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┃ 『19:00発、Xmasトレインに飛び乗れ!』 ┃Mr.Children
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Mr.Children 4枚目のアマチュア時代作品
Mr.Children 三枚目のアマチュア時代作品
‡1990(平成二)年12月24日(月) リリース日
備考・・・ライヴ会場で無料配布
媒体・・・コンパクトカセット(テープ)
♪Merry Merry Christmas♪
♪Jens Christmas♪
♪二日遅れのクリスマス♪
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https://ja.wikipedia.org/wiki/Mr.Children#アマチュア時代
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┃ Road&Sky vol.026 ┃
┗━━━━━━━━━━━━┛CHRISTMAS SPECIAL ISSUE
① X'mas。子供の頃、この言葉が持つイメージはとても暖かく、楽しく、甘美なものだった。キリスト教とは縁のない極く普通の家庭だった俺の家には、唯一カトリック系の高校へ通っていた姉がクリスチャンの香りを運んでくれていたのだけど、X'masだけは小さかった俺にもお正月の前夜祭的な感じで身近に感じられた。勿論おめあては何と云ってもX'masケーキ。バター・クリーム製のヤツだったけれど自分の割りあて以外に誰かが残してくれるのを待っていたものだ。X'masツリーは、もみの木がないので代わりに裏山から松の木を取ってきたりして…。X'masソングで好きなのは今でもそうなんだけど"ママがサンタにキッスした"。そして子供の頃で一番印象に残っているプレゼントは、おもちゃのコルト45。そんな家庭でのX'masから友達とのX'mas に変わったのは高校時代。誰かの家に集まって、本当のワインではなく安い赤玉ポートワインというやつを買ってきて騒ぐというパターンだ。誰かの妹なんかがレコードにあわせて踊る姿が妙に刺激的だったりした。それにしてもLED ZEPPELINやブルースでX'masの夜に踊るというのも今考えると面白い。今そんな年令の人達はどんな過ごし方をするのだろうか。
② 情報誌を開くと年末にかけてコンサートの数が一段と増えてくる様だ。いわゆるお正月映画も11月から封切りになったりするのもある。通りに植えられた銀杏などの葉がだんだん黄色になって、そして風に舞って散ってゆくのを見る。空気が冷たくなってきて何となく世の中がせわしなくなってゆく感じがする。今年はこれらの事に気づいた。多分この何年か秋から冬にかけては必ずツアーをやっていて、東京にじっくり腰を落ち着けたことがなかったせいだろう。日本の場合 X'masは商業資本の仕掛けに、日本全国乗ってしまっている感じだけど、それはそれで楽しい様な気がする。デパートや商店街のきらきらした飾りつけや X'masソング。この季節いつもは俺達のコンサートもあちこちの街でそんな浮き浮きした気分を盛りあげる要素の一つになっているかもしれない。そしてもし観に来てくれた人達が当日何か良い想い出を持って帰ることが出来たら俺達もハッピーだ。もっとも俺達自身のX'masは結構寂しいものになりがちだが…。今年は本当に何年ぶりかの東京でのX'mas。ひょっとしたらまだレコーディング・スタジオに入っているかもしれないけれど、落ち着いたX'masになりそうだ。
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https://shogo.r-s.co.jp/fanclub/backnumber/backnumber026.html
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1984(昭和59)年12月発行 会報第8号は全12ページ【TALK&TALK】秋晴れの
1984(昭和59)年11月3日(土)、仕事が早く終ったので事務所の傍にある青山学院大学の学園祭をぶらっとのぞいてみた。この何年か学園祭でのコンサートをやっていないので、何となく懐かしさも手伝って、物凄い人ごみのキャンパスを歩き廻った。門のところから通路はびっしりと食べ物屋の模擬店が並んでいる。俺達の時代でもそうだったけれど、それぞれのクラブや同好会単位で店を出しているのだろう。ちょっと違うのが、そろいのスタジャンを着たり、かなり強烈な呼びこみを行ったり、客引きを連想させる様な態度をとる人間までいることだ。あちこちで言われているけれど何かを感じさせたり、観せたり、訴えたりといったテーマがなく、金をもうけて楽しく騒げばいいといった様な印象が強かった。