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┃ ♪SHE LOVES YOU♪┃
┃ ♪I'LL GET YOU♪┃
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1963年07月01日 録音:EMIスタジオ
‡1963年08月23日 英国
1963年09月16日 米国
1964年04月05日 日本
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%B4%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%83%A6%E3%83%BC
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▽アナログA面▽合計時間:18:21
1965年08月30日 01.Twist And Shout
1965年08月30日 02.She's a Woman
1965年08月29日 03.Dizzy Miss Lizzy(後半部分)
1965年08月30日 03.Dizzy Miss Lizzy(前半部分)
1965年08月29日 04.Ticket to Ride「涙の乗車券」
1965年08月30日 05.Can't Buy Me Love
1964年08月23日 06.Things We Said Today「今日の誓い」
1964年08月23日 07.Roll Over Beethoven
△アナログB面△合計時間:15:11
1964年08月23日 08.Boys
1965年08月30日 09.A Hard Day's Night
1965年08月29日 10.Help!
1964年08月23日 11.All My Loving
1964年08月23日 12.She Loves You
1964年08月23日 13.Long Tall Sally
◎2016年発売盤ボーナス・トラック◎合計時間:10:08
1964年8月23日 14.You Can't Do That
1964年8月23日 15.I Want to Hold Your Hand「抱きしめたい」
1965年8月30日 16.Everybody's Trying to Be My Baby「みんないい娘」
1965年8月30日 17.Baby's in Black
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B6%E3%83%BB%E3%83%93%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%AB%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%BC%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%B4!
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┃ オーストリア少女監禁事件 ┃
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1998(平成十)年03月02日(月) 10歳ナターシャ誘拐
‡2006(平成18)年08月23日(水) 18歳ナターシャ脱出
2010(平成22)年09月16日(木) ナターシャ自叙伝『3,096 Days』出版
2018(平成30)年11月03日(土)『目撃!超逆転スクープ2世紀の凶悪監禁犯VS決死の生還劇』
2020(令和二)年01月15日(水)『ワールド極限ミステリー 3時間SP』TBS
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https://kakaku.com/tv/channel=8/programID=83470/episodeID=1210373/
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%A2%E5%B0%91%E5%A5%B3%E7%9B%A3%E7%A6%81%E4%BA%8B%E4%BB%B6
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映像◆土曜プレミアム・目撃!超逆転スクープ2 世紀の凶悪監禁犯VS決死の生還劇https://youtu.be/oHqpFJ13ObQ
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┃ 『檄』楯の會隊長 三島由紀夫 ┃
