過去の今日の出来事etSETOraですヨ(=^◇^=)

2023(令和五)年一月四日(水)の初記事ですヨ(=^◇^=)

 

■猪木映像◆超戦士IN闘強導夢
‡1992(平成四)年01月04日 東京ドーム 第9試合 スペシャルマッチ
 アントニオ猪木 VS 馳 浩
 https://njpwworld.com/p/s_series_00104_1_9
■③?虎仮面映像◆'94BATTLE FIELD IN 闘強導夢
‡1994(平成六)年01月04日 東京ドーム 第5試合 シングルマッチ
 獣神サンダー・ライガー VS タイガーマスク
 https://njpwworld.com/p/s_series_00121_1_5
■猪木映像◆'94BATTLE FIELD IN 闘強導夢
‡1994(平成六)年01月04日 東京ドーム 第11試合 特別試合・シングルマッチ
 アントニオ猪木 VS 天龍源一郎
 https://njpwworld.com/p/s_series_00121_1_11
■猪木映像◆'95闘強導夢BATTLE7
‡1995(平成七)年01月04日 東京ドーム 第8試合 FINAL COUNT DOWN Ⅲ BVD杯・格闘技トーナメント1回戦
 アントニオ猪木 VS ジェラルド・ゴルドー
 https://njpwworld.com/p/s_series_00132_1_8
■猪木映像◆'95闘強導夢BATTLE7
‡1995(平成七)年01月04日 東京ドーム 第12試合 FINAL COUNT DOWN Ⅲ BVD杯・格闘技トーナメント決勝
 アントニオ猪木 VS スティング
 https://njpwworld.com/p/s_series_00132_1_12
■猪木映像◆'95闘強導夢BATTLE7
‡1995(平成七)年01月04日 東京ドーム The first 12 games FINAL COUNT DOWN Ⅲ BVD Cup, Combat tournament final
 Antonio Inoki VS Sting (English Commentary)
 https://njpwworld.com/p/s_series_00132_1_12e
■猪木映像◆96WRESTLING WORLD IN闘強導夢
‡1996(平成八)年01月04日 東京ドーム 第7試合 日刊スポーツ新聞社創立50周年記念特別試合
 INOKI FINAL COUNT DOWN 5th アントニオ猪木 VS ビッグバン・ベイダー
 https://njpwworld.com/p/s_series_00141_1_7
■猪木映像◆97WRESTLING WORLD IN闘強導夢
‡1997(平成九)年01月04日 東京ドーム 第8試合 INOKI FINAL COUNT DOWN 6th
 アントニオ猪木 VS ウィリー・ウィリアムス
 https://njpwworld.com/p/s_series_00148_1_8
■④?虎仮面映像◆WRESTLING WORLD 2003
‡2003(平成15)年01月04日 東京ドーム 第6試合
  金本浩二&獣神サンダー・ライガー&村浜武洋
 vs ヒート&成瀬昌由&タイガーマスク
 https://njpwworld.com/p/s_series_00162_1_6■船木映像◆NJPW 40th anniversary Tour.
 レッスルキングダムⅥ in 東京ドーム
‡2012(平成24)年01月04日 東京ドーム 第4試合 BLUE JUSTICE NEVER DIE
 井上亘 永田裕志vs河野真幸 船木誠勝
 https://njpwworld.com/p/s_series_00188_1_5
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■1995.01.04 橋本真也
「俺がチャンピオンの橋本だ。誰でもかかってこい」
 1.4東京ドームで佐々木健介を下してIWGPを防衛した橋本真也。
 来場していたアントニオ猪木からリング上で固い握手による祝福を受けた橋本が、猪木からの闘魂伝承を意識して叫んだ。「俺がチャンピオンの橋本だ。誰でもかかってこい」
■1999.01.04 小川直也
「新日本プロレスのみなさま、目を覚ましてくださーい」
 東京ドームで対戦した橋本真也に対してセメントマッチをしかけた小川直也が、橋本をKOしたあと、リング上でマイクを持って観客に向かって発した言葉。
 当時小川が所属していたUFOとの対抗戦、セメントマッチの真相など、うやむやのまま抗争は立ち消えになった。
■1999.01.04 長州 力
「これがオマエのやり方か?」“暗黙のルール破りはあってはならない”---これが長州の持論であり、いつでもシュートマッチ辞さずの構えだった猪木との違い。リングサイドに着くとそのままの勢いでカメラマンを思い切り蹴り飛ばしてリングに上がった長州。コーナーポストに座った小川ににじり寄り、「これがオマエのやり方か?」(あるいは、「これがオマエのやりたいことか?」)と声をかける長州は何度も「下りろ、下りろ」と繰り返した。
 1999年1月14日号 週刊ファイト
■1999.01.04 橋本真也
「許さないぞ、アントニオ猪木」
 東京ドームで小川直也から一方的なセメント試合を仕掛けられ、無様な姿を晒してしまった橋本真也。橋本はあくまでプロレスを観客に見せたかった。その試合直後の怒りの会見。
「なにがアントニオ猪木だ、コノヤロー、ホントに。けしかけて、けしかけて。もう小川の目、飛んでるやん。完全に飛んでるやん。絶対許さないよ」
「オラ、後ろで焚きつけているやつ、誰か知らないけど、俺、許さないよ。遂に別れの時が来たよ、ホントに。許さないぞ、アントニオ猪木」
「誰か知らないけど」と一度は言葉を濁してみたものの怒りがおさまらず、「許さないぞ、アントニオ猪木」ときっぱり。「闘魂伝承から一転、遂にアントニオ猪木と決別することになった。アントニオ猪木も新日本プロレスの闘いにこの怒りを求めていた。
■2000.01.04 アントニオ猪木
「道はどんなに険しくても、笑いながら歩こうぜ!」
 正月恒例の1.4東京ドームのリング上からの挨拶の中での名言。のちに最後の闘魂伝承者として藤田和之もこの言葉を使っている。
この日は気合いが入りすぎてしまい、闘魂棒が真っ二つに折れてしまった。この頃、猪木はリング上で挨拶をするたびに教訓めいた名言を語っていた。
■2001.01.04 藤波社長
「我々は殺し合いをしてるんじゃない、◎○※△□+◎■☆α・・・・」
 東京ドームでの橋本と長州の遺恨凄惨マッチ。前年に新日本プロレスを解雇された橋本は再び新日本のリングに上がることになった。対戦相手は、長州力。長州が新日本プロレスへUターンした時から続いている因縁の相手。試合は延々と殴り合い、蹴り合いが続く終わりの無い展開となった。そして放送席で解説を行っていた藤波辰爾(社長)が「これ以上続けたらどちらかが死ぬしかない」と思い、社長権限で試合をストップした。ファンの間で語り継がれる「ドラゴン・ストップ」。
