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┃ ♪Baby's in Black♪ ┃新曲♪Real Love♪のカップリング
┗━━━━━━━━━━━━┛1996年にリリースされた「ビートルズアンソロジープロジェクト」の2曲目の新曲♪Real Love♪のカップリングとして、この曲のハリウッド・ボウルでのライブバージョンが収録されている。これは各「アンソロジー」アルバムには未収録となっている。
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https://beatlesdata.info/4/03_babysinblack.html
https://en.wikipedia.org/wiki/Baby%27s_in_Black
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♪Yesterday♪は知る人ぞ知るポールの代表作だが、ビートルズ解散後、ポール率いるウィングスが演奏していたビートルズ時代の演奏曲の一つで映画「ヤア!ブロードストリート」でも演奏しているが、1980年当時、権利はマイケル・ジャクソンが高額で買い取っており、ポールは自分の曲なのに許可を取って演奏した。
http://rock-t.info/beatles-discography-elp-help.html
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
┃ ビートルズのEP(コンパクト盤)作品 英国(イギリス)リリース ┃
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⑪|『Yesterday イエスタデイ』|
└─――――――――――――┘
SIDE 1 ♪Yesterday♪ ♪Act Naturally♪
SIDE 2 ♪You Like Me Too Much♪ ♪It's Only Love♪
‡英:1966(昭和41)年 3月 4日(金):45回転 モノラル
日:1970(昭和45)年 6月25日(木):33回転 疑似ステレオ
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⑪http://rock-t.info/beatles-discography-ep-yesterday.html
http://en.wikipedia.org/wiki/Yesterday_(EP)
写真一蘭◆http://d.hatena.ne.jp/hideaway_juju/20120723/1343019802
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┃ THE BEATLES America Single Release ┃
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‡英.1996(平成八)年03月04日(mon) Apple R 6425 ♪Real Love♪/♪Baby's In Black♪/♪Yellow Submarine♪/♪Here There And Everywhere♪
‡00.1996(平成八)年03月04日(mon) Apple 7243 ♪Real Love♪/♪Baby's In Black♪/♪Yellow Submarine♪/♪Here There And Everywhere♪【米;11位】
*************************** http://www.uta-net.com/song/8783
http://yokono.co.uk/collection/beatles/usa/single/usa_single.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%AB%E3%82%BA%E3%81%AE%E4%BD%9C%E5%93%81
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①┃ 『僕たちの時間(The Hours and Times)』 ┃
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ブライアン・エプスタインと、ジョン・レノンの架空アメリカ映画作品
1992(平成四)年のサンダンス映画祭にて審査員特別賞を受賞
1991(平成三)年 9月 7日(土) カナダ 公開
1992(平成四)年 1月?日(?) アメリカ 公開
1992(平成四)年 2月15日(土) ドイツ 公開
1993(平成五)年11月13日(土) 日 本 公開
♪ブライアン・エプスタイン・ブルース♪ http://www007.upp.so-net.ne.jp/mizutami/lyrics.html#brianepsteinblues
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②┃ 『バック・ビート(BACK BEAT)』 ┃
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イギリス制作ビートルズ関連映画作品
1994(平成六)年 3月19日(土) 日 本 公開
1994(平成六)年 4月 1日(金) アメリカ 公開
1994(平成六)年 4月14日(木) 公開 <ウィッキペディア英語版情報>
1994(平成六)年 9月 7日(水) 国内盤LD ポニーキャニオン<PCLP-00517>
映像◆BACK BEAT / 映画『バックビート』DVD予告編https://youtu.be/49XL3zkT7U8
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%93%E3%83%BC%E3%83%88
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③┃ 『BACK BEAT』 ┃‡(fri)4 March 1994
┗━━━━━━━━━┛ Soundtrack album by The Backbeat Band
音源◆https://youtu.be/wNVXHa82dFw
**************②http://www.ld-dvd.2-d.jp/ongaku.html
①http://en.wikipedia.org/wiki/The_Hours_and_Times
②http://en.wikipedia.org/wiki/Backbeat_(film)
③https://en.wikipedia.org/wiki/Backbeat_(soundtrack)
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┃ 『この日のビートルズ』 ┃上林 格 P.288 714円(税込) 朝日新聞出版
┗━━━━━━━━━━━━━┛2013(平成25)年11月7日(木) 朝日文庫発行
人類がまだ月面着陸を夢見ていた1960年代、英国出身の4人の若者が世界を席巻した。
ポピュラー音楽史の記録を次々と塗り替えただけではなく、
文化、思想、生活スタイル、あらゆる分野に強烈な影響を与えた。
語り継がれる20世紀最高のファブ・フォーの「この日」にこだわってみました。
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|1966(昭和40)年 8月11日(木)|「謝罪会見の憂鬱」
|2008(平成20)年 8月11日(月)|甲虫日記更新日 No.030
└─――――――――――――┘強制的に謝罪させられることほど、不愉快なことはない。ジョン・レノンにとって1966年の「キリスト発言」騒動は、それまで25年間の人生のなかで最悪の事態といえるものだった。