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われわれ楯の會は、自衞隊によつて育てられ、いはば自衞隊はわれわれの父でもあり、兄でもある。その恩義に報いるに、このやうな忘恩的行爲に出たのは何故であるか。かへりみれば、私は四年、學生は三年、隊内で準自衞官としての待遇を受け、一片の打算もない敎育を受け、又われわれも心から自衞隊を愛し、もはや隊の柵外の日本にはない「眞の日本」をここに夢み、ここでこそ終戰後つひに知らなかつた男の涙を知つた。ここで流したわれわれの汗は純一であり、憂國の精神を相共にする同志として共に富士の原野を馳驅した。このことには一點の疑ひもない。われわれにとつて自衞隊は故郷であり、生ぬるい現代日本で凛烈の氣を呼吸できる唯一の場所であつた。敎官、助敎諸氏から受けた愛情は測り知れない。しかもなほ、敢てこの擧に出たのは何故であるか。たとへ強辯と云はれようとも、自衞隊を愛するが故であると私は斷言する。われわれは戰後の日本が、經濟的繁榮にうつつを拔かし、國の大本を忘れ、國民精神を失ひ、本を正さずして末に走り、その場しのぎと僞善に陷り、自ら魂の空白?態へ落ち込んでゆくのを見た。政治は矛盾の糊塗、自己の保身、權力慾、僞善にのみ捧げられ、國家百年の大計は外國に委ね、敗戰の汚辱は拂拭されずにただごまかされ、日本人自ら日本の歴史と傳統を?してゆくのを、齒?みをしながら見てゐなければならなかつた。われわれは今や自衞隊にのみ、眞の日本、眞の日本人、眞の武士の魂が殘されてゐるのを夢みた。しかも法理論的には、自衞隊は違憲であることは明白であり、國の根本問題である防衞が、御都合主義の法的解釋によつてごまかされ、軍の名を用ひない軍として、日本人の魂の腐敗、道義の頽廢の根本原因をなして來てゐるのを見た。もつとも名譽を重んずべき軍が、もつとも惡質の欺瞞の下に放置されて來たのである。自衞隊は敗戰後の國家の不名譽な十字架を負ひつづけて來た。自衞隊は國軍たりえず、建軍の本義を與へられず、警察の物理的に巨大なものとしての地位しか與へられず、その忠誠の對象も明確にされなかつた。われわれは戰後のあまりに永い日本の眠りに憤つた。自衞隊が目ざめる時こそ、日本が目ざめる時だと信じた。自衞隊が自ら目ざめることなしに、この眠れる日本が目ざめることはないのを信じた。憲法改正によつて、自衞隊が建軍の本義に立ち、眞の國軍となる日のために、國民として微力の限りを盡すこと以上に大いなる責務はない、と信じた。四年前、私はひとり志を抱いて自衞隊に入り、その翌年には楯の會を結成した。楯の會の根本理念は、ひとへに自衞隊が目ざめる時、自衞隊を國軍、名譽ある國軍とするために、命を捨てようといふ決心にあつた。憲法改正がもはや議会制度下ではむづかしければ、治安出動こそその唯一の好機であり、われわれは治安出動の前衞となつて命を捨て、國軍の礎石たらんとした。國體を守るのは軍隊であり、政體を守るのは警察である。政體を警察力を以て守りきれない段階に來て、はじめて軍隊の出動によつて國體が明らかになり、軍は建軍の本義を囘復するであらう。日本の軍隊の建軍の本義とは、「天皇を中心とする日本の歴史・文化・傳統を守る」ことにしか存在しないのである。國のねじ曲つた大本を正すといふ使命のため、われわれは少數乍ら訓練を受け、挺身しようとしてゐたのである。しかるに昨
昭和四十四年十月二十一日(火)に何が起つたか。總理訪米前の大詰ともいふべきこのデモは、壓倒的な警察力の下に不發に終つた。その?況を新宿で見て、私は、「これで憲法は變らない」と痛恨した。その日に何が起つたか。政府は極左勢力の限界を見極め、戒嚴令にも等しい警察の規制に對する一般民衆の反應を見極め、敢て「憲法改正」といふ火中の栗を拾はずとも、事態を收拾しうる自信を得たのである。治安出動は不用になつた。政府は政體維持のためには、何ら憲法と牴觸しない警察力だけで乘り切る自信を得、國の根本問題に對して?つかぶりをつづける自信を得た。これで、左派勢力には憲法護持の飴玉をしやぶらせつづけ、名を捨てて實をとる方策を固め、自ら、護憲を標榜することの利點を得たのである。名を捨てて、實をとる! 政治家にとつてはそれでよからう。しかし自衞隊にとつては、致命傷であることに、政治家は氣づかない筈はない。そこでふたたび、前にもまさる僞善と隱蔽、うれしがらせとごまかしがはじまつた。銘記せよ! 實はこの
昭和四十五年十月二十一日(火)といふ日は、自衞隊にとつては悲劇の日だつた。創立以來二十年に亙つて、憲法改正を待ちこがれてきた自衞隊にとつて、決定的にその希望が裏切られ、憲法改正は政治的プログラムから除外され、相共に議會主義政黨を主張する自民黨と共産黨が、非議會主義的方法の可能性を晴れ晴れと拂拭した日だつた。論理的に正に、この日を堺にして、それまで憲法の私生兒であつた自衞隊は、「護憲の軍隊」として認知されたのである。これ以上のパラドックスがあらうか。われわれはこの日以後の自衞隊に一刻一刻注視した。われわれが夢みてゐたやうに、もし自衞隊に武士の魂が殘つてゐるならば、どうしてこの事態を默視しえよう。自らを否定するものを守るとは、何たる論理的矛盾であらう。男であれば、男の矜りがどうしてこれを容認しえよう。我慢に我慢を重ねても、守るべき最後の一線をこえれば、決然起ち上るのが男であり武士である。われわれはひたすら耳をすました。しかし自衞隊のどこからも、「自らを否定する憲法を守れ」といふ屈辱的な命令に對する、男子の聲はきこえては來なかつた。かくなる上は、自らの力を自覺して、國の論理の歪みを正すほかに道はないことがわかつてゐるのに、自衞隊は聲を奪はれたカナリヤのやうに默つたままだつた。われわれは悲しみ、怒り、つひには憤激した。