「◎○※△□+◎■☆α・・・・」の部分は一説によれば、「今この2人を失うわけにはいかない。わかって下さい。下がれ、下がれ2人とも!」と言っているらしい。
 https://kissatalk.web.fc2.com/meigen.html


 徒然その137☆<悪魔のキューピー>大西政寛の伝説☆
 2013(平成25)年03月30日(sat) 23:01:36 | ☆格闘家カフェテラス☆
----首を斬らされるもんは、斬られるもんより根性がいるけんのう…。(大西政寛)
 出たーっ、大西政寛です---あの「悪魔のキューピー」です!☆格闘家カフェテラス☆のコーナーをやってく上で、彼を登場させるべきかそうしないでおくべきか、実は僕、ずーっと迷ってました。このコーナーの最初のページで、僕は、あのプロレス全盛時のチャンピオン「ルー・テーズ」を紹介させていただきました。まあ、彼の場合だと文句つけるひとはあんまいないっしょ。で、次は、戦後の伝説の喧嘩士「花形敬」さんにご登場願いまして---えー、彼、ヤクザで格闘家じゃないじゃんよー!?なんて批判も若干ありましたが、僕は、ここを、彼のような天才を「格闘家」という範疇からはじきだしちゃうような、そーんな固くて狭っちいコーナーにはしたくなかったんですよ。たしかに花形さんは一般的にいわれている格闘家というのとはちがう。しかし、そんな表面上の区分の差違がなんです? 梶原一騎にせよ、「刃牙」の作者の板垣恵介にせよ、いまだに(梶原氏は既に故人ですが)あの花形伝説を夢中になって追っかけているではないですか。後世のひとにこれほどの魅力が覚えさせるほどの男が、軟弱な、要領がいいだけの男であったはずがありません。とびきりの格闘士であったから、その刃物のように鋭い独自の光芒が、僕等をこれほどまでに魅きつけるのです。まあ花形さんの場合、ほんとに「喧嘩の天才」という形容がふさわしかった、肉体的にも精神的にも超スペシャルな男であったわけなんですが、あっちの業界はさすがに人材豊富です、花形さんとはべつのずーっと西の方角で、それとほとんど同時代---より正確にいえば、このひとはあの花形敬より七つ年上ですか---男を売って商売していらした凄まじい男はんがいらっしゃったんですよ。それが1923年(大正12年)、広島の小坪に生を受けた、大西政寛そのひとだったのです---。彼がこれほど有名になったのは、もちろん、あの東映映画「仁義なき闘い」において、主人公の菅原文太が兄貴分と慕う若杉寛(これは、梅宮辰夫が演じた)のお蔭でせう。あれのせいで「悪魔のキューピー」は、あそこまで有名になったわけ。それは、まあ分かりますよね? でも、このページ冒頭で初めて彼の実写真に触れた方は、
----うわ、映画のイカツいいかにもヤクザの梅宮辰夫より、本物のほうがなんか怖えゾ…。と思うかもしれない。そう思ったとしたら、貴方の勘はなかなか鋭い。そうとは感じれなかった方も、よーく目をこらしてみれば、きっとそれは感知できます。この写真の男の瞳は、たしかに、なんともいいようのない闇に満ちている。では、その闇の種類とはなにか? なぜ、彼の瞳は、そのような闇を、孕むようになったのか?彼のことをよくご存知の方にはいまさら無用でせうが、大西政寛ビギナーの方もなかにはいらっしゃるでしょうから、そーいった方々のために、まずは大西さんのプロフィール紹介といきませうか。ただ、当時の事件やら喧嘩やらをいろいろと記述しても、当時の世相と相手との関係や背景とかをいちいち説明しないと、大西初体験の方はなんのこっちゃさっぱり分からんだろうと思いますので、まず、僕なりにかいつまんでまとめた以下の<大西理解のための箇条書き文書>にざっと目を通していただけたら、と思います。
◆「悪魔のキューピー」理解のための箇条書きクロッキー◆
1.1923年(大正12年)広島の小坪にて出生。裕福な商店の生まれだったが、大西2才のとき、父がモルヒネ中毒で他界。母は父宅を追われ、以降祖母のもとに引き取られて育つ。その渦中、近隣の子らに父の中毒ぶりをからかわれ、いじめ、喧嘩を多く経験する。
2.で、ここが非常に特殊だと僕は思うんですが、大西は、小学校に上がっても字を覚えようとしなかったんです。これは、ちょっと凄い。子供って皆がやってると、つい付和雷同しちゃうところがあるじゃないですか。でも、大西は、流されなかった。餓鬼のくせに、授業を聴きもせず、教室では絵ばかり画いていたらしい。毎年の絵画コンクールでも優勝して、結構才能はあったようです。しかし、大西が凄いのは、とうとう字を覚えないまま、高等小学校まで進んじゃったってとこ---これは、奇妙だと思いますね。このひと、妥協っていうのが、まったくないのよ。覚えないと決めたら、もう覚えない。このなんともいいようのない、エネルギッシュな生来の鬱屈…。煮えたぎり、出口を求めていた噴火寸前の「それ」が、あるとき、ふいに爆発します。きっかけは高等小学校の教師の、心ないからかいのひとことでした。
----おまえは親父といっしょの脳病院で絵の先生にでもなるんか? じゃけん、先生は字も書かにゃならん…。その瞬間、大西はキレます。後年の大西は、怒ると眉間が縦に立つ、といわれていました。このときもそうなった---眉間のあいだに縦皺が走り、小学生の大西は、すかさず担任の教師に文鎮で殴りかかり、あっという間に3針も縫う怪我を負わせます…。ちなみに、この時代の教師暴行をいまの時代と同じに考えてはなりません。なにせ、教師に手をあげるなんて、超・考えられない戦前ニッポンのことですから。大西は当然、即日退学処分となって、カシメ職人の若衆の道に進むことになります…。(カシメというのは、チームを組んで軍艦に焼きたてのネジを打ちこむという、いまでいう鳶をさらにトッポクしたような職業の総称です。カシメは、相当の稼ぎになって、金遣いも皆派手で、気の荒さでも有名だったといいます。たとえば、「奴はカシメだから喧嘩は売るな」みたいな言説が常に囁かれていたらしい)その後もちょくちょく事件を起こしまして---ただ、そのなかでは、やはり……
3.あの「海軍軍人事件」に触れねばなりますまい…。大西16才の夏、大西が広の食堂でビールを飲んでいると、いかにもたくましい、大柄で高圧的な海軍軍人に咎められます。
----おめえのような餓鬼は、まだビールなぞ飲むには早ぇ…!みたいなことを、たぶんいわれたのでせう。まともにいったら敵わないと見た少年の大西は、一端は引きさがります。しかし、すぐ隣りの商店の台所に押し入って、そこから刺身包丁を握りこむと、あっというまに例の食堂へと引きかえし---件の軍人の腹をいきなり刺し、あまつさえ、その軍人の片耳をスパッと切り落としてしまうのです。この事件で大西の名は高まり、まだ若年の彼が呉の通りを着流しで闊歩しても、文句をつける人間はまったくいなくなったといいます…。
4.有名になった大西は、地元の土岡組とも接点ができはじめるのですが、ここで兵役となり、中国戦線に送られます。この時期の大西の詳細は、僕も非常に気になるのですが、謎に包まれていて、まったくのこと分かっておりません。大西は帰国後も、ほとんど戦争の話はしなかったそうです。しかし、ときどき、気が向いたときだけ、母のすずよにこう、
