過去の今日の出来事etSETOraですヨ(=^◇^=)

2023(令和五)年六月十一日(日)の初記事ですヨ(=^◇^=)

 

 映像◆Hiroshima station (South exit) https://youtu.be/hxIaVrpFVEQ
‡1986(昭和61)年06月 広島駅前工事
 

 東京航空局、羽田空港への不法侵入事件で警備会社に警告
 2013(平成25)年06月29日(土) 11:03《text:レスポンス編集部》航空 行政
 国土交通省東京航空局は、
 2013(平成25)年06月03日(月)未明に発生した羽田国際空港(東京国際空港)への不法侵入事件で、
■警備会社のセノン■に対して、警告書を出した。不法侵入事件で、適格性を欠く警備員を排除するよう業務改善指示を行った。羽田空港で警備員のいるゲートから男性が不法侵入し、滑走路付近にまで立ち入る事件が発生した。警備員は、この男性を見失った上で「不審者無し」と虚偽の報告をしていた。同局では、
‡2013(平成25)年06月11日(火)と
 2013(平成25)年06月13日(木)に当局による同社に対して立ち入り検査を実施し、警備員が必要な保安措置を実施していなかったことや、不法侵入が発生した情報が適切に報告されなかったこと、一部警備員に空港警備に対する基礎知識が不足していることが確認されたとしている。これらのことから、同局は同社に対して再発防止を徹底するよう警告した上で、同様の事案が発生した場合、即時契約解除すること通達した。同局では今後、ゲートの侵入対策を改善するとともに、警備会社が指摘を受けた業務を改善するよう監視を強化し、必要な指示を行っていくとしている。
 https://s.response.jp/article/2013/06/29/201135.amp.html

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①┃ 1962年6月のアルカトラズ脱獄事件 ┃
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‡1962(昭和37)年06月11日(月) 22:30 脱獄開始
 1962(昭和37)年06月12日(火) 07:00 脱出発覚
 1962(昭和37)年06月14日(木)、沿岸警備隊のカッターがエンジェル島南岸の約200ヤード (180 m)沖合で浮かぶパドル1つを拾った。同日にほぼ同じ場所で、別のボートの労働者らが、名前複数、住所複数、アングリン家の人々の友人らや親戚らの写真複数が付属した、ビニール袋に包まれた札入れ1つを見つけた
 1962(昭和37)年06月21日(木)、いかだの残骸であると考えられるレインコート素材の断片複数が、ゴールデン・ゲート・ブリッジからそれほど遠くない浜で発見
 1962(昭和37)年06月22日(金)、アルカトラズ島の50ヤード (46 m)沖合で、刑務所のボート1そうが、同じ素材で作られた、空気の抜けた救命胴衣1つを拾い上げた
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②┃ 潜入調査! 監獄島「アルカトラズ」┃
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 amazon・・・最上級の警備で脱獄不可能と呼ばれたアルカトラズ刑務所。刑務所の実態を熟知する人物たちのインタビューを交え、別名「ロック」の監獄島の真実を紐解く
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 https://www.amazon.co.jp/dp/B086QNMLJX
 https://en.wikipedia.org/wiki/June_1962_Alcatraz_escape_attempt
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 映像◆【脱獄】世界最高セキュリティ「アルカトラズ刑務所」から脱獄した男たちhttps://youtu.be/pjl78kM4Gdc
 
 映像◆【脱獄不可能】アルカトラズ刑務所からの脱走 | ミッシング~迷宮事件の謎~【ゾッとする】https://youtu.be/8mJPebbsILc
 1962年、3人の受刑者が世界最高峰のセキュリティゆえに脱獄不可能と言われた、アルカトラズ島の刑務所から忽然と姿を消した。建物は抜け出せても、2km以上ある冷たい海が最大の難関。しかし、IQが160以上あると言われた3人は、何ヶ月も考えた方法で岸へ渡ろうとする途中、溺れて死亡したと推測されていたが、新たな実験の結果、岸にたどり着いた可能性が浮上し…。■ミッシング~迷宮事件の謎~とは?■科学が進歩し、あらゆるものの動向が監視されている現在、飛行機や船が地球上から忽然と姿を消すことなどあり得ないように思える。しかし、いまだに行方不明事件は起きており、最新の技術をもってしても、行方を突き止められないケースも多い。番組では事実に基づき、有力な仮説を検証。謎の多い事件に新たな光を当てる。果たして、科学の力で大きな謎を解くことはできるのか?
 
 映像◆【脱獄不可能】アルカトラズの謎 [吹替フル]|| 深層解明Xファイル シーズン1 (ID Investigation Discovery) https://youtu.be/5FQlUDsxH6o
 世界で最も有名な刑務所といえばアルカトラズ。この刑務所には謎や秘密が数多く存在する。1962年、3人の囚人が脱走した。脱獄不可能とされたアルカトラズからどのようにして抜け出したのだろう?そこには知られざる秘密が。さらにアルカトラズには謎の施設の跡がある。そしてリンカーン大統領とのつながりとは?#アルカトラズ #3人の脱獄者 #脱獄不可能 ー深層解明Xファイル シーズン1 とはーアメリカの有名な場所や秘密組織などにまつわる知られざる歴史や隠された真実を解き明かす。フリーメイソン、売春宿、刑務所、UFO…。耳にしたことはあるが、これらの実態を知っている人は少ない。よく聞く噂は本当なのか?アメリカに潜む謎の驚くべき真相に迫る。
 

