マザー・テレサ
今日は愛猫チャラが天に召された記念日です。
2004年の今朝、入院中だった病院から電話がかかってきました。
「チャラちゃんが今朝、心臓が痙攣して亡くなりました。」
耳を疑う言葉でした。
チャラは当時17歳。
甲状腺と腎臓が悪いとのことで、何度か入退院を繰り返していました。
前夜にお見舞いに行ったら、わたしの手のひらに顔をうずめて2時間近くも、じっとしていました。
また明日来るね・・・
そう言ってお別れした数時間後の電話でした。
あれがチャラのわたしへの伝言的な最期の交わりだったのだと思います。
診察台に眠っているチャラを見た時、涙が止まりませんでした。
あんなに泣いたことがないくらい、泣きました。
シングルマザーになった時、
チャラもノンタンも娘も、わたしと一緒に暮らしてくれました。
悲しい時も辛い時も、ずっと、そばに一緒にいてくれました。
そんなチャラに、奇跡が訪れました。
1995年、阪神淡路大震災の直後、
家庭集会の日でした。
我が家に礼拝に来ていた人たちの中に、ノンクリスチャンが二人いました。
教会からスタッフが2名来てくれて一緒に賛美をしていました。
礼拝後、一人の青年にチャラがくっついていたので、洗礼を勧めました。
その青年は、前回の礼拝に来た帰り、風邪を引いていたので祈ってあげた青年でした。
「洗礼を受けたいです。」
青年は前回礼拝に来た際に、風邪もいやされて神さまがおられることがわかったと言いました。
嬉しい洗礼でした。
すると、今度は、チャラがもうひとりの高校生の女の子の横に行ってピタッとくっつきました。
その子にも洗礼を勧めました。
その子は笑顔でうなずき、イエス様を受け入れて洗礼を受けました。
わあ、よかったね!!
みんなで喜び合いました。
ふと見ると、
みんなの真ん中にいたチャラが、わたしになにか訴える顔をしました。
もしかして・・・???
スタッフに、
チャラも・・・みたいです。
と言うと、
面白いね、やってみよう!
チャラも洗礼を受けたかったのでした。
お水をかけて祈られると、なんとも嬉しそうに喜んでいました。
この時のことは、季刊誌に載りました、
ところが、猫の洗礼なんてと、日本中の教会から非難を受けたのは言うまでもありませんでした。
以後は教会でもペットの洗礼は公開しないようになりました。
ところが!!です。
この洗礼をきっかけとして、チャラは働き猫になってしまったのです。
洗礼猫第一号となった神さまの奇跡でした。
ちなみに、二号はノンタン、三号はRubyです。

次の家庭集会に来た人も救われました。
家に遊びに来た人で、ノンクリスチャンの人には、
必ず横にぺたんとくっついて、わたしに救いを促すようになりました。
セールスマンも友人もどんな人たちも
チャラの視線と行動の中に神さまの愛を知るようになり、
喜んで救われて行きました。
クリスチャンの人にも、悩みや病気などを察して祈りを示しました。
さらに驚いたのは、聖霊を受けていないクリスチャンがわかる猫だったのです。
聖霊の光が見えるかのように、横に行って祈りポーズをしていました。
その人たちの救いも祈る猫。
まさか・・・
本当に「天国は猫の手も借りたい」を目の前で見る思いでした。
数え切れないほど多くの人たちが救われたのでした。

チャラの功績は神さまが認めておられることを見せられてきました。
ノンタンもよく働きました。
Rubyが天から送られたことでも、神さまの願いがよくわかりました。
今日の礼拝はチャラを我が家に送って下さった神さまへの感謝でお捧げしました。


小さな仔猫だったチャラは、当時住んでいた町で子どもたちのアイドル野良猫でした。
ある朝、娘が学校へ行ったあと、猫の声が聞こえました。
ドアを開けると、そこにいたのがチャラでした。
目が大きくてとてもかわいいアカトラの仔猫でした。
模様がとてもキレイな子でした。
(コンテストで賞もいただきました。)
家に入れて遊んでいると、あっという間に一日が過ぎてしまいました。
帰宅した娘の笑顔は、言うまでもなく、チャラを我が家の家族にすることに成功!で喜んでいました。

チャラが天に帰った2004年10月13日、
生駒山の中腹でペット火葬をしていたお寺の住職との出会いがありました。
火葬の間、ずっと娘と二人で賛美をして送りました。
ちょっと変わった住職ですが、中身は神さまの創られた尊い人。
お付き合いしているうちに、
「自分が坊主じゃなかったら洗礼を受けたい」と言われました。
これも、チャラのことを通して神さまが導かれた出会いでした。
今日、神さまのお仕事をしている人に、チャラのことを話しました。
二匹の猫と暮らしているその方は、感動しながら、チャラの話を聞いてくださいました。
言葉をしゃべらない静かな猫を通して神さまが計画された世界があります。
この世は人間だけの世界ではないことを知るためにも、
神さまがされている世界を願いのままに見ていきたいものです。
”神に聞き從うよりも、あなたがたに聞き従う方が、
神の前に正しいかどうか、判断してもらいたい。
わたしたちとしては、自分の見たこと聞いたことを、
語らないわけにはいかない。
(使徒行伝4:19^20)”
10/13の花言葉
バンダ
軽快
