過去の今日の出来事etSETOraですヨ(=^◇^=)

過去の今日のTHE BEATLESだヨ(=^◇^=)

 

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 ┃ 『THE BEATLES Get Back』┃
 ┃『ザ・ビートルズ:Get Back』┃
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 2021(令和三)年11月25日(thu) 
  1.Part1:第1~7日目(157分) ザ・ビートルズがトゥイッケナム・スタジオに到着。3週間で14曲を完成させ、ライブ・ショーを実現させようとする。
  S1:第1話「Part1:第1~7日目」ザ・ビートルズはアルバム用に新曲14曲の制作とライブ・ショーを計画していた。残された時間はたった3週間。トゥイッケナム・スタジオに到着した彼らには計り知れないプレッシャーが待ち受けていた。
‡1969(昭和44)年01月06日(MON) DAY3 0:44:23
  00:45:20 ジョージは自分の8トラック録音機を提供 George loans his 8-track recorder to the band, to use in their makeshift control room.
  ♪YOU WEAR YOUR WOMAN OUT♪ LENNON/McCARTNEY/HARRISON/STARKEY
  ♪MY IMAGINATION♪ LENNON/McCARTNEY/HARRISON/STARKEY
  ♪DON'T LET ME DOWN♪(3)
  ♪TWO OF US♪
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 https://en.wikipedia.org/wiki/The_Beatles:_Get_Back
 https://www.disneyplus.com/ja-jp/series/the-beatles-get-back/7DcWEeWVqrkE
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 ┃『SGT PEPPER'S LONELY HEARTS CLUB BAND』┃
 ┃アルバム・カヴァーに登場しているのは誰?┃
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛STORIES
 2020(令和二)年05月30日(土)『discovermusic.jp』Published
 ザ・ビートルズの『Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band』は、史上最高にアイコニックなアルバム・ジャケットの座をいまだ維持し続けている。ポール・マッカートニーの着想から、イギリスのポップ・アーティスト、ピーター・ブレイクと妻のジャン・ハワースによる最終デザインに至るまで、これは単なるアルバム・ジャケットの枠を超えている。当時を象徴する見事なモダン・アート作品なのだ。このアートワークは、当時としては画期的なデザインだった。また、制作費用が3,000ポンド(現在では5万ポンド以上に相当する)と破格で、当時のポップ・アルバムのジャケットでは最高額である。コンセプトは、ザ・ビートルズが「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」に扮して登場し、今ちょうどコンサートを終えたところで影響力の大きな人々の集団に囲まれている、というものだ。合計58人が、最終版のアートワークに登場している。ジャケットに登場した人々は、ジョン、ポール、ジョージ、ピーター・ブレイク、ジャン・ハワース、そしてロンドンの美術品商、ロバート・フレイザーが共同で作ったリストから選ばれた。イエス・キリストとアドルフ・ヒトラーは、掲載には不適切とされ、マハトマ・ガンジーやレオ・ゴーシーといった人々は、別の理由で削除された。また、エルヴィス・プレスリーの顔がないのも気になるが、これはポール・マッカートニーが後年語っているが、「あまりに重要で、雲の上の存在すぎて、口にするだけでも畏れ多い存在」だったからだという。最終ヴァージョンに残った人々は、文化人や重要人物、さらにはザ・ビートルズのメンバーが関心を持つ人々が並ぶ魅惑的な顔ぶれだ。「Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band」の歌詞のように、「皆さんも長年、このバンドのことは知っているだろう。それでは、『Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band』のジャケットに掲載されている残りの人々を皆さんに紹介しよう……」
 ┌─――――――┐Third row <三行目>
40|  Tom Mix  |『Wikipedia』
40|トム・ミックス|『discovermusic.jp』
 └─――――――┘ハリウッドにおけるウェスタン映画の第1号スター。1909年から1935年の間に、291本もの映画に主演したヨ(=^◇^=)
‡1880(明治13)年01月06日(tue) Born
 1940(昭和15)年10月12日(sat) Died. 60 years old
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 https://sgtpepper.udiscovermusic.com/
‡https://en.wikipedia.org/wiki/Tom_Mix
 https://www.udiscovermusic.jp/stories/whos-who-on-the-sgt-peppers-album-cover
 https://www.udiscovermusic.com/stories/whos-who-on-the-beatles-sgt-peppers-lonely-hearts-club-band-album-cover/
 https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_images_on_the_cover_of_Sgt._Pepper%27s_Lonely_Hearts_Club_Band