勿論全部が全部そうではないだろうが…学生生活を離れて10年になるものの自分では大学生の雰囲気とか感覚とか解る様な気はしていたのだけど、はっきり隔たりを感じた。学園祭コンサートにしろ、俺がやたら何本もやっていた頃は、売れないアーティストでも好きだからよんで、全部自分達でやってしまうといったパターンが多かった。楽屋に手作りの食事が用意してあったり、終わったあと出演者、主催者入り交って酒を飲んで騒いだりとか、今みたいにまだイベンター化してなかった頃の手づくりっぽいコンサートが学園祭の本質の様な気がする。ギャラは安くても、会場の条件等悪くても楽しかった想い出はたくさんある。大学生といえば、時代の最先端の部分に―思想的なものにしろ、芸術的なものにしろ―鋭く反応できる人たち、理論と感性のバランスがとりやすい時期にいる人たちだと思う。そんな意味からいうと、たった一校観ただけだけど、少し寂しい感じを持ったのが学園祭の印象だった。ツアーも半分以上過ぎ、疲れていないといえば嘘になる今日この頃、読んでいるものというと"遥かなるバークレイ(サラ・ティヴィドソン著)"というタイトルの本だ。'60年に大学に入った女のコたちがベトナム戦争やセックスや音楽を身近に色んな形で経験してそれぞれの仕事についていく過程を'60年代のアメリカを舞台にドキュメントタッチで書いたものです。機会があれば特に女の人は読んでみたらと思います。4月に横浜スタジアムで"A PLACE IN THE SUN"をやり、2年振りにオリジナルアルバムをつくり、新しいスタッフ、メンバーとツアーを再開した'84年も、もうすぐ終わる。体に気をつけて、
みんなそれぞれのハッピーな或いはセンチメンタルなクリスマスを、そして、ニューイヤーを…。
http://shogo.r-s.co.jp/fanclub/backnumber/backnumber008.html
ミュージックソムリエ
大学受験を控えているというのに僕はその日も福岡サンパレスにいた - TAP the POP
2015.05.04
ミュージックソムリエ
http://www.tapthepop.net/sommelier/28752
浜田省吾 ON THE ROAD ‘84。
1984年12月24日。はじめて彼のメロディーを知ったのは甲斐よしひろのソロアルバム『翼あるもの』(1978年)での「あばずれセブン・ティーン」だった。のちに自身の『HOMEBOUND』(1980年)に収録されるその曲は甲斐よしひろの声にピッタリで直ぐに歌詞カード見て調べたら作詞・作曲が浜田省吾だった。名前は聞いたことあったものの作品とかジャケットと結びつかなかったからレコード屋で探したらスポーツ選手のような(それでいてどのスポーツか特定できない)ジャケット見て、「またこんど」と棚に戻した(ごめんなさい)。本格的に聴き始めたのはあのカップヌードルのCMソングが収録された『君が人生の時・・・』だった。2曲目からの流れが特に秀逸なメロディーでそのときに浜田省吾=メロディーメイカー、そう確信した。彼がことあるごとにこの『君が人生の時・・・』までを廃盤にしたい、と語ってたのだけれど僕はどこがそんなに気に食わないか理解できなかった。まあ、そのあとの『HOME BOUND』からの革新的かつ確信的なロック的アプローチが今の彼に繋がるもの、と捉えるとそこに彼なりの気恥ずかしさがあったのかもしれない。日本ではじめて原子力パワーの恐ろしさをポピュラー・ソングに昇華でき得たアルバム『PROMISED LAND?約束の地』(1982年11月発売)の最後に入ってる「僕と彼女と週末に」に平和ボケしていた高校生の僕は感じたことのない衝撃を受けた。翌1983年には福岡の米軍博多基地跡に出来たばかりの海の中道海浜公園で自身初の野外コンサートを実施。僕が浜田省吾のLIVEを観たのはこのときが初めて。とてもこんなところに戦闘機が離着陸してたとは思えないほどに大きく青空が広がるその公園で僕は開演を待っていた。まだ青々しい芝生に座ってたら なんだかまわりがザワザワして来たので横を見てみると THE ALFEEの高見沢さんが座っててビックリした。なんたって「メリー・アン」がヒットチャートを駆け上っている頃。どんどん周りに人が集まってきて結局スタッフに連れられてどこか行っちゃった。一緒に観れたら面白かったのに。佐藤準全面アレンジのバラードアルバム『Sand Castle』を挟み いよいよ1984年、新作『DOWN BY THE MAINSTREET』(当時はメインストリートという邦題(?)が明記されてたはず)で大きなブレイクポイントを迎えていた。そのアルバムを引っさげてのクリスマス・イヴの夜のライブ。「愛の世代の前に」ではじまり「明日なき世代」で終わる 脂が乗りまくった鉄壁のR&R的ライブ。受験生という自覚も忘れ僕はありあまるやるせなさ、みたいなものを彼のステージに投影し熱狂した。そんな最高のステージとは裏腹に彼はライブ後いつにない徒労感と孤独感を抱えて福岡の夜をひとり彷徨ったという。赤鼻や白髭が賑やかに街を彩っているなかでいっそう彼の傷みは深いものとなり、その奥深い底から見上げた風景はのちに素敵な作品を生むパッションとなった。