諸官は任務を與へられなければ何もできぬといふ。しかし諸官に與へられる任務は、悲しいかな、最終的には日本からは來ないのだ。シヴィリアン・コントロールが民主的軍隊の本姿である、といふ。しかし英米のシヴィリアン・コントロールは、軍政に關する財政上のコントロールである。日本のやうに人事權まで奪はれて去勢され、變節常なき政治家に操られ、黨利黨略に利用されることではない。この上、政治家のうれしがらせに乘り、より深い自己欺瞞と自己冒?の道を歩まうとする自衞隊は魂が腐つたのか。武士の魂はどこへ行つたのだ。魂の死んだ巨大な武器庫になつて、どこへ行かうとするのか。纎維交渉に當つては自民黨を賣國奴呼ばはりした纖維業者もあつたのに、國家百年の大計にかかはる核停條約は、あたかもかつての五・五・三の不平等條約の再現であることが明らかであるにもかかはらず、抗議して腹を切るジェネラル一人、自衞隊からは出なかつた。沖繩返還とは何か? 本土の防衛責任とは何か? アメリカは眞の日本の自主的軍隊が日本の國土を守ることを喜ばないのは自明である。あと二年の内に自主性を囘復せねば、左派のいふ如く、自衞隊は永遠にアメリカの傭兵として終るであらう。われわれは四年待つた。最後の一年は熱烈に待つた。もう待てぬ。自ら冒?する者を待つわけには行かぬ。しかしあと三十分、最後の三十分待たう。共に起つて義のために共に死ぬのだ。日本を日本の眞姿に戻して、そこで死ぬのだ。生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか。生命以上の價値なくして何の軍隊だ。今こそわれわれは生命尊重以上の價値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主々義でもない。日本だ。われわれの愛する歴史と傳統の國、日本だ。これを骨拔きにしてしまつた憲法に體をぶつけて死ぬ奴はゐないのか。もしゐれば、今からでも共に起ち、共に死なう。われわれは至純の魂を持つ諸君が、一個の男子、眞の武士として蘇へることを熱望するあまり、この擧に出たのである。
(注)
1 上記の三島由紀夫の「檄」の本文は、主として『多摩湖畔日誌』というサイトに掲載してある「檄文」のコピーの写真により、その他『三島由紀夫全集』第34巻・評論(10)(新潮社、
1976(昭和51)年02月25日(水)発行)所収の本文を参照して記述しました。→ 三島由紀夫「檄」(「檄文」のコピーの写真)
2 文中の漢字は、コピーの写真に一部常用漢字(当用漢字)体になっているものも、旧字体に直して表記しました。(全集の漢字はすべて旧字体になっています)なお、「凛烈」は「凛冽」、「ねじ曲つた」は「ねぢ曲つた」、「治安出動は不用となつた」は「治安出動は不要となつた」、「堺」は「界(又は「境」)」とあるべきところかと思われますが、原文のままにしてあります。(前掲の『全集』には、「ねじ曲つた」だけが「ねぢ曲つた」となっています。
‡2011(平成23)年08月23日(火)確認)
* 全集記載の「檄」と、ここに掲げた「檄」との本文の違いは、「ねじ曲つた」が全集には「ねぢ曲つた」となっている点だけです。
3『全集』の巻末にある「校訂」には、「銘記せよ! 實はこの昭和四十五年十月二十一日といふ日は」の「昭和四十五年」について、<「昭和四十四年」の誤りと思われるが、原文のままとした>とあります。
4 この「檄」について、『全集』巻末の「解題」に、「「檄」と「辭世」は、昭和四十五年十一月二十五日、午後零時十五分、自衛隊市ヶ谷駐屯地、東部方面総監室にての自決に際して遺されたものである」とあります。
5 著作権について:檄文の性質上、資料として掲載することは差し支えないものと判断して、掲載させていただきました。
6 三島由紀夫は、昭和45年(1970)11月25日、楯の会隊長として隊員4名とともに、自衛隊市ヶ谷駐屯地(現在の防衛省本庁)に東部方面総監を訪ね、その部屋で懇談中、突然日本刀を持って総監を監禁、部屋の前のバルコニーで演説してクーデターを促しましたが、自衛隊員は決起せず、約1時間後に割腹自殺を遂げました。享年45。(フリー百科事典『ウィキペディア』による。)
7 三島由紀夫(みしま・ゆきお)=小説家・劇作家。本名、平岡公威(きみたけ)。東京生れ。東大卒。20世紀西欧文学の文体と方法に学んで、秩序と神話を志向、純粋日本原理を模索して自裁。作「仮面の告白」「金閣寺」「豊饒の海」など。(1925-1970) (『広辞苑』第6版による)
三島由紀夫(みしま・ゆきお)=(1925-1970)小説家・劇作家。東京生まれ。本名、平岡公威(きみたけ)。東大卒。絶対者の希求、美的死生観、様式美への憧憬を昇華させて唯美的世界を構築。その傾向はしだいにナショナリズム的色彩を強めた。割腹自殺。著「仮面の告白」「潮騒」「金閣寺」「鹿鳴館」「豊饒の海」など。 (『広辞林』第2版による)
8 三島由紀夫の死をどうとらえるか。それを肯定的にとらえるにせよ、否定的にとらえるにせよ、いずれにしても、自分なりに検証しておく必要があるだろうと思い、資料の一つとして掲載しました。
9 山中湖畔にある『三島由紀夫文学館』のホームページがあります。