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 ┃ 『THE FAMILY WAY “ふたりだけの窓 ”』 ┃
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 Soundtrack album by Paul McCARTNEY
 1966(昭和41)年12月23日(fri) 45rpm Single Released
‡1967(昭和42)年01月06日(fri) UK Released
 1967(昭和42)年06月12日(mon) US Released
 1996(平成八)年XX月XX日(mon) CD Released
 1967年 東和提供イギリス映画『ふたりだけの窓』の主題歌。作曲はポール・マッカートニー、編曲はジョージ・マーチン
 昔から好きな曲で、シンプルなギターサウンドが良い。一枚370円の頃のレコードからなので、音質悪し
  音源◆http://youtu.be/hD9N5YTnpzU
  
************** http://en.wikipedia.org/wiki/The_Family_Way
 http://en.wikipedia.org/wiki/The_Family_Way_(soundtrack)
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 ┃『THE FAMILY WAY “ふたりだけの窓 ”』┃
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 1966(昭和41)年12月18日(sun)  UK released
 1989(平成元)年02月24日(fri) video released
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 ┃『THE FAMILY WAY “ふたりだけの窓 ”』┃
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 Soundtrack album by Paul McCARTNEY
 1966(昭和41)年12月23日(fri) Love in the Open Air
‡1967(昭和42)年01月06日(fri) UK released
 1967(昭和42)年06月12日(mon) US released
 1996(平成八)年?月?日(???) CD re-release
 音源◆http://youtu.be/hD9N5YTnpzU
 
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①http://en.wikipedia.org/wiki/The_Family_Way
②http://en.wikipedia.org/wiki/The_Family_Way_(soundtrack)
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 ┃ 『'LET IT BE' DAY BY DAY in color expanded』 ┃THE BEATLES
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【'LET IT BE’ DAY BY DAY in color expanded】マニア必携Mクローデル・レーベルより、初登場映像を数多く含んだ、1969年1月のゲット・バック・セッションの貴重な映像集である。しかも日付順に収録されているため資料的な価値も高い作りとなっている。今まで音源は数多く、ほとんど全てが流出しているが、こと映像となると淋しい限りの状況であった。本作ではそのような現状を解消する必見映像である。なかなか初登場音源ないし映像が出にくくなっていたビートルズのマテリアルを取り巻く状況において、この作品は驚きをもってマニアに受け入れられるであろうと自信を持っている。美しいピクチャー・ディスク仕様の永久保存がっちりプレス盤。スリップケース付。
【DVD : TWICKENHAM STUDIO】
‡1969(昭和44)年01月06日(mon) ポールはピアノで「Oh Darling」を歌っているシーン。ジョージとポールの口論のシーンもこの日に撮影されている。メインは「Don’t Let Me Down」のレコーディングの様子である。
 DVD DISC ONE
 Twickenham Film Studios 1969
‡1969(昭和44)年01月06日(mon) January 6, 1969
 Oh Darling
 Just Fun / One After 909 Chat
 Don't Let Me Down #1
 Don't Let Me Down #2
 Paul & George Discussion
 Two Of Us
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 http://www.teenagedream-record-3rd.net/?pid=120647554
 https://ja.wikipedia.org/wiki/ゲット・バック・セッション
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 ポール・マッカートニー、2018年からようやくビートルズの楽曲の管理権を所有できるか
 2016.03.28 12:21
