(その33)6番目のシングル「キャント・バイ・ミー・ラヴ」の制作
2016-01-23
アメリカで大成功を収めてイギリスへと凱旋した彼らでしたが、早速、新しい楽曲の制作とレコーディングが待ち受けていました。しかも、初の主演映画「A Hard Days Night(ア・ハード・デイズ・ナイト)」の制作も控えていたのです。この映画についてはまた改めて書きますが、その公開に合わせてサウンドトラック盤もリリースすることになっていました。しかも、その収録曲は全曲オリジナルですから、当然、ビートルズ自身が作り、レコーディングもしないといけません。しかも、寝る暇も無いほどの忙しさを縫って。しかし、天才の彼らにそんなものは障碍でもなんでもありませんでした。
少し時間を遡りますが、ビートルズは、渡米する直前の1964年1月29日に6番目のシングルとなる「Can't Buy Me Love (キャント・バイ・ミー・ラヴ)」の制作に取り掛かりました。この曲は、ビートルズがパリのオリンピア劇場で19日間公演している間に作られました。ポールは、こう語っています。「個人的に思うのは、この歌詞は、どんな風にでも解釈できるということだよ。でもさ、誰かがこれは売春婦を描いた曲だなんて言ってるけど、そりゃいくら何でも極論だよ。」
ビートルズは、パリのジョルジュ・サンク・ホテルのスイート・ルームの片隅にアップライト・ピアノを持ち込んで、近づきつつある彼らの初主演映画の公開に向けて、この曲を書いたとされています。この曲は、ポールによって書かれましたが、グループとしては初めてヴォーカルが一人だけの曲となりました。
ジョンは、この曲でポールの才能に脅威を感じ、彼のビートルズのリーダーとしての地位が脅かされると思ったのか、この曲がシングルとしてリリースされた後、彼は、アルバム収録曲の13曲中10曲を書きました。ジョンとポールは、メンバーでもあり、良きライヴァルでもあったのです。
ところで、この曲のタイトルと歌詞についてはちょっとした論争があるんです。タイトルを日本語に文字通り翻訳すると、「君は、僕に愛を買うことはできない=お金で僕の愛を買うことなんてできない」となりますよね?(主語のYouは省略してるとして)「キャント・バイ・『ミー』・ラヴ」ですから。
でも、そうすると歌詞と何だかチグハグな感じになるんです。歌詞の大まかな意味は、「君が喜ぶなら、ダイヤモンドの指輪でも何でも買ってあげる。でも、愛はお金じゃ買えない。お金で買えない物が欲しいって言ってくれ。君がそう言ってくれたら僕は満足さ。」っていう感じです。
つまり、これは愛する彼女に対し、金では買えない物を自分に求めて欲しいと訴えているわけです。この二つを比べてみて、あれ、何か変だなって思いません?タイトルは、僕は、君にいくらお金を積まれてもそれにつられて付き合うような軽い男じゃないよ、というような意味です。
タイトルが僕の愛はお金では買えない、と言いつつ歌詞では僕は君の愛をお金で買おうとは思わないと言ってるんです。前者はいわば自分が愛を求められる側の立場、後者は愛を求める側の立場で語っていて、まるっきり入れ替わっています。
で、この矛盾(?)を解き明かす説として、「キャント・バイ・ミー・ラヴ」は、本当は「キャント・バイ・『マイ』・ラヴ」のことなんだという解釈があります。なぜ、こう解釈するかというと、ビートルズはリヴァプール出身で、ヴォーカルにスカウス(リヴァプール訛り)が入っていることは良く知られているんですが、リヴァプールでは「my」を「me」と発音します。確かに、彼らのスカウスは、ヴォーカル中にも所々現れていたことは事実です。
そして、スカウスで「my」を「me」と発音するのも事実です。例えば、共通語で「It is my book」と発音すべきところをスカウスでは「It is me book」と発音します。ただし、「自分の」ということを強調する場合は、スカウスでもちゃんと「my」と発音します。
しかし、とっくにリヴァプールを卒業し、全米も制覇して世界でトップの地位に上り詰めたバンドが、いまさら正式なタイトルに方言をまんま使いますかね?それに発音だけなら聴き逃すかもしれませんが、スペルだったらモロに分かっちゃうじゃないですか?それに歌詞の中には他にも「my」を使っている箇所があり、そこはちゃんと表記してますから、どう考えてもこの解釈には無理があると思います。高名なビートルズ評論家の中にもこの説を唱える方がおられるんですが、ちょっと疑問です。