1966(昭和40)年8月11日(木)、ビートルズは全米ツアーのため英国を発ち、ボストン経由でシカゴに着いた。その晩、高級ホテル「アスター・タワーズ・ホテル」の27階では、ツアーに先立ち、恒例の記者会見が始まろうとしていた。通常の会見は、地元のラジオ局やテレビ局によって収録されるが、その日は3大テレビ・ネットワークが生放送の特別番組を組んで待ちかまえていた。「キリストを冒涜(ぼうとく)した」とされる発言をめぐり、ジョンは米国人記者からの質問攻めにあうのだった。問題の発言は5カ月以上も前の
‡1966(昭和40)年3月04日(金)、英国の『ロンドン・イブニング・スタンダード』紙に掲載された。友人として親しいモーリーン・クリーブのインタビューに答えた。その発言は、1ページ全面に掲載された記事の真ん中あたりに登場する。――キリスト教はなくなるよ。いつか衰えていって消えるだろう。そんなことあれこれ論じる必要もない。僕の言っていることは正しいし、いつか正しいことが証明されるはずだ。今の僕らはキリストより人気がある。ロックン・ロールとキリスト教と、どっちが先にすたれるかはわからないけれど。キリストそのものには問題なかった、でも彼の弟子たちが頭の悪い凡人だったんだよ。僕に言わせれば、彼らがキリスト教をねじ曲げて堕落させたんだ――いかにもジョンらしい辛辣な言い回しだ。英国教会の衰退を取り上げたのだが、指摘はまともすぎて英国では注目もされず、そのまま忘れ去られていた。ところが、布教の地を求めピューリタンが渡った新大陸での受け止め方は、大きく違った。
1966(昭和40)年7月29日(金)、米国のティーン雑誌「デートブック」にこの記事が転載された。表紙には、「ロックン・ロールとキリスト教、今じゃどっちが重要なのかわからない」と刷り込まれた。文脈の中から、その言葉だけを抜き出したために、「ビートルズはキリストより優れている」などと誤解され、たちまち大騒ぎになった。特に「バイブル・ベルト」と呼ばれる南部の保守的な地域ではビートルズ・ボイコット運動にまで広がった。22のラジオ局がビートルズの曲を放送禁止にした。ビートルズのレコードや本、関連商品をたき火で燃やす場面を実況中継した。ディスク・ジョッキーは「ビートルズのごみを持ってきてくれ、そんなものを捨てよう、みんなで燃やすんだ」と煽った。事態の悪化に慌てたマネジャーのブライアン・エプスタインは
1966(昭和40)年8月06日(土)、ニューヨークで記者会見を開いた。ブライアンは短い声明を出した。ジョンの真意は、この50年間に英国教会が衰退したためにキリストの力も失墜してしまい、その現状に驚いていることにあると説明。ただ、一部の若い世代に対してはビートルズの方が直接的な影響力を持つように思えることを指摘した、という内容だった。会見では
1966(昭和40)年8月12日(金)から始まるツアーをキャンセルしても構わない、とまで言った。それでも騒動は収まらなかった。ジョンが記者会見で謝罪することになったのは、ジョンだけでなくメンバー全員に半端じゃない脅迫が舞い込んできていたからだ。ブライアンは、メンバーの誰かが狙撃されるかもしれないことを最も恐れた。
――もし「テレビはキリストより人気がある」と言っていたら、何もいわれずにすんだかもしれない。余計なことを言ってしまって後悔しているよ。僕はたまたま友人と話をしていて、「ビートルズ」という言葉を自分とはかけ離れた存在として使っただけなんだ。今の彼らは何にもまして大きな影響を若者や状況に与えている、あのキリストよりも、って言ったんだ。そんなふうに言ったのが間違いだった――
――あんな騒ぎを引き起こしたことについては悪いと思っている。だけど反宗教的な意味合いはまったくなかったんだ・・ただ、キリスト教は衰えつつあり、現代の状況を見失っているんじゃないかと言うことだよ。本来の姿を取り戻そうとしているようにも思えない――謝罪というよりは説明だ。ジョンは自分の発言の論理的な根拠を述べ、その真意を限定し、1度ならず2度も言いたかったことを説明した。しかし、記者の関心はここでジョンが謝罪するかどうかにあった。ジョンは記者たちを満足させるために、とにかく謝罪した。ジョンは述懐する。
「僕はしゃべりたくなかった。しゃべれば殺されると思った・・(記者会見では)偽善を並べながら、僕はおびえていた。本当に怖かったんだ」ジョージは英国で記事になったときからジョンを支持した。
「どうして神に対する冒涜だとかそういうことになるんだ?キリスト教がみんなの言うとおりの優れたものなら、ちょっとくらいの議論でビクつくことはないはずだ」ポールはアンソロジーで「ジョンはみんながはっきり感じてることを口にしたのさ。英国教会はもう何年も前から衰退しつつあるって・・記事全体を読めば、彼が言わんとしていることは誰もが思っていることと同じだってわかるはずだよ」と述べた。リンゴは「米国であれほど大問題になったのは、誰かがあの1行だけを取り出して、月まで飛んでいきそうなほどかけ離れた話に仕立てたからさ」と皮肉っている。謝罪会見後も余波が続いた。
1966(昭和40)年8月15日(月)、ワシントンDC公演の開演前には、クー・クラックス・クラン(KKK)の団員6人が、3色に彩られた衣装をまとって会場の外をデモ行進した。8月19日のメンフィス公演では、メンバーのだれか、あるいは全員が暗殺されるという匿名の電話があった。そして、ショーの途中でステージに爆竹が投げ込まれ、爆発した。
1966(昭和40)年8月29日(月)、サンフランシスコのキャンドルスティック・パークのツアー最終公演を最後に、ビートルズは永久にステージから降りた。ツアーをやめたがっていた彼らにとって米国での「キリスト発言」騒動は、その決心をより固くさせた事件となったのだろう。
◎『この日のビートルズ』の次回は、8月27日です。この日はなんの日でしょうか? お楽しみに。
◎お知らせ ⇒ 「キリスト発言」は米国でのレコード・セールスに影響は及ぼしたのか。米国キャピトルが独自発売したアルバム『YESTERDAY AND TODAY』はビルボード誌で
1966(昭和40)年7月30日(土)付から5週連続で1位。最後の全米ツアーの期間中、ずっと首位を保っていた。渡米直前の
1966(昭和40)年8月08日(月)に発売された米国盤『リボルバー』は、英国盤より3曲少ない構成だが、追いかける形で
1966(昭和40)年9月10日(土)付から6週連続で1位になっている。同時発売のシングル♪イエロー・サブマリン♪は最高位2位、B面の♪エリナー・リグビー♪は11位まで上がった。
1998(平成十)年3月11日(水) EMIミュージック・ジャパン
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https://dot.asahi.com/1satsu/tyosya/2013110700049.html
http://doraku.asahi.com/entertainment/beatles/080811.html
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1967(昭和42)年9月30日(sat) フランク・ザッパは、マガジン『Disc And Music Echo』のインタビューで、ビートルズがイエスよりも人気があるとジョンが正しいと断言した
Frank Zappa, in an interview for the magazine『Disc And Music Echo』, affirms that John was right when he said that the Beatles were more popular than Jesus
《 Single"Love me Do"から"Please Please Me"へ 》