ポール・マッカートニーはザ・ビートルズ時代の楽曲の版権を取り戻そうと動いているという。実はポールはビートルズ時代の楽曲の版権を所有したことがなく、ビートルズ時代に書いたレノン=マッカートニーとしての楽曲やジョージ・ハリスンやリンゴ・スターの楽曲の管理権もすべてノーザン・ソングスというポールとジョン・レノンも出資者となった著作権管理会社に所有されていた。実際にこの会社はディック・ジェイムスという楽曲著作権管理事務所の経営者とビートルズのマネージャーだったブライアン・エプスタインが実質的に切り回している団体だった。その後、ブライアンが1967年に他界した後、ポールとジョンは版権を自分たちの手元に取り返そうとノーザン・ソングスの買収に動き出すが、ジェイムスは会社をイギリスの民放テレビ局ATVに売却し、その後、ポールとジョンは何度かATVから楽曲の版権の買戻しを試みたがいずれも実現しなかった。さらに80年代に入ってからポールがマイケル・ジャクソンとのコラボレーションを重ねるようになると、ポールはマイケルから楽曲の所有権のノウハウなどについて訊かれ、版権を所有することの重要性を彼に説いたというが、その後、マイケルからビートルズの曲を買ってみせると宣言され、マイケルは現実にATVそのものを買収してしまうことに成功した。マイケルはさらにATVとソニーを合併させ、版権管理会社ソニー/ATVとなったが、先頃、マイケルの遺産管理団体がマイケルの所有していた株式をすべてソニー/ATV側に売却することが明らかになって、ポールがビートルズの楽曲をまた取り戻す日はいつかくるのだろうかという関心がにわかに注目されることになった。さすがにソニー/ATVの買収やビートルズ楽曲の版権の買戻しは資金的にも難しい一方で、ポールが着実に版権の回復のために動いていることが明らかになったとビルボード誌が伝えている。というのは、アメリカの著作権法の規定で、1978年以前に書かれた楽曲については著作権が成立した日から56年目に原作者は楽曲の権利を取り戻せることになっているからで、1962年にレコード・デビューしているビートルズの場合、2018年からがそのタイミングとなるのだ。ただし、版権を取り戻すには56年目から数えて2年から10年前までに米国著作権局に申請を行わなければならず、その後、当該楽曲の著作権がいったん抹消され、原作者にすべての権利が返却されるという。そしてポールは昨年末にこの申請を行っていたことが明らかになったという。なお、ビートルズの楽曲はすべてレノン=マッカートニー名義になっているため、ポールはその半分だけを取り戻すことになるが、ジョンの持ち分については著作権そのものが無効となる(ジョンの死から70年後)までソニー/ATVが版権を保持し続けるという取り決めがソニー/ATVとオノ・ヨーコとの間で行われたという。ただし、この措置はアメリカについてのみの話で、ポールはアメリカでは2018年以降、楽曲の版権を取り戻すことになるが、そのほかの世界各国では依然としてソニー/ATVが権利を所有したままになる。 
 https://rockinon.com/news/detail/140947
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 ポールとジョンがビートルズ楽曲の版権を失うことになった知られざる経緯とは
‡2016年01月06日 06時00分 By Ian Burt
 1962年にデビューし、一気に世界で最も有名なバンドとしての地位を獲得したザ・ビートルズは、2000年代に入ってもその影響力を保っています。アーティストには著作権に基づくさまざまな収入があるため、ビートルズの楽曲を残したジョン・レノンとポール・マッカートニーのコンビ「レノン・マッカートニー」にはさぞかし多くの収入があるんだろうな……と思う人も多いはずですが、実はビートルズ楽曲のほとんどは彼らの手には入らなかったことは、ビートルズファンの間でもあまり知られていません。
 How Paul McCartney and John Lennon Lost Ownership Of The Beatles Catalogue | Celebrity Net Worth
 http://www.celebritynetworth.com/articles/entertainment-articles/how-michael-jackson-bought-the-beatles-catalogue-then-turned-it-into-a-billion-music-empire/
 ◆若くして結んでしまった「最悪の契約」 ⇒ 1963年2月、ちょうどビートルズがアメリカのテレビ番組「エド・サリバンショー」に出演する1年前、当時バンドのマネージャーをつとめていたブライアン・エプスタインは、ジョン・レノンとポール・マッカートニーの両者に対して版権を管理する会社を立ち上げることを提案しました。これは、当時はまだ現在ほど知名度のなかったビートルズの楽曲をイギリスのラジオで流してもらうためには、大手の出版社と手を組んでラジオ局のマネージャーに売り込むことが不可欠だと判断したエプスタインの提案でした。やがて、エプスタインとジョン、ポールは1963年1月に発表されたシングル「プリーズ・プリーズ・ミー」を、元ミュージシャンで音楽出版社「Dick James Music(DJM)」を運営するベテランパブリッシャーのディック・ジェイムスのもとに持ち込み、楽曲を登録。ラジオ局とのパイプを築いたことで「プリーズ・プリーズ・ミー」は全英で2位という成功を収めます。同年2月、ジェイムスはエプスタインを含む3人に対し、版権管理会社「ノーザン・ソングス」を設立することを進言。このときジョンは23歳、ポールはまだ21歳という若者で、まだまだミュージックビジネスについては知識も経験もない段階だったわけですが、ここで彼らは後に大きなミスといえる契約を結んでしまうこととなります。設立された「ノーザン・ソングス」の株式のうち、なんと50%はジェイムスと彼のパートナーであるチャールズ・シルバーによって押さえられており、残りの50%をエプスタインが10%、ジョンとポールがそれぞれ20%で保有する形で契約が行われ、このパワーバランスが長年にわたってジョンとポールに重くのしかかることとなるのです。後にポールはこの契約について、若くて無垢だったためにとんでもない契約を結んでしまった、と回顧しています。事実、ジョンとポールは契約書の内容に目すら通しておらず、どちらもジェイムスのパートナーであるシルバーに会ったことすらないと明かしています。こうしてノーザン・ソングスと契約を結んだ「レノン・マッカートニー」のコンビは、同社に対して1973年まで年間6曲の楽曲を作曲する義務を負うこととなります。また、同社はすでに作曲されたビートルズの楽曲53曲を保有することになりました。矢継ぎ早に事は進み、同年3月にはビートルズのファーストアルバム「プリーズ・プリーズ・ミー」がイギリスでリリースされます。その2か月後、同アルバムはUKチャートでナンバー1を獲得し、その後30週にわたってトップを独占することとなりました。なお、同アルバムを蹴落としてチャートナンバー1を獲得したのは、ビートルズ2枚目のアルバムである「ウィズ・ザ・ビートルズ」でした。ビートルズの人気は世界を席巻し、大成功を収める時代が到来します。ビートルズの4人には大金が転がり込むようになり、同じようにエプスタイン、さらにはディック・ジェイムスと彼のパートナーのもとにも巨額の大金が流れ込むようになるのでした。1965年、株式を公開することで税金を減額できることを知ったジェイムスとシルバーは、ノーザン・ソングスの株式500万株をロンドン証券取引所に公開。これにより、ジョンとポールの持ち株比率は15%(32万ドル相当、現在の価値で230万ドル・約2億7500万円)へと低下。ジェイムスらの比率も37.5%(80万ドル相当、現在の価値で230万ドル・約7億1300万円)へと変化しています。