10 フリー百科事典『ウィキペディア』に「三島由紀夫」の項があり、三島由紀夫についての詳しい解説が出ています。
11 三島由紀夫に、「私が組織した「楯の會」は、會員が百名にも滿たない、そして武器も持たない、世界で一等小さな軍隊である。毎年補充しながら、百名でとどめておくつもりであるから、私はまづ百人隊長以上に出世することはあるまい」という書き出しの、「楯の會」結成一周年記念パンフレット(昭和44年11月)に掲載された「「楯の會」のこと」という文章があります。これを「檄」を読むときの参考に、資料の一つに入れたいと思いましたが、考えてみると、著作権がまだ切れていないということがあり、結局、資料に加えることを断念しました。関心のある方は、『三島由紀夫全集』第34巻・評論(10)(新潮社、
1976(昭和51)年02月25日(水)発行)などでご覧ください。なお、三島由紀夫が楯の会会員にあてた遺書「楯の会会員たりし諸君へ」という文章がネット上に出ていて、これを読むことができます。
12『四国の山なみ』というサイトに、三島由紀夫が自衛隊市ヶ谷駐屯地で行った演説
「三島由紀夫演説文」が掲載されています。
13 読売新聞文化欄、
2011(平成23)年06月06日(月)の「今に問う言葉」で、文芸評論家の富岡幸一郎氏は、三島由紀夫の『太陽と鉄』(1968年)から「『武』とは花と散ることであり、『文』とは不朽の花を育てることだ」という言葉を引いて、次のように書いておられます。
1970(昭和45)年11月25日(水)、三島由紀夫は市ヶ谷の陸上自衛隊東部方面総監部(当時)で千人の隊員たちを前に演説後、割腹自殺した。自衛隊がアメリカの傭兵(ようへい)である現状から脱却し、名誉ある国軍となるために憲法改正に立ちあがれ、との主張であった。(中略) 死の数年前に著した『太陽と鉄』は、作家の思想を凝縮した文学的遺書であり、戦後のあらゆる価値の転倒した時代にこそ、「文武両道」という古い徳目が復活すべきだと説いている。「武」と「文」という相反する緊張感のなかに、日本人の伝統感覚を追求しようとした三島。「武」が欠落すれば「文」は弛緩(しかん)し腐敗する。その衝撃的な死からすでに40年。日本は何も変わってはいない。
http://sybrma.sakura.ne.jp/348mishima.gekibun.html
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┃ 『池田大作と宮本顕治「創共協定」誕生の舞台裏』 ┃
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2020(令和二)年08月17日(月) 著:佐高信 平凡社新書 951
2020(令和二)年08月14日(金)現在 ベストセラー1位 カテゴリ 平凡社新書
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https://www.amazon.co.jp/dp/4582859518
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動画◆最新情報!「池田大作」の現在とは?Amazon!池田大作と宮本顕治から、佐高信×朝堂院大覚の対談!【実践実学大学】https://youtu.be/eSMKaDWvhGQ
2020(令和二)年08月14日(金) YouTube公開
動画◆数千人とも言われる池田大作の美女愛人と個人情報の関係とは?佐高信×朝堂院大覚の対談!【実践実学大学】https://youtu.be/Jo2_M7l1MWA
2020(令和二)年08月14日(金) YouTube公開
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┃ 『池田大作宮本顕治人生対談』 ┃著:池田大作
┗━━━━━━━━━━━━━━━┛著:宮本顕治
1975(昭和50)年01月01日(水) 毎日新聞社 P.204
1975(昭和50)年01月10日(金) 第2刷発行
¥10,480~¥24,883 ¥257(配送料)
■関心がなければ☆は0、関心があれば資料価値は☆5つ
‡2013(平成25)年08月23日(金) ご隠居
1973(昭和48)年に行なわれたジャーナリスト大森実氏と池田大作氏の週刊現代での「大森実の直撃インタビュー」をきっかけに実現した“ビッグ対談”。対談は
1975(昭和50)年07月12日(土)に、ホテル・ニューオータニの山茶花荘で行なわれた。当時、毎日新聞東京本社編集局長であった五味三勇氏が企画し、1974(昭和49)年の暮れから池田・宮本両氏と折衝し半年以上をかけて実現した対談である。
1975(昭和50)年07月13日(日)付の読売新聞はこの対談に関しての自民党の「衝撃」を伝えた。
1975(昭和50)年07月15日(火)から毎日新聞紙上で、『宮本顕治 池田大作 人生対談』の連載がはじまったが、同日夜、公明党の竹入義勝委員長が池田大作氏と面談した。翌