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 ┃ 三島由紀夫が語る ボディビルから割腹自殺への道 ┃
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 2012(平成24)年04月03日(火) 制作
 写真◆背起きする三島由紀夫(1956年)
 1967(昭和42)年04月12日(水) 42歳の三島由紀夫は自衛隊に体験入隊します。仕事の都合もあり、3回に分けてでしたが、合計で46日間という本格的なものでした。
 最初に入隊したのは、陸上自衛隊の久留米幹部候補生学校でした。本名・平岡公威として、毎日午前6時起床、6時5分には乾布摩擦をしながら舎外で点呼するという生活を始めます。課業は午前8時から午後5時まで。当時の様子を、『サンデー毎日』に寄せた手記から引用しておきます。
‡1967(昭和42)年06月11日(日)号『サンデー毎日』「自衛隊を体験する」《夏の高良山マラソンの練習にいそしむ若い学生の、飛鳥のやうなランニングには追ひつけなかったが、22年ぶりに銃を担って、部隊教練にも加はった。肩は忠実に銃の重みをおぼえてゐた。行動の苦難を共にすると、とたんに人間の間の殻が破れて、文句を云はせない親しみが生ずるのは、ほとんど年齢と関はりがない。私は実に久々に、昼食後の座学の時間の耐へられない眠さを、その古い校舎の窓外の青葉のかがやきを、隣席の友人の居眠りから突然さめて照れくささうにこちらへ向ける微笑を味はった》
 ここで「22年ぶりに銃を」というのは、敗戦直前、三島はほんの少しだけ学徒動員で陸軍に入隊したからです。
 1967(昭和42)年04月19日(水) 写真◆幹部候補生学校の芳名帳に残された三島由紀夫の署名
 1967(昭和42)年04月19日(水) 久留米から帰郷した直後の4月19日から、今度は自衛隊富士学校の滝ケ原分屯地普通科に入隊します。このときの宿舎は、偶然にも22年前の1945年、学生のときの野外演習で泊まった場所でした。ここでは戦車の操縦や特科(砲兵)隊員の行軍訓練に参加しています。過酷なレンジャー部隊の訓練も行い、草むらの蛇を捕まえて、生で食べることもしました。
《満開の姫桜の間を縫って、朝日にあたかも汗をかいた白馬のやうな富士を見上げて、半長靴で駈ける朝の駈足はすばらしかった……山中湖の満目の春のうちをすぎる帰路の行程は佳かった。私はこれほどに春を綿密に味はったことはなかった。別荘地はまだ悉(ことごと)く戸を閉ざし、山桜は満開、こぶしの花は青空にぎっしりと咲き、湖畔の野は若草と菜種の黄に溢れてゐた。あくる日から連休に入ったので、私はこれほどにも濃密な、押絵のなかをゆくやうな春と別れて東京へかへった。そして大都会の荒涼としてゐることにおどろいた。すでに私は、営庭の国旗降下の夕影を孕んだ国旗と、夜10時の消燈喇叭(らっぱ)のリリシズムのとりこになってゐた》(『サンデー毎日』)
 リリシズムとは「叙情性」という意味ですが、何とも詩的な体験記ですな。
 1967(昭和42)年05月25日(木) 三島は1カ月ほど富士山の麓にいて、いったん帰郷、5月25日から陸自最強部隊である習志野の第1空挺団に参加。パラシュート降下訓練は頭を打つ可能性があるので、11mの高塔から空中に飛び出す懸吊(けんちょう)着地訓練を体験しました。三島は「船乗りが海に憑かれるように、空挺団はパラシュートに憑かれていた」という名言を残し、46日間の体験入隊を終えました。
 写真◆現在の空挺団のパラシュート降下(富士演習場)
 それにしても、どうして三島由紀夫は自衛隊に体験入隊したのか?
『サンデー毎日』で三島の入隊をスクープした徳岡孝夫が、取材時に動機を聞いています。
《問 体験入隊の動機は?
 三島 これは、まったくご推察にまかせます。どうとられようとかまいません。
  問 こういう見方はできませんか。作家という“自由業”を中断して、自衛隊のきびしい日課のなかに身を置いてみたのは、あなたが一種マゾヒステックな快感を得るためのぜいたくな遊戯だったという……。
 三島 冗談をいわないでほしい。私ほどふだんからきびしい日課を守っている者はいないでしょう。むしろ自衛隊へ行って??これは「失言」だといわれたんですが??候補生学校の、時間が分断されている窮屈な生活よりも、私の日常の生活のほうがもっと分断され、もっと複雑にオーガナイズされているんだと言ってやりました。ただ、非常にうれしかったことは、文壇では私のストイシズムが“奇癖”ととられているのに反して、自衛隊のなかではそれが“美徳”なのでした》(徳岡孝夫『五衰の人』)有名な話ですが、幼少時の三島由紀夫は「アオジロ」とあだ名がつけられるほど病弱でした。そんな三島ですが、1944年10月に東大に入学した4カ月後、陸軍から入営通知の電報が来ます。ところが、このとき、軍医のミスで誤診され、即日帰郷となります。このときの様子は『仮面の告白』に書かれています。
《薬で抑へられてゐた熱がまた頭をもたげた。入隊検査で獣のやうに丸裸かにされてうろうろしてゐるうちに、私は何度もくしゃみをした。青二才の軍医が私の気管支のゼイゼイいふ音をラッセルとまちがへ、あまつさへこの誤診が私の出たらめの病状報告で確認されたので、血沈がはからされた。風邪の高熱が高い血沈を示した。私は肺浸潤の名で即日帰郷を命ぜられた》三島にとって軍隊に入れなかったのは大きなコンプレックスとなりました。それは人気作家となってからも変わらず、ちょうど30歳のとき、ボディビルを始めます。きっかけはボディビルのコーチだった鈴木智雄と知り合ったことでした。
 1956(昭和31)年02、03月号『ボディ・ビル』「ぼくは銀座のさるところで鈴木さんと初対面、ボディ・ビルを知りました。知る前はあんな重いバーベル担ったら、ぼくなんか参ってしまうだろうと想像していたのですがね。その時、鈴木さんが巻尺持って来て、おたがいの胸を計った。ぼくのは両腕を抱いたグルリ、鈴木さんは胸幅だけ、おどろいたことに、これが同じ寸法なのです。そこでいろいろお話しをきいた。ぼくは理論がおもしろくないと、承知しない男でしてね。鈴木ボディ理論にすっかり感銘しちゃった。そこでまず柔軟体操を教わり、やりはじめた」
 写真◆帆掛け船を行う三島由紀夫。下で支えるのが鈴木智雄
 1955(昭和30)年09月16日(金) ボディビルを始めたのは1955年9月16日。当時31歳。
 1955(昭和30)年09月20日(火) 三島自身の記録によると、9月20日に測定したところ、胸幅が最大で79cm、体重12.9貫(48.4kg)だったのが、3カ月後の正月には胸幅が82.5cm、体重13.8貫(51.8kg)まで太りました。
 この正月時点での三島のインタビューが『ボディ・ビル』誌に掲載されています。
 ─―先生は、いま目方どのくらい。
 「去年の秋からはじめたのですが、その前は平均12貫800、背は5尺4寸5分。