翌年僕らに届けてくれたのが『CLUB SNOWBOUND』というクリスマス・アルバム。底抜けに明るいウォール・オブ・サウンドは本人の言うとおり確かにオリジナルアルバムでやるのは気恥ずかしかったのかもしれないけれど60’s感たっぷりの中にいきなり現れる「MIDNIGHT FLIGHT-ひとりぼっちのクリスマス・イブ-」という名曲がこのパーティーアルバムをそれだけに留まらせない作品にしている。この歌が1984年のクリスマスの彼の孤独の彷徨いから生まれたことを勝手に想像するとまたこの歌に深みが増してくる。翌年いよいよ『J.BOY』で大きなブレイクを迎えることとなる。そして時は流れ2015年。10年ぶり、といわれピンと来なかった。この10年の間には新録曲を含むベスト・アルバムを3タイトル、そしてFairlifeという味わい深い試みも、そして当然ツアーなど精力的に動いていたのでそんなに時が経ってるとは気づかなかった。
『Journey of a Songwriter ?旅するソングライター』しかしこうして聴き始めてみると体のあちこちが反応して自覚する。ああ、待ってたんだ、と。タイトル曲でこう歌われる
どこにいたって 君を想ってる
ロンドン パリ ニューヨークシティ 札幌 博多
前に彼が住みたい街として福岡を挙げていたことがあったけれどあのクリスマスの夜のこの街は彼に何をプレゼントしたのだろう。
<ミュージックソムリエ 大畑亨>
http://www.tapthepop.net/sommelier/28752
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┃ ♪クリスマス・イブ CHRISTMAS EVE♪ ┃
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1983(昭和58)年12月14日(水) リリース 山下達郎通算12枚目のシングル作品
雨は夜更け過ぎに雪へと変わるだろう
Silent night, Holy night
きっと君は来ないひとりきりのクリスマス・イブ
Silent night, Holy night
心深く秘めた想い
叶えられそうもない
必ず今夜なら言えそうな気がした
Silent night, Holy night
まだ消え残る君への想い
夜へと降り続く
街角にはクリスマス・トゥリー銀色のきらめき
Silent night, Holy night
雨は夜更け過ぎに雪へと変わるだろう
Silent night, Holy night
きっと君は来ないひとりきりのクリスマス・イブ
Silent night, Holy night
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%A4%E3%83%96_(%E5%B1%B1%E4%B8%8B%E9%81%94%E9%83%8E%E3%81%AE%E6%9B%B2)
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メリークリスマス
良いお年を(=^◇^=)♂
音源◆https://youtu.be/okQt8E7N3Zs
BOOWY-[CM]THANKS 1224 2007→2008 https://youtu.be/44pxuWaD--w
梨本勝がもらった BOΦWYのサイン
http://blog.livedoor.jp/jeao/archives/51721246.html
262 : NO MUSIC NO NAME
2016/12/15(木) 20:59:02.09 ID:7L/Lyt/d
>>247
と言いながらあなたのようなレスくれる人もいるから
真面目にもレスもしておこうかな。
なるべく短かめに書くけどでも長文です。
それまで風を感じてがCMソングになったときに
スマッシュヒットはあったもののどっちかとゆうと
きっと一発屋だなってかんじでその後も鳴かず飛ばずだった
そんな浜田省吾が初の武道館やるときには
みんな絶対無謀だ埋まるわけ無いって思ってたそうな。
それが蓋を開けてみればチケットは即完売
そのライブ収録したアルバムオンザロードは初のトップテン入り。
それでもずっとそれまでホリプロにとってはお荷物的存在だったから
それでもまあたまたまだろなんて評価は根強くて
独立させてよって社長に頼んだらああいいよってあっさり独立。
ところが独立後の野外ライブでは25000人動員で大成功!
その後のレコードセールスも常に安定して十数万枚。
なんで?って関係者一同首をかしげたそうな(笑)
いまだに世間では浜田省吾まだ生きてるの?なんて言われてるのに
60過ぎても全国アリーナツアーやれば即日完売満員御礼状態。
ほとんどの人からすごいって思われてないのにほんとはすごい!