 ◆売却へ ⇒ 1967年8月、ビートルズを献身的に支えたマネージャーのエプスタインが、アスピリンの過剰摂取によりこの世を去ります。ジョンとポールはエプスタインの死後、ジェイムスらから楽曲の管理権を獲得しようとしましたが、失敗に終わります。ジェイムスとシルバーは保有していたノーザン・ソングスの株式全てを250万ドル(現在の価値で1700万ドル・約20億円)で放送メディアのATV(Associated Television)に売却するという策に出ます。この売却についてジョンとポールには事前に知らされておらず、両名はそれぞれのハネムーン旅行の最中に、新聞のトップを飾った記事でその事実を知ったというエピソードが残っています。こうしてATVはビートルズの楽曲88曲の権利を保有することとなります。このとき、ジョンとポールにはATVが版権料として1ドルを得るたびに25セントが支払われるという、にわかには信じがたい状況となっていました。打開策として、ATVは二人が所有している残りの株式を1475万ドル(現在の価値で1億ドル・約120億円)で買い取るオファーを打診しますが、ビートルズ側はこれを拒否。その後もビートルズ側は対抗策を講じるも、いずれも失敗に終わります。こんな状況でも、契約の上ではビートルズはATVに対して年間6曲を提供する義務が存在します。業を煮やしたビートルズ側は1969年、ついに残されていた楽曲提供の義務条項は全て解消する条件をつけてATVに残りの株式を売却。このときの額はATVがジェイムスらに支払った2倍の金額となる573万8000ドル(現在の価値で3600万ドル・約43億円)で決着をつけましたが、これでビートルズの楽曲の版権(正確には「版権を管理するノーザン・ソングス」)は、完全にビートルズのもとを離れることとなりました。
 ◆買い戻しのチャンス、そしてマイケル・ジャクソンの存在 ⇒ その後、1981年まで版権をめぐる状況に大きな変化は生じませんでした。状況が変わったのはジョン・レノンが凶弾に倒れた1年後の1981年、ATVがオーストラリアの大富豪、ロバート・ホームズ・ア・コート氏に買収された時で、その際にポールのもとにはATVが管理していたビートルズの版権を4000万ドル(当時のレートで約88億円)で買い戻すというチャンスが到来します。ポールはジョン亡き後のオノ・ヨーコに接触し、費用の折半を提案しますが、ヨーコは買い戻し額は全部で2000万ドルが相当であると主張したことから、話し合いは不調に終わります。ポールによると、全ての資金を一人で負担することは可能でしたが、仮にジョン亡き後に単独で版権を買い戻すことで生じる「強欲」や「ジョンへの敬意が感じられない」という悪評を懸念したことから、このときは版権の買い戻しを断念したとのこと。手元にATVが持っているビートルズの版権が残ったホームズ氏でしたが、そもそもミュージックビジネスに関わることに関心はなかったとみられ、ATVの従業員をほぼ全員解雇し、1984年には同社のミュージック部門そのものを売りに出しました。この際にもポールのもとに話しは舞い込んだわけですが、「高すぎる」ことを理由にこれを拒否。ここで名乗りを上げたのが、当時は版権ビジネスを手広く行っていたマイケル・ジャクソンその人でした。マイケルのマネージャーを長年にわたって務めていたジョン・ブランカ氏のもとにATV売却の話しが舞い込んだ時、マイケルはブランカ氏に「いくらかかってもいいからビートルズの版権を手に入れること」と指示。こうしてビートルズの版権はマイケルのもとに移ることとなりました。なお、この話の背景には皮肉なエピソードが隠されています。ポールとマイケルはそれまでに「ガール・イズ・マイン」と「セイ・セイ・セイ」という2曲をデュエットで発表していたこともあり、良好な関係を築いていました。1982年のある日、ロンドン郊外にあるポールの自宅を訪れ、ポールの妻リンダ(故人)とディナーを共にしていたマイケルは、ポールから「大金を手にできるのは版権を所有することだけだ」という手ほどきを受けたと言います。巡り巡ってその2年後、そのマイケルがビートルズの版権を所有することになるとは、当の本人すら予想できなかったことなのかもしれません。この一件をきっかけに、ポールとマイケルの関係は険悪なものになったといわれています。その後、マイケルは2009年にこの世を去り、さまざまな権利関係の動きや、「1978年以前に製作されたコンテンツの著作権は56年後に作曲家の元に戻る」というアメリカの著作権法の定めにしたがい、ポールはビートルズの楽曲の版権を取り戻している段階にあるとのこと。このまま順調に事が進めば、2026年には全てのレノン・マッカートニー楽曲の権利は再びポールの手に戻ることになると見られています。
 https://gigazine.net/news/20160106-lennon-mccartney-copyright/

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 ┃ THE BEATLES of 1963  ┃(sun)06 January 1963
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 Concert:Beach Ballroom, Sea Beach, Aberdeen, Aberdeenshire, Scotland
 The last night of a four-show Scottish jaunt.