 ─―どのくらいにふとりたいのですか。
 「15貫は、ほしいですね」
 ─―バーベル・マンになられた動機は。
 「外国映画などで、外人のいい身体を見て、うらやましいと思いましたね。この種の外国雑誌も読んだり、ボディ・ビルというのがあることは知っていたが、ぼくがやり出したらマンガものだろうと(笑)覚悟していた。最初はコッソリやるつもりでね」
 ─―学生時代に何かスポーツは。
 「馬に乗ったくらいかな。スケートもようやく手すりなしで滑れる程度……」
 写真◆バーベル運動する三島
 さらに、ボディビルを始めて1年後には次のように書いています。
 1956(昭和31)年09月20日(木)号『漫画読売』「ボディ・ビル哲学」《ボディ・ビルをはじめてからこの9月で1年になる。風邪を引いて3週間ほど休んだことが一度あるほかは、まづ精励して来た。もともと肉体的劣等感を払拭するためにはじめた運動であるが、薄紙を剥ぐやうにこの劣等感は治って、今では全快に近い。人から見たら、まだ大した体ぢゃないといふだらうが、主観的にいい体格ならそれでよろしい。……私は思ふのだが、知性には、どうしても、それとバランスをとるだけの量の肉が必要であるらしい。知性を精神といひかへてもいい。精神と肉体は男と女のやうに、美しく和合しなければならないものらしい》ここで三島は、日大拳闘部の好意で、小島智雄監督の指導の下、ボクシングも始めます。
 1956(昭和31)年10月07日(日)『ボクシングと小説』《トレーニングをまだ4、5回やったばかりで、ボクシングを論じるのも口はばったい次第だが、30秒おきに3分づつ7乃至(ないし)8ラウンドのトレーニングをやってみて、いまさらボディー・ビルのありがたさを味はってゐる。何の訓練も経ずに座業からいきなりここへ飛び込んだら、おそらくついては行けまい。ボディー・ビルは非スポーツマンをスポーツの岸へ渡してくれる渡し舟のやうなものである。なぜボクシングをやりたくなったかといふと、それが激しいスピーディーな運動だからである。ボディー・ビルの静的な世界は、肉体の思索の世界ともいふべきで、そこでは動きとスピードへの欲求が反動的に高まってくる。そして動くもの、スピーディーなものが美しいことは、ソクラテスもいってゐることである》三島はこの2年後(1958年)に川端康成の媒酌で結婚するんですが、それと同時に、今度はボクシングをやめて剣道の稽古に入ります。もはや、三島の肉体鍛錬はとどまることを知りませんでした。
 写真◆東京裁判の会場となった市ヶ谷記念館。このバルコニーで三島が演説した
 自己鍛錬の流れの中で、三島は1961年、「よいところ悪いところすべてを凝縮したエキスのような小説」として『憂国』を発表します。これは、2・26事件で反乱軍を討たざるをえなくなった武山信二中尉が、死を選んで切腹する話。この作品は1966年、自身が監督・主演を務めて映画化されました。この映画で、三島は凄惨な切腹シーンを演じています。そして、1967年、自衛隊に体験入隊。その直後、三島は『美しい死』(1967年8月)でこう書いています。
《ひとたび武を志した以上、自分の身の安全は保証されない。もはや、卑怯未練な行動は、自分に対してもゆるされず、一か八かといふときには、戦って死ぬか、自刃するかしか道はないからである。しかし、そのとき、はじめて人間は美しく死ぬことができ、立派に人生を完成することができるのであるから、つくづく人間といふものは皮肉にできてゐる。
 私は自衛官にはならなかったけれども、一旦武の道に学んだからには、予備自衛官と等しく、一旦緩急あるときは国を守るために馳せ参じたいといふ気持になってゐる》三島由紀夫は、『憂国』の映画制作から4年後の1970年、自衛隊市ヶ谷駐屯地で演説します。「俺は4年待ったんだ。自衛隊が立ちあがる日を」と絶叫しながら改憲を訴えるんですが、自衛官は誰も耳を貸しませんでした。こうして、失意のうちに切腹を果たすことになります。
 写真◆市ヶ谷会館のドアに残った刀の傷
 1970(昭和45)年11月25日(水)。享年45。なぜ11月25日を選んだかは不明ですが、『仮面の告白』を書き始めた日が11月25日だとされています。
 写真◆市ヶ谷会館:左手前が三島が自決した場所。一番左の窓からバルコニーに出た
 <おまけ>
 三島由紀夫が切腹したあと、メディアは大々的に事件を報じました。そのなかに、ボディ・ビルのトレーナーだった鈴木智雄がコメントを出しています。
 1970(昭和45)年12月『週刊現代』増刊・三島由紀夫緊急特集号「自由ヶ丘の私のジムに週2回、通ってこられるようになりました。1回、1時間程度の練習を2年ぐらいつづけられました。私のところをやめたあとも10年間つづけたそうで、その意志の強さには敬服しますが、三島さんの目的は、肉体の表面を美しく見せるにはどうしたらいいかといったものだけで、体育の本質には迫らず、本物を追求する精神はなかったようです」 三島由紀夫は本物ではなかった……それはあまりに痛烈な一言でした。
<おまけ2>
 作家の安部譲二は、三島由紀夫と親交があり、三島にボクシングジムを紹介したと語っています。安部によると、「三島は頭を使う仕事だから、頭は殴らないでくれ」とトレーナーに頼んでいたため、手を抜かれたことに気づいた三島が怒ってボクシングをやめ、ボディビルに転向したことになっています。ですが、実際はボディビルが先です。三島にとって重要なボディビルの話を混乱して語ってるわけで、安部譲二の話はウソとは言わないまでも、話半分で聞いておいた方がいいかもしれませんね。
 https://tanken.com/misima.html
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 ┃ 三島事件 ┃
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 1970(昭和45)年11月25日(水) 
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 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%B3%B6%E4%BA%8B%E4%BB%B6
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 映像◆アナザーストーリーズ 松嶋菜々子「三島由紀夫 最後の叫び」 [運命の分岐点] https://youtu.be/HOx5_GEx4YM
 2019(令和元)年10月08日(火) 第131回「三島由紀夫 最後の叫び」
 1966(昭和41)年09月02日(金) 43:23『LIFE』
 1966(昭和41)年09月02日(金) 43:29『LIFE』三島腕相撲BODY写真◆
 1968(昭和43)年10月17日(木) 44:54 ノーベル文学賞発表
 

