結びつく。睡眠1~2時間の殺人的なスケジュールに追われながら全米進出を果たすまでに成長したのは、あくなき向上心があったからに違いない。さらにもう1つ、18歳でのデビューは、阿久が仕組んだ「カラリとしたお色気路線」を体現するにもちょうどいい年齢だった。
■新興事務所が可能にした慣例にとらわれない冒険■第4のポイントは新興事務所の所属だったことが挙げられる。T&Cミュージックは脱サラした証券マンと生保マンが1976年4月に設立したばかりの新会社。制作部長に就任した相馬以外は芸能界での実績がないメンバーだったが、それが業界の慣例にとらわれない冒険を可能とする。「君たちをアメリカのショービジネスで勝負させたい」という相馬の夢が短期間で叶ったのはT&Cがベンチャー企業だったからといえるだろう。
■ビクターに他にいなかった有力新人■そして第5のポイントは1976年のビクターに有力新人がいなかったことである。1972年の麻丘めぐみ以来、桜田淳子、西川峰子、岩崎宏美…と、毎年日本レコード大賞の新人賞5枠に新人を送り込んできたビクターだが、1976年はその席がぽっかりと空いていた。当時の宣伝マンの証言によると、当初の宣伝費はピンク・レディーと同じ日にデビューした女性5人組のフラワーキッスの方が多かったらしいが(それほど2人が期待されていなかったという証しでもある)、「ペッパー警部」が動き始めたことでイチオシに昇格。暮れの音楽祭に向けてプロモーションが加速していく。「歴史にIFはない」と言うが、もし8月以前にビクターからデビューした新人がそこそこのヒットを記録していたら、ピンク・レディーが新人賞レースに参戦する余地はなかったであろう。それはともかく――。この5つのキーポイントで国民的アイドルに上り詰めたピンク・レディーを、筆者はテレビの黄金期が生んだ最強のスターだと捉えている。まずは時代背景を確認しておこう。
■カラーテレビの急速な普及と視聴環境■1973年に白黒テレビを抜いたカラーテレビの世帯普及率は彼女たちがデビューした1976年に93.7%に到達。家庭用ビデオの調査が始まるのはその2年後で(1978年の世帯普及率はわずか1.3%)、テレビはリアルタイムで視聴するものだった。当時の番組表を見ると、30分もしくは1時間枠が基本で、今のように長尺のバラエティは皆無。歌謡界が元気だった時代性を反映して、プライムタイム(19時~23時)の歌番組は週に10本、歌のコーナーがあるバラエティも週に8本放送されていた(1976年時点)。現在は『CDTVライブ!ライブ!』(TBS系)、『SONGS』(NHK総合)、『ミュージックステーション』(テレビ朝日系)の3本しかないことを考えると隔世の感がある。カラーテレビの普及で華やかなステージや衣装がより楽しめるようになったことも大きく、年末の音楽番組は軒並み高視聴率を獲得。各局が自社主催の音楽祭を開催し、いわゆる賞レースがいちばん盛り上がったのは70年代後半だった。その頂点はジュリーが「勝手にしやがれ」、ピンク・レディーが「ウォンテッド(指名手配)」でグランプリを目指した1977年だったと言えるだろう。
▼2大音楽祭の歴代視聴率トップ5
・日本レコード大賞
 1位:1977年 50.8%
 2位:1972年 46.5%
 3位:1974年 45.7%
 4位:1973年 44.1%
 5位:1979年 43.3%
・日本歌謡大賞
 1位:1973年 47.4%
 2位:1977年 46.3%
 3位:1974年 45.3%
 4位:1976年 41.8%
 5位:1980年 40.1%
■広告費でテレビが新聞を抜いた! 初代CM女王はピンク・レディー■ブラウン管時代のテレビは画角が「4:3」だったため、一度に映すのは2人が精いっぱい。それまでのアイドルは動きの少ない手振りが主流だったが、本格的なダンスを見せたピンク・レディーは “引き” で撮られることも多かったため、ミイとケイはなるべく距離を開けず、カメラに収まるようにしていたという。ピンク・レディーの場合、ラメやスパンコールをふんだんに使った煌びやかな衣装もカラーテレビ向きだった。デザイナーの野口は新宿音楽祭で初めて衣装を手がけたとき、ステージではキラキラして見えたのに、テレビでは黒にしか見えなくてショックを受けたと述懐しているが、その後は工夫を重ねたのだろう。新曲が出るたびに様々な色違いを用意して、「今日はどんな衣装だろう」という興味を引き付けていく。事務所によると、1977~1978年は年間300本以上のテレビ番組に出演したミイとケイ。多いときは週に5本のレギュラーや冠番組を抱えていたが、それと同じくらい凄まじかったのがCM出演だ。牛乳石鹸、松下電器、神州一味噌、雪印乳業、アサヒ玩具、日清食品、日本ハム、片倉工業、学習研究社、大日本除虫菊、日本コカ・コーラなど、名だたるスポンサーと契約。文字通り、テレビで観ない日はない活躍ぶりだった。ちなみに日本の広告費でテレビが新聞を抜いたのは1975年。カラーの普及でテレビの媒体力がさらに増したことの反映と見ていいだろう。ピンク・レディーはテレビが黄金期を迎えたときの初代CM女王だったのだ。
■ピンク・レディー45周年PLUSプロジェクト稼働中!動向から目を離すな!■そんな彼女たちの軌跡が丸ごと楽しめる、おいしいアルバムがつい先日、配信を開始した。
 1977(昭和52)年12月5日(月)に発売され、累計でミリオンセラーとなった『ベスト・ヒット・アルバム』の収録曲に、その後リリースされたシングルA面を追加した全31曲の復刻盤だ。オリジナル盤はオリコンのLPチャートで11週連続の1位を記録し、1978年の年間1位も獲得。別バージョンの「UFO」や初期シングルのカップリング曲、ミイとケイのソロ曲も網羅している。今回の配信にあたっては最新のデジタル・リマスタリングを施し、96kHz/24bitのハイレゾ音源も同時リリース。さらにこの最新リマスターを使用した高音質SHM-CDのリイシュー盤も
 2022(令和四)年9月21日(水)に発売される(内容は2003年の紙ジャケットCDと同じ)。今日でデビュー46周年を迎えたピンク・レディー。ビクターによると、今年から来年にかけて「ピンク・レディー45周年PLUS」プロジェクトとして様々な情報発信やリリースを予定しているという。モンスターデュオの動向に注目したい。
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 https://reminder.top/797349936/
 https://article.yahoo.co.jp/detail/d5cf67e92a40634db529a19767b7d072e2d739ce
 ピンク・レディー「ペッパー警部」伝説の幕開けはスター誕生の合格からわずか半年!
 https://reminder.top/130691505/

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