 "January 1963 - My friend and I went, as usual, to the 'Sunday Night Concert' at the Beach Ballroom, Aberdeen. Appearing one night was an up and coming group - The Beatles. My cousin, who was in Aberdeen on a visit from Canada, introduced himself to the Manager of the Beach Ballroom, as a DJ in Canada. He was invited to meet The Beatles, and my friend and I were invited too. Had we thought that these four young men, sitting drinking tea and coffee backstage, would reach the heights that The Beatles did, then we might have paid more attention to what they were saying, rather than just falling hook line and sinker for John Lennon. Isobel Henderson."
 Source: http://beatlesautographs.com/promotional_cards.htm
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 "Bill Cowie, 15 at the time, and his brother Mike turned up early, so knocked on the stage door and were invited in to meet them. 
 "They were tuning their guitars and discussing their playlist," Bill recalled. 
 He requested Chuck Berry's Sweet Little Sixteen, which John later dedicated to the "lads in the front row". After the first set, Bill and Mike went back to the dressing room and Paul offered them a cup of tea. 
 Afterwards, Kathleen Donald, 15, and her friend Pat Masson knocked on the dressing room door for autographs. 
 "When I got married and left my parents' home, my mum had a clear-out and threw away the autographs," Kathleen said. "Can you imagine? When I tackled her about it, she said 'Oh, it was just a few names on a bit of paper'."" 
 Source:『Sunday Post』, (tue)25 October 2016 
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 http://www.multiplusbooks.com/630106.html
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 ┃ ビートルズ詳解 The Beatles’Corpus ┃
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①1961(昭和36)年01月06日(金) ライヴ演奏:セント・ジョンズ・ホール/ブートル
②1962(昭和37)年01月06日(土) ライヴ演奏:キャバーン・クラブ (夜) /リヴァプール
③1963(昭和38)年01月06日(日) ライヴ演奏:ビーチ・ボールルーム/アバディーン
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①1961(昭和36)年01月06日(金) ライヴ演奏:セント・ジョンズ・ホール/ブートル
 ビートルズが1960年12月27日にリザーランド・タウン・ホール (Litherland Town Hall) で記念碑的な大成功をおさめた後、2人のプロモーターがビートルズの今後の出演契約を取ろうと舞台裏を訪れる。1人はビーケー・プロモーション社 (Beekay Promotion) を経営するブライアン・ケリー (Brian Kelly) だった。もう1人はリヴァプールでイベントを開催していたリザーランドのショーの舞台裏で、フォーショウはブートル (Bootle) のセント・ジョンズ・ホール (St. John's Hall) で、一月置きに3回のビートルズの出演契約を獲得する。その最初のこの日、ビートルズには6ポンド10シリングが支払われた。この夜の会場はほとんど満席だったため、フォーショウはその出演料を捻出するに苦労はなかった。この会場はオリエル通り (Oriel Road) をはさんでブートル・タウン・ホール (Bootle Town Hall) の向かいにあったが、後に取り壊された。
 ビートルズはこのセント・ジョンズ・ホール (St. John's Hall) に5回出演している。
‡1961(昭和36)年01月06日
 1961(昭和36)年02月03日
 1961(昭和36)年03月03日
 1962(昭和37)年03月02日
 1962(昭和37)年07月30日
②1962(昭和37)年01月06日(土) ライヴ演奏:キャバーン・クラブ (夜) /リヴァプール
 これは彼らの40回目のキャバーンのイブニングショーへの出演であった。この日の広告にはジャズ・グループのピート・ハスラムズ・カレジアンズ (Pete Haslam's Collegians) の名前も見える。
 ボブ・ウーラー『The Cavern』スペンサー・レイ ⇒ キャバーンでは短期間だったけれど、ジャズ・バンドとビート・グループが同じ日の出演を分け合うという時期があった。それは奇妙な組み合わせで、レイ・マクフォールはいったい誰の希望を満たしたいのかさっぱりわからなかった。レイがジャズ・バンドをブッキングしても、彼らはこんな所に出演してもしょうがないと言ってたね。キャバーンでのジャズの魔力は効かなくなった。だから完全にロックの方に向いていったんだ。