----お母ちゃんのう、戦争いうたらまったく哀れなもんじゃ。行軍の最中にひと足でも遅れると、もう敵に捕まるか、はぐれて野垂れ死にするだけじゃけん。軍隊じゃのう、小便1丁糞8丁いうて、用足ししとるとそれだけ遅れるんじゃ。ほいじゃけん、ピーピーでも道端にしゃがみこんだらしまいじゃけん、ズボンの尻あけっぱなしで、垂れ流しで歩くんじゃ。そうなると弱いもんからばたばた死んでいく。それを合掌ひとつして、近くの叢に放りこむんじゃ。普段はのう、戦友じゃ兄弟じゃいうても、そうなったら石コロじゃけん、石コロがゴロゴロ、ゴロゴロと行軍しとるようなもんじゃ…。
(本堂淳一郎「広島ヤクザ伝<悪魔のキューピー>大西政寛と<殺人鬼>山上光治の生涯:幻冬舎アウトロー文庫より)
 ほかにも大西に中国での経験を問うたひとはいたようです。あんたは中国で中国人捕虜の首をいっぱい斬ったとかいわれてるが、あの噂は本当か、と問われたとき、大西はにやっと笑ってこう漏らしたそうです。
----おお、首を斬るもんは、斬られるもんより根性がいるけんのう…。大西は、中国戦線に都合4年いたそうです。兵役1年で1等兵になるのが、この時代の通例だったのですが、大西は、どういうわけか帰国するまで最下の2等兵のままでした。なにか、あったんでせねえ、恐らく…。あの気性ですもの、上官を殴ったとか、刺したとか---詳細は一切分かりませんが…。
5.そして、昭和20年の敗戦です。大西も戦後の日本、原爆の投下されたあとのあのヒロシマに帰還して、シャバでの暮らしを再開します。むろんのこと、世相は混乱して、荒んでいます。この荒涼とした「戦後」のなかで、中国の戦線で数えきれないほどの虚無をその瞳に蓄積してきた大西が、本格的に「爆発」しはじめるのです。戦後の大西のもっともインパクトのある喧嘩は、なんといってもあの盆踊り事件でせう。
 1946(昭和21)年08月14日(水) 昭和21年8月の14日、阿賀や広で戦後初めての盆踊りがひらかれたのです。大西は、このころ、地元の土岡組に所属していたんですね。しかし、当時の世相です、地元の土岡組に反旗を掲げる、愚連隊のような組織は、いっぱいあったんです。そんな反対勢力のなかで、もっとも大きな規模を誇っていたのが、桑原秀夫の率いる、桑原組という組織でした。
----岡土がなんぼのもんじゃい、いつでも相手になるど。といったような、いわゆるブイブイですね。その宵も大西をはじめとする面々は、組の事務所で、この桑原組の奴等を締めにゃならん、と相談していたそうです。で、ひさしぶりの華やかな祭りの会場で、この大西たちが、桑原組の小原馨を見つけるわけです。大西たち5人は、小原を捕らえ、会場隅の暗がりへと連れていきます。ここでの大西が、なんとも凄まじい。
----最近ごちゃごちゃうるさいんじゃ。馨もいうとる口じゃろう。桑原なら殺るところじゃけん、おまえなら腕一本でええわい。馨、覚悟せい…。そして、隠しもったポン刃を振りあげるやいなや、
----馨、許せい!と小原馨の左腕を斬り落としてしまうのです。悲鳴をあげて崩れ落ちる小原---。すると、その声を聴きつけて、小原の兄弟分である磯本隆行がそこに駆けつけてきます。大西は、磯本も小原とおなじように手下に捕まえさせておいて、
----許せい…!小原と同様、磯本の左腕も、瞬時のうちに斬り落としてしまいます。あの童顔の眉間が縦に立った、「悪魔のキューピー」そのものの修羅顔になって…。
6.この事件の噂は、ひと晩で呉の町中を駆けまわりました。「悪魔のキューピー」という仇名は、そのときについたものです。もう、こうなると、大西は、別格のスターのようなもン。誰ひとり逆らわない、そりゃあそうです、なにせ歩く爆弾みたいな男なんですから、彼は。賭場にいってイカサマ札を大西が使う、それを見咎めて誰かが、
----うんにゃ、その胴落とせい…。といったとする。すると、大西の眉間がすかさず縦に立つわけです。
----あん? なんちゅうた? もう一度ゆうてみい…。いったもんはもう半殺しです。火鉢の串で殴るわ蹴るわのやり放題。誰もそれをとめられない。そうして、ほどなく大西は、呉の町を制覇するんですね。あらゆる権威の崩壊した呉の町で、いかなる権力にも従わず、自分の意思を貫く大西は、一種のアンチヒーローとして祭りあげられることになります。なんでも巷では「むかしの仁吉、昭和の大西まあちゃん」なんて囃歌が唄われたり、巡査までが「おなじ遊ぶなら、まあちゃんみたいになりなさい」といったというんですから、当時の大西がいかにビッグネームだったか、時代も環境もちがう僕等にも想像できようというものです。ここまでくると一種の熱病ですよね、ええ、大西は、まさに「戦後」という時代が生んだ熱病のような男だったんです…。
7.大西は、この盆踊り事件では、初犯ということもあって、わりとすぐに釈放となりました。しかし、その保釈中に、またもや事件を起こしちゃう。規則と拘束の巣である吉浦拘置所のなかで、縛られることが大嫌いな大西は、またしても鬱屈していきます。
----なあ、美能よ、わしは出たいんじゃがのう…。先に服役していた弟分の美能幸三(のちの「仁義なき闘い」の著者)にそう呼びかけても、むろんのとこ一介の囚人にすぎない美能にどうこうできるはずがありません。鬱屈の高じた大西は、やがて腹を決めます。その決め方というのが、なんとも大西流でまたもや凄まじい。
----おい、わし、今日出るけんの。
----保釈が、決まったのかいの?
----とにかくわしは先に出とるけん、シャバで待ってるからの…。
----……? いぶかる美能をあとに、大西は、拘置所で散髪係をしている男の部屋に向かうやいなや、
----おい、剃刀貸せい…。そして、どっかりとあぐらをかいて腹を出して、いきなり手にしたその剃刀でハラキリを敢行したというのです。半端じゃない深さ、腹の皮から腸が塊になって飛びだして、大西は、それを両手で抱えたまま病院まで歩いた、ということです。
----必死で抱えとったけん、重かった。しかし、腸っちゅうのは、思ったより重たいもんじゃのう…。なんという濃ゆいパトスの力か…。まったくもって常人じゃない、かの花形さんと通じる不気味な異種の力を、僕はこのエピソードに強く感じます。ここまで彼のエピソードを聴いたうえで、それでも俺は彼に喧嘩を売りたい、という喧嘩自慢がいたら、僕は、そのひとのことを偉い、と思う。僕は、とてもダメ…。だって、彼、一種の「天才」だもん、喧嘩を売るどころか、ファンになっちゃうよ。もちろん、重症の大西は即時釈放となり、大西は自分の言葉の通り、シャバにもどれることにあいなります---。
8.しかし、シャバにもどってからの大西の生きざまには、まさに死に急いでいるような趣きがありました。大西は、土岡組のライバルの山村組の若頭に引き抜かれ、弟分と可愛がっていた羽谷守之をはじめ、かつての仲間や舎弟たちと対立していくことになります。その自身の「裏切り」に鬱屈したのか、自身の焦燥の具合と比例するが如く、大西の生来の凶暴性は、さらに顕著に発揮されていきます。昭和24年の11月には、福山競馬で、八百長のいざこざから騎手を半殺しにして指名手配。
‡1950(昭和25)年01月04日(水) 翌年の1月4日には、妻と歩いているところを冷やかした、大西と名乗る男を銃撃して射殺。