それに、そもそもイギリス人の英語とアメリカ人の英語とでは、発音が違うところが色々あります。例えば、「can't 」をイギリス人は「カーント」と発音しますが、アメリカ人は「キャント」と発音します。ですから、もし、ビートルズが相変わらずリヴァプール訛りでこの曲を歌ったとしたら、「カーント」バイ・ミー・ラヴという風に発音したはずです。でも、ポールは、「キャント」とはっきり発音しています。
ロックは、元々アメリカ発祥の音楽ですから、アメリカ風に発音したほうがノリがいいし、歌い易い訳です。ですから、ビートルズがデビューする前も、たくさんのイギリスのバンドがアメリカのロックをコピーしていましたが、その時の発音は、できるだけアメリカ英語でやるようにするのが暗黙の了解でした。彼らが影響を受けたエルヴィス・プレスリーやチャック・ベリーもアメリカ人ですから。やっぱり、ロックはアメリカ英語じゃなきゃ、イギリス英語ではしっくりこないんですよ。ここから考えても、ビートルズがイギリス英語、ましてやスカウスを使っていたとは考えにくいです。
じゃあ、ビートルズのヴォーカルに全くスカウスが無かったかというとそんなことは無くて、前期の曲の中に所々に出てきます。例えば、アルバム「A Hard Days Night」中の「If I Fell」というジョンがリード・ヴォーカルを取っている曲があります。この曲の中でジョンは、「before」を「ビフォ(正しくはビフォア)」、「more」を「モ(正しくはモア)」と発音しています。これは、メロディーとの関係で敢えてそう発音したというよりは、思わず出ちゃったんでしょうね(笑)同じ「before」の発音でも、ポールは、映画「Help」中の「The Night Before」でリード・ヴォーカルをやってますが、正しく「ビフォア」と発音しています。
地元の人に言わせると、ビートルズの中ではジョンが典型的なスカウス使いで、その次がジョージだそうです。でも、ジョージの方が訛りが強いという人もいます。私もそう思います。彼のインタビューを聞いてると、かなり鼻にかかったような独特の発音ですね。それから、リンゴもスカウスが強いと。これも反対の意見の人もありますけど。ただ、ポールは、元々あまりスカウスが無かったという点では皆一致しています。子どもの頃から母親に言葉使いをうるさく注意されていましたから。
ディープなスカウスは、英語圏の人でもなかなか聞き取れませんf^_^;日本の方言だと、青森弁とか鹿児島弁ぐらい、ネイティヴが話すとかなりディープです。ビートルズがデビューした頃、多くの大人が彼らのスカウスが聞き取れないと言っていました。確かに、インタビューではスカウスが出てきてますが、曲の中ではそれほど目立つとは思えないんですがね。彼らは、あくまでアメリカのロックをお手本にしてましたから。まあ、彼らのおかげでスカウスが世界的に有名になったことは間違いありません。
あ、そうそう、典型的なスカウスを聴きたければ、アルバム「Abbey Road」の中の「Polythene Pam」を聴いてください。これはジョンがワザとスカウスを使って歌っています。例えば、「girl」と言う単語は、「ガール」ではなく「ゲアル」と発音しています。それから、アルバム「Let It Be」中の「Maggie Mae」もスカウスで歌っています。これはリヴァプールの船員の間で古くから歌われていた曲だとか。今でもリヴァプールの若い人は、普通にスカウスで話すらしいですね。
また話が脱線しました(^_^;)こんな風に歌詞の解釈が分かれるややこしいことになっちゃってますが、それでも「愛はお金じゃ買えないんだ」って重要なメッセージがちゃんと伝わってるんですから、それでいいでしょう。ポール自身もどんな風にでも解釈できると言ってますし。
ジョンは、こう語っています。「この曲は、完全にポールの作品だ。僕は、多分、コーラス位はやったかもしれないけど、覚えてないんだ。僕は、ずっと彼の曲だと思ってるよ。」この曲は、映画の中で2回挿入されています。最初は、彼らがマネージャーの監視の目を逃れて、テレビ・スタジオから飛び出して広場ではしゃぎ回る場面と、もう一つは、激しく彼らを追跡する警官から逃げる場面です。
プロデューサーのジョージ・マーティンはこう語っています。「これは、僕が音楽を書いた最初の映画だった。僕がミュージシャンでしかもディレクターであったことが有利に働いたね。我々は、いつも曲を収録する時と同じように映画の中の曲を収録した。そして、レスター監督は、我々がすでに収録した多くの曲を使った。例えば、『キャント・バイ・ミー・ラヴ』は2回使われたよ。」映画ではジョン、ポール、ジョージの3人が思いっきり飛び跳ねてるのに、リンゴだけがちょこんと飛んでるのがユーモラスですね(笑)