1975(昭和50)年07月16日(水)には、青木亨副会長が『聖教新聞』に「池田・宮本会談について 人間次元で平和・文化語る」と題する一文を掲載して、対談は「組織的共闘を意味するものではない」「政治抜き」のものであると火消しにつとめた。この時点では創価学会と日本共産党との「十年協定」の存在はまだ伏せられていた。つまりこの対談は「十年協定」公表の緩衝材として位置づけられていたと思われる。対談全体としては生臭さを消したものであるが、各所に興味深い記述もあり、資料性はある。今後、この編が復刻再刊されることはないだろうし、『池田大作全集』に収録されることもないだろう。創価学会や池田大作氏について考えるための資料とはなるが、関心の無いひとにとってはほとんど無用無価値の1冊だろう。
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【目次】巻頭カラー写真
◎平和について
二十年前の出会い/11
入信・入党に機縁/18
ルビコンを渡る/22
レニングラード攻防戦/26
“世界市民”の良心/29
原点としての中堂/33
共存は人類の英知/37
◎組織について
組織の理念と活力/45
真理を確信して/49
“組織嫌い”の風潮/53
組織悪はどうして/57
“人間の論理”に立って/61
組織の主人公に/65
地方の活動を尊重/69
世代の調和を重視/73
若い人材を生かす/77
次代の指導者を待望/81
◎文学について
文学を語ろう/87
『「敗北」の文学』の陰に/90
革命とロマンを/94
文学精神の衰弱/98
人間文化の多様性/102
次代を超える作品/106
自然の美と心/109
國土と民族/114
心に残る『万葉集』/117
現代の誌情/122
◎伝統文化と歴史について
伝統文化の保存を/129
“反戦万葉集”の夢/133
「西洋」と「東洋」/138
人類社会の「前史」/142
変革の歴史と人間/146
偏見なき話合いを/151
愛と良心の基底/155
◎青年と婦人について
現代青年への期待/163
婦人の地位と活動/167
開かれた家庭/171
家庭教育と父母/175
母を悲しませるな/179
◎編集注記/189~200
◎あとがき(毎日新聞東京本社編集局長・五味三勇)/201
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https://www.amazon.co.jp/dp/B000J9HECO
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┃ ノルマルム広場強盗事件 ┃
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‡1973(昭和48)年08月23日(木) 刑務所から仮釈放中だったヤン=エリック・オルソン(Jan-Erik Olsson)は、サブマシンガンで武装し、ストックホルム中心部のノルマルムス広場にあったクレジットバンケン(信用銀行:Kreditbanken)に押し入った[2]。オルソンは、事件直後に駆けつけた警官に発砲し、ひとりの手に軽傷を負わせた[3]。その後オルソンは当初は9人の銀行員を人質に取り、続く警察との交渉によって同日のうちに5人を解放したが、女性3人、男性1人の銀行員を継続して人質として拘束し、銀行内に立てこもった[4]。オルソンは、300万クローネの現金と、オルソンの友人で1966年に起こした銀行強盗の罪で服役中だったクラーク・オロフソン(Clark Olofsson)の解放、そして逃走を認めることを要求した[4]。オロフソンは、16歳の時から、武装強盗や暴行など何度も犯罪に関わっていた人物であった[1]、「スウェーデン史上、最も有名な銀行強盗」とされる人物である[2]。警察はこの要求を呑み、現金を提供し、オロフソンをオルソンに合流させる[2]。また、交渉の結果、逃走用の車が提供されることとなったが、逃走しようとするとしても人質を連れて行くことは許さないということになった[5]。
備考・・・ストックホルム症候群という語句の起源となったことで知られる銀行強盗および人質事件
①1997(平成九)年06月 第415話「人質HOSTAGE」
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https://blog.goo.ne.jp/golgo13togo_duke/e/2bfd7a6ee53197a6179675d5417b45a6
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%83%A0%E5%BA%83%E5%A0%B4%E5%BC%B7%E7%9B%97%E4%BA%8B%E4%BB%B6
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9月16日が「安室奈美恵の日」になる 周囲の盛り上がりに本人は困惑か
2019(令和元)年09月07日(土) 17時00分
沖縄県の宜野湾市観光振興協会が、同県出身の歌手だった安室奈美恵さん(41)が引退した
9月16日を「安室奈美恵の日」として制定する申請を、日本記念日協会に出したことが話題となっている。宜野湾市は安室さんが1995年、初めて県内でライブを行い、引退ライブも行った場所。ファンの間では「聖地」と呼ばれている。琉球新報などによると、安室さんのファンから上がった「記念日を作りたい」という声を受け、同市の観光振興協会が主体となり、