 映像◆三島由紀夫 最後の演説https://youtu.be/_oNMABlVRtM
 昭和45年11月25日市ヶ谷駐屯地にて、最後の演説をして、割腹自決しました。ヤジと怒号が飛ぶ中、最後の訴えをした三島由紀夫氏です。
 
 https://ameblo.jp/jam512412/entry-12590017349.html
 映像◆三島由紀夫 森田必勝 憂国忌https://youtu.be/Qr1N17WBY3w
 1990(平成二)年11月25日(日) 憂国忌20年祭 東京・九段
 1990(平成二)年11月26日(月) 放送 筑紫哲也
 
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 ┃ 三島由紀夫 ┃
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 1925(大正14)年01月14日(水) 生誕
 1970(昭和45)年11月25日(水) 逝去
 映像◆三島由紀夫 Yukio Mishima on WWII and Death -Full NHK Interview (1966) https://youtu.be/hLGMm6c_BCA
 
 TransylvaniaBoogie 
●終戦のとき、私は終戦の詔勅を親戚の家で聞きました。と申しますのは、東京都内から離れた所の親戚の家に私どもの家族が疎開をしていまして、そこへたまたま私が勤労動員で行っていた海軍の工場から帰っていたのですが、なぜ帰っていたかというと、ちょうどチブスらしい熱を出しまして、そして帰ってしばらく静養していた時期に当たっております。そして詔勅を聞くとすぐまた自分の職場へ帰って後始末をしたのですが、終戦の詔勅自体については私は不思議な、感動を通り越したような空白感しかありませんでした。それは必ずしも予期されたものではありませんでしたが、今までの自分の生きてきた世界がこのままどこへ向かって変わっていくのか、それが不思議でたまらなかった。そして戦争が済んだら、あるいは戦争が負けたらこの世界が崩壊するはずであるのに、まだ周りの木々の緑が濃い夏の光を浴びている。ことにそれは普通の家庭の中で見たのでありますから、周りに家族の顔もあり、周りに普通のちゃぶ台もあり、日常生活がある。それが実に不思議でならなかったのであります。それから間もなく神奈川県高座の海軍工廠、つまり勤労動員先へ帰りまして、友達といろいろ話し合った。当時はもう残っていた学生もわずかでありましたが、そこで目にした2つのことが非常に印象が深かった。一つは厚木航空隊その他からどんどんどんどん物資やなんかを運んで、兵隊たちがトラックを徴発していってしまう。我われの使うべきトラックも何もない、そういう状態の中で、しかしアカデミズムの連中は非常に意気軒昂としておりました。私どもの周りにおりました法律学関係のアカデミズムの若い学者たちは、「これから自分たちの時代が来るんだ」「これから新しい日本を我々が建設するのだ」と、「今こそ軍閥の悪夢が終わって、新しい知的な再建の時代が始まるんだ」と、いわば誇張して言えば欣喜雀躍という様子でありました。私は今も昔も疑り深い人間でありますから、そう様子を見ていて、「へへえ、そんなもんかな」と思っていた。「いったい知的に再建するって何のことだ」「日本の精神的な再建って何のことだ」と。私がそのとき感じました疑問は20年ずっと尾を引いておりまして、やっぱり彼らは何もしなかったんじゃないか、というようなことを感じるようになりました。私の今までの半生の中で、20歳までの20年は軍部が色々なことをして、軍部のおそらく一部の極端な勢力でありましょうが、それがあそこまで破滅的な敗北へ持って行ってしまった。そのあと20年は一見太平無事な時代が続いているようでありますが、結局これは日本の工業化のおかげでありまして、精神的にはやはり何ら知的再建というに値するほどのものがなかったのではないかと。ちょうど40年、41歳の私はちょうど20歳の時に迎えた終戦は自分の人生の目処として、そこから自分の人生がどういう展開をしたかということが、考える一つの目処になっております。これからも何度も何度もあの8月15日の夏の木々を照らしていた激しい日光、その時点を境に一つも変わらなかった日光は、私の心の中でずっと続いて行くだろうと思います。
●リルケが書いておりますが、現代人というものはもうドラマティックな死ができなくなってしまった。病院の一室で一つの細胞の中の蜂が死ぬように死んでいく、というようなことをどこかに書いていたように記憶しますが、今、現代の死は病気にしろあるいは交通事故にしろ、なんらのドラマがない。英雄的な死というものもない時代に我われは生きております。それにつけて思い出しますのは18世紀頃に書かれた『葉隠』という本で、「武士道とは死ぬことと見つけたり」というので有名になった本ですが、この時代もやっぱり今と似ていた。もう戦国の夢は醒めて、武士は普段から武道の鍛錬はいたしますが、なかなか生半なことでは戦場の華々しい死なんてものはなくなってしまった。その中で汚職もあれば社用族(注:斜陽族のもじり。誤記にあらず)もあり、今で言えばアイビー族みたいな者も侍のあいだに出てきた時代でした。その中で『葉隠』の著者はいつでも武士というものは一か八かの選択のときには死ぬ方を先に選ばなきゃいけない、ということを口を酸っぱくして説きましたけれども、著者自身は長生きして畳の上で死ぬのであります。そういうふうに武士でもあっても結局死ぬチャンスが掴めないで、死ということを心の中に描きながら生きていった。しかし今の我々は死を描きながら生きているのかどうか、それさえ疑問であります。私の死と一番親しかった時代は戦争中で、戦争が済んだとき20歳だったので、10代の私どもは「いつ死ぬか」「いつどうやって死ぬか」ということだけしか頭の中にない。