このビートルズが楽しそうに飛び跳ねているシーンは、今でも彼らのトリビュートバンドの宣伝用のスチールに盛んに使われています。
これはロンドンで偶々見つけた看板です。やはり、この映画の一シーンが使われてますね。こういうトリビュートバンドって沢山あるんですが、日本にも良く来てますし、私も何度か観に行きました。まあ、顔から声から良く似てますね?f^_^;
ポールが右利きなのが、ちょっと気になりますが(笑)でも、私はまだ観たことがないんですが、フェイスブックのグループに所属するビートルズ・ファンの方に聞くと、ちゃんと左利きのポールも結構いるんだそうです。しかも、元々右利きなのに、わざわざ左手にベースを持ち替えて演奏してるんですと。いやはや、プロとは大したもんです。初期の頃から解散に至る寸前まで、衣装を変えながら辿っていくんです。ジョンがちょっとガニ股で、右肘を張ってギターを抱えて、アゴを少し上げ気味に歌っている姿なんか良くマネてますね。もちろん、歌も良くマネてます。
この頃から「ヘルプ」辺りまでのビートルのメンバーは、本当に仲が良くて楽しそうですね。これがずっといつまでも続けばよかったんですが、残念ながらその時期はそんなに長くは続きませんでした。やがて、彼らはそれぞれの道を歩み始めます。
(参照文献)
THE BEATLES BIBLE, CDANDLP.COM, PHOTOBUCKET, feelnumb, George Harrison Tribute, Moicani - L'Odeonie, The Beatles
(続く)
http://abbeyroad0310.hatenadiary.jp/entry/2016/01/23/004706
(その34)ついに不滅の記録を達成!!
2016-01-26
おかげさまで、このブログの月間PVが現時点で1,400件を超えました。このペースで行くと、今月の月間PV は1,500件に達しそうです。閲覧して頂いている皆さん、ありがとうございますm(_ _)m
このレベルに到達すると上位3割以内にランクインするとのことで、ブログとしては一応及第点なんだそうです。つまり、「とりあえず月間1,000PVを目指す」というのが初心者ブロガーとしての目標なんだそうです。もちろん、月間10万PVを超えるようなレジェンドブロガーの皆さんの足元には到底及びませんが、自分としては予想外の反響で嬉しいです。
始めた頃は、「よほど誰もが興味を持ってくれるようなネタを提供しないと、誰も読んでくれないんじゃないか?」と不安でした。誰でも、自分の興味のあることしか読みませんからね。それに、私は著名人でもなければ、人が経験してないような珍しいことを沢山経験したこともありません。要するに「ネタ」が無いと思ったんですよ。
しかし、自分の大好きなビートルズのことを書くんだし、少しでも読んでもらえる方がいれば、それで良いじゃないかと割り切って始めることにしました。書いているだけで楽しくなってきます。さらに、それを読んでくださる方がいて、読者になっていただいているので、なおさら嬉しくなります。記事を書くのは、結構大変なんですが、これからも頑張って続けていきます。
「キャント・バイ・ミー・ラヴ」について、レコード・エンジニアのジェフ・エメリックはこう語っています。
「それは、それまでビートルズのシングルのA面を急いで収録した時みたいに興奮する作業だった。でも、どうしても最初に克服しないといけない技術的な問題があったんだ。そのことは、テープを持って帰って再生した時に気が付いた。それは、多分、テープを雑に巻き取ったためにキズが付いてしまったせいだと思う。リンゴのドラムのハイハットの高音部が途切れ途切れになってたんだ。」
「短時間でトラックをちゃんとミックスして、プレス工場へ持ってかなきゃならなかったから、物凄いプレッシャーだったよ。それにビートルズはツアーの真っ最中だったから、彼らに手助けしてもらうこともできない。それで、ジョージ・マーティンとノーマン・スミスでちょっと手直ししたんだ。」