1962(昭和37)年10月02日(火)に発表された「Love me Do」は、ブライアン・エプスタインにとって、そしてビートルズにとっては絶対にヒットさせなければならない曲で、彼はその為にあらゆることを考え、熱心に曲を紹介ます。彼の謙虚なところは「ビートルズはあくまでも自然な勢いで世間に知られて欲しい。この曲も同様で売り込むつもりは無い!」と明言し、「激しい売り込み」を否定する発言です。「Love Me Do」は大企業のロンドンのEMI社から発売されたと云うだけあり、全国に注目を浴びることとなります。「Love Me Do」と云う曲は、世間のイメージでは「かなり風変わりな曲」と言われることが多い中、発売当初のイギリスのヒットチャートでの記録は最高17位まで達しますが、大ヒットと云う訳には行きません。
1962(昭和37)年10月24日(水)の全国チャートでは48位となり少しずつ人々に浸透して行きます。ビルボード(Billboard)誌では、
1964(昭和39)年05月30日(土)に週間ランキング第1位を獲得、ビルボード誌1964年年間ランキングでは第14位、「キャッシュボックス」誌でも最高位第1位を獲得し、1964年度年間ランキングでは13位、アメリカでは100万枚以上のセールスを記録します。イギリスでは、デビュー20周年を記念して1982年に再発された時は最高位第4位となり最終的にはトータルで30万枚以上のセールスを記録することになります。このシングルはオリジナル盤・リイシュー盤ともに、パーロフォンの赤ラベルと黒ラベルが存在しており、オリジナル盤の方はいずれも希少価値の高いレコードで、特に黒ラベルは入手困難であり、ビートルズコレクターの間では人気アイテムとなります。しかし、ブライアンの回りは彼への心配が募り、忠告される日々を迎えます。「あんな若者たちと関わり続けると大変なことになる!」「音楽業界の連中など信じるな!」彼の両親に至っては「ビートルズがエルヴィス・プレスリーよりもビッグになるなんて信じられない!」と告げ、彼の将来を案じます。これらは、至極当たり前の接し方には違いありません。ジョージ・マーティンにもまた別の「やらなければならないこと」が存在し、それは、「マーティン自らが評価し、契約したリバプールの若者達が、間違いなく素晴らしかったと云うことの証明」です。それは言いかえれば、デビュー曲「Love Me Do」で注目を浴びたからには、次は彼らに大ヒット曲を与えなければならないと云う使命です。ビートルズにとって、「ジョージ・マーティンとの出会い」は必然ではあるものの「幸運」と云う言葉が適切でしょう。何も考えずに行動している者同士では、「普通」こうは行かないはずです。そして、ジョージ・マーティンは、ファースト・スングル「Love me Do」に続き、セカンド・シングルの候補を挙げます。マーティンは、一度封印した「How Do You Do It」を提案しますが、ビートルズはマーティンが用意したこの曲にまたも難色を示し、対抗曲として「Please Please Me」と云うオリジナル曲を提案します。今ならば多くの人が「なるほどあの曲ならば、ヒット間違いなしだ!」と納得されるでしょうが、ジョンが作ったこの曲はこの時まったくと云って使い物にならない作品で、マーティンはこの曲に違和感を覚えます。ジョージ・マーティンは語ります、「ビング・クロスビーの「Please」と云う古い曲からタイトルを引用した云う『Please Please me』を初めて聴いた時、ジョンはロイ・オービソン風のファルセット唱法で歌った。スローで、もても悲しげで、全く売れそうもなかったと感じた」。しかし、ジョージ・マーティン・マジックここから始ります。マーティンは「このままの曲調では使えないが、リズムをアレンジし、テンポを上げればヒットする可能性はある」と提案し、彼らも受け入れます。「Please Please me」はこうした経緯により、今私たちの前に現れることになります。
1962(昭和37)年11月26日(月)、ビートルズはEMIスタジオ(通称:アビーロード第2スタジオ)で「Please Please Me / Ask Me Why」を録音をすることになるのですが、その前にこの曲の注目すべき点を少し書かせて頂きます。この曲をモニターヘッドホンなどで聴いて頂くとよく分かるとは思いますが、ベースとヴォーカルそしてコーラスが結構複雑な構成で仕上げられています。演奏全体の印象としてジョンの素晴らしいハーモニカが目立ち、ギターの音が聴き取りにくい感じに仕上がっています。ここで注目べきはポールのベースとジョージのギターで、「Come on」のコードA ⇒ F#m ⇒ C#m ⇒ A のところでは、ジョージが意図的に「Come on」に合わせ BとC#を弾き、ポールのベースが3回目のC#mのところでは、主音と5度の音をひっくり返し G# ⇒ C# と弾いていることです。これはビートルズの音創りが当たり前でない証拠で、簡単ではありますが、工夫を凝らしています。エンディングの E ⇒ G ⇒ C ⇒ B ⇒ E と云うコードも曲の終わりを意識させる音創りの奥深さが感じられます。そしてボーカルでは、曲の冒頭の「Last night I said these words to my girl」と云う個所のメロをポールはEの音だけで歌い、ジョンはそのEの音から D# ⇒ C# ⇒ B と移って行き、ポールの少し揺れながらの声とジョンの安定した声がマッチし、素晴らしいハーモニーを作り出しています。また、3部にコーラスになる部分でもジョンとポールの高低音パートが入れ替わり、その下をジョージがコーラスをつけています。このように3人同時に歌う個所では互いが意識してトーンを近づけている感が強く、完全に一つの固まりでスピーカー(ヘッドホン)から飛び出てきます。デュエットになるエンディング「Please please me, who, yeah, like I please you…」の部分も「please」と「you」の高低音がジョンとポールで入れ替わります。この複雑な入れ替わりハーモニーと3部コーラスは、ビートルズの大きな特徴で、後に発表される「From me To You」や「I Wont Horld Your Hand」などでも多用されることとなります。サビのところのジョンのボーカルの合間に「In my heart」とバックが入りますが、これもこの曲で重要な雰囲気作りの個所で、マーティンのアイデアかもしれません。(ビートルズ大研究から引用)
1962(昭和37)年11月26日(月)、ビートルズはロンドンのセント・ジョンズ・ウッド・アビー・ロード3番にあるEMIスタジオ(通称:アビーロード第2スタジオ)での3時間のレコーディング・セッションを行い、セカンド・シングル「Please Please Me / Ask Me Why」の録音を開始します。1時間のリハーサルが用意されていたため、ビートルズは午後6時にスタジオに姿を現します。そして、午後7時、「Please Please Me」のレコーディングが開始されます。まずは、あの印象的なハーモニカ抜きで録音されます。それは、この曲は歌いながらハーモニカを吹くことができる構成ではないからで、そのパートはその日オ-バーダブされます。ハーモニカの編集用を含め『Pleas Pleas me』は18テイク録音されます。レコーディングが終了すると、ジョージ・マーティンはトーク・バックを使いこう叫びます、「初のナンバー1ヒット曲、間違いなしだ!」。「Please Please Me」収録後、ビートルズはB面「Ask Me Why」のレコーディングに開始します。この曲は、6テイクを録り、これにてこの2曲は完成に至ります。マーティンは放った「初のナンバー1ヒット曲、間違いなしだ!」と云う言葉の奥には、マーティンの想いと予感が多分にあったのでしょう。
1962(昭和37)年10月30日(火)、「Please Please me / Ask Me Why」のリミックス作業は行われます。この日はまず「Please Please Me」がミックス・ダウンされ、そのモノラルミックスはシングル盤とアルバム「Please Please Me」の両方に収録、その後「Ask Me Why」の第6テイクがモノラルにミックス・ダウンされます。この作業の開始・終了時間は記録に無く、またビートルズは、昼はキャバーン・クラブのランチタイムショーに出演し、夜はニュートン=ル=ウィローズのタウン・ホールに出演していたため、この場にはおらず、リミックス作業に参加するようになるのは、ずっと後の話になります。このシングルは