そんな省吾はほんとにすごいと思うよね。
でもそれを知っているのはファンだけ
さてその戦略とは? おわり
真面目じゃなかったねごめん(笑)
265 :NO MUSIC NO NAME
2016/12/15(木) 21:33:31.41 ID:/w+nNKkL
>>262
浜田省吾??、ふ~ん。それでXX何だけどさあ。ってスルー
されんのは慣れたけど。
凄いけど、露出しないから、凄さを知らない人の方が多い。っていうパラドックスですよね。
270 : NO MUSIC NO NAME
2016/12/15(木) 21:52:52.62 ID:6A/s/V+D
>>262 あっさりじゃないよ かなりの犠牲払ってるよ
271 : NO MUSIC NO NAME
2016/12/15(木) 22:09:15.08 ID:7L/Lyt/d
>>270 おっしゃるとおり、1年くらい交渉したらしいもんね。
少し話もっちゃいましたすんません。
でも一般的な独立騒動よりはその後の妨害等もなく
あっさりってゆうイメージを俺が持ってることは確か。
http://mint.2ch.net/test/read.cgi/musicjm/1481647464/
280 : NO MUSIC NO NAME
2016/12/15(木) 23:33:11.82 ID:7L/Lyt/d
>>274
悪く言うってゆうか浜田省吾よりもっといいのいるだろ?って感じだな
いっぱいいたからね老若男女みな知ってるようなヒット飛ばしてた人たちが。
なんでそうゆう人じゃなく浜田省吾なの?って反応だよ。
>>275
そうゆう俺たちみたいな数は少ないけど不動なファン層を
ライブとアルバムとそのアルバムからシングルカットして
発売したシングルで確実に開発して取り込んで
増やして行ったってゆうのがロースカの販売戦略なんだよね。
ライブを興行ではなく浜田省吾を売るための
プロモーションとして捉えたかったってこと
そしてそれが浜田省吾の独立の動機だったってことは
ロースカの高橋社長がここで
http://www.musicman-net.com/relay/137-6.html
はっきりと答えてる。
浜田省吾にはその売り方が一番って判断したのはたぶん
いままでどおりのプロモーションやっても売れなかった時代に
巡業みたいな地道なライブで開発してきたコアなファン層のおかげで
絶対ダメだって言われた武道館を成功に導いたって考えたからだと俺は思う。
そしてそれは結果として大成功して一般的にはすごいと思われてないけど
実は観客動員数もCD、DVDのセールスもいまだにすごい浜田省吾ってゆう
特別な存在が出来上がったんだよ。
http://mint.2ch.net/test/read.cgi/musicjm/1481647464/
698 : NO MUSIC NO NAME
2016/12/20(火) 22:16:00.62 ID:xVaH6MAC
19のままさを歌う前に大竹に住んでいて錦帯橋まで
ママチャリのカゴにラジオ積んでFEN聞きいてた話。
英数学館に行っててほとんど通わず通り過ぎて平和公園や縮景園に行ってたとか。
http://mint.2ch.net/test/read.cgi/musicjm/1481647464/
01.路地裏の少年
02.この夜に乾杯!