‡8月23日に一般社団法人・日本記念日協会へ登録を申請。安室さん本人も了承していると報じている。今月
2019(令和元)年09月30日(月)に正式決定される見込みだが、引退からちょうど1年となる今月
2019(令和元)年09月16日(月)にも、宜野湾市内で地元新聞社などが主催する記念イベントが行われる。安室さんの楽曲に合わせた花火ショーなどが決定しているという。ただ引退して一般人となっているだけに、安室さん自身は周囲の盛り上がりに困惑している面もあるという。
「『安室奈美恵の日』に関して、本人はファンの思いはうれしく感じつつも、騒がれることに戸惑いを見せている。安室さん自身も“了承している”と伝えられていますが、安室さんサイドは周囲に『安室さんも了承した!』など大げさな表現を控えてほしいとお願いしている」(音楽関係者)現在、安室さんがどこで暮らしているか分からないが、ファンからは「イベントにお忍びで来場するのでは?」という声が上がっている。
「昨年もラストライブを終えた安室さんを送り出すため、花火ショーが開催され、浴衣姿の安室さんがお忍びで訪れた。“もしかしたら今年も”とファンは期待している。早くも歌手として復帰を願う声まで出ていますが、安室さん自身としてはできるだけ“そっとしておいて”という心境のようですね」(同)引退しても「平成の歌姫」の存在感は衰えてないようだ。
https://www.tokyo-sports.co.jp/entame/news/1540821/
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名うてのプレーボーイも逃げ出した安室奈美恵“真の姿”
2017(平成29)年12月30日(土) 11時00分
来年9月をもって芸能界から引退する歌手の安室奈美恵(40)が大みそかの「第68回NHK紅白歌合戦」にお目見えする。紅白出場は2003年以来14年ぶり、生放送での出演なら7年ぶりだけに、当日は日本全国から大きな注目を集めることだろう。10代からミリオンヒットを連発し、安室のファッションをマネする「アムラー現象」まで巻き起こしたカリスマ歌姫は、プライベートでも人を驚かせ続けた。人気絶頂の20歳でTRFのSAM(55)と電撃婚。その後離婚してしまうが、V6の三宅健(38)、ロンドンブーツの田村淳(44)との熱愛が明らかになり、世間の関心を呼んだ。ところが、最近は浮いた話がとんと出てきていない。20代のころと変わらないルックスとスタイルを維持しているのに不思議ではある。そこで取材を進めると、“ネック”は意外なところにあった。淳と親しいお笑い関係者が明かす。
「淳さんによると、とにかく安室は束縛が激しいらしい(笑い)。熱愛が世間に明るみに出たとき、真っ先に連絡があったのは実はSAMさんだったんですよ。そこで淳さんは『安室は大変だよ』と忠告されたそうです」熱愛発覚当時は、まだ付き合い始めということもあり、淳も「へ~」と軽く受け流していたという。ところが、付き合いを深めていくうちに、安室の“真の姿”を知ることになる。
「それはそれはすさまじい束縛の嵐だったそうです。安室が電話した時に出ないと鬼のようなメールが届くらしい(笑い)。『今、どこにいるのか』『これから誰に会うのか』など逐一報告しないと、オカンムリ。どうやら自分が好きになった人はつかまえておきたいみたいですね。それでいて、淳さんが電話すると出なかったり。『SAMさんの言うとおりだった。もうこれ以上付き合うのは無理…』と淳さんは白旗を掲げてしまいました」(同関係者)数々の有名女性芸能人と浮名を流してきた名うてのプレーボーイも、カリスマ歌姫には太刀打ちできなかったというわけだ。もっとも、そういう性格だからこそ、節制して20代の体形を維持し、高いクオリティーのライブパフォーマンスができたのだろう。ところが、である。そんな安室のハートを“ある意味”がっちりつかんでいる男性がいる。X氏だ。もともと制作会社の人間で、安室のライブを取り仕切っていた。その後、安室から絶大な信頼を得て、今では安室のプロデューサー的な立ち位置にいる。芸能関係者の話。
「仕事もプライベートも安室の相談相手になっています。とにかく、何ごともX氏を通さないといけない。なので、2人の恋愛関係を疑う業界関係者も少なくありません。真相はわからないんですが…。ただ、“超親密”なのは確か。当然、安室からの鬼電、鬼LINE、鬼メールはあることでしょう。でも、それを長年こなしている。だとすれば、すさまじい“仕事力”と言えますね」今回の引退にも、X氏からの助言はあったことだろう。いや、むしろ1年間の引退興行をプランニングし、NHKの紅白出演のタイミングなども巧妙に計算していたのではないか。安室は引退後、自身の身の振り方を明かしてはいない。それはX氏しか知らないのかもしれない。
https://www.tokyo-sports.co.jp/entame/872534/
映像◆【解説】ワクチン接種進むも感染拡大なぜ? 専門家「2回接種すれば絶対感染しないということではない」
‡2021(令和二)年08月23日(月)
厳しい感染状況が続く中、ワクチンはどこまで効果を発揮しているのか?