1963(昭和38)年01月11日(金)に英国で発売されますが、メロディ・メーカー紙、NME紙、ディスク紙では確かに発売6週間でNo.1を獲得します。しかし、、ニュー・レコード・ミラー紙 (New Record Mirror) が指標としていたレコード小売店チャートでは2位どまりとなり、正真正銘のNo.1をビートルズが獲得するのは「From Me To You」以降となります。ジョージ・マーティンは語ります、
「自分が高く評価したビートルズは、E.M.I.では評価されなかった。ビートルズとEMIの契約に関しては、トップも批判的で、保守的な考え方の持ち主である宣伝部長も『マーティンは「今まで見たことのない可能性を秘めているグループ」だと言うが、ビートルズには何の将来性も見い出せない!』と言う始末だった。」。ビートルズのデビュー曲「Love Me Do」は、E.M.I.としてヒットさせようという努力がなされず、放置とも云える状態になります。いつの世も、グループやレコードをヒットさせるためには、当然、大変な企業努力が必要であり、全国的に宣伝するには、かなりの出費を覚悟せねばなりません。当時の宣伝部長はあまりにも保守的過ぎて、その決断ができなかったと云うことです。「Love Me Do」がごく限定されたラジオでのオン・エアしかされなかったのは、このような背景があったせいだと推測されます。ブライアン・エプスタインは、ほとんど宣伝しようともしないE.M.I.に失望し、マーティンに相談します、
「ビートルズの次の曲は出版社に話を持ちかけて、そこで宣伝してもらうようにしたい」。E.M.I.の宣伝部門が殆ど動いていなことの知ってたマーティンは、冷静かつ積極的にアドバイスします、「ブライアン、僕はアメリカの会社よりもイギリスの会社の方がいいと思うよ。出来れば、とてもハングリーな人間がベストだ。ビートルズや君のために一生懸命やってくれる会社を探すんだよ。」。エプスタインはマーティンに告げます、
「僕はエルヴス・プレスリーの曲を出版している“ヒル&レンジ社”との契約を考えいる。あなたはどう思いますか?」、それを聞いたマーティンは、「ヒル&レンジは、君達がいなくても全然困らない。彼らにはエルヴィス・プレスリーがいるから、君達はきっと重要視されないと思うよ」とブライアンに再びアドバイスします。エプスタインは、ヒル&レンジ社の他にこれと云う会社に心当たりが無く、ここでもジョージ・マーティン相談するとことになります。エプスタインは語ります、
「これまで事あるごとに僕たちに幸運をもたらしてくれたジョージ・マーティンに話しを聞いてもらうしかなかった。彼はアメリカの出版社の人間とイギリスの出版社二人、計三人を紹介してくれた。」。そして、マーティンの紹介で、イギリス資本の出版社を経営する“ディック・ジェイム”に話を持ちかけることとなります。ディック・ジェイムズは、マーティンととても親しい間柄で、ビートルズのデビューにふさわしい曲をマーティンが探している時、「How Do You Do It」を提供してくれた人物であり、マーティンのプロデュースの下、歌手活動の経験も積んだ人物で、テレビドラマの主題歌をヒットさせことも多々あり、二人は強い信頼関係で結ばれていたのです。ディック・ジェイムズは語ります、
「ジョージ・マーティン氏がその依頼で僕に電話してきた。尊敬する彼が選んだグループなので、素晴らしいことは間違いないはず、使用できたよ。」。この時、エプスタインも独自で動いており、EMI傘下の子会社の出版社の幹部と会う約束を取り付けますが、約束の時間にその会社を訪れた彼を、担当者は30分近く待たせます。エプスタインは語ります、
「約束を守れない人間ではダメだと判断し、その会社の秘書にその旨を伝え、その足でディック・ジェイムズの会社に向かった」。
★マーティンとブライアンの間に居るのが「ディック・ジェイムズ」です。ディック・ジェイムズの会社に向かったブライアンは、彼のオフィスに、約束の時間より随分早く着いてしまいます。ブライアンは受付の女性に、
「ここで待たせて頂けますか」と告げると、彼女はジェイムズに連絡し、ジェイムズは待っていましたとばかりにオフィスから現われ、ブライアンを笑顔で迎えます。ディック・ジェイムズは、マーティンの云うところの「まさにハングリーな心情で、ブライアン、そしてビートルズのために全力を注いでくれる存在」だったようで、歌手としてそれなりのヒット曲も出した過去もあり、曲を作り上げる仕事にも係わりそこでもヒット曲を生み出し、約1年前に現役を引退し、出版社として独立したばかりの44歳の彼へのオファーはチャンスとも云える出来事だったのです。ディック・ジェームズは語ります、
「あの時、すぐに、出来たばかりのシングルレコード『Please Pleas me』を聴かせてくれとブラインに告げたんだよ、聴き終えた僕は感動したね。これは行けると思ったよ。」。彼もまた、ヒット曲を見い出す才能に長けた男だったと云うことです。この時、ジェイムズは思いがけない行動をとります。エプスタインが長期契約の話を持ちかけた時、「please please Me」が間違いなくナンバーワンになると信じたジェイムズはその場で歌手だった頃の友人関係や各方面に電話をかけ始めます。エプスタインはじっと見守ります。ジェイムズはフィリップ・ジョーンズと云うテレビ番組のプロデューサーに電話し、頼みごとをします、「リバプール出身の素晴らしいグループがいる。彼らを土曜のショーに出演させてくれないか」。しかし、一流のプロデューサーであるジョーンズはこう返答します、
「如何に友人と云えど、自分で彼らの実力を確認するまでは、予定を変更してまで特別に出演させるわけにはいかない」。しかし、それで引き下がるジェイムズではありません。彼は、「Please Please Me」を電話を通して聴かせると云う行動に出ます。これは、如何に彼が「Please Please Me」に感激したかを物語ります。曲を聴き終えた友人ジョーンズは即答します、
「とても素晴らしいサウンドだ。合格だよ!今週の土曜のショーに出演させよう!」電話を終えたジェイムズはブライアンに伝えます、
「彼らの土曜の予定はどうなっている?空いているか確認して欲しい。テレビに出られるんだ!」そしてビートルズにジョーンズが担当する全国ネット人気番組「サンク・ユア・ラッキー・スターズ」の
1963(昭和38)年01月13日(日)の出演予約が入ることとなります。そして、周りの人を巻き込む奇跡がとうとう起こり始めます。
1963(昭和38)年01月13日(日)の人気TV音楽番組『サンク・ユア・ラッキー・スターズ』への出演は、ビートルズにとってこれまででもっとも重要なことだと云えるしょう。『サンク・ユア・ラッキー・スターズ』とは、ABCテレビがTVネットワークのために制作し、ミッドランドと北イングランドのエリアで放送され、撮影収録にはABCとATVの共同所有のバーミンガム・アストンにある「アルファ・スタジオを使い、ミッドランドでは平日に、ロンドンでは週末に放映される番組です。この日ビートルズはその「アルファ・テレビジョン・スタジオ」で演奏、収録します。当時の『サンク・ユア・ラッキー・スターズでは、通常出演者はスタジオの観衆を前にレコードに合わせてリップシンク (くちパク)するのが恒例で、1961年4月から出演している多くのミュージシャン同様、7組の出演者リストの最後の出演リストに書かれたビートルズも「Please Please Me」をリップシンクし、この時の収録は6日後の
1963(昭和38)年01月19日(土)にオンエアされます。番組での彼らの登場部分は前半最後で、CMの直前と云う記録が残っています。当時『サンク・ユア・ラッキー・スターズ』は非常に人気の高い番組で、前述通りビートルズが出演できたことは、大事件とも云え、また、彼らの出演を演出したディック・ジェームスは、ビートルズの曲を管理するようになってから巨万の富を蓄積することとなり、彼にとっても一大事件だと云うでしょう。そして、このTV出演が起爆剤となりビートルズの快進撃は始まります。下記写真は、