03.モダンガール
04.想い出のファイヤーストーム
MC 18の時にママチャリのカゴにラジオ積んでFENで大竹CITYから米軍キャンプのそばにある?岩国・錦帯橋に行ったお話
05.19のままさ
06.悲しみの岸辺
07.DJお願い
08.バックシート
09.今夜こそ
10.終わりなき疾走
11.MIDNIGHT BLUE TRAIN
12.MONEY
=== 第2部 ===
13.丘の上の愛
14.もうひとつの土曜日
MC
15.マグノリアの小径
16.光の糸
17.旅するソングライター
18.きっと明日
19.夜はこれから
20.ON THE ROAD
21.J.BOY
=== アンコール① ===
22.アジアの風 青空 祈り part-1 風
23.アジアの風 青空 祈り part-2 青空
24.アジアの風 青空 祈り part-3 祈り
25.誓い
=== アンコール② ===
26.こんな夜は I miss you
27.光と影の季節
28.I am a father
=== アンコール③ ===
29.家路
BOOWYの歴史~1987年~
いよいよ解散する年ですね。
http://boowydaisuki.seesaa.net/article/38290533.html
BOOWY解散の理由を高橋まことがあっけらかんと暴露してしまうあたり何といい人なのだろう
2016/4/6
伝説のロックバンド「BOOWY(ボウイ)」
ボーカルだった氷室京介やギタリストだった布袋寅泰が今やカリスマ的な存在になっている事からも、その偉大さがうかがえるというものです。
BOOOWYが突如解散宣言したのは1987年12月でした。
人気絶頂期にその様な発表があったとは、当時のファンにはまさに晴天の霹靂だった事でしょう。
そんなBOOWY解散の理由については諸説流れています。
一般的には、前述のカリスマ2人の不仲という理由が考えられるでしょう。
2006年2月に発売された布袋寅泰さんの著書「秘密」において、BOOWY解散の理由について
"確かに、解散を最初に言い出したのは俺だった。
(中略)
しかし、結成以来、揺れに揺れ続けてきたバンドを崩壊に至らないよう手を尽くしてきたのも俺である。
(中略)
最後の最後で、俺がワルの役を買って出ただけの話だ。
俺には俺の、”絶対解散せねばならない理由”があった。
しかし、その理由は墓まで持っていくつもりだ"
と力強く述べています。
私を含めそれを読んだ方は、相当ディープな原因があるのだと思った事でしょう。
氷室京介「来月解散しよう」
布袋寅泰は1986年1月に、あのシンガーソングライターの山下久美子さんと結婚しました。
BOOWYが一般的に有名になったのは同年9月に発売されたシングル「B・BLUE」だったので、それより随分前から交際されていた事になります。
布袋寅泰は結婚後は、妻である山下久美子のバックバンドとしての活動も平行して行っていました。
そしてそこにベースの松井恒松さんも参加し、さらにドラムの高橋まことさんも誘われたのです。
そうなるとボーカルの氷室京介以外のメンバー全員がバックバンドとして参加する事となります。
それはまずいと思った高橋まことがその事を氷室京介に告げたのでした。
その事実を聞かされた氷室京介が
「来月解散しよう」
と言ったのが、解散理由です。
これが高橋まことが「スネア」で語ったBOOWY解散の理由だったのです。
布袋寅泰が著書「秘密」において解散理由のハードルを上げた後なので、なんとも肩透かしを食らった様な理由です。
ただ、元メンバーがここまで明確に解散理由を述べたという事で、かなり信憑性の高い理由と言えましょう。
http://vita.yokohama/boowy-takahashi-makoto
BOΦWY ♪16♪ CASE OF BOOWY http://video.fc2.com/content/20110410qQXd94Rq
アニメ◆
ダイジェスト◆
静止画◆
映像◆BOΦWY LIVE【渋谷85】NO. NEW YORK https://youtu.be/wRiq50rY4rQ
音源◆浜田省吾 Radio 2003 Part2『思い出のクリスマスについて』https://youtu.be/4lS6O0ygJzc
2003(平成15)年12月24日(水) FM802『ROCK KIDS 802』
音源◆1981♪センチメンタルクリスマス♪https://youtu.be/H7DILHDNcuE
音源◆♪CHAMPAGNE NIGHT~SNOWBOUND PARTY-Tonight Visitors OK!♪https://youtu.be/3ubq5NGi1wE