ワクチンに関する疑問をウイルス感染免疫学が専門の近畿大学・宮澤正顯教授に聞きました。
https://www.ktv.jp/news/feature/210823/
球史に残る「大炎上」試合、審判が初めて告白「言い出せなかった誤審」…「10年間ずっと謝りたかった」
2022(令和四)年11月14日(月) 08:18 読売新聞
写真◆当時の状況に図を描きながら説明する男性。丁寧に、真摯に言葉を選び誤審を語った(8月下旬、男性の自宅で)=古和康行撮影c 読売新聞 当時の状況に図を描きながら説明する男性。丁寧に、真摯に言葉を選び誤審を語った(8月下旬、男性の自宅で)=古和康行撮影
高校野球史に残る「大炎上」試合として知られる、2012年の夏の全国高校野球・神奈川県大会1回戦「日大藤沢VS武相」。前代未聞の「サヨナラインフィールドフライ」で幕を閉じ、判定に納得いかない選手らが審判にくってかかったことが波紋を呼んだこの試合で、審判を務めていた男性が読売新聞の取材に応じた。「選手たちに謝罪したい」――。あの炎上事件は、野球を愛する一人の男の人生も変えていた。(デジタル編集部 文・古和康行、写真・秋元和夫)
■「あの試合の真実を……」記者に届いた情報提供■
「記事を読みました。あの試合の真実をお伝えしたい」
‡8月下旬、記者のもとに一通の情報提供が寄せられた。記者はこの夏、「日大藤沢VS武相」で起きた炎上事件を取材し、試合に出場していた選手の今について記事にしていた。情報提供には、その試合で審判を務めていた一人がその後、野球の審判を退いた旨が記されていた。唐突な情報提供に若干、戸惑ったが、文面は極めて丁寧で、審判のその後という話も気になった。情報提供に書かれていた情報をもとに、元審判の男性に連絡を取ると、男性は「名前を出さないなら」との条件で取材に応じてくれた。それからしばらくして、神奈川県内の自宅を訪ねた。「今は審判はやめられたそうですが、あの試合と何か関係があるのでしょうか」。記者が切り出すと、男性はこう打ち明けてくれた。
「あの試合では、(炎上した)武相側に不利な誤審があったんです。積もり積もったフラストレーションが爆発した。試合終了後、彼らにあんな態度をとらせてしまったのは、僕は今も審判の責任だと思っています」
■10年越しに語られる「誤審」■あの試合は、当時の読売新聞神奈川県版でも「1回戦屈指の好カード」と紹介された強豪校同士の試合だった。特に前年の秋季大会で県ベスト4に入っていた武相にとっては、甲子園出場への期待が高まる中で迎えた初戦だった。男性はこの試合で二塁の塁審を担当した。当時34歳。自身も神奈川で白球を追った元高校球児で、高校卒業後も草野球を楽しんでいた野球好き。高校野球の審判も、地元の野球協会の役員だった父や野球仲間にすすめられ、「少しでも後輩たちの役に立てるなら」と始めた。だから、試合前、保土ヶ谷球場の門をくぐるときは、テレビ放送も決まっていたこの好カードの審判ができることに、「大事な試合を任せてもらった」と嬉しさがこみあげていたという。だけど……。高校野球史に語り継がれる“事件”が起きたのは2―2で迎えた九回裏、日大藤沢の攻撃だった。一死満塁のサヨナラのチャンスで日大藤沢のバッターが放った打球が三遊間に上がる。審判がインフィールドフライを宣告し、武相の遊撃手がキャッチした。絶体絶命のピンチを切り抜けるまであと1アウト。武相ナインは守備の確認のためマウンドに集まった。だが、その瞬間、タイムがかかっていないと見た日大藤沢の三塁ランナーが無人となった本塁に突入。勝利を決めるサヨナラの1点を挙げた。信じられない幕切れに、武相ナインは「タイムを取ったはずだ」と猛烈に抗議。試合終了のあいさつではエースが帽子を取らずにベンチに引き返したことなども批判を浴び、ネットで大炎上することとなった。男性が「誤審があった」と指摘したのは、全く別の場面だ。それは1―1の同点で迎えた六回表、武相の攻撃で起きた。この回は、2番からの好打順で先頭打者がライト前ヒットで出塁。続く3番打者のとらえた打球は快音を残し、レフト方向に飛んだ。日大藤沢の左翼手はライナー性の打球を前進して捕球。ボールが地面についたか際どいところだったが、二塁の塁審をしていた男性からは、打球が左翼手の手前でショートバウンドしていたことがはっきりと見えた。男性と似たような角度からボールの行方を追っていた一塁ランナーも同じ判断だったのかもしれない。左翼手の捕球とほぼ同時に、猛然と二塁を目指して走り出した。4番を前にした2連打。武相にとっては、またとない好機が訪れたはずだった。ところが、ヒットを告げるはずの、三塁塁審の両腕がなかなか広がらない。審判のジャッジでは通常、ヒットとセーフはただちに宣告し、アウトは落球する可能性などもあるため、一呼吸置くという。男性には嫌な予感が走った。「まさか」――。