1962(昭和37)年09月下旬の水曜日、
1962(昭和37)年09月19日(水)、
1962(昭和37)年09月26日(水)、リヴァプール埠頭周辺の倉庫にて、写真家レス・チャドウィックによって撮影されたものです。そしてついに、
1963(昭和38)年02月07日(木)、ビートルズは待望のセカンド・シングル「Please Please Me / Ask me Why」をリリースします。この曲の販売権のオファーを受けていたE.M.I.のアメリカ・レーベルである「Capitpl Record」は突然その権利を辞退することをE.M.I.に申し出ます。その後販売権は、国外のマスターをアメリカのレコード・レーベルに移すことを業務にしているE.M.I.系列子会社「Transglobal」に委託され、「Transglobal」は、「Atlantic」にオファーをするも受けてもらえず、最終的に「Vee-Jay」がアメリカでの販売を引き受けることになります。これが、アメリカでのデビュー・シングルとなり、イギリスでは
1963(昭和38)年02月25日(月)、日本では
‡1963(昭和38)年03月04日(月)のリリースとなります。面白いことに、最初のプレスでは「The Beattles」と記載されます。このシングルはイギリスのレコード・リテイラー、ミュージック・ウィークでは最高2位、メロディー・メイカーで2週連続1位、ニュー・ミュージカル・エクスプレスで3週第2位、イギリスでは35万枚のセールス記録、アメリカのビルボード(Billborad)誌では、
1964(昭和39)年03月14日(木)に、週間ランキング最高位の第3位を獲得し、ビルボード誌1964年年間ランキングでは第36位、『キャッシュボックス』誌でも最高3位を記録し、年間ランキング37位を獲得します。尚、B面には、イギリスでは3枚目のシングルとなった「フロム・ミー・トゥ・ユー」が収録され、アメリカでは100万枚以上のセールスを記録ます。イギリス本国でのシングル盤はオリジナル盤・リイシュー盤ともに、パーロフォンの赤ラベルと黒ラベルが存在しており、オリジナル盤はいずれも希少価値の高く、特に赤ラベルのほうが入手困難であり、ビートルズ・コレクターの間では人気アイテムとなります。作曲クレジットは前作のLennon-McCartneyからMcCartney-Lennonに変更された。この表記はアルバム『プリーズ・プリーズ・ミー』を挟み次作シングル「フロム・ミー・トゥ・ユー」まで使用されることとなります。
<ポールが語る" Lennon=McCartney"の曲作りについて>ビートルズのオリジナル曲の8割は作曲者が「レノン=マッカートニー(Lennon=McCartney)」とクレジット(Credit)されています。ジョンとポールが作曲を始めたのはまだ学生だった10代の頃で、二人は良く学校をさぼりポールに家に行き、曲のアイデアを次々とノートに書き留めて行きます。
「レノン=マッカートニー(Lennon=McCartney)」と題されたそのノートは、現在ポールが所有しています。アメリカのソングライターチーム、「ゴフィン=キング(Goffin=King)(ジェリー・ゴフィン=キャロル・キング)」に憧れた二人は、純粋に二人で共作した曲も、片方がメインでもう片方が手伝った曲も、どちらか一方が書いた曲も、全て「レノン=マッカートニー(Lennon=McCartney)」で発表しようと約束します。この取り決めは1970年のビートルズ解散まで貫かれ、1969年のジョンのソロ「平和を我等に(Give Peace a Chance)」にまで適用されます。興味深いことに、デビュー直前の一時期に限って「マッカートニー=レノン(McCartney=Lennon)」と云うクレジットが使われており、確かな理由や経緯は明らかにされていませんが、1963年7月のシングル「シー・ラヴズ・ユー(She Loves You)」以降は順序が決められ、ジョンの名前が先に来るようになります。ポールは語ります、
「僕とジョンは学校をさぼって、良く僕の家でギターを掻き鳴らしていた。父は働きに出ていたからここが一番いい場所なんだ。パイプに紅茶を詰め込んで吸ったこともある。味は良くなかったけど、大人の気分を味わっていたんだ。二人でアコースティック・ギターを持って、向かい合って吸った。曲を作ろうと自分の心を見つめる代わりに、目の前でプレイするジョンを見ている。まるで自分自身を映す鏡を見てるかのような、最高の時間だった。僕らは一緒に曲を作った。僕がノートに書きつけたタイトルはいつも『アナザー・レノン=マッカートニー・オリジナル(ANOTHER LENNON = MCCARTNEY ORIGINAL)』だった。次のページも『アナザー・レノン=マッカートニー・オリジナル』なんだ。ノートには歌詞とコード・ネームをメモしてるだけだ。カセットテープなんかまだなかったし、グランディグ社のテープレコーダーなんか買う金もなかった。だからメロディは頭に入れておかなければならない。バック・コーラスのところには"oh-"と云う印を付けた。他に書き方を知らなかったんだ。テープレコーダーを持っている友達がいたけど、僕らは録音することはほとんどなかった。まだ僕らが自分たちの曲に入れ込んでなかったせいもあるけど、ジョンと僕の間に、自分たちが覚えられないような曲を他の人が聴いて覚えられるわけがないと云う暗黙の了解があったからなんだ。」。(書籍『Beatles Gear』抜粋参照)
https://beatles-in-ashtray.jimdofree.com/1962-%E5%BE%8C%E5%8D%8A-08-16-11-26/
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①┃『THEIR SATANIC MAJESTIES REQUEST』 ┃
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Studio album by the Rolling Stones
1967(昭和42)年02月09日(thu) 録音開始
1967(昭和42)年10月23日(mon) 録音終了
1967(昭和42)年11月25日(sat) US released
1967(昭和42)年12月08日(fri) UK released
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②┃『WE'RE ONLY IN IT FOR THE MONEY』┃
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
Studio album by the Mothers of Invention
‡1968(昭和43)年03月04日(mon) Released
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①https://en.wikipedia.org/wiki/Their_Satanic_Majesties_Request
②https://en.wikipedia.org/wiki/We%27re_Only_in_It_for_the_Money
https://www.udiscovermusic.jp/stories/beatles-influence-sgt-pepper
https://www.udiscovermusic.jp/stories/10-things-that-made-sgt-pepper-possible
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『SGT:PEPPER'S』が後世に与えた影響
2017(平成29)年06月12日(月) STORIES Written By Martin Chilton