 1950(昭和25)年01月18日(水) その月の18日に、呉の岩城邸に学生服を着て潜伏しているところを警察隊に踏みこまれ、大西は、警官ふたりを応戦して射殺したものの、背後から撃たれ即死するのです。享年27才---一代の阿修羅の生涯が、ここに完結しました…。
  ×  ×   ×
 しかし、まあ、なんていうんでせうかねえ---。僕は、ここまで書いて、あの安藤昇さんの親分筋にあたる「愚連隊の元祖」万年東一氏のことをつい思いだしちゃいました。彼が、凄いことをいっているんですよ。
----命を投げだしてくる奴に、命を守ろうとしてる奴は、絶対に勝てねえ…。
 僕は、この言葉は真理だ、と思う。万年さんは映画「兵隊やくざ」のモデルになったひと---中国での戦争も,愚連隊同士の出入りも殺し合いも腐るほど経験している、いわばその道の超・オーソリティーです。その彼の言葉の通り、男同士のふたりが、いざ鎌倉というサイアク事態に陥った場合、僕は、半端な技術なんてまるごと吹き飛んじゃう、と思うんですよ。ルー・テーズが、ダニー・ホッジについて、「喧嘩なら自分よりホッジのほうが強い」といったのは、恐らくそういう意味でせう。喧嘩の王者・力道山が、あの花形敬を恐れた理由も、たぶん「それ」でせう。技術、体力---といったものが絶対の指針にならない、そういった不安定極まる「場」が、僕は、いわゆる喧嘩の空間というモノだと思うんだなあ、要するに。それ考えると、「最強」っていったい何なんだろうな? と、ふしぎになりますね。大西さんは、格闘技的にいうなら一介の「素人」です。打撃の基本のワンツーも、フェイントのバリエーションもたぶんほとんど知らないし、関節技なんてしたこともないと思う。でもねえ、僕は、そんな彼が喧嘩に弱いとは、どうしても思えないんですよ。格闘技でかなりの域までいってるひとは、僕がそんな風にいうと笑うかもしれない。けどねえ、イーダちゃんは、かの「悪魔のキューピー」大西政寛氏を、花形さんやホッジなんかとも張れる、最強のファイターのひとりであった、と考えているんです。そうして、いまもって、その考えはまったく変わっておりません…。m(_ _)m
 (注:この記事は、幻冬舎の本堂淳一郎氏の著作「悪魔のキューピー」から多くを拠っています。興味のある方は、そちらを参考にして下さいますように)
 https://blog.goo.ne.jp/iidatyann/e/3e85f080116e339259e8e5baee261c85
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 腹を刺す、耳を削ぎ落とす、腕は根元から切断する…呉で最も恐れられたヤクザの“狂気”に満ちた生涯
 2021(令和三)年03月15日(月) 11:12『文春オンライン』鈴木智彦
 人は見かけによらぬもの。そんなことわざを証明するかのような人物が昭和の呉に実在した。本名、大西政寛。別名、悪魔のキューピー。華奢な体躯にベビーフェイス。声色も優しく、物腰もまた静か。それでありながら、一度頭に血が上ると誰も手が付けられないほどの凶暴性を持ち、呉で最も恐れられたヤクザとして名を馳せた。ここでは、ヤクザについての著書を多数出版しているジャーナリスト鈴木智彦氏の著書『 昭和のヤバいヤクザ 』(講談社+α文庫)を引用し、“悪魔のキューピー”こと大西政寛の生涯を紹介。『仁義なき闘い』の登場人物である若杉寛のモデルにもなった“ヤバいヤクザ”は一体どんな人生を送っていたのだろうか。(全2回の2回目/ 前編 を読む)
■呉でもっともヤバいヤクザ■予測するのは不可能だった。この男には危険な匂いがまったくないのだ。腕に覚えのある強者ほど、このトラップにはまる。勝ち目のある人間をターゲットにするのは、喧嘩師の経験則だからである。いったい何人のチンピラ、愚連隊、ヤクザがこの罠にはまり、踏みつぶされたことか。華奢な体躯にベビーフェイス。声色も優しく、物腰もまた静かだった。笑うとなんともいえない親しみがあって、まるで純粋無垢な子供のようにも見える。だから、なにも知らないチンピラにとっては格好のカモにしか見えない。知らぬが仏とはまさにこのことだ。
「兄ちゃんよう、どこ行くんかのう」ニヤニヤ笑いながら、坊やを取り囲み声をかけた。その瞬間、穏やかな菩薩が阿修羅へと変わった。
「いまなんて言ったんない」眉間にしわが寄り、目尻がピクピクと痙攣した。さっきとはまるで別人の形相で、チンピラたちにも動揺が走った。「おやっ」とレーダーが反応する。しかしもう遅い。こうなれば誰もこの男を止めることはできないのだ。無知は自分の血で贖う。それが暴力社会のルールである。まともな会話を交わす間もなく、チンピラたちは血の海に沈んだ。何事もなかったように阿修羅は菩薩へと戻った。いつしか、この危険人物は「悪魔のキューピー」と呼ばれるようになった。彼の名は大西政寛。戦後の広島・呉でもっともヤバいと言われたヤクザである。暴力を信奉するヤクザ社会では、見るからにヤバい人間はそうヤバくなかったりすることが多い。抗争の際、たった一人で敵の事務所に乗り込んでいくような強者は、きまって普段大人しく物静かな若い衆だ。また暴力的な伝説を持つ親分たちをみても、体格に恵まれた人物はほとんどいない。命を懸けた殺し合いは、決められたルールの中で戦う格闘技とは似て非なるもの。勝負の明暗を分けるのは、腕力ではなく胆力なのである。
  ⇒ 次ページは:無常観と生命の軽視
■無常観と生命の軽視■大西はヤクザになる以前から凶暴だった。高等小学校では教師を文鎮で殴りつけ、即日退学処分。職人となってからも、多くの暴力事件を起こしている。なかでも16歳の時に呉市広の食堂で起こした事件は地元の不良たちを震撼させた。軍人と諍いとなった大西は刺身包丁で腹部を刺したのち、相手の耳をそぎ落としてしまうのである。ヤクザ組織の入社人事は堅気の会社の基準を180度ひっくり返したものだ。過去の事件は、それが暴力的であればあるほど輝かしい経歴になる。大西はこの事件であっという間にシード選手となった。ドラフト会議では常に1位指名であり、彼を欲しがる組織はいくらでもあった。大西を獲得したのは、呉の土岡組である。山陽道の博徒社会では、「西の籠寅(現合田一家)か東の土岡」と言われ、大西が進むには順当な進路といえた。しかし、日本は戦争に突入、大西もまた中国戦線に送られ、大物ルーキーの活躍はしばらくお預けとなった。戦争はこのルーキーをさらに磨き上げたと言ってよかった。一説によれば、大西が切り捨てた敵兵は二桁を軽く超すと言われる。殺人を正当化する戦場という異常な空間が、大西の凶暴性を加速させたのだ。処刑も決まって大西の役目だった。嫌な役目を仲間にさせたくないという大西流の思いやりである。捕虜は迫り来る死を悟り必死に抵抗した。
「ええか、苦しまんよう一発であの世に送ってやるけん」言葉など分かるはずもないが、大西は必ずそう声をかけ、それを合図に日本刀を振り下ろした。捕虜の首が飛び、大動脈から噴水のように血しぶきが噴出した姿を見て、大西の心に無常観と生命の軽視が生まれていった。殺してもなにも感じない。まさに異常な心理である。殺戮を繰り返したベトナムの帰還兵が心の病を認められるなら、大西とて同様だった。ただこの時代にはセラピーなどという気の利いた言葉も、トラウマという観念もない。原因は顧みられず、大西は殺人鬼と片づけられただけだ。