「僕が最初一生懸命エンジニアの席で作業してたら、ノーマンはスタジオで僅かの間にハイハットをセットして、2トラックと2トラックのダビングをやりながら、サウンドを追加してオーヴァー・ダビングしようと努めていた。彼にはとても感謝してるよ。ノーマンのドラマーとしての技術がかなりなものだったから、修復は素早く完璧にできたんだ。」
この曲の大部分は、
●1964年1月29日にツアーで滞在中のパリのEMIのパテ・マルコーニ・スタジオで収録されました。実は、この時、「シー・ラヴズ・ユー」「アイ・ウォント・トゥ・ホールド・ユア・ハンド」のドイツ語バージョンも収録したんです。「Sie Liebt Dich」「Komm Gib Mir Deine Hand」の2曲です。
というのも、西ドイツにあるEMIの支社の「エレクトラ・ゲゼルシャフト』というレコード会社が「ドイツではドイツ語でないと売れない」と主張したからです。そんなアホなとブライアン・エプスタインとジョージ・マーティンも思ったのですが、相手が強く主張するのでやむを得ず承諾しました。予定より早く終わったこの2曲の収録の後に、キャント・バイ・ミー・ラヴ」を4テイクで収録しました。
このドイツ語バージョンの収録の際にはちょっとした騒動がありました。実は、ビートルズは、この収録には最初から乗り気でなく、2日前の収録をすっぽかしてしまったんです。マーティンは、こう語っています。
「私は、ドイツ語のコーチのオットー・テイラーと2人でビートルズが来るのをスタジオで待っていた。ところが、約束の時間を1時間過ぎても、彼らはスタジオに現れなかった。」
「私は、頭に来て彼らが宿泊しているジョルジュサンクホテルのスイートルームに電話をかけた。すると、運転手のニール・アスピノールが彼らはまだ寝ていてスタジオへは行かないつもりですと答えたんだ。」
「彼らが私に反抗したのは、これが初めてだった。私は、ニールに言った。『彼らは約束を破っただけでなく、自分達でそれを言わずに君に言わせるのか?よし、分かった。今すぐそっちへ行って、とっちめてやるからなヽ(#`Д´#)ノ』」
「私は、ドイツ語の通訳と一緒にタクシーに飛び乗り、ホテルへ向かいスイートルームに飛び込んだ。そこで、私は、信じられない光景を目にしたんだ。彼らは、優雅にお茶をしてたんだよ。ポールの恋人のジェーンアッシャーが、赤毛のロングヘアをなびかせてお茶を入れていたんだ。彼らは、まるで『不思議の国のアリス』に登場する野ウサギみたいに彼女を囲んで座っていた。
「彼らは、私を見るなり、校長先生が教室へやって来た時の生徒みたいに慌てふためいて、ソファーの下に潜り込んだり、カーテンの後ろに隠れたりした。『全くどうしようもない連中だ!』と私が叫ぶと彼らは、イタズラ小僧のような笑顔と謝罪の表情を浮かべた。」
マーティンがスイートルームへ飛び込むと、彼らは家具の後ろにコソコソ隠れて小さな声で「ジョージ、ごめんなさい。ジョージ、ごめんなさい。」とコーラスで歌ったのです。この茶目っ気タップリのイタズラ小僧たちに、流石のマーティンも思わず笑ってしまいました。「君たちは僕に謝って、オットーには謝らないのかい?」というと、今度は「オットー、ごめんなさい。オットー、ごめんなさい。」とまたコーラスで歌いました。マーティンが、この駄々っ子達を何とかなだめすかしてスタジオまで連れて行き、収録に漕ぎ着けたのはもちろんです。
まあ、何とか収録はしたんですが、でも、聴いているといかにも嫌々演奏してるって感じがありあり分かりますね(特にジョン)(笑)そう、マーティンからデビュー曲を彼らのオリジナルの「ラヴ・ミー・ドゥ」ではなく、「ハウ・ドゥ・ユー・ドゥ・イット」でいくと言われて収録した時みたいな感じです。
結局、彼らが一曲まるごと外国語で歌ったのは後にも先にもこの2曲だけでした。これに関しては彼らの判断の方が正しかったわけですね。それから、ドイツ人に言わせると、彼らのドイツ語は決して上手くないとのことです。
さて、この曲の構成についてですが、ビートルズは、最初ギターのイントロから入って、Aメロに入るつもりだったのですが、マーティンは、いきなりサビのコーラスから入るよう予備リハーサルの間で彼らに提案しました。
「私は、曲のエンディングとイントロにインパクトが必要だと思っていたんだ。コーラスの最初の2行を取り上げ、これをイントロとエンディングに持っていき、Aメロを挟むとスマートにコードが進行して流れが良くなる。つまり、いきなりサビから入ってサビで終わるってことにしようと提案したら、彼らは『それは悪くないアイデアだ、そうしよう。』って言ったよ。」このマーティンの提案は大成功でした。ポールのシャウトがいきなりガツンと来ますから。