そういう中で20代まで行ったのでありますが、それを考えますと今の青年には、それはスリルを求めることもありましょう、あるいは「いつ死ぬか」という恐怖もないではないでしょうが、「死が生の前提になっている」という緊張した状態にはない。そういうことで、仕事をやっていますときに、何か生の倦怠と言いますか、ただ人間が自分のためだけに生きようということには卑しいものを感じてくるのは当然だと思うのであります。それで、人間の生命というものは不思議なもので、自分のためだけに生きて自分のためだけに死ぬっていうほど人間は強くないんです。というのは人間は何か理想なり、「何かのため」ということを考えているので、生きるのも自分のためだけに生きることにはすぐ飽きてしまう。すると、死ぬのも「何かのため」ということが必ず出てくる。それが昔言われた大義というものです。そして大義のために死ぬっていうことが人間の最も華々しい、あるいは英雄的な、あるいは立派な死に方だというふうに考えられていた。しかし今は大義がない。これは民主主義の政治形態っていうものは大義なんてものはいらない政治形態ですから当然なんですが、それでも心の中に自分を超える価値が認められなければ、生きていることすら無意味になるというような心理状態がないわけではない。ことに私、自分に帰って考えてみますと、死を「いつか来るんだ」と、「それも決して遠くない将来に来るんだ」というふうに考えていたときの心理状態は今に比べて幸福だったんです。それは実に不思議なことですが、記憶の中で美しく見えるだけでなく、人間はそういうときに妙に幸福になる。そして今、我われが求めている幸福というものは生きる幸福であり、そして生きるということはあるいは家庭の幸福であり、あるいはレジャーの幸福であり楽しみでありましょうが、しかし、あんな自分が死ぬと決まっている人間の幸福というものは今はちょっとないんじゃないか。そういうことを考えて、死というものを、じゃあお前は恐れないのか。それは私は病気になれば死を恐れます。それから癌になるのも一番いやで、考えるだに恐ろしい。それだけに何か、もっと名誉のある、もっと何かのためになる死に方をしたいと思いながらも、結局『葉隠』の著者のように生まれてきた時代が悪くて、一生そういうことを想い暮らしながら、畳の上で死ぬことになるだろうと思います。
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 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%B3%B6%E7%94%B1%E7%B4%80%E5%A4%AB
 https://ameblo.jp/jam512412/entry-12584825987.html
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 ┃ ファティマの聖母 Nossa Senhora de Fatima ┃
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 1907(明治40)年03月22日(金) Born 00歳 Lucia Santos
‡1908(明治41)年06月11日(木) Born 00歳 Francisco Marto
 1910(明治43)年03月11日(金) Born 00歳 Jacinta Marto
 1919(大正八)年04月04日(金) Died 10歳 Francisco Marto
 1920(大正九)年02月20日(金) Died 09歳 Jacinta Marto
 2005(平成17)年02月13日(日) Died 97歳 Lucia Santos
 1917(大正六)年05月13日(日) 聖母1回目 初出現および毎月13日のお願い 
 1917(大正六)年06月13日(水) 聖母2回目 聖母の胸の外にある茨に巻かれた心臓 ※50人
 1917(大正六)年07月13日(金) 聖母3回目 第一、第二、第三の預言が伝えられた ※5千人
 1917(大正六)年08月13日(月) 聖母4回目 三人の牧童は行くことができなかった ※行政責任者が13日朝3人監禁、15日解放 ※1万8千人
 1917(大正六)年08月15日(水) 3人を解放 ※13日(月)に監禁
 1917(大正六)年08月19日(日) 聖母5回目 予告なく出現
 1917(大正六)年09月13日(木) 聖母6回目 3万人
 1917(大正六)年10月13日(土) 聖母7回目 太陽のダンスの奇跡(半径50kmの範囲で目撃) ※約7万人
 1930(昭和五)年10月13日(月) 現地管区レイリア司教によってこの出現は公認され、同年教皇ピオ12世は同地に巡礼する者への贖宥(免償)を宣言
 1967(昭和42)年05月13日(土) 教皇庁により最初の聖母の出現のあった5月13日がファティマの記念日に制定され、歴代ローマ教皇が巡礼に訪れたり、この出現のメッセージに基づき世界の奉献を行った
 2017(平成29)年03月23日(木) ローマ教皇庁は福者であるフランシスコ・マルトとジャシンタ・マルトの取り次ぎによる奇跡を認定する教令に教皇フランシスコが署名した、と発表
 2017(平成29)年05月13日(土) ポルトガル・ファティマで教皇フランシスコの司式により列聖式が執り行われた
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 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%9E%E3%81%AE%E8%81%96%E6%AF%8D
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 映像◆ダークサイドミステリー「口裂け女の謎&究極予言ファティマ第3の秘密」https://youtu.be/wGMrzUp39m0
 