  ⇒ 次ページは:人の命などまるで虫と同じ感覚
■人の命などまるで虫と同じ感覚■
 復員後、土岡組に戻った大西はその凶暴性を存分に発揮した。他者の命も、そして自分自身の命も鴻毛(こうもう)の軽きとなす。人の命などまるで虫と同じ感覚だから、死にたくなければ逃げるしかなかった。抜けば刺す。構えれば撃つ。そこには駆け引きもブラフもまったくないのである。時に無鉄砲な人間が勝負を挑めば、その度にひどく凶暴なやり方で徹底的に打ち据えた。映画館の警護で行った不良狩りでは、同じ土岡組の人間すらその残忍性に肝を冷やした。
■躊躇なく日本刀を振り下ろして腕を根元から切断■大西が土岡組の前線指揮官となったのは当然だった。当時の呉では、土岡組と小原組・山村組・海生組の三派連合が裏社会の覇権を巡って激しく対立している。中でも小原組は海生組の援助を受け意気軒昂であり、同じ阿賀を本拠として、なにかと目障りな存在だ。さなぎは羽化する前に駆除してしまえば労力も少ない。先制攻撃は大西が仕掛けた。
 1946(昭和21)年08月14日(水)、盆踊りの夜、「行くど」と叫んだ大西は土岡組の土岡正三親分とともに、祭りの雑踏に飛び出していった。祭りは不良のステージだ。肩で風を切って歩く小原組親分小原馨はすぐに見つかった。裏の畑に連行し威圧するが、小原はそれぐらいでビビる相手ではない。
「馨、観念せいや」大西は処刑される捕虜に引導を渡すがごとくそうつぶやくと、ためらいなく日本刀を振り下ろした。小原の左腕は根本から切断され、地面で芋虫のようにのたうった。さらに小原の舎弟磯本隆行が急を知って駆け付けると、大西は磯本の右腕を切り落とした。このくらいやらなければ、呉のヤクザ社会では脅しにはならないのである。
■狂犬のリスク■小原組に加えられた攻撃に震撼した三派連合は、大西との直接対決を避け、懐柔作戦へと切り替えた。だが、大西には致命的な欠点があった。邪魔者は暴力で排除する。まるで誰彼なく噛み付く狂犬と変わらなかった。ヤクザの暴力行為は後の清算を考え十分な計算がなされるが、大西にはそれができない。だから大西はヤクザとしても不適格者であり、正式な組織の人間とするのは大きなリスクが伴うのだ。三派連合としては、籠絡した大西に土岡博を殺害させ、あとは使い捨てる。それがベストのシナリオだった。やられたらやり返すのがヤクザの論理だが、腕をもぎ取られた小原には沈黙してもらうしかない。懐柔は世故に長けた山村組山村辰雄組長が担当した。山村組長は大西が土岡正三と賭場の上がりで揉めていることを聞くと、すぐさま接触を開始する。心の隙にうまくつけ込んでいく。他人の女を奪うやり方と同じである。大西は見事にこの落とし穴にはまった。小原組の内紛を助け、殺人の手助けすら行ったのだから、三派連合は見事な役者だ。死と隣り合わせた瞬間に居合わせると、人間の親密度は急激に深まる。この時点で大西はもはや、心情的には土岡組の人間ではなかったかもしれない。
  ⇒ 次ページは:三派連合も大西に見切りをつけることに…
■三派連合も大西に見切りをつけることに…■将を射んとせばまず馬から。山村組長は女房同士を仲良くさせ、それをきっかけに大西の面倒をみるようになった。ほどなくして山村組長は大西の陥落に成功。二人は土岡組長の暗殺を謀議する。実行犯として白羽の矢が立ったのは山村組の美能幸三、言わずと知れた『仁義なき戦い』の主人公である。美能はたった一人の兄貴分に実行犯をやらすわけにはいかないと実行犯を買ってでたのである。前述のとおり、
 1949(昭和24)年09月27日(火)、大西愛用の32口径モーゼル拳銃を手渡された美能幸三は、広島市猿猴橋の路上で土岡博と河面清志を襲撃した。病院に運ばれた土岡博は意識不明の重体となったが命は取り留めた。失敗だが、これ以上大西に関わればなにをしでかすかわからない。三派連合はもはや大西に見切りをつけた。黒い空気が呉に流れた。
‡1950(昭和25)年01月04日(水)、妻と一緒に呉の本通りを歩いていた大西は、些細なことから人夫と喧嘩になった。いくつもの指名手配を受けていた自覚からさすがに自制心が働いたが、人夫が大西と名乗ったことで起爆装置のスイッチがはいった。
「わしの名を騙るんかい」大西は人夫を神社に呼び出し、迷うことなく頭部を撃ち抜いた。たまたま同姓だったことが双方の悲劇だった。
■あっけない最期■警察は威信を懸けて殺人鬼の捜索に乗り出した。匿名の電話で山村組顧問の岩城義一宅に潜伏しているとの情報をつかみ、大捜査網が敷かれた。
 1950(昭和25)年01月18日(水)午前3時、警察は一気に岩城宅に突入、大西の姿を探した。そのうち一人の警部が盛り上がった布団を見つけた。おそるおそるゆっくり剥いだ。
「死ねや」静寂に不気味な声が響く。銃口がまばゆい光を放った。さらに引き金を引こうとする大西。逮捕は無理と判断した警察は大西を射殺した。いったい誰がチンコロしたのか――それは謎ということにしておこう。ただ、その後大西の実母が山村組長と談判し、莫大な金を手にしたことだけは記しておきたい。
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◎そりゃ恐れられるだろう 何しろ「ネジが足りない」人なんだから ゆるんでるなら締め直せばいいんだろうが、もともとないネジを締め直すことはできない 常識とか理性とか、人として当たり前にもってるモノがないのはもはや動物と一緒なんだから、人間が恐れるのも当然 まさか文春が他人の浮気話だけじゃなく、シートンに続く動物記を始めるとは思わなかった
◎でも戦争を経験して戦場では人を殺すことで賞賛され、いつ自分が死ぬかもわからない。そんな時から急に今度は暴力はダメと言われても、どっかしらおかしい人は出てきちゃうだろうね。時代背景を考えると、今の価値観とは少し違ってくるでしょう。
◎そもそも戦場で捕虜を勝手に処刑するのはアカンのやけど、記録に残っていないこんなのはたくさんあったんやろね。
◎日本って今も昔も平和やなーってつくづく思いました。喧嘩が多い国は平和な国。危ない国ってすぐピストル出てくるしすぐ抗争に発展する。
◎「シートンに続く動物記」うまい!思わずワロタwシートン動物記に出てくる動物でも「オオカミ王ロボ」の高貴さ,剛毅はそこらへんの人間でも足元に及ばないと思います。この記事に出てくる二足歩行の動物にはそんなものはないでしょう。
◎この手のヤクザ実録みたいなのは今の時代に合いませんよ。
◎今の時代だってそういう事件を起こす奴はたまにいるやん 一定数いるんだよ ただのサイコ野郎がヤクザになっただけ
◎仁義なき戦いでも描かれていましたね、確かに写真で見る限り可愛い子供みたいでしたね、恐らく原因は色々あったでしょうが今で言う、サイコパスではなかったのかな?
◎自分も一瞬そう思ったけどサイコパスならもっと計算が出来ると思う。
◎若杉のアニキは「戦争しちゃいけんのです」みたいなことを言う常識人だったけど、モデルはかなりクレイジーだったのね
◎ヒロポンでも喰らってたんでしょう。ヤー公を持ち上げたらダメですよ。
◎モデルなった人物、別名で呼ばれる伝説の人 まるで何かの新興宗教の教祖の話の様に、崇め奉ってますがそれで良いのでしょうか?偉人では無いですよね!