音源◆♪MIDNIGHT FLIGHT-ひとりぼっちのクリスマス・イブ♪https://youtu.be/jNDXivVMatE
音源◆♪SNOW ON THE ROOF - Just Like You And Me -♪https://youtu.be/iNfmq-9wpTs
音源◆♪SENTIMENTAL CHRISTMAS♪https://youtu.be/pa60hb4jjg8
西暦1986(昭和六十一)年の今夜。
わしが生まれたところを近く離れて初めて生省を観、
大声ではしゃいだひとりぼっちのクリスマスの日だヨ(=^◇^=)ゞ
音源◆浜田省吾「浜省も若い頃にはバカなことやったww」過去のクリスマス騒ぎを語る。https://youtu.be/mQhtUbxSpms
音源◆浜田省吾 少年時代のクリスマスの思い出「姉とおもちゃのピストル」~青春時代のクリスマスの記憶 http://youtu.be/uqK6uYmWMPc
音源◆浜田省吾が自身の少年時代のクリスマスの記憶と青春時代にパーティーのバンドを掛け持ちしていた頃の記憶を語る。孤高のロックシンガーの無名時代のエピソード。
音源◆浜田省吾 下積み時代のエピソードを語る http://youtu.be/n4fZm3JTlvM
音源◆Yellow Christmas(1986/11/21(fri)シングル発売) https://youtu.be/777L4IYaxN0
WINTER LOUNGEに収録されている曲のPVです。
音源◆浜田省吾with 石原さとみ ♪19のままさ♪https://youtu.be/g2UykJFbl_w
音源◆♪19のままさ♪ 2006 NEWアレンジ https://youtu.be/1lnKEf0efy0
音源◆♪サンシャイン・クリスマスソング♪ https://youtu.be/b5NlI1yFA-Q
♪I DON'T LIKE "FRIDAY"♪
2005.09.27 Tuesday
浜田省吾1988年のアルバム「FATHER'S SON」収録曲。
単純に訳すと「僕は金曜日がキライだ」になりますが、もちろんこれはダブルミーニング。
浜省らしい、なかなかシニカルなポップソングに仕上がっています。
声をかけたのは彼女の方だぜ
お前をベッドに誘ったのも
「愛してる…」とだけは決して言うんじゃないと
おれからの忠告 耳も貸さずに
She waits for you さよなら My freind
寂しくなるぜ Friday night
She waits for you
馬鹿だぜ Old Freind 恋するなんて
ストーリーは、一緒にビジネス界で戦ってきた仲間が結婚してしまい、金曜日の夜が寂しくなってしまうという、そんな感じです。
全体にビジネスマンの仕事に賭ける熱気のようなものが漂っていて、これはバブル絶頂期の日本の空気を如実に反映したものです。
当時は、日本のビジネスマンの空気って、本当にこういう感じだったんですよね。
職場は戦場で、会社員は戦士で。
それこそ、♪24時間戦えますか~、リ~ゲイン、リ~ゲインの時任三郎みたいな。
今はすっかりI am a father.ですけど。
十字砲火の中くぐり抜けて おれ達 ここまで生き残った
女も Businessも蹴散らし いくつもの敵陣を突破して戦ってきた
She waits for you 情けないぜ 武器を捨て幸福かい
She waits for you 最前線に戦友を残し
「武器を捨て幸福かい?」はもちろん「武器を捨て降伏かい?」のダブルミーニング。
ただ、恋愛に悲観主義的な歌が多い浜省らしい主人公には仕上がっています。
サウンド的には、当時最新のメカニックなアレンジを加えたポップスナンバーで、
バンドサウンドでやった方が良い曲になるような気がします。
メロディメーカー浜田省吾らしいキャッチーな音です。
さて、浜田省吾が写真週刊誌「FRIDAY」に奥さんとのショッピングシーンを盗撮されて、
サングラスなしの素顔を掲載されたのは1987年のこと。
もちろん、浜省は激怒して、当時の「FATHER'S SON」ツアーでも、フライデーのことをガンガン叩いていました(笑)
同時期にビートたけし率いる「たけし軍団」が盗撮に抗議して編集部に乱入、社会的事件となる騒ぎがありましたが、
このことについても浜田省吾は「オレはビートたけしを応援するよ」と言ってました。
「オレは金曜日がキライだ」というよりは「オレはフライデーがキライだ」という部分に彼の主張があったことは間違いありません。
なんだか浜田省吾らしい、ちょっとシニカルでちょっとシャイな怒りソングっていうところですね。