こと実験性という意味においては、1967年以降現在までの半世紀の間に生まれたポピュラー・ミュージックの大部分が、『Sgt Pepper’s Lonely Hearts Club Band』(以下『Sgt Pepper』)に借りがあると断言しても決して言い過ぎではないだろう。ザ・ビートルズのサウンド、ソングライティング、スタジオ・テクノロジー、そしてカヴァー・アートにおける極めてユニークな冒険が、たちまちのうちに大きなインパクトをもたらし、英国の全レコード・リリース史上最大のセールスを記録するに至ったこのアルバムが世に出たのは、
1967(昭和42)年06月01日(木)のことだった。
1967(昭和42)年06月04日(日) リリースから僅か3日後、ザ・ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスはロンドンのサヴィル・シアターでのショウのオープニングを、(『Sgt Pepper』の)アルバム・タイトル曲のカヴァーで飾った。折しも客席に居合わせたポール・マッカートニーとジョージ・ハリスンはこの時、自分たちが何かとんでもなくスペシャルなものを作り上げたことを悟ったに違いない。それから5カ月も経たないうちに、ジェファーソン・エアプレインが、実験的な『Sgt Pepper』の影響色濃い『After Bathing at Baxter’s』をリリースする。これは彼らが同じ年にリリースしていた前作の『Surrealistic Pillow』とは全くかけ離れた作風のアルバムだった。ザ・ムーディ・ブルースもいち早く新たな音楽的視界の受け容れを表明したバンドである。67年11月、彼らがリリースした『Days Of Future Passed』はロンドン・フェスティヴァル・オーケストラの力を借り、ザ・ビートルズの影響を強く感じさせるサイケデリック・ロック/クラシック・サウンドを作り上げた。
1967(昭和42)年12月08日(金)には、ザ・ローリング・ストーンズが『Their Satanic Majesties Request』をリリースする。このアルバムは『Sgt Pepper』に対するシニカルなサイケデリック的回答と評価され、キース・リチャーズもこう認めている:「あれは、結局何とも中途半端なもんになっちまったな。ちょうどストーンズが新しいアルバムを出そうとしてた時に、『Sgt Pepper』が出てきて、要するに俺たちはあれのパロディーをやらかそうと考えたわけだ」。この他にも、ザ・ビートルズによって具現化されたアルバムには枚挙のいとまがなく、1968年のブリティッシュ・ロック・グループ、ザ・プリティ・シングスによる『SF Sorrow』から、一年後にはキング・クリムゾンが『In The Court Of The Crimson King(邦題:クリムゾン・キングの宮殿)』で明らかにそれと分かるオマージュを捧げた。ギタリストでありプロデューサーでもあるロバート・フリップは、ラジオ・ルクセンブルグで耳にしたジョン・レノンとザ・ビートルズの他のメンバーたちに触発され、かの歴史的プログレ・ロック・アルバムを作る着想を得たのだそうだ。「『Sgt Pepper』を聴いてから、私の人生は一変したんだ」、ロバート・フリップはそう言って憚らない。ザ・ビートルズはカウンターカルチャーの価値観をメインストリームに持ち込んだ。“ロック・アルバム”かくあるべし、という伝統的な不文律を破ることで、『Sgt Pepper』は他のアーティストたちに、それまでになかった新しいアイディアとアティテュードによる音楽へのアプローチを促したのである。レコードのプロダクションにおいても、このアルバムは専門的技術と革新性において新たな基準となった。ザ・ビートルズのファースト・アルバム『Please Please Me』は、全曲を実に僅か1日、約10時間で録音完了させたものだったが、『Sgt Pepper』は1966年11月から1967年4月まで、トータル約700時間の作業(プロデューサーのジェフ・エメリック談)が注ぎ込まれていた。レコードが完成するまでレコーディング作業を続けるという考え方(ただ単にスタジオを数日借りるということではなく)は革命的なコンセプトであり、プロデューサーのジョージ・マーティンによれば、‘道具としてのスタジオ’の定義を見直すきっかけにもなった。結果としてアビィ・ロード・スタジオの使用料総額が、当時としてはケタ外れの25,000ポンドに達したのも当然の成り行きだろう。更に画期的だったのはマルチ・トラックを使っての録音作業で、ジョージ・マーティンはその利点を駆使して西洋の音楽とインド音楽、ジャズ、そしてサイケデリック・ロックやポップ(ヴィクトリア時代のミュージック・ホール《訳注:ヴォードヴィル的演芸要素を含む軽音楽劇》をたっぷりと加えて)との融合を図り、声とインストゥルメンテーションによるめくるめくサウンド・コラージュを作り上げた。ポール・マッカートニーは『Sgt Pepper』が音楽カルチャーに‘大いなる違い’をもたらした理由のひとつとして、それ以前は「みんなポピュラー・ミュージックの枠の中で、少しばかり無難な方に寄っていたんだけど、僕らはふと気づいたんだよ、別にそうする必要なんかないんだってね」と語っている。『Sgt Pepper』は時に、史上初のコンセプト・アルバムとして称えられることがある。これは必ずしも的を射た表現とは言えないが(ドラマーのリンゴ・スターは、アルバムには首尾一貫したテーマは存在しないことを公式に認めており、レコーディング作業開始直後のセッションから生まれた2つの名曲、「Strawberry Fields Forever」と「Penny Lane」はそれぞれシングルとして出すことを前提に録音されたものだったと証言している)、世の人々はかの作品を‘コンセプト’・アルバムと信じて疑わず、その定義はもはや音楽界の民間伝承と化しているのだ。ザ・ビートルズに影響を受けたバンドには、ジェネシス、イエス、ラッシュ、ジェスロ・タルまで含まれており、彼らの独創的なアルバムは、空前の“ロック・オペラ”熱をも巻き起こすきっかけとなった。驚異的成功を収めたザ・フーの2枚組アルバム『Tommy』(1969)も、ティム・ライスとアンドリュー・ロイド・ウェバーによる『Jesus Christ Superstar』(1970)も、根元をたどれば『Sgt Pepper』という大木に行き着くのだ。ザ・ビートルズが変化の引金を引いたのは、何もロックの輪に限ったことではない。カーラ・ブレイはこのアルバムを聴いて、「これに負けないようなアルバムを作ってやる」と心に決め、それからの4年間を費やし、リンダ・ロンシュタットをフィーチャーして作り上げた前衛ジャズのトリプル・アルバム『Escalator Over The Hill』を1971年に世に送り出した。『Sgt Pepper』はまた、音楽上の第二の自我(ルビ:オルター・エゴ)という考え方を一般的に知らしめた。いつもの日常から一歩踏み出し、ステージの上やレコードの中では別のペルソナをまとっても差し支えないという発想は、「解き放たれたように感じさせてくれた」とポール・マッカートニーは言い、この冒険はやがてデヴィッド・ボウイやグラム・ロック時代のKISSをはじめとする多くのアーティストたちを巻き込んでいくことになる。もっとも、すべての人が『Sgt Pepper』を手放しで、何もかも超越した天才的作品と褒め称えたわけではなく、かのアルバムにインスピレーションを得て生まれた作品の中には、寧ろその逆に近い反応もあった。フランク・ザッパ&ザ・マザーズ・オブ・インヴェンションがヴァーヴ・レコードから1968年にリリースした『We’re Only In It For The Money』(*訳注:直訳すると「俺たちはただ金のためにやってるだけだ」)は、アルバム・カヴァーからして『Sgt Pepper』のパロディで、その政治的スタンスと、60年代後期のカウンターカルチャーの心臓部と思われていた、いかにもインチキ臭い“ヒッピー的”価値観を痛烈に諷刺した。ザ・ラトルズは『Sgt Pepper』ならぬ『Sgt Rutler’s Only Darts Club Band』というパロディ・アルバムを出し、子供向けTV番組の『セサミ・ストリート』までもが、‘With A Little Yelp From My Friends’という曲をレコーディングした。