◎「ダークナイト」のジョーカーみたいに、ダークヒーローに対する憧れっていうのはあるものだよ。ダースベイダーもそうだし、ラオウだって悪役だけど人気だしね。
◎洋の東西を問わずギャングスターは昔から存在するのですよ。モロッコの辰、ボンノ、夜桜銀次など、、アルカポネ、ラッキールチアノ、バグジーシーゲル、他にも沢山。。
◎其どころか呉市議会がヤクザを一本に纏めたってwikiで有る 今じゃ暴対法って言ってるのにね
◎中二病の頃は誰だって悪に憧れたでしょ?または、あの頃は良かったみたいな懐古的なやつ。
◎夕刻の士 戦国時代なら英雄やろけどな。
◎夕刻の士さん
>戦国時代なら英雄やろけどな 
チャップリンの言葉でも有る 正解な言い回しは忘れましたが 1人殺せば殺人鬼だが数万人殺せば英雄だと
◎彼のような人格は生まれ持ってのものなのか、育ちなのか、障害なのかは分からないけど、現代でも稀に猟奇殺人を犯すような人も現れる。また、外国では金、宗教の為なら躊躇わず人を殺す事も正義となっているような国もある。様々な要因があるのだろうと感じる。
◎一番最初の仁義なき戦いで、梅宮辰夫が大西がモデルの役をやってたな。最初の方でいきなり腕ぶった斬るシーンみてこの時代のやばさと今の時代に生まれた良かったと実感したよ。
◎今じゃ反者との付き合い云々って言われてるのに当時はモデルに成ったヤクザが裏の試写会で俺の出番が多い少なく作れる言ってたしねその内にwikiで見たら呉市議会がヤクザを一本に纏めって有るし社会もヤクザに凭れてたんだよね
◎関係ないけど、古代の法律もない時代はヤクザどころじゃなく血生臭いだろうな。追い剥ぎや力勝負。鬼の住まう時代。
◎M’s | 大西政寛の「狂気」は尋常ではなかったようだね。極限の戦争体験が彼をそうさせたのか、あるいは多少脳に障害があったのではないかとも言われている。他者には容赦ない大西だが、波谷守之だけは可愛がっていたことも知られている。時代背景もあるとはいえ、「悪魔のキューピー」の生き様は凄まじ過ぎる。
◎抗争から75年、映画化からでも、もうすぐ50年を迎える。テレビのバラエティーでもテーマ曲は今でも頻繁に効果音として使われてる。広島(呉)の繁華街のイメージは恐いってのが払拭されないのはテーマ曲の使われ方なのではないかと思った。
◎昭和50年代の広島に行ったことがあるけれど、繁華街でパンチパーマで色付きサングラスのいかにもそのスジのおじさんがそこらじゅうにウロウロしてるのでびっくりした記憶があるよ。
◎もっとも、その頃は広島カープも山本浩次に衣笠に、高橋慶彦がいて江夏豊までいたから迫力が並大抵ではなかったけれど。
◎芸能界で言うと沢田研二さんとか南こうせつさんがこの系統にあたるアイドル歌手だとかフォーク歌手だからどうせ弱虫なんだろうと舐めてかかって喧嘩をふっかけてノサれた人が多数ショーケンとかクールス、キャロルなんかは見た目も不良ぽくて素行も悪かったが肝心のケンカは弱かった本当にケンカの強い人はそれっぽくないというけど、まあ中にはそういう人も居るって程度で実際は相手の値踏みに失敗して恥をかく不良は多かった安岡力也とか室田日出男とかわかりやすい人ばかりなら苦労しない
◎広能が最初に鉄砲玉に行ったのは、そのような経緯だったんだな。いかんせん映画を観たのが昔過ぎて記憶が定かではないけれど、ジャッキーチェンやブルースリーのカンフー映画と同じく、男の子には多大な影響を与えた映画でもある。まぁ悪い方の影響が強いのでテレビでは全然放送してなかった。
◎この類の記事を読むと、ただ自分自身を制御できない子供にしか思えない。もちろん、暴力は恐ろしいが、人間なんだから、まずは言葉を使わないとと思う。もし、こんなやつだらけなら、戦争だらけなんだろうな。だから、抗争ばかりあるのか。我慢できない子供がそのまま大人になり暴力を身に着けたようなものか
 https://news.yahoo.co.jp/articles/2a859212b4f629245938e2a1b4f2a8b2a91bceb7


 まずいぞ。一蘭のラーメン
‡2018(平成30)年01月04日(木) 23:06:45 FOOD&DRINK
 あの店の●●は絶品。この店の□□は美味しくて最高!SNSやインスタには連日いろんなグルメ・グルマンたちから情報がアップされてる。ぐるなびや食べログ、ミシュランだろうがその他グルメガイドを全く信用していなくて、行き当たりばったりで店に入る俺もたまにはUPする。でもさ、美味しいのは当たり前だと思ってるから余程のことがないとこのブログでも書いてない。逆にクソまずいと書きたくなるから不思議だ。ちょっと遡るが昨年末の大晦日の話。用事が立て込んで阪急百貨店に行けたのは閉店間際の18:00ギリギリ。雑煮出汁用の鶏の皮とガラは前日に仕入れてたんだけど、他にも買うものがあったのを思い出したので行った。残念ながらお目当のものはなく、しかなく諦める。白銀っていう山口県の蒲鉾だったのだけどね。先日買った同じく山口県萩の村田蒲鉾があるからまぁいいや。で、阪急を出たところでそういや飯食ってないなぁって思い出し、孤独のグルメの井之頭五郎(松重豊)みたいに「腹が減った」と。サァ大変だ、梅田の大晦日は店が開いてない。開いてたとしても閉店が早い。どうする、東通に出るかこのまま茶屋町方面に行くか。三番街は何時までだろうって向かってみる。案の定もうシャッターが下りている。さすがに大晦日の梅田は閑散としてる。紀伊国屋から地蔵横丁に渡るところは普段はタクシーでいっぱいだが、今日はガラガラ。こんなに広かったんだ。そうだ地蔵横丁の熊五郎ラーメンはどうだ。残念。18:00でラストオーダーと食券販売機に貼られている。どこか居酒屋かなんか空いてないかなと、とぼとぼ歩く。おや?ラーメンの一蘭がやってるぞ。いや、待て、腹が減ってるからって安易に妥協していいのか?今まで大阪梅田の界隈にあるラーメン屋はほとんど制覇しているが、ここだけは未だに入ったことがない。阪急東通にある一蘭は、いつも店の前に行列ができている。行列に並んでまで食いたくないというのもあるが、いつも並んでる人達がすべてアジア近隣国からの訪日観光客なのよね。自撮りしながら喋ってる言葉は、中国語、台湾語、韓国語、タガログ語・・・。どうなのこれって。それもあってなかなか行けてなかった。しかも博多とんこつラーメンって、当たりハズレが大きい。もともと煮詰めてしまって白濁しまった失敗から生まれたとんこつスープ。忙しい人の為に早く茹で上がるように考えられた細麺。茹で加減もハリガネ(ナマ)からバリヤワまでの絶妙な茹で加減。そして替え玉システム。久留米ラーメンや長浜ラーメン、マー油の入った熊本ラーメンなど九州ラーメンは好きだ。あまりハズレの店はないのだが、博多とんこつラーメン店は結構外れが多い。俺が中太ちぢれ麺が好きだからではない。一風堂なんかはまだ美味しいと思うもの。でもね、ドロドロの天下一品を食って育った俺には、「濃厚」とか「こってり」って謳い文句の豚骨スープがどこもかしこも薄っぺらく感じるのよね。ちなみに天下一品は鶏ガラスープで500円玉や10円玉が浮くとまで言われるこってりさだ。(実際浮く)でも今は腹が減ってる。試してみてもいいんじゃないか。いや、今まで行かなかったのは、行ってはいけないって俺のアンテナがそう言ってるんじゃないか。階段で地下に降りる。中途半端な時間のせいか、大晦日のせいか、待って並んでる客は4組ほどだ。これならすぐ食べられるかもしれないな。そういやこの店舗(芝田町)は以前は焼き鳥の秋吉(あれ?秋芳だったか)だったなぁなんて思いながら、並ぶ。あぁ、先に好みとか紙に書くのね。これが一蘭特有の記入式オーダーシステムね。渡した紙の意味をガイドの店員が説明してる。ん?韓国語だ。その次のカップルはどうやら中国系みたいだ。このガイドしてる店員は何ヶ国語操れるんだろう。すごいなぁ。俺の前に並んでた客もどうやらアジア系。でも言葉が通じないみたい。身振り手振りで説明してる。おいおい、ここに並んでる客もすべて訪日観光客ってことか。