 ビートルズのキャバーン・クラブへの正確な出演回数は判っていない。しかし1961年2月9日から1963年8月3日までの期間に、少なくともランチタイムショーで155回、イブニングショーで125回の演奏を行っている。
③1963(昭和38)年01月06日(日) ライヴ演奏:ビーチ・ボールルーム/アバディーン
 これはビートルズの4日間 (当初の予定では5日間) のスコットランド・ツアーの最終日であった。彼らはアバディーン (Aberdeen) のシー・ビーチにあるビーチ・ボールルーム (Beach Ballroom) に出演した。入場料は3シリングで、広告には「ザ・ビートルズが特別ゲストのザ・ジョニー・スコット・バンド・ショー」(Johnny Scott Band Show featuring The Beatles) と歌われた。この日に彼らに対する反応は賛否入り混じっていて、中にはショーの間絶えずブーイングしていた人々もいた。
 ゲリー・スキャンロン ⇒ 彼らはまだ磨かれていない部分もあったし、音響システムも完全じゃなかったので、彼らの受けた反応はさまざまだった。でもエネルギーが充満している感じはわかったと思うよ。彼らが演った大半の曲はチャック・ベリー (Chuck Berry) なんかのカバーで、レノン=マッカートニーの偉大な曲はそれから後のことだった。でもあの場に居合わせたことを幸福に感じるよ。
 ビートルズはこの出演で45ポンドの報酬を得ている。しかし彼らがその後アバディーンに戻ってくることはなかった。
 ノーマン・シアラー ⇒ 僕らはみんなで行って、彼らはすごいと思った。ジョン・レノンはすごかった。僕にとって彼の声は真のロックンロールで、彼はそれにぴったりはまってた。 あの当時、音楽は分岐点にあった。ビートルズがやってたことは完全に他とは違っていた。その違いがわからない人もいたけどね。でも彼らはビーチでも好評で喝采を受けていたよ。
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 ①http://gejirin.com/beatles/history/1961/19610106_live_saint_johns_hall.html
 ②http://gejirin.com/beatles/history/1962/19620106_live_cavern.html
 ③http://gejirin.com/beatles/history/1963/19630106_live_BeachBallroom.html
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 ┃ THE BEATLES HISTORY ┃| January 06|006
 ┃    ザ・ビートルズの今日の出来事   ┃| 1月06日 |
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 1961(昭和36)年01月06日(金) ランカシャーのセント・ジョンズ・ホールのショーに出演。前月27日のリザランドのセンセーショナルなショーを見た17歳のプロモーター、デイヴ・フォーショーの主催で、ギャラは6ポンド10シリング(当時のレートで約¥6,600)。ビートルズのステージの評判は知れ渡りつつあり、会場はほぼ満員となった。
 1964(昭和39)年01月06日(月) ブライアン・エプスタイン企画・主催の「ビートルズ・クリスマス・ショー」の11日目の公演がロンドンのアストリア・シネマで開催される。コメディ、パントマイム等のパフォーマンス、演奏と様々な要素で観客を楽しませた。演奏コーナーでのセットリスト、「Roll Over Beethoven」「All My Loving」「This Boy」「I Wanna Be Your Man」「She Loves You」「Till There Was You」「I Want To Hold Your Hand」「Money (That's What I Want)」「Twist And Shout」。12月24日から1月11日まで行われたステージ出演者は、ほとんどがNEMSエンタープライズ所属アーティストで、チケット10万枚は完売。
********** http://www.thebeatles.co.jp/contents/index2.htm
 http://www.beatlelinks.net/forums/showthread.php?t=16873
 http://beatlesdiary.web.fc2.com/day/001/0106.html
 https://blogs.yahoo.co.jp/fab4city/15601576.html
 http://www.beatlesagain.com/bhistory.html
 楽曲資料https://beatlesdata.info/
 歌詞充実http://tsugu.cside.com/index.html
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 ┃ THE BEATLES Live 1961 ┃
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‡(fri)06 January 1961 Bootle, England, St John's Hall 
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 ┃ Winter 1963 Scotland Tour ┃THE BEATLES SHOW
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‡No.4 (sun)06 January 1963 Aberdeen, Beach Ballroom ※THE END. Winter 1963 Scotland Tour
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 ┃ BRIAN EPSTEIN Presents  1964   ┃
 ┃ THE BEATLES Christmas Shows ┃
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‡No.14 (mon)06 January 1964 London, England, Finsbury Park Astoria Theatre (12)
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 ┃ THE BEATLES 1965 Christmas Shows ┃Another Beatles Christmas Show
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛      LAST CHRISTMAS SHOWS