 基町高層アパート。戦後スラムの解消?日本初の高層アパート群【a】
 2018(平成30)年11月04日(日)  建築 広島県 面白い
 https://www.mirainoshitenclassic.com/2018/11/a.html
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 映像◆ETV特集「“原爆スラム”と呼ばれた街で」
 2017(平成29)年06月15日(木)は『ETV特集』
 1964(昭和39)年05月26日(火) 35:13『中国新聞』原爆スラムという言葉、初登場
  「原爆スラム解消へ-広島復興裏歴史-」広島市議会被害者対策 住宅確保など要望
 1965(昭和40)年07月23日(金) 35:34『中国新聞』「廃墟からの道」立ちのき組が集中 一夜でバラックの町
  任都栗 司 市議会議員(当時)「原爆スラム」という言葉の考案者
  とにかく、広島で一番ひどい場所に「原爆スラム」の冠詞をつけ、住宅対策に役立てよう
 1965(昭和40)年06月25日(金) 36:51 13:00~16:00「原爆被爆者住宅対策に対する建設省打合せ◎◎について」
 1967(昭和42)年07月27日(木) 41:23 相生通大火:白黒映像
 https://www.dailymotion.com/video/x7n2bim
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「原爆スラム」番組にヤンキーが映る理由 NHKディレクターの"ふんわり"手法
 2017(平成29)年06月25日(日) 11:00『PRESIDENT Online』更科修一郎 #広島 #原爆
 日本のテレビドキュメンタリーで「戦争もの」は大きなテーマだ。今年6月に放送された2本の番組のうち、1本は88歳による「伝統の集大成」だったのに対し、もう1本はまるで『ドキュメント72時間』のように「ゆるい」番組だった。だが、コラムニストの更科修一郎氏は、後者に込められた「青臭さ」を評価する。その理由とは――。
‡2017(平成29)年06月11日(日)『テレメンタリー2017』(テレビ朝日)は、「もうひとつのヒロシマ~88歳ディレクター 執念の取材~」であった。88歳のテレビディレクター、鈴木昭典がニュージーランドで70年間続いている「ヒロシマ・デー」というイベントを訪れる場面から始まる。原子爆弾投下後の広島に駐在した連合国軍はイギリス連邦軍が中心で、広島の惨状に衝撃を受けたニュージーランド軍兵士が帰国後に始めたのだ。鈴木の視点は、なぜ、日本から遠く離れたニュージーランドで「ヒロシマ・デー」が続いているのか、という疑問へ踏み込んでいく。現地の現代史研究家がマーシャル諸島の核実験後に生まれた奇形児(ジェリーフィッシュベイビー)の写真を紹介し、クリスマス島の核実験に参加した退役軍人たちへのインタビューが続く。そして、被爆の後遺症を抱える彼らへの染色体調査から、放射能被曝による染色体異常が彼らの子孫にまで影響していることが示唆される。その真偽はさておき、イギリス本国から離れたニュージーランドはイギリス連邦の核実験場であり、広島への原爆投下は遠い国の出来事ではなかった。イギリスが撒き散らした呪いが結果として、別の遠い国の惨劇を語り継ぐ運動を創り出し、1987年、デビッド・ロンギ政権時代に非核法が成立したが、鈴木がその成立経緯を知るジェフリー・パルマー元首相と面会する日に「偶然」、日本の核禁止条約交渉不参加が伝えられた。元首相は「当然」、失望のコメントをつぶやく。非核法の理念の元になったのは、日本国憲法だったのに、と。次に、鈴木はフランスが南太平洋で行っていた核実験を追っていく。1966年から193回の核実験を行ったフランスは、ニュージーランドなどの反対活動を受け、1996年、ようやく実験を停止した。フランス領だったタヒチ島の住民もまた、核実験の影響と思われる奇怪な健康被害を訴え、核実験被害者支援団体の代表やムルロア環礁の核実験場で働いていた男性へのインタビューが入る。取材を終えた鈴木が、戦争体験者の矜持から核廃絶と平和を訴え、映像は終わる。テレビドキュメンタリーとしては模範的な構成だが、88歳のテレビディレクター、鈴木の作為が随所に見え隠れする。そもそも、88歳のテレビディレクター、鈴木昭典とは何者なのか。