この芝田町のお店も東通の店と同じくアジア系観光客御用達だったのか。観光客ならホテルで年越しディナーとか食べろよ。以前忙しすぎて今年の正月は手抜きしようと大晦日から某有名ホテルに泊まったのだが、ディナーもイベントも良かったぞ。せっかく日本に来て大晦日の日にラーメン?年越し蕎麦代わり?まぁい俺もそうだから大きなお世話かもしれないが。で、ようやく俺にも紙が渡された。ガイドの店員のちょっと緊張した顔。安心してくれ俺は日本人だ。説明はいらないよ。味の濃さ、こってり度、ニンニクの量、ネギの種類、チャーシュー、秘伝のタレの量、麺の固さ。言っていいですか?初めて来た客には何をどう選べばいいか全くわからないと思いますよ。初めて行こうと思っても、店の入り口付近にデーンと食券販売機が置いてある店ならなるべく入らない。だって、何がお勧めか、何が売りなのかもよくわからないもの。ネギが青ネギがいいか白ネギがいいかだと?関東(白ネギ)関西(青ネギ)文化を、博多の人間は探ってるのか?秘伝のタレってどれくらいの辛さだよ。初めての方は1/2にした方がいい?それなら別添えで入れられるようにしろよ。スープのこってりだとか、食べてもいないのに、いきなり決めろと。まるで、ヘアカタログ出してきてどのヘアスタイルがいいですか?って聞いてる下手くそな美容師みたいだな。なんかこの時点でやっぱりやめとこうかな、いや腹が減ってるからこのまま食べるべきだって自問自答が始まってる。なんて待ってる間に後ろを見るといつの間にか長蛇の列。カップル、家族連れ、シングル・・・。流行ってるんだねぇ。じゃぁ味も期待していいのかな。不安の方が大きいが。それにしても遅いなぁ、さっき通されて店内に入った韓国人は未だに食券機の前でなんか悩んでる。買い方がわからないのか?彼の後に店内に入った中国人カップルもなんか悩んでる。おいおい、そんなに悩むほどラーメンの種類がここはあるのか?よく、とんこつ、味噌、醤油、塩まで網羅してさらに担々麺や焦がしなんとかとかつけ麺まで幅広くやってる店があるが、ここはそんな店じゃないだろう。(あらゆる味が用意されてるラーメン屋は業務用スープを入れてると思ってほぼ100%間違いないし、そんな店は2-3年ですぐ潰れる)ようやく俺の番だ。店内に入って食券売機の前に入ってよくわかった。こりゃわかりにくいわ。肝心の基本のラーメンがどこにあるのかわからない。トッピングだのライスだののメニューの方がメインか。しかもこれだけアジア系訪日観光客が来てるのに、ボタンのところには中国語も韓国語も書かれていない。せめて英語で書いてやれよ。ミナミにある金龍ラーメンなんか、メニューはラーメンとチャーシューメンの二つだけ。2機ある券売機はボタンが4つ。2つは日本語表記、2つは中国韓国英語表記。潔いよ。で、店内に入る。あぁこれが噂と遮断されたカウンター、味集中カウンターだね。一人でも気兼ねなく食べれるようにと横の席とはブロックしてある。カップルとかだとこのブロックが挙げられてカップルシートになるってことね。でもさ、残念ながら大阪にはお好み焼きですでにこのシステムをやってる店があるのよね。阪急東通にある「美舟」って店だ。大阪で二番目に古いこのお好み焼き屋は、一人用の鉄板カウンターがあるのよね。前のすだれはラーメンが届くまでは空いてるが、届いた後閉じられるのね。なんだこの箸袋、びっちりサイドメニュー、追加メニューが書いてある。この注文は現金払い?あぁこのボタン押すのね。替え玉(半替玉)、ご飯(半ご飯)、追加ねぎ、追加にんにく(2片)、追加チャーシュー(4枚) 、きくらげ 、のり(2枚)、半熟塩ゆでたまご、オスカランの酸味?なんじゃこりゃ?抹茶杏仁豆腐(杏仁豆腐に抹茶をかけてどうしたいんだ?)、脂解美茶(そんな名前のお茶は世の中にありません)、ビールは580円?高いぞ。サイドメニューで短歌をあげようって魂胆が丸見えだな。やっぱりダメかもしれない、この店は。と、やることないから色々観察してたけど、ちょいカタの麺を選んでるのにえらい遅いなぁ。2分もありゃ茹で上がるだろうに。博多ラーメンの細麺ってバリカタからヤワまで、秒刻みであげてるはずなんだけどなぁ。ようやく来た。はい、ここまで読んでくれた人はもう既に結果はおわかりだと思いますが、全くダメ。最悪のラーメンと言ってもいいでしょう。悪い、こんなラーメンでよく全国チェーンできたなぁ。世界にも進出してるらしい。で、評判もいいらしい。ちょっとびっくりだ。スープがぬるいのは外国人向けですか?ちょい堅と頼んだ麺がほぼヤワなのは持ってくるのが遅れたからか、それとも歯が悪いかもって勝手に解釈知れて柔らかくしてくれたのですか?2倍の秘伝のタレとやらは全然辛くなく、しかも味を際立たせるわけでもない。タレではなくただのラー油だな。麺がまずい。もちもち感も、シャッキリ感もない。これならマルタイの麺の方がまだ美味しい。そしてきわめつけはスープ。よほどのことがない限りスープは飲み干すのだが、飲めない・・・。薄いっていうより、これ?本当に豚骨だけ?スキムミルクとか粉末のなんか混ぜてない?麺もチャーシューもスープもほとんど残してしまった。あれだけお腹が減ってたのにな。それで食べたくないって何故?さらに言えば、せっかく仕切りされてても、右隣の中国人と、左隣に途中から来た韓国人らしき副司(しかも小さな泣き叫ぶ赤子連れ)のせいで、全然落ち着かないし意味がないなぁ。訪日観光客ばかりで日本人が少ないなぁって不安は、やっぱり的中だった。二度と行かないからまぁいいけどさ。関西で一番美味しいと思ってる、奈良天理の彩華ラーメン(先日元モーニング娘。の加護ちゃんも絶賛してたね)を100点としたら、この一蘭、5点だな。まぁ人の好みは千差万別。これだけチェーン展開できてるんだから美味いと思って食ってる人がいるんだろう。俺はダメ。2017年の最後の最後で失敗してよかった。2018年はハズレの店に当たりませんように。鶏の皮とガラでとったスープに、枕崎の鰹節と羅臼の昆布で取ったダシを混ぜ合わせ、醤油(薄口&濃口)+酒+みりんを合わせて作る、俺の毎年恒例のお雑煮などの出汁。これに市販の生ラーメンを入れても(もちろん出汁にちょい足しで味変するが)美味いのかも。多分一蘭のラーメンよりは数百倍美味いんじゃないかと思う。自画自賛。松が取れたらお餅は終わり。今年はラーメンを入れて食べてみよう(蕎麦、雑炊、水餃子、ワンタンに合うのは実証済み)
 追記:あまりにもしょうもない的外れなコメント入れる人がいるのであらためて記載しておく。文中「天下一品を食って育った俺」とは書いてるが、天下一品のラーメンが美味いとか、好きだとかは一言も書いていないぞ。ただ近所にあったからガキの頃しょっちゅう行ってっただけだ。(あとはラーメンファミリー、どさん子大将、王将、つけ麺大王、横綱・・・ガキの頃は中華料理屋ばっかりでラーメン屋ってのは少なかったのだ。)それなのに「天下一品のクソ不味いラーメンを美味しいと言ってるような味オンチのくせに」とか、的外れな批判コメント入れる人って、どんな文章読解力なんだよって逆に呆れてしまうわ。俺が天一のスープが美味いと思ってるとどこをどう読んで判断したのか逆に聞きたいわ。あと、「美味しいとかまずいとかの味覚は人によってそれぞれだろ」なんていう究極論を入れてマウント取りたがる的外れコメンターもね。悪いが、そんなことはこのブログの第一回目にすでに書いてるぞ。せめてちゃんと読んでから書け。そして「ラーメンどれくらい食べて批判してるねん」ってコメント入れる人。画像フォルダに麺のコーナーに一部載せてるからそれを見てから判断してくれ。インスタント麺も店麺もかなりの量は食ってるぞ。まぁそれでも「俺は一蘭のラーメンをうまいと思う」って熱狂的一蘭ファンの人は、こんなところに俺の味覚批判のコメント入れる暇があったら自分のブログやSNSで、どうぞ好き勝手褒め言葉を書いてあげてくれ。
 https://blog.goo.ne.jp/gokigenradio/e/088107d068bfe6532e78f35af36e7307