しかし、ザ・ビートルズがこのアルバムで切り拓いた新たな道は、実は音楽だけに留まらなかった。フロントの眩惑的なヴィジュアルは、アルバム・カヴァーがモダン・アート作品になり得ることを確信させたし、アルバムのパッケージの一部に全収録曲の歌詞をすべて完全な形で組み込んだ、最初のロック・アルバムともなったのである。マイケル・クーパーの撮影による写真では、バンド・メンバー全員が揃いのサテンのスーツ姿で、画家のピーター・ブレイクと彼の当時の妻ジャン・ヘイワースが制作したメイ・ウェスト、オスカー・ワイルド、ローレル&ハーディ、それにW.C.フィールズといった歴史上の人物たちの段ボールのコラージュの前に立っている。これは60年代サイケデリック時代全体を通じて、最も不朽のイメージのひとつだろう。『ザ・シンプソンズ』をはじめ、このカヴァーは愛情をこめて何百回と真似されてきた。2016年には、英国の芸術家クリス・バーカーが、レナード・コーエン、プリンス、フットボール選手のヨハン・クライフ等、同年惜しまれつつ亡くなった各界のスターたちをキャスティングした新たなヴァージョンを発表している。アルバム全体と同様、『Sgt Pepper』は曲単位でも数え切れないほど多くのカヴァー・ヴァージョンを触発している。特によく知られているのは♪Lucy In The Sky With Diamonds♪ エルトン・ジョン ♪With A Little Help From My Friends♪ ジョー・コッカー他、ハリー・ニルソン、ファッツ・ドミノ、ブライアン・フェリー、ジェフ・ベック、ソニック・ユース、アル・ジャロウ、ビリー・ブラッグ、そしてビリー・コノリーに至るまで、実に多くの優れたカヴァーが世に出ているのだ。20世紀の音楽の傑作に対するトリビュートは、1995年のスマッシング・パンプキンズの後も、世紀をまたいでなお続いている。カイザー・チーフスは1967年のレコーディング時にエンジニアを務めたジェフ・エメリックの手による2007年のトリビュート・アルバムのために、「Getting Better」のカヴァーを提供した。ブライアン・アダムスも参加したこの『Sgt Pepper』のニュー・ヴァージョンの録音に際し、ジェフ・エメリックはオリジナルのレコーディングで使用されたのと全く同じ機材を使っていた。アメリカのバンド、チープ・トリックは、2009年のライヴ・アルバムでフル・オーケストラをフィーチャーしたヴァージョンを披露し、更に2011年にはアメリカ人ギタリストのアンディ・ティモンズが、1970年に別のザ・ビートルズのアルバム、『Abbey Road』の全曲カヴァーを出した例に倣うように、全曲インストゥルメンタルのカヴァー・アルバムを出している。『Sgt Pepper』が何故こんなにも絶大な影響力を持っているのかを恐らく最も的確に総括してくれるのは、ロジャー・ウォーターズの言葉だろう。ピンク・フロイドの1973年の名作『The Dark Side Of The Moon(狂気)』の構想に、このアルバムがいかに大きな役割を果たしていたかについて、彼はこう説明している:「俺はレノン、マッカートニー、そしてハリスンから、俺たちの人生について書いてもいいんだ、感じたままを表現していいんだと教わったんだ ……あれは他のどんなレコードよりも、俺と俺の同世代たちに、思い切って既定路線を外れて、何でもやりたいことをやっていいんだって許可を与えてくれたんだよ」。
https://www.udiscovermusic.jp/stories/beatles-influence-sgt-pepper
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『SGT:PEPPER'S』を可能にした10の事
2017(平成29)年05月15日(月) STORIES Written by Laura Stavropoulos
『Sgt. Pepper』はザ・ビートルズのカタログにおいても、人々の記憶においても唯一無二の地位を占める作品である。あなたの音楽的な傾向にかかわらず、一般的に、音楽、文化、両面にとってこのアルバムの影響力が非常に巨大なものであることは否定できない。歴史は、サージェント・ペパーズ以前と以後で分類されるのだ。そのリリースを直に体験したことのない人々にとっては、『Sgt. Pepper』へのなじみは軽減されているだろう。かつては広く革新的であり、大いに新しいものであったものが、今や“クラシック・ロック”に分類されるからだ。それにもかかわらず、『Sgt. Pepper』はロックを“尊敬すべき”アート・フォームたらしめ、その評判は、その後何十年にわたって聞かれることとなる。『Sgt. Pepper』は1967年にしか生まれえなかったものかもしれない、それを理解するには、文化と音楽の間の共生関係を理解しなくてはならない。このアルバムの50周年を記念して、ザ・ビートルズ史上もっとも、褒め称えられた功績へと導いた周囲の状況を考察してみよう。
01:60年代カウンターカルチャー■カウンターカルチャーの精神は、『Sgt. Pepper』以前に、一足早く姿を現していた。ボブ・ディランが彼の伝説的な2枚組アルバム『Blonde On Blonde』をリリース、一方で、ブライアン・ウィルソンは、ザ・ビーチ・ボーイズで『Pet Sounds』を制作した。一見したところ、すべてのアーティストが創造的にフル回転しており、その1年間に及ぶ、凄まじいリリースのペースは異例なものであった。アメリカの両海岸、そして、イギリスにおいて、アーティストは各々刺激しあい、次々に何か新しいものが創作されるなど、文化的な交流が開放されていた。ジョン・レノンの指摘によると、ザ・ビートルズがカウンターカルチャーを作り上げたわけではない、しかし彼らが最も周知されたシンボルであることは間違いない。「僕らがみんなのヘアスタイルを変えたなんてほんの微々たることだろ?だけど、僕らは何らかの影響を受けたんだ、そこに漂っているすべてにね」とジョン・レノンは語った。「僕たちは60年代のすべての一部だよ。それは自然に起こったことだ。僕らはストリートで起きていることを代表するためのひとつとして選ばれただけ」。『Sgt. Pepper』は60年代文化の反体制的な本質を捉えたものではない一方で、音楽、ヴィジュアル・アート、歌詞のイメージといった点において、その寛容性を定義していた。ボードビリアン的な「Being For The Benefit Of Mr Kite!」から 「Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band」のスポークン・ワード、そして、「A Day In The Life」のフル・オーケストレイションまで、それらは、前衛的芸術とポップ・ミュージックの境界線をあいまいなものとしたのだ。
02.カリフォルニアのサイケデリックなバンドのバンド名■東海岸、特にサンフランシスコのシーンで起きていること夢中になり、ポール・マッカートニーはバンドの名前の最近の流行は、革命的に長く、そしてより想像力に富んだものであることに気が付いた。もはやザ・ビートルズ、ザ・バーズ、ザ・キンクスといったものではなく、それらは突然、ローター・アンド・ザ・ハンド・ピープル、ビッグ・ブラザー・アンド・ザ・ホールディング・カンパニー、そしてジョン・レノンの提案(*訳注:インタビューにおける発言)の“フレッド・アンド・ヒズ・インクレディブル・シュリンキング・グレイトフル・エアプレインズ”といったものになった。バンドはパロディの偽名を無造作に口にしながら、ザ・ビートルズという名前を忘れるアイディアをうみだし、それ自身に新しいアイデンティティを創造していった。