‡No.12 (wed)06 January 1965 London, England, Odeon Cinemas (05)
  ♪I FEEL FINE♪映像◆The Beatles at Hammersmith Odeon, London Christmas Day in 1964  https://youtu.be/FSCwPIn2Bbk
  
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 https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_the_Beatles%27_live_performances
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  ┛THE BEATLES 1967 Recording Sessions ┛Studio 2
 ┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛7:00pm-1:00am
 ┏━━━━━━━━━┓ overdub onto take 7, 
 ┃ ♪Penny Lane♪ ┃tape reduction take 7 into take 8,
 ┗━━━━━━━━━┛       overdub onto take 8,
                  tape reduction take 8 into take 9
  No.05 アビイ・ロード第2スタジオ。ここでポールのベースとジョンのギターをオーバーダブ。リンゴの追加ドラムとジョンのコンガも録音すると、トラックがいっぱいになったのでここでリダクション。これにより出来上がった第8テイクにジョンとジョージ・マーティンのピアノ、ハンドクラップ そしてジョン、ポール、ジョージのスキャットコーラスをオーバーダブした後に再びリダクション。これが第9テイクとなる。
  Producer: George Martin
  Engineer: Geoff Emerick
  2nd Engineer: Phil McDonald
 ‡1967(昭和42)年1月6日(fri)
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 https://beatlesdata.info/9/09_pennylane.html
 https://en.wikipedia.org/wiki/Penny_Lane
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 ┃ 『HELP!』 ┃
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 Parlophone PMC 1255; PCS 3071 - August 6, 1965
†Mobile Fidelity MFSL 1-105 - January 1986
 (CD) Parlophone CDP 7 46439 2 - April 30, 1987
 Capitol CLJ 46439 - July 21, 1987
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 http://www.beatlesagain.com/btlps.html
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ポールとジョンがビートルズ楽曲の版権を失うことになった知られざる経緯とは
2016年01月06日 06時00分00秒
 By Ian Burt
 1962年にデビューし、一気に世界で最も有名なバンドとしての地位を獲得したザ・ビートルズは、2000年代に入ってもその影響力を保っています。アーティストには著作権に基づくさまざまな収入があるため、ビートルズの楽曲を残したジョン・レノンとポール・マッカートニーのコンビ「レノン・マッカートニー」にはさぞかし多くの収入があるんだろうな……と思う人も多いはずですが、実はビートルズ楽曲のほとんどは彼らの手には入らなかったことは、ビートルズファンの間でもあまり知られていません。
How Paul McCartney and John Lennon Lost Ownership Of The Beatles Catalogue | Celebrity Net Worth
http://www.celebritynetworth.com/articles/entertainment-articles/how-michael-jackson-bought-the-beatles-catalogue-then-turned-it-into-a-billion-music-empire/
◆若くして結んでしまった「最悪の契約」
1963年2月、ちょうどビートルズがアメリカのテレビ番組「エド・サリバンショー」に出演する1年前、当時バンドのマネージャーをつとめていたブライアン・エプスタインは、ジョン・レノンとポール・マッカートニーの両者に対して版権を管理する会社を立ち上げることを提案しました。これは、当時はまだ現在ほど知名度のなかったビートルズの楽曲をイギリスのラジオで流してもらうためには、大手の出版社と手を組んでラジオ局のマネージャーに売り込むことが不可欠だと判断したエプスタインの提案でした。
やがて、エプスタインとジョン、ポールは1963年1月に発表されたシングル「プリーズ・プリーズ・ミー」を、元ミュージシャンで音楽出版社「Dick James Music(DJM)」を運営するベテランパブリッシャーのディック・ジェイムスのもとに持ち込み、楽曲を登録。ラジオ局とのパイプを築いたことで「プリーズ・プリーズ・ミー」は全英で2位という成功を収めます。
 By drinks machine
同年2月、ジェイムスはエプスタインを含む3人に対し、版権管理会社「ノーザン・ソングス」を設立することを進言。このときジョンは23歳、ポールはまだ21歳という若者で、まだまだミュージックビジネスについては知識も経験もない段階だったわけですが、ここで彼らは後に大きなミスといえる契約を結んでしまうこととなります。
設立された「ノーザン・ソングス」の株式のうち、なんと50%はジェイムスと彼のパートナーであるチャールズ・シルバーによって押さえられており、残りの50%をエプスタインが10%、ジョンとポールがそれぞれ20%で保有する形で契約が行われ、このパワーバランスが長年にわたってジョンとポールに重くのしかかることとなるのです。後にポールはこの契約について、若くて無垢だったためにとんでもない契約を結んでしまった、と回顧しています。事実、ジョンとポールは契約書の内容に目すら通しておらず、どちらもジェイムスのパートナーであるシルバーに会ったことすらないと明かしています。
