「あなたの信仰や宗教を棄てるなら、
ここにいて、
貧しい人たちに奉仕してもいいですよ」と言う人がいるなら、
わたしはどうするでしょうか?
わたしの信仰は、だれもわたしから奪うことはできません。
ですから、彼らはわたしの信仰を否定することも、
奪うこともできはしません。
信仰は私の心の内にあるのです。
イエスさまが、わたしの行いを通して
貧しい人たちへの、命、愛、光となって彼らの中にこられ、
ご自分のもとに彼らを引き寄せたいとお考えで、
もし、他にまったく選択の余地がなく、
それが唯一の方法だとしたら、
わたしはそこにとどまり彼らに奉仕するでしょう。
わたしはあきらめません。
わたしの命なら棄てる用意はできていますが、
わたしの心の中の信仰を棄てるわけにはいきません。
(マザー・テレサ)
この方こそ、
『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石』
です。
ほかのだれによっても、
救いは得られません。
わたしたちが救われるべき名は、
天下にこの名のほか、
人間には与えられていないのです。
(使徒行伝4:11~12)
イエスさまは、十字架の死まで33年間、人としての生涯を過ごされました。
貧しい人や、病の人、困っている人たちを助け、
いやされて救いに導かれました。
数えきれない群衆たちにも神の国を説かれました。
けれど、いざ、十字架に架かられる時、みんな、イエスさまを見捨てて去っていきました。
弟子たちですら、
「あんな人は知らない」
と去っていきました。
人に捨てられ、神にも見放されたような窮地に置かれても、
イエスさまは、十字架上から、
「父よ、彼らをおゆるしください。自分が何をしているのかわかっていないのです。」
と祈られた神です。
罪は、神に背を向けることです。
背を向けた人のためにも救いを祈られたイエス・キリスト。
責めない、咎めない、
愛と赦しの神。
一人ひとりの心のうちに住んでおられて、
神がご計画された一人ひとりに、
神に喜ばれる人生を祈られ導かれています。
何を信じればいいのかわからない時代。
そのことも聖書に書かれています。
1行でも2行でも読んでいくうちに、
マザー・テレサの言葉も、
また、使徒行伝のことばも、
いのちとなって、
心のうちから輝きを増すでしょう。
人や機械に求めるのではなく、
創造主に聴いてみましょう。
「わたしをおつくりになった神さま・・・・
・・・(祈り)・・・
NameJesus,Amen(この祈りをイエス・キリストの名前で祈ります、アーメン)」
聖書はわたしのためにあった。
人の生きる道が全部書かれているのです。
その喜びが込み上げてくる日が必ず訪れるでしょう。
真実は移り変わることなく、永遠に変わりません。
創造主の愛に還りましょう。
キリエ・エレイソン
Amen.
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