「アウト!」判定はレフトライナーとなり、ボールは左翼手から遊撃手を中継して一塁へ返球された。二塁まで進んでいたランナーは一塁に戻れず、併殺打が完成。武相側の落胆は大きく、判定の確認を求める伝令を審判のもとに送った。
■マスクを脱いだ■審判団はマウンド近くに集まった。重苦しい空気が流れたが、ほかの審判から判定に異を唱える声は上がらなかった。男性も抗弁することなく、審判団は「最も近くにいた三塁塁審の判定通りにしよう」と協議の輪を解いた。
「試合の流れを大きく変えてしまったかもしれない」。サヨナラインフィールドフライは、そんな後悔を抱えたまま迎えた九回に起きた。いま振り返っても、この時のプレーやジャッジにはなんの問題もない。だが、誤審を見て見ぬふりしてしまった男性は、あの時の武相ナインの怒りは、九回のワンプレーだけが原因ではないことは痛いほど分かった。記者はたずねた。「なぜ審判が集まった時に誤審を指摘しなかったんですか」男性は伏し目がちに「若かった……からですかね」とつぶやいた。男性は、試合が終わってからのことをよく覚えている。球場に残っている観客の目から逃げるように駐車場へ帰ったこと。その後の審判の講習会でこの試合がたびたび話題になったこと。先輩の審判員から「間違っていると思っているなら、なぜその時に言えなかったんだ」と試合後に叱責(しっせき)されたこと。
「審判として甲子園の土を踏みたい」。そんな淡い夢を抱いたこともあったが、葛藤に耐えられなくなった。試合の2年後、男性はマスクを脱いだ。「球児のためになっていないんじゃないか」。そんな思いがどうしても頭から離れなかったからだ。大好きだった草野球も数年前にやめた。
■公式スコアにあった男性の名前■取材を終えた後、記者はこの試合の公式スコアを取り寄せた。「審判員」の項目に目を落とすと彼の名前があった。問題のシーンでは、男性が語っていたとおりの併殺打が記録されていた。ネットでもその判定に疑念をもった人々の書き込みが今も残っている。今年3月の春の選抜甲子園では、審判団が「誤審」を認め、謝罪したことが話題となり、高校野球ファンから称賛された。男性は取材した際、そのニュースが「まぶしく見えた」と語っていた。どんな経験を積んだ審判であったとしても、人間が判断する以上、必ずミスは起こる。ビデオ判定も導入されていない高校野球の世界であれば、誤審も試合の一部と割り切るしかないのかもしれない。ただ、これまで誤審について、選手目線でしか考えたことがなかった記者は、男性の話を聞いて、思った。審判も誤審と向き合うことに、悩み、苦しんでいるのではないか。記者はスマホを手に取り、男性に連絡を取った。「今のまま、匿名であなたの話を記事にすることはできなくはありません。ただ、あの試合で全力を尽くした選手たちに謝罪をするのであれば、あなたの名前で、あなたの言葉であの試合のことを語っていただけませんか」
■10年越しの謝罪、そして……■先月下旬、保土ヶ谷球場。事前にやりとりした待ち合わせ場所に、男性――木村純人さん(44)は姿を現した。ここを訪れるのはあの試合以来。「怖くて近寄れなかった」場所だったという。この日は中には入れないと球場から言われていたので、閉ざされた門の周りを歩く。木村さんは球場の見取り図を見ながら、「ここでミーティングをして……」「僕はこの辺に立って打球を見ていて、だから観客席からも見えたんじゃないかなぁ」と、まるで昨日のことのように話した。
「高校野球の審判を始めた時のデビュー戦、今でも覚えているんですよ」。木村さんがポツリと漏らした。それは、小田原球場での一戦だった。三塁の塁審を務め、最初にジャッジした際どい判定。レフト線に飛んだ打球に「フェア!」とコールした瞬間、観客席から大歓声がわき起こった。「あの高揚感って、大人になってからはなかなか感じることがなかった。本当に楽しかったんです。でも、同時に、そういう立場でいることに、気持ちよくなっていたのかもしれません」この日の保土ヶ谷球場は秋風が吹き、少し肌寒かった。それでも、木村さんの顔はわずかに汗ばんでいた。記者から手渡されたスコアに目を落としながら、木村さんはあの試合について、「本当ならやり直したい。そうすれば武相の選手たちのやりきれない感情も、日大藤沢の子の後味の悪さもなかったかもしれないから」と震えるような声で言った。
「10年間、ずっと『悪かった』と謝りたかった。試合後、武相のエースの子が泣き崩れていたじゃないですか。彼は間違いなく、将来有望な選手だった。それがあんなことに……。僕に異を唱える勇気があったら、あの試合は別の結末を迎えていたかもしれない。謝ったからと言って、時を戻せるものではないけれど、ずっと、ずっと謝りたかったんです」木村さんはスコアを丁寧に折りたたみ、小さなバッグに入れた。10年越しの告白を終えて、球場に背を向けた。「記事、よろしくお願いします」。小さく頭を下げて。