こうしてノーザン・ソングスと契約を結んだ「レノン・マッカートニー」のコンビは、同社に対して1973年まで年間6曲の楽曲を作曲する義務を負うこととなります。また、同社はすでに作曲されたビートルズの楽曲53曲を保有することになりました。矢継ぎ早に事は進み、同年3月にはビートルズのファーストアルバム「プリーズ・プリーズ・ミー」がイギリスでリリースされます。その2か月後、同アルバムはUKチャートでナンバー1を獲得し、その後30週にわたってトップを独占することとなりました。なお、同アルバムを蹴落としてチャートナンバー1を獲得したのは、ビートルズ2枚目のアルバムである「ウィズ・ザ・ビートルズ」でした。ビートルズの人気は世界を席巻し、大成功を収める時代が到来します。ビートルズの4人には大金が転がり込むようになり、同じようにエプスタイン、さらにはディック・ジェイムスと彼のパートナーのもとにも巨額の大金が流れ込むようになるのでした。
 By badgreeb RECORDS
 1965年、株式を公開することで税金を減額できることを知ったジェイムスとシルバーは、ノーザン・ソングスの株式500万株をロンドン証券取引所に公開。これにより、ジョンとポールの持ち株比率は15%(32万ドル相当、現在の価値で230万ドル・約2億7500万円)へと低下。ジェイムスらの比率も37.5%(80万ドル相当、現在の価値で230万ドル・約7億1300万円)へと変化しています。
◆売却へ ⇒ 1967年8月、ビートルズを献身的に支えたマネージャーのエプスタインが、アスピリンの過剰摂取によりこの世を去ります。ジョンとポールはエプスタインの死後、ジェイムスらから楽曲の管理権を獲得しようとしましたが、失敗に終わります。ジェイムスとシルバーは保有していたノーザン・ソングスの株式全てを250万ドル(現在の価値で1700万ドル・約20億円)で放送メディアのATV(Associated Television)に売却するという策に出ます。この売却についてジョンとポールには事前に知らされておらず、両名はそれぞれのハネムーン旅行の最中に、新聞のトップを飾った記事でその事実を知ったというエピソードが残っています。こうしてATVはビートルズの楽曲88曲の権利を保有することとなります。
 By MEDIODESCOCIDO
このとき、ジョンとポールにはATVが版権料として1ドルを得るたびに25セントが支払われるという、にわかには信じがたい状況となっていました。打開策として、ATVは二人が所有している残りの株式を1475万ドル(現在の価値で1億ドル・約120億円)で買い取るオファーを打診しますが、ビートルズ側はこれを拒否。その後もビートルズ側は対抗策を講じるも、いずれも失敗に終わります。こんな状況でも、契約の上ではビートルズはATVに対して年間6曲を提供する義務が存在します。業を煮やしたビートルズ側は1969年、ついに残されていた楽曲提供の義務条項は全て解消する条件をつけてATVに残りの株式を売却。このときの額はATVがジェイムスらに支払った2倍の金額となる573万8000ドル(現在の価値で3600万ドル・約43億円)で決着をつけましたが、これでビートルズの楽曲の版権(正確には「版権を管理するノーザン・ソングス」)は、完全にビートルズのもとを離れることとなりました。
◆買い戻しのチャンス、そしてマイケル・ジャクソンの存在
その後、1981年まで版権をめぐる状況に大きな変化は生じませんでした。状況が変わったのはジョン・レノンが凶弾に倒れた1年後の1981年、ATVがオーストラリアの大富豪、ロバート・ホームズ・ア・コート氏に買収された時で、その際にポールのもとにはATVが管理していたビートルズの版権を4000万ドル(当時のレートで約88億円)で買い戻すというチャンスが到来します。ポールはジョン亡き後のオノ・ヨーコに接触し、費用の折半を提案しますが、ヨーコは買い戻し額は全部で2000万ドルが相当であると主張したことから、話し合いは不調に終わります。ポールによると、全ての資金を一人で負担することは可能でしたが、仮にジョン亡き後に単独で版権を買い戻すことで生じる「強欲」や「ジョンへの敬意が感じられない」という悪評を懸念したことから、このときは版権の買い戻しを断念したとのこと。
手元にATVが持っているビートルズの版権が残ったホームズ氏でしたが、そもそもミュージックビジネスに関わることに関心はなかったとみられ、ATVの従業員をほぼ全員解雇し、1984年には同社のミュージック部門そのものを売りに出しました。この際にもポールのもとに話しは舞い込んだわけですが、「高すぎる」ことを理由にこれを拒否。ここで名乗りを上げたのが、当時は版権ビジネスを手広く行っていたマイケル・ジャクソンその人でした。マイケルのマネージャーを長年にわたって務めていたジョン・ブランカ氏のもとにATV売却の話しが舞い込んだ時、マイケルはブランカ氏に「いくらかかってもいいからビートルズの版権を手に入れること」と指示。こうしてビートルズの版権はマイケルのもとに移ることとなりました。
 By ROBERT HUFFSTUTTER
なお、この話の背景には皮肉なエピソードが隠されています。ポールとマイケルはそれまでに「ガール・イズ・マイン」と「セイ・セイ・セイ」という2曲をデュエットで発表していたこともあり、良好な関係を築いていました。1982年のある日、ロンドン郊外にあるポールの自宅を訪れ、ポールの妻リンダ(故人)とディナーを共にしていたマイケルは、ポールから「大金を手にできるのは版権を所有することだけだ」という手ほどきを受けたと言います。巡り巡ってその2年後、そのマイケルがビートルズの版権を所有することになるとは、当の本人すら予想できなかったことなのかもしれません。この一件をきっかけに、ポールとマイケルの関係は険悪なものになったといわれています。
その後、マイケルは2009年にこの世を去り、さまざまな権利関係の動きや、「1978年以前に製作されたコンテンツの著作権は56年後に作曲家の元に戻る」というアメリカの著作権法の定めにしたがい、ポールはビートルズの楽曲の版権を取り戻している段階にあるとのこと。このまま順調に事が進めば、2026年には全てのレノン・マッカートニー楽曲の権利は再びポールの手に戻ることになると見られています。
・関連記事http://gigazine.net/news/20160106-lennon-mccartney-copyright/

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 ┃ TV & Radio  1964(昭和三十九)年 ┃
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 収録日 放映日  番組名  放送局
‡1963.11/20 1/6『Scene At 6:30』Granada ※インタビュー
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 ◆URLなし◆
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