最初の2テイクの2番目は、アンソロジー1で聴くことができますが、それはちょっとブルースっぽい曲調で、ビートルズが最初に考えていたものです。ボールは、この時に後にアビイ・ロード・スタジオで差し替えられることになるガイド・ヴォーカルを歌いました。ジョンとジョージはバックコーラスを歌い、そこで彼らは、「Ooh satisfied」「Ooh, just can't buy」とボールのリード・ヴォーカルにコーラスを入れたんですが、これは早い段階でボツになりました。
ジョージのオリジナルのギターソロも、マイクの不調のために採用されませんでしたが、後にオーヴァー・ダビングされたヴァージョンで聴くことができます。ステレオ・ヴァージョンの方がギターのサウンドが一つ多く聴こえることになります。まあ、こんなに色んなテイクをそのままリリースしてしまうなんて、現代では考えられませんが、この当時は結構アバウトだったんですね。もっとも、そのおかげで、ファンはテイク違いをそれぞれ聴き分けて楽しめますが。
ジョージはこう語っています。「僕達は、テープをイギリスに持って帰って手を入れようと思った。僕は、この曲を分析した批評を読んだんだけど、それは僕のギターがダブル・トラックになっていて、オリジナルのもダブって聴こえるからあまり良くないって指摘してたんだ。最初にパリで収録して、その後イギリスでもう一回収録した時に前のサウンドをちゃんと消せなかったんだね。レコーディング・スタッフは、オーヴァー・ダビングしようとしたんだけど、その当時はダブル・トラックしかなかったから、ロンドンで収録したサウンドがバックでちょっと聴こえちゃうんだ。」
ポールが最終的なリードヴォーカルをテープに収録した同じ日、2回目のギター・ソロが、1964年2月25日 、ちょうどジョージの21回目の誕生日に収録されました。リンゴのハイハットを追加したステレオミックスも、スタジオ・エンジニアのノーマン・スミスがオーヴァー・ダビングして収録しました。この作業は、1964年3月10日に映画「ア・ハード・デイズ・ナイト」を撮影する間を縫って行われました。
この曲は、リリースされるやたちまち世界的なヒットとなり、殆どの国のチャートのトップに立ちました。イギリスでは100万枚、アメリカでは210万枚も予約され、史上初めて予約だけで100万枚以上売れたシングルとなり、ギネス記録にもなりました。イギリスより少し前にアメリカでリリースされ、最初の週で200万枚を売り上げ、リリースされたその日の1964年3月16日にゴールド・ディスクを獲得しました。
最終的にアメリカでは300万枚以上、イギリスでも150万枚以上を売り上げました。この曲はチャート27位からスタートし、2週間で一気に1位を獲得しました。また、3曲連続でシングルチャートの1位に輝き、この曲が1位になった4月11日から2週間、ビートルズは、同時にビルボードホット100のチャートに14曲を送り込みました。27位から一気に1位になったことと、初登場から2週間で1位を獲得したことは、ビルボードホット100の当時の新記録であり、その後長い間破られませんでした。
4月4日には、キャッシュ・ボックス、ビルボードホット100というアメリカの2大音楽誌のヒット・チャートの1位から5位までをビートルズの曲が独占するという音楽史に残る大記録が打ち立てられました。この記録は50年以上経った今でも破られていません。いや、永遠に破られることはないでしょう。まさに不滅の記録です。
http://abbeyroad0310.hatenadiary.jp/entry/2016/01/26/015027
# 07. The Beatles - (BBC Radio, "THE TALENT SPOT" # 2, January 29, 1963) 2:23 http://youtu.be/-Ga8kQmP8rc?list=PL996D1929777B575A
BBC Paris Theatre, London
01. "Please Please Me" (Currently Unavailable)
02. "Ask Me Why" BBC.07.02 (Recently Discovered)
03. "Some Other Guy" (Currently Unavailable)
RECORDED: (tue)22 January, 1963, 8:45~9:30 p.m.