これが清志郎だったら、めちゃくちゃストレートな怒りソングになってますよ、絶対(笑)
♪週刊フライデー、腐った週刊誌~、とか。
「FATHER'S SON」ツアーの時には、「これはオレが演出したんだぜ」とか言いながら、バーのセットみたいのが出てきて、
いかにも金曜日の夜のバーという雰囲気の中でこの歌を歌ってたような気が。
http://shogo21.jugem.jp/?eid=134
ひばり・チエミ・いづみの三人娘から始まるジャパニーズ・クリスマス・ソングの歴史
2015年12月24日 執筆者:志賀邦洋
大正時代や戦前にも日本人によるクリスマス関連のレコードは出ているが、所謂流行歌手によるクリスマス・レコードの動きが活発になってきたのは、1950年代に入ってから。それがよく表れているのが三人娘(ひばり・チエミ・いづみ)の動きだ。
'52年に江利チエミが「サイレント・ナイト/ジングル・ベル」を出し、美空ひばりは両面オリジナルのクリスマス・ソング「びっこの七面鳥/ひとりぽっちのクリスマス」を出す(この「びっこの七面鳥」は、自主規制のために未CD化のままという残念な状況が続いている)。'53年には、ひばりが「ジングル・ベル」を出し(B面はやはりオリジナルの「クリスマス・ワルツ」)、チエミは「ジングル・ベル/ホワイト・クリスマス」(A面は再録音)を、そして雪村いづみも「ジングル・ベル」(B面はナンシー梅木「ホーリー・ナイト」)を、更にいづみは'55年に、マンボアレンジでの「ジングル・ベル・マンボ」(B面はフランク永井「グッド・ナイト・スイート・ハート」)を出す、といった具合で、三人娘が数年の間にそれぞれ2枚以上のクリスマス・シングルを出し、オリジナルのクリスマス・ソングや流行のリズムアレンジでのカヴァーなどの試みも行われている。
1950年代中頃には、日本の一般家庭でもクリスマスを祝うことが定着したと言われているが、確かにその説を裏付けるかのように、'55年以降になると、小坂一也、山下敬二郎、平尾昌章、丸山明宏、浜村美智子、ダーク・ダックス、フランク永井、マヒナ・スターズらのクリスマス・レコードが続く。60年代には、水原弘、森山加代子、坂本九、弘田三枝子、田代みどり、梅木マリ、後藤久美子、飯田久彦、藤木孝、ザ・ピーナッツ、中尾ミエ、伊東ゆかりなどのカヴァーポップス勢、そして舟木一夫、西郷輝彦、橋幸夫(企業用の販促フォノシートでの録音が残っている)、美樹克彦、由美かおる、布施明、奥村チヨ、小畑ミキ、山本リンダ、エミー・ジャクソンなどの歌謡/ポップス勢、石原裕次郎、吉永小百合、加山雄三といった俳優勢、ウルトラマンやオバQなどのTV・アニメ系、60年代半ばからのエレキ・インスト~GS系と、もう名前を挙げきれないが、まさに百花繚乱。
60年代におけるオリジナル・クリスマス・ソングとしては、まず'61年に江利チエミが、デルタ・リズム・ボーイズのカール・ジョーンズが書き下ろした「聖なる神の子」(訳詞音羽たかし)をクリスマス・アルバムに収録。'66年に加山雄三が出したシングル「ジングル・ベル」のB面は、チップマンクスばりのテープギミックを取り入れた自作曲「ぼくのクリスマス」で、同年に出た4曲入りEPには、もう1つの自作曲「クリスマス・イヴ」(もちろん山下達郎のとは違う)が収録された。GS関連では、ジャッキー吉川とブルー・コメッツが'67年に出した、全曲オリジナルの5曲入りEP『バラのクリスマス』と、'69年にザ・タイガースのファンクラブ向けに頒布された、フォノシート『あなたとタイガースのクリスマス』収録の「あわて者のサンタ」がよく知られている。
こうした50~60年代の人気歌手・グループによるクリスマス・レコードは、シングル盤やEPこそ結構な数が出ているが、ことアルバムとなるとあまり多くない。単独アーティストだと、インストもの以外では'58年と'62年のダーク・ダックス、'58年の和田弘とマヒナ・スターズ、'61年の江利チエミ、'66年の石原裕次郎ぐらい。オムニバス盤では、'63年のナベプロ総動員盤、『たのしい たのしいクリスマス』の人気が高く、他にも'62年に東芝から出た『若さでクリスマス』や'60年の水原弘+森山加代子『おミズと加代ちゃんのクリスマス・イヴ』、裕次郎を含めた日活スターたちによる'62年の『歌う日活スター・クリスマス・パーティー』などが有名だ。
70年代に入ると、クリスマス・レコードの世界は、アイドル、プロレスラー、タカラジェンヌ、フォーク、ニューミュージックなど、だんだん混沌としていくのだが、もう字数が尽きてしまった。この辺はまたの機会に。
Merry Christmas!