《30日夜から行列、もはやキャンプ状態》「そこまでする?」年末年始・三重のパチンコ屋オールナイト営業で40時間打ってみた
‡2022(令和四)年01月04日(火) 17:10 取材・執筆=柳屋悠太/清談社
 ちょっとディープなパチンコ・パチスロファンなら、大晦日といえば「三重のオールナイト営業」のことを連想するかもしれない。打とうと思えば、40時間ぶっ通しで遊技することも可能。紅白歌合戦など観ず、カウントダウンイベントに参加することも、初詣に繰り出すこともなく、ひたすらパチンコ・パチスロを打ち続ける。そんな人たちが全国から伊勢に集うのだ。筆者が向かった三重のパチンコ店(筆者提供)c 文春オンライン 筆者が向かった三重のパチンコ店(筆者提供)
◆オールナイト営業に備え、30日夜から並んだ◆パチンコ・パチスロ店は、風適法(風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律)により、午前0時より午前6時までの営業が禁止されている。各自治体によっては、これより短い営業時間が定められている地域もあるが、基本的には0時にはどんなパチンコ店も閉まる。 しかし、三重県だけは年に1度の大晦日だけオールナイト営業が許可されているのだ。 これは「伊勢神宮の参拝客がトイレを利用するため」といわれているが、はっきりした経緯は不明で、ある資料によると1985年から続けられているという。 通常、三重のパチンコ店は9時スタート、24時閉店の15時間営業。そこに普段は休んでいる9時間を連続営業し、さらに1月1日の9時から特別延長の25時までの16時間を足して、計40時間、打ちっぱなしOK。このノンストッププレイを求めて、全国からファンが押し寄せる。遊技時間が長ければ、自己最高出玉を更新できるかもしれない。逆に、過去最高のマイナスを更新することも容易いのだが……。さらに今年はパチスロ5号機の撤去直前というプレミア感もある。 パチスロ機は遊技機規則の改正ごとに世代が替わり、現在は6号機が認定されている。それ以前の機械は順次撤去されるのだが、前世代の5号機は2022年1月までの完全撤去が義務付けられている。つまり、この正月が、出玉規制のゆるい5号機を心ゆくまで愉しむ最後のチャンスといえるのだ。 そこで、筆者は三重のオールナイト営業に挑むことにした。目指すは40時間打ちっぱなし。並の体力ではもたないので、ギリギリまで休んで……などという甘いことは許されない。人気の機種は争奪戦となるので、入場するためには前日の営業終了時、つまり12月30日の夜から並ばなくてはならない。 東京から新幹線で移動、22時58分に名古屋駅に着いた。そこから近鉄に乗り換え、近鉄四日市駅に移動。さらにタクシーで某パチンコ店前に到着した時は0時を過ぎていた。 
◆毛布や寝袋を持ち出し…ちょっとしたキャンプ状態◆そのパチンコ店は
 2021(令和三)年12月30日(木)も25時まで延長営業していたので、まだ打っている客もいたが、入口の横には
 2021(令和三)年12月31日(金)入場の待機列が出来ており、すでに7名ほどが並んでいた。 四日市駅前の人気店には客が押し寄せることを予想し、ちょっと郊外の店まで来てみたのだが、それでも行列ができているとは……。また、コロナ禍もあって抽選入場方式が多く、列に並んだ先着順という店は誰も選ばないだろうとも思ったのだが、同じような考えのファンがこれだけいたということか。 
列の様子をみると、先頭は和気あいあいとお喋りしている3人組、その次は寡黙な3人組、その後ろに1人。20代後半~40代ぐらいで、全員男。筆者の前に並んでいた男性は車で来たといっていたが、なんと室蘭ナンバー。そんな長旅を? と聞いてみたら、地元が室蘭だが、いまは転勤で三重県に在住しているとのことだった。 午前1時を過ぎ、店の灯りが消えると同時に寒さが襲ってくる。並んでいた人たちが、自身の車から毛布や寝袋などを持ち出して暖を取り始める。後ろのほうには、簡易テントを張っている人もいた。ちょっとしたキャンプである。 こちらは毛布などの防寒グッズを持ってきていないので、ひたすら耐えるしかない。気温は2度。寒くて寝られないので、徒歩で10分くらいのコンビニまで何度も往復して時間をつぶす。 
◆開店まであと2時間、チラチラと雪が…◆6時過ぎに日の出となり、ようやく気温が上がるかと思ったら、チラチラと雪が降ってきた。開店まであと2時間ほど。かなり限界だ。 結局、徹夜組は15人ほどで、残りは早朝からやってきた組。開店直前には30人ほどの行列となった。正直、一時は命の危険も感じたが、ここまでの試練に耐えてやることといえばパチスロを打つだけだ。自分もそうだが、周りもすさまじい情熱だと思う。 9時、ついにオープン。広い店なので、行列がなだれ込んで着席しても全体の3割ほどの稼働率。筆者が打ちたかった機種には、先頭の3人組が座り、もう空きはなかった。仕方なく、違う5号機を打つことにする。 
◆清談社年越しの瞬間、店内では◆ここからは、取り立てて書くようなことはない。普通に、ただひたすらパチスロを打っているだけだ。店内の様子も大晦日という特別感はない。 16時ごろ、食事のため休憩することに。外に出てみると、一面雪景色だった。しかも吹雪で移動が困難なので、併設されていたラーメン店で腹を満たす。 食事から戻ってからもひたすら打つ。気づいたら夜になっており、もうすぐ2021年も終わろうとしている。23時ごろには、休憩スペースで年越しそばを食べる人たちが出現。どうやら店外のテントで1杯100円でそばを提供しているらしい。気が向いたら食べようと思っていたら、すでに23時58分。さすがに年越しの瞬間はカウントダウンなどで盛り上がるのかと思ったら、なにもないまま年が明けた。 
 2022(令和四)年01月01日(土)「あけましておめでとうございます。2022年もよろしくおねがいします」という簡単な店内アナウンスがあり、客も特に動揺することなく、黙々と打ち続けている。 以前は、タレントや攻略ライターを呼んで年越しイベントを行う店舗もあったが、コロナ禍により見合わせており、今年はどこも静かだったようだ。 午前3時ごろ、気分転換に店外へ。駐車場に停まっている車のナンバープレートを見渡すと、福岡、福井、群馬、習志野など、あらゆる場所からここに集っていることが窺える。 7時。初日の出の時間なので外に出てみたが、雪でなにも見えない。オールナイトを満喫したのか、このあたりで帰りだす客も増えてくる。 
◆朝10時に大型店に移動、打ち疲れて寝ている人も多数◆10時まで打ち、店移動。近鉄四日市駅前にある大型店に向かう。 店内に入ると、台は8割ほど埋まる高稼働率。しかし、休憩所では打ち疲れたのか、うつぶせになって寝てる人もチラホラ。とはいえ、これもパチンコ店にはよくある風景。店内の雰囲気で今日が元日であることを思い出させるようなことは何もなかった。 
 2022(令和四)年01月02日(日)の午前1時、40時間打ち切った。収支は今回のレポートの主旨ではないので割愛するが、体力的にキツかったし、特に何が楽しかったということもない。打ち終わったら仮眠を取り、まっすぐ帰京したので、伊勢参りもしていないし、伊勢海老も伊勢うどんも食べていない。 「なぜ」「わざわざ」「そんな苦労してまで」……といろいろな人から尋ねられたが、筆者にとっては、大晦日に渋谷で大騒ぎする人や、ジャニーズコンサートに行く人のほうが理解できない。どんなジャンルでも、そこにいるファン以外には「なぜ」と思われる行為でしかない。 いわゆるギャンブル依存症といわれたら、そうなのかもしれないが、そんな単純なものでもないような気もする。ただ、大晦日に40時間パチンコ・パチスロが打ち続けられるといわれたら、打ちたくなる。それだけのことなのだ。 
 https://news.yahoo.co.jp/articles/201fa21f8ca0a5523429760c58f28fcc19565780

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