‡TRANSMITTED: (tue)29 January, 1963, 5:00~5:29 p.m.
ANNOUNCER: Gary Marshal
PRODUCER: Brian Willey
A recently rediscovered song.
でも、ありました、ありました、すごいお宝の会員カードが!1963年発行のビートルズ4人全員の直筆のサインが入った貴重なものです。ジョンだけが黒のボールペンを使い、他の3人は青のボールペンを使ってますね。これは
●2011(平成23)年1月29日(土)にボーナムに出品され、3,600ポンド(約542,000円)で落札されました。カードの余白のページにサインしてあるのですが、ここはクラブの使用欄でホントはファンは書き込んじゃいけないことになってたんですけどね。ファンにすればビートルズのサインを貰えるんですから、そんなこと知ったこっちゃありません(笑)サインの偽物は腐るほどありますが、流石にこれは本物でしょう。BBCテレビのブロードキャスターだったデヴィッド・ジェイコブスのサインもこの後ろのページにあります。どういう経緯で彼がサインしたのか分かりませんが、当時、彼がキャバーンにいたとは思えないので、おそらく後年になってこのカードを持っていたファンがもらったものだと思います。 このカードを見ると、できることならその当時にタイムスリップして、ビートルズのショーを観たいという気持ちにかられます。これはファンなら誰しもが思うことでしょう。
http://abbeyroad0310.hatenadiary.jp/entry/2018/04/13/220000
1963(昭和38)年04月28日(日)、アンドリュー・ルーグ・オールダムがリッチモンドのクロウダディクラブで、ローリング・ストーンズのライヴを初めて観た日
2017(平成29)年04月28日(金) 執筆者:池田祐司
人生において「出会い」というものは、たいへん重要な出来事のひとつである。その偶発性において、幸せになったり不幸になったりする。言い換えれば、それが「運命」というものの正体かもしれない。アンドリューが、
1963(昭和38)年04月28日(日)にロンドンのクロウダディクラブに出演中のローリング・ストーンズのライヴを観に行き、魅力を感じ、しかしアプローチしていなければ、互いにその後の人生は大きく変わっていただろう。アンドリュー・ルーグ・オールダムは
‡1944(昭和19)年01月29日(土)生まれで、ストーンズを最初に観たとき彼は「19歳の少年」だった。彼の父親は空軍中尉で彼が生まれる前年に、ドイツの空爆で亡くなった。母親はオーストラリア系移民だったという。チャーリーが1941年、ブライアンが42年、ミックとキースが43年生まれだから、殆ど戦争さなかに生まれた同世代ということになる。アンドリューは、スィンギング・ロンドンの胎動を感じながら、マリー・クワントの助手をしたり、ビートルズのマネージャーだったブライアン・エプスタインの下で宣伝助手をしていたらしい。彼には野心があったと推測される。つまり、破竹の勢いで世界を席巻してゆくビートルズ旋風を間近に見て、「よし!俺も一発当ててやろう!」という気持ちだったのだろう。バンド・ハンターになっていた。ただ強い意欲はあっても、音楽的素養やビジネスの経験は、若さ故に殆どなかったと言っていいのではないか。初の公式録音「Come On/I want To Be Loved(オリンピック・スタジオ、5/10収録)」をデッカは却下し、あらためてデッカ・スタジオで再録音したという話がある。プロデューサー、アンドリューの最初の失敗である。むしろ、それが反語的に「現在ある奇跡の種子」を蒔いたとも言えまいか。