03:オルター・エゴ(別人格)の採用■この時点までに、ザ・ビートルズの人気は、成層圏に届くレヴェルに達していた、そしてザ・ビートルマニアはバンドの音楽自体を曇らせてしまうほどだった。バンドは、彼らのモップの様な髪型の時代のイメージからの解放を求めており、それがオルター・エゴという未踏の地への探検へと導いたのだ。後にポール・マッカートニーは、「自分たちのアイデンティティを失うというのは素晴らしく思えたんだ、偽のグループのペルソナに、自分たちを隠してね」と思い出して語った。そして、サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンドは生まれたのだ。この流動的なアイデンティティという考えは、カウンターカルチャーの若者たちにの心に強く響いた。もはやその人の将来すべては出自で決定するものではなく、自己改革はシンプルに行うことにできるのだ。
04:ザ・ビーチ・ボーイズの『Pet Sounds』■ジョージ・マーティンとポール・マッカートニーは、ザ・ビーチ・ボーイズの『Pet Sounds』を公に褒めちぎっており、『Sgt. Pepper』にとって、影響力を与えたものであったと公言している。ジョージ・マーティンはもしもブライアン・ウィルソンとザ・ビーチ・ボーイズがこの名盤を制作しなかったならば、「“Sgt. Pepper”は生まれなかっただろう」と語っており、ポール・マッカートニーは、「このアルバムにおける音楽的改革は、ただ‘ワオ!’という感じだよ。僕にとってはとても大きなことだった。しまった、これは最高傑作だ。いったい僕らは何をやってるんだ?って思ったね」と語った。しかし一方『Pet Sounds』は永続的なローテーションの中にあった、この作品はブライアン・ウィルソンがザ・ビートルズの『Rubber Soul』に影響を受けなければ、生まれなかったからだ。そして、このサイクルは続いている。
05:フランク・ザッパ&ザ・マザーズ・オブ・インヴェンションの『Freak Out!』■もし、ブライアン・ウィルソンが、ポップな側面に助言を与えたとしたら、フランク・ザッパは、ザ・ビートルズにより革新的であるようにと後押ししたといえるだろう。フランク・ザッパ&ザ・マザーズ・オブ・インヴェンションの1966年のデビュー・アルバム『Freak Out!』は、ネオクラシカルなオーケストレーションとジャズの即興性を合体させ、カウンターカルチャー的な政治が内包され、また、単なるLPフォーマットを、コンセプチュアルな声明へと変化させた最初ともいえる作品であった。『Pet Sounds』も『Freak Out!』も、ロックとは、スタジオ・プロデューサーのメディアであるだけでなく、パフォーマンス・アートであることを証明したのだ。『Freak Out!』がLAのフリーク・カルチャーにおける宣言であったならば、『Sgt. Pepper』はサンフランシスコのヒッピーたちのサブカルチャーの高尚な宣伝といえるだろう。
06:ツアーをやめたこと■オルター・エゴの採用を決定する前、ザ・ビートルズは、ツアーをやめることを決めた。不便さを別にしても、熱心なファンや、ジョン・レノンのキリスト教を冒涜するように見える発言を受け入れない好ましくないオーディエンスのおかげで、ツアーはバンドにとって物理的に危険なものになっていた。1966年8月29日に、サンフランシスコのキャンドルスティック・パークで行われた彼らのパフォーマンスが、1969年の有名なアップル・ルーフトップ・パフォーマンスを別にして、最後のコンサートとなった。それぞれに自分のやり方で逃避していたメンバーが、1966年11月にふたたび集まった時、彼らは、ワーキング・バンドであることよりも、よりコンセプチュアルなアイディアと共にあることへと変化することを決めた。彼らの曲の中で、民主的にヴォーカルと楽器のパートを分け合わなければ、彼らはお互いの強みにより自由でいることができ、また、完璧に近いところまで成し遂げるために、スタジオで(音を)いじくりまわすことができたのだ。リンゴは『Anthology』のブックレットの中で、バンドの考えを総括して語った、「ツアーをやめると決めた後、僕らはわずかなことを気にせずに済むようになった。『Revolver』や『Rubber Soul』を聴けばわかるように、僕らはスタジオでより楽しめるようになった。スタジオから引きずり出されて、ツアーに出る代わりに、(スタジオで)時間を費やせるようになったし、リラックスできたんだ」。
07:スタジオにおける実験とジョージ・マーティン■アビィ・ロードにおけるセッションの間に、ザ・ビートルズは彼らのビートルマニアの章の幕を閉じ、スタジオ・イヤーズともいえる章の幕を開けたのだ。何年もの間、多くのロックとポップはある程度ライヴで演奏ができるように制作されていた。レコーディング・プロセスがどうかというと、大まかなやり方は、ライヴ・パフォーマンスを録音する、もしくは再構築するといったものだった。しかし、ジョージ・マーティンと・ザ・ビートルズは、彼らの奇抜な考えで、それらをひっくり返したかった。ジョージ・マーティンが語ったところによると、「テープでしかできない何かをテープの中に落とし込みたかったんだ」ということだ。彼はプロデューサー以上の存在であり、ザ・ビートルズ・サウンドの建築家であり、グループにより前衛的なタイプのレコーディングを経験させ、彼らの視野を広げるアイディアに触れさせた。
08:技術的制限■当時のスタジオ技術を使用して、ジョージ・マーティンとザ・ビートルズが成し遂げたことは、並外れたことであり、それが、『Sgt. Pepper』を印象的なものにしている。すべての素晴らしいアイディアのように、逆境は、創意あふれるアイディアの源である。1967年までに、マルチ・トラック・レコーディングは業界のスタンダードになっていたが、エイト・トラック・テープ・レコーダーは、アメリカではありふれたものであったが、イギリスでは、1967年後半まで、そうではなかった。アルバムにおけるサイケデリックなサウンド・エフェクトの大半は、ヘッドフォンをマイクとして利用したり、マイクをスタジオにある様々なものとつなげたりする独創的なアイディアや他の創意あふれる工夫によって、作り上げられた。
09:東洋的神秘主義■ザ・ビートルズは、他の西洋世界と同様に、インドの音楽の伝統、精神性、文化に夢中になっていった。その影響は、『Rubber Soul』収録の「Norwegian Wood」のころから感じられる、そして、特に、『Revolver』収録のジョージ・ハリスンによる「Love You To」では色濃く感じられる。ジョージ・ハリスンのインド音楽への興味は一生かけての情熱として花開いた。『Sgt. Pepper』のセッションが始まる前、ジョージ・ハリスンはボンベイへ、ラヴィ・シャンカールのシタールのレッスンを受けるために旅立った。結果として、東洋に染まった「Within You Without You」が生み出され、「Lucy In The Sky With Diamonds」のバックの音色にもそれは現れている。
写真◆George Harrison Ravi Shankar Credit: Michael Ochs Archives/Getty Images
10:音楽業界のトレンドを無視した■1966年までに、次々と巨大なヒットを蓄積しており、
1966(昭和41)年12月31日(土)までに、アルバム『Revolver』はアメリカだけで、1,187,869枚売り上げていた。彼らの成功は、自身をソングライティング、楽器/機材の使用において新しいアプローチを試みることのできるポジションへと押し上げていた。彼らは、それぞれのアルバムで、ロック・ミュージックが許容しうる定義を広げて、またあらゆるジャンルのファンにリーチすることができる能力は、メインストリームへのアピールを残しつつも、彼らに違うスタイル、楽器での演奏を可能にした。ポピュラー音楽の思いつきを通過しそれにこたえてこなければ、ザ・ビートルズはダンス・ミュージックやラジオ・フレンドリーなシングルを作ることを避けることができただろう。その代わりに、彼らはロックのスタンダードを上げ、その後すぐに頭角を現すプログレッシヴ・ロックや、アートロックの未来を切り開いたのだ。
https://www.udiscovermusic.jp/stories/10-things-that-made-sgt-pepper-possible