http://music-calendar.jp/2015122401
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┃ 1992年 下半期の出来事 ┃
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2017(平成29)年08月11日(金)
今回は1992(平成四)年下半期の出来事です。
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久宝さんのコンサートのスケジュールが一段落した頃、町支さんのツアーのリハーサルが始まった。一緒にツアーを回る町支寛二バンドのメンバーは、
ドラムス:高橋伸之、
ベース:関雅夫、
ギター:水谷公生、
キーボード:板倉雅一、
キーボード:福田裕彦、
サックス:古村敏比古 この6人に町支寛二を加えた計7人。新旧入り交じった浜田省吾バンドのメンバーが集まった。ぼくはベースの関さんと一緒にやるのは初めてだったが、昔から面識はあったので不安は無かった。キーボードの福ちゃんは、浜田さんのレコーディングで一緒だったので以前からよく知っていた。他は長年一緒にツアーを回ったメンバー達だった。サックスの古村くんとは久宝さんのツアーでも一緒だったので、町支さんのバンドでも再び一緒にやることとなって嬉しかった。町支さんのツアーの曲目は、初のソロアルバムからの曲を中心に構成されていたが、他にも何曲かの洋楽のカバーもあった。約二週間程のリハーサル期間を経て、いよいよ町支さんのソロツアーが始まった。
「僕を呼ぶ声」というタイトルの付いたツアーは、
1992(平成四)年10月22日(木)名古屋 愛知勤労会館を皮切りに、
1992(平成四)年11月11日の東京渋谷公会堂までの計7カ所での公演だった。日程は以下の通り。
町支寛二「僕を呼ぶ声」ツアー
1992(平成四)年10月22日(木) 名古屋 愛知勤労会館
1992(平成四)年10月24日(土) 宮城県民会館
1992(平成四)年10月29日(水) 札幌サンプラザホール
1992(平成四)年11月02日(月) 広島アステールプラザ
1992(平成四)年11月03日(火) 大阪厚生年金会館
1992(平成四)年11月05日(木) 福岡電気ホール
1992(平成四)年11月11日(水) 渋谷公会堂 初日の愛知勤労会館のコンサートに浜田省吾さんが来ていた。ぼくは楽屋で約一年半ぶりに浜田さんと再会をした。昨年
1991(平成三)年の2月12日(火)、ぼくは千葉で行われた浜田さんのコンサートを観た。The Fuseを脱退してから初めて観た浜田さんのコンサートだった。自分がステージにいない浜田省吾のコンサート観るのは、
1979(昭和54)年07月01日(日)の新宿ロフト以来だった。ぼくは客席のほぼ真ん中の席で観戦した。浜田さんのコンサートは素晴らしかった。しかしぼくはコンサートを観戦しながら、何とも言えない感情がこみ上げて来た。当たり前のことだが、自分がいた場所に違う人がいて演奏している。自分がいない浜田さんのステージを客観的に観られるようになるまでには、ぼくにまだ時間が必要だった。町支さんのコンサートは中盤にアコースティックコーナーが設けられていて、たしか二曲程洋楽のカバーをやった。一曲はビートルズの「I've Just Seen A Face(邦題:夢の人)」と、もう一曲はCSN&Y(クロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤング)の「Find The Cost Of Freedom(邦題:自由の値)」だった。 この二曲の時(ひょっとしたら一曲だけだったかもしれない)、ぼくは自分のキーボードの位置からステージ中央に出て行き、町支さんを真ん中にぼくと水谷さんの三人が高さのあるスツールに座って、横一列に並ぶ編成で演奏した。演奏というかこの二曲に関してはぼくはボーカルだけだった。町支さんと水谷さんがアコースティックギターを弾き、ぼくは楽器を持たず手ぶらで歌った。長いミュージシャン活動の中で楽器を持たないで歌ったのは、この時と後は数える程しか無かった。町支さん、水谷さん、ぼくの三人でのハーモニーは、自分でいうのも何だがなかなか格好良かった。ぼくは歌いながら「CSN&YというよりもまるでGAROみたいだな。」と思っていた。特に「Find The Cost Of Freedom」は、コーラスのみのほぼアカペラで、コーラスワークはとても難しかった。今回の町支さんのコンサートでは、ぼくは浜田さんのコンサートの時よりもコーラスの比重が大きかった。コンサートの後半はフルバンドでの演奏に戻り、アップテンポの曲が中心になって畳み掛けるような構成になっていた。町支さんのボーカルとギターは、浜田さんの時とはまた違った感じでとても素晴らしかった。今回のソロツアーでぼくは改めて、町支さんのボーカリスト&ギタリストとしての素晴らしさを再認識した。
1992(平成四)年11月05日(木)の福岡公演に再び浜田さんが遊びに来た。この日は元チューリップのメンバーで、ぼくの後任のような形で浜田さんのツアーに参加していた姫野達也さんも来ていた。楽屋はとても賑やかになった。92年のコンサートの締めくくりは、
1992(平成四)年12月18日(金)に日本青年感で行われた久宝留理子さんのクリスマスライブと、
‡1992(平成四)年12月24日(木)のクリスマスイブに新宿で行われた山本英美くんのコンサートだった。二つともとても楽しくて素敵なコンサートだった。目の回るような忙しさだった1992年もようやく終わろうとしていた。
写真◆町支寛二1992年のツアーパンフより。
**************** http://air.edisc.jp/ima/
http://mi-mychronicle.blogspot.jp/2017/08/1992.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/THE_FUSE
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