1963(昭和38)年04月28日(日)の一週間前に、ビートルズの4人が、同じようにクロウダディに出掛けストーンズを観て驚き、その感想をアンドリューに漏らしていたのかもしれない。若きアンドリューは信頼を得るべく知り合いのエージェントのエリック・イーストンを連れて万全の構えで出かけたのである。二人はストーンズを観た翌日に、イチも二もなく説得し、マネジメント契約を果たす事になる。それ以前に、ストーンズが1月にチャーリー・ワッツを勧誘確保し、バンドとしての体裁を整え、録音エンジニアのグリン・ジョンズの協力で、IBCスタジオで初めてのレコーディングを行なった「貴重な6曲入りのテープ」を気前よく90ポンドで買い上げている。同時にアンドリューは、「インパクト・サウンド」という芸能プロダクションを設立するという気合いの入れようである。トントン拍子だ。当時アンドリューは多分ドーパミンが出まくっていたのではないかと思われるほど、矢継ぎ早に「イメージ戦略」を提案する。まずは6人目のストーンズであるイアン・スチュワートを裏方に配置。さらに「アンチ・ビートルズ路線」すなわち「不良、反骨、反道徳」などのスキャンダル路線を打ち出し、雑誌や新聞に細かい指示を出して取材をさせる。キースの名前を「リチャード(Sを削除)」にしたり、ミックの舞台上の下半身動作に性的な暗喩を求めたりしたようだ。しかし、実際には、大々的な売り出し戦略は、試行錯誤の連続だったようだ。その実例が、ファーストシングル「Come On」を発売した後のTV出演で、お揃いの襟付きスーツを着用させたが、一度きりだったり、ビートルズに楽曲の提供を求めたりした。それは言わずもがな「I Wanna Be Your Men(彼氏になりたい)」である。(これは間近でビートルズの作曲法を見せたかったのかもしれない。)そして間断なく続く英国ツアーを設定したり、自身で「オーケストラ」を編成したりもした。常にビートルズに激しい対抗心を燃やしていたのは実はアンドリューだけだったのかもしれない。ビートルズがいち早くオリジナルでヒットを連発すると、負けじとばかりにミックとキースを「台所に閉じ込め」て自作曲に専念させた。つまり、彼の提示するアイデアの根底には、ビートルズだったり、フィル・スペクターだったり、何等かの成功者モデルがあったと推測される。ただひとつ独特の概念は「視覚的要素」であったようだ。丁度、テレビが世界的に普及し始めた時にストーンズの売れ方も延びて行ったと推測する。『英レコード・ミラー』の記者、ピーター・ジョーンズ曰く「ストーンズはルックスに魅力あり」と言う事だ。バンドの主導権に関しても、当初ブライアン・ジョーンズにあったものが、いつの間にかミックに移行したのもアンドリューの「仕掛けた罠」だったのではないかと思われる。その手法の中に、「ドラッグ仕掛け」があったとするマニアもいるようだ。そういった暗黙の駆け引きの中で、アンドリューは次第に自滅回路を疾走していった。1965年に米国人アラン・クラインをビジネス・マネジャーに雇い入れ、ついにはバンドの楽曲権利を譲渡する事を考え始めたのもアンドリュー自身だったようだ。そういうアンドリューを憐憫する歌がある。「Andrew's Blues」である。アンドリューと訣別するミックとキース共作曲である。アンドリュー・ルーグ・オールダムは1967年暮れに薬物中毒が原因でストーンズの仕事から退いた。まさに諸行無常のロックンロールである。
≪著者略歴≫池田祐司(いけだ・ゆうじ):
1953(昭和28)年02月10日(火)生まれ。北海道出身。1973年日本公演中止により、9月ロンドンのウエンブリー・アリーナでストーンズ公演を初体感。ファンクラブ活動に参加。爾来273回の公演を体験。一方、漁業経営に従事し数年前退職後、文筆業に転職。
http://music-calendar.jp/2017042801