■テレビドキュメンタリーの基礎をつくった男■鈴木昭典の名前は、日本のテレビドキュメンタリーの歴史の中に見つけることができる。NHK『日本の素顔』の吉田直哉、日本テレビ『ノンフィクション劇場』の牛山純一のように、伝説化されてはいないが、朝日放送で『カメラルポルタージュ』(“ネット局腸捻転”時代のため、東京ではTBSで放送された)を手がけていた鈴木は関西の雄であった。1960年代、『日本の素顔』『ノンフィクション劇場』『カメラルポルタージュ』で用いられた手法は三者三様で、互いに影響を与えながら、絡み合う「語り」と「映像」で「時間」を捉えようとしていた。そして、日本のテレビドキュメンタリーの基本フォーマットを作り上げていくのだが、鈴木が名を残している最大の仕事は、政治学者・五百旗頭真と組んで制作した終戦占領史のシリーズであろう。「トップシークレット 救われた日本の分割占領」(朝日放送/1985年)では、アメリカ政府内部に於ける対日占領政策の推移を追い、定年退職後、自身の番組制作会社「ドキュメンタリー工房」で制作した「日本国憲法を生んだ密室の9日間」(朝日放送/1993年)では、ケーディス元GHQ民政局次長が自らの主導していた占領政策の正当性に固執する自己顕示欲もあったとはいえ、彼の部下であったベアテ・シロタ・ゴードンという無名の女性が人権条項の起草に携わっていた歴史的事実を発掘し、同名の単行本も刊行された。その「ドキュメンタリー工房」で制作された新作「もうひとつのヒロシマ~88歳ディレクター 執念の取材~」は、日本のテレビが半世紀以上かけて試行錯誤してきた伝統的テレビドキュメンタリー手法の集大成と言える。だが、伝統の集大成がすべて「正しい」とは限らない。たとえば、「もうひとつのヒロシマ~88歳ディレクター 執念の取材~」というタイトルがそうだ。誰が付けたのかは知らないが、「日本国憲法を生んだ密室の9日間」で老いたケーディスが自己顕示欲を隠さなかったような、微妙な疑念を抱いてしまうのだ。より具体的に言うと、ドキュメンタリーの最後を戦中派の心境吐露でまとめてしまう作為は、同世代には共感されるのだろうが、そうでない世代には、カメラが捉えたそれまでの事実に濁った印象を付け加えてしまう危険性もある。もっとも、洗練された技巧派の映画監督であった岡本喜八ですら、隙あらば戦中派の心境吐露を入れようとする悪癖があり、そのたびに観客を困惑させていたから、呪わしい記憶を抱えた世代の宿痾なのかもしれないが。
 2017(平成29)年06月15日(木)は『ETV特集』(Eテレ)「“原爆スラム”と呼ばれた街で」の再放送を観ていた。矢部裕一ディレクターの一人称で語られる映像は、前述の「もうひとつのヒロシマ~88歳ディレクター 執念の取材~」と比べると「ゆるい」。しかし、冒頭、河川敷でバーベキューを楽しんでいる地元のヤンキーたちが原爆スラムの存在すら知らないと語る場面から入ったのは、このドキュメンタリーの意図をはっきりと感じさせた。そして、矢部が最初に思い出したのは、映画『仁義なき戦い 広島死闘篇』(1973年)だ。『仁義なき戦い』シリーズの大半は東映京都撮影所周辺で撮影されたが、この作品だけ広島ロケが行われている。1973年の広島にはまだ、辛うじて原爆スラムが残っており、いくつかの風景が「1950年頃の広島」として映っている。
■高度経済成長期のバラック住民たちを訪ね歩く■1978年まで、広島の爆心地近くの川岸に、家を失った人々の集落があった。1945年9月、原爆投下に続く枕崎台風の惨禍の後、広島大本営第五師団司令部の跡地に越冬用バラックを建てたのが発端で、これが「相生通り」と呼ばれるバラック集落へ発展した。現在の相生通りとは異なり、本川沿いの基町一帯に存在していた集落は1950年代に入ると、狭い路地の両側に老朽化したバラックと不法家屋が幾重にも立ち並ぶ迷路のようなスラムと化した。映像はかつて「相生通り」で暮らしていた人々の「現在」を追う形で進行していくが、手がかりとなるのは『日本の素顔』や『現代の映像』で撮ったわずかな映像と、1970年に広島大学が学術調査で作成した700戸の見取り図だけだ。大きさや形は不揃いで、ひとつとして同じ建物はなかったが、中にはカラーテレビ、ステレオ、三面鏡、洋酒棚、ミシン、洗濯機、ピアノ……外観は不格好だが、高度成長期の庶民生活はそれなりに充実していた。原爆スラムという言葉のイメージからかけ離れた生活風景に驚いた矢部は、当時の住人たちを訪ね歩く。当たり前のことだが、原爆スラムには、被爆者だけが住んでいたわけではなかった。秋田からやってきた廃品回収業の裕福な一家。焼酎ばかり飲んでいたアル中のおっちゃん。郊外の山村からやってきた失対労務者(失業者救済対策としての公共事業に従事する労働者)の大家族。在日コリアン2世の入市被爆者……それぞれの人生を辿っていくうちに、戦後の復興と共に消滅していくはずの原爆スラムがいつの間にか増殖していた、という現象に突き当たる。復興に伴い、市内に点在していた他のバラック集落が急速に整理され、立ち退きを余儀なくされた人々が一時避難的に「相生通り」へ移り住んだのが原因だった。かつての移住者の一人であるおばちゃんとの会話は、矢部がバラック増築に用いる鎹(かすがい)を知らなかったので、まるで『ドキュメント72時間』のように「ゆるい」のだが、ぼんやりと疑問が浮かび上がってくる。「相生通り」の住人たちは、自分たちの街を原爆スラムとは呼ばない。
 https://president.jp/articles/-/22435?page=2


 伝説のすた丼屋 ゆめタウン廿日市店
‡2015(平成27)年06月11日(木)オープン
 2021(令和三)年08月31日(火)閉店
 https://kaiten-heiten.com/sutadonya-yt-hatsukaichi/
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【ゆめタウン廿日市店】閉店のお知らせ
 平素は格別のご愛顧を賜り、誠ににありがとうございます。この度、「伝説のすた丼屋 ゆめタウン廿日市店」は
 2021(令和三)年08月31日(火)を持って閉店させて頂きました。長い間、ご愛顧頂き誠にありがとうございました。 
 https://sutadonya.com/2021/09/01/post_26/
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 映像◆【ゆっくり解説】伝説のすた丼が大量閉店の理由について 実は偽物だった!?https://youtu.be/mAUOpQ8wkh8
 

■猪木映像◆'85 IWGP&WWFチャンピオンシリーズ
‡1985(昭和60)年06月11日 東京体育館 85IWGP優勝戦
 アントニオ猪木 VS アンドレ・ザ・ジャイアント
 https://njpwworld.com/p/s_series_00060_1_2

 1934(昭和九)年01月01日(月) 開設
 1963(昭和38)年03月21日(木) アルカトラズ刑務所は閉鎖
 https://ja.wikipedia.org/wiki/アルカトラズ島#連邦刑務所時代
 1962(昭和37)年06月のアルカトラズ脱獄事件
‡1962(昭和37)年06月11日(月) 22:30頃
 https://ja.wikipedia.org/wiki/1962年6月のアルカトラズ脱獄事件

 

 映像◆【参政党】家族に聞かせたい!
 300人が立ち止まる武田邦彦の圧倒的な街頭演説!https://youtu.be/Ce5-JElCqL4
  2022(令和四)年06月17日(金) 10,704回視聴21:43 2022/06/22(水)
‡2022(令和四)年06月11日(土) 街頭演説@吉祥寺 武田邦彦 フルVer
 00:00 武田邦彦先生
 00:27 日本が昔は発展出来た理由
 02:35 何故日本は衰退したのか?
 04:50 今我々が不幸せになってしまった理由
 07:32 多様な生き方が政策に反映されない諸悪の根源
 08:05 英語教育なんて全く要らない理由
 13:07 日本の産業が潰れた理由と犯人
 14:12 小池都知事と小泉環境大臣は環境の素人
 16:34 我々の孫は中国のコンビニへ出稼ぎに…
 17:55 日本文化が世界一優れている理由
 21:24 イクメンは科学的に間違っている
 30:45 こんな屈辱ありません!
 33:48 100人超のサイン会(お疲れ様です!)
 コメント・・・こんなに色んな視点を学べる街頭演説、聞いた事ありません…79歳にして連日全国の街頭演説。しかも参政党は旅費や宿泊費すら自費だそうです…この講演の直後に100人超のサイン会、その1時間後に3時間の講演会はハード過ぎです笑
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 日本という国は実際にはない???
 2022(令和四)年06月11日(土) 12:03:25 テーマ:ブログ 公式ジャンル記事ランキング:シニア425位
 よく近頃は、「救急車がピーポーピーポー言って大変だね」と周りの知人から話を聞かされる。ようやく、「人々も気づいてくれてきたかな?」と、筆者は思った。しかし、よくよく会話を聞いてみれば、「コロナは怖いわね」というオチになるのでした。そうではなく、ワクチンが恐ろしい事に世の中の大半の人間は気が付かないのであります。コロナワクチンの後遺症は、後を絶ちません。日本においても、既に数十万人が亡くなっていると思われます。また、歴史を振り返れば、1960年前後に「サリドマイド事件」が起こりましたが、これは妊婦がこの睡眠薬を飲むと奇形児が産まれるという出来事であったのでした。世界では約1万人の被害があり、日本においても数千人の被害者が出たのです。勿論、サリドマイドは発売中止となったのであります。しかしながらも現在、日本国政府は4回目のコロナワクチン接種を推奨しているのです。なぜ?これ程までに危険なワクチンを国民に押し付けるのでしょうか?日本という「国」は、一体どうなっているのでしょうか???ということで、次の動画をご覧下さい。これでは、新しい「政党」が現れても意味がないのです。
 https://ameblo.jp/jam512412/entry-12747665907.html
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 日本という国は実際にはない。
 アメリカから指示が来ている。
 2022(令和四)年04月17日(日)
 https://www.facebook.com/watch/?v=1036803923572913&ref=sharing
 映像◆日本という国は実際にはない。 アメリカから指示が来ている。
 https://odysee.com/@%E3%81%82%E3%82%8A%E3%81%97%E3%81%8B%E3%81%AE%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB:8/signal-2022-05-21-20-38-50-418:5
 映像◆日本という国は存在しない
 https://odysee.com/@PYONTAKA:3/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%A8%E3%81%84%E3%81%86%E5%9B%BD%E3%81%AF%E5%AD%98%E5%9C%A8%E3%81%97%E3%81%AA%E3%81%84:a
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 誇りを失った日本人!!!
 2022(令和四)年06月26日(日) 19:16:04 テーマ:ブログ 公式ジャンル記事ランキング:シニア41位
 先日、筆者は年配者と話をする機会があった。年配者曰く、「戦後生まれの日本人は、同じ日本人だと思いたくない!」と、言い放った。その年配者は、昭和15年生まれで82歳だとのことです。それもその筈で、戦前までの日本人というのは、「お国の為」、「人の為」に尽くすのが人間としての基本的な生き方だったのでした。ところが、戦後はGHQによる「愚民化教育」の弊害により、「国家の役に立つ人間」は、以後排出出来なくなってしまったのであります。自民党は、相変わらず「人気投票」を選挙で行っております。筆者の友人は、「どうせ何もできないんだから、税金の無駄だから辞めて欲しい」と、憤慨するのでした。そして、候補者は「在日」ばかりなのです。これで、「日本」という国が良くなるわけがないのです。また、国政選挙に出馬する為には、「お金」がかかりますから一般人にはハードルが高く、これによって「まともな人」を選挙から除外しているのであります。プロ野球の監督であれば、2・3年で「結果」が残せなければ、当然「解雇」されるのが当たり前なのです。ところが、大物政治家達は私達の生活を壊す一方で、「結果」を残す事は出来ず、「地位」と「高給」に居座るだけではないでしょうか???ということで、次の動画をご覧下さい。
 ♪頼りなく豊かなこの国に・・・♪
 https://ameblo.jp/jam512412/entry-12750356064.html
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『ルネサンス』「日本」とは何か? 「日本人とは何か?」
 https://in.renaissance-sk.jp/skrs_2104_ppc_gdn
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 映像◆このままだと日本終焉です
 日本の現状を知っていますか?自分には関係ないでは済まされない状況になっています。
 https://www.nicovideo.jp/watch/sm40594464
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 映像◆日本人の99%が気付かない水面下で進む侵略計画https://youtu.be/-oh7YCSoSSc
 2022(令和四)年06月01日(水) 34,221回視聴  2022/06/01
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 https://twitter.com/chan79140571/status/1533364031683457026

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