此の頃ほとんど寝てばかりいる。原因は金欠で缶ジュース1本すら買えないでいる。これも自業自得だが今の生活では活動費が出ない。働くと言っても週に3日は通院日だ。コロナの時期は電車も空いていたので、それも幸いして外出する日が多かった。けれど今は電車もバスも混んでいる。今のアパートに移り住んで20年以上経つが、一度だけ父親が訪れたことがある。難病で寝込んでいて動けないのに駐輪場に原付が放置してあり、連絡が実家に行った時だ。寝込んでいる僕を連れ出し原付を移動するよう口出ししてきたが、僕は歩くのもやっとなのに父は原付を移動しないと処分されると、そんな時だけアパートを訪れた。結局移動できず父は僕の病状には一切触れず、とっとと帰っていった。僕の心配など一切しない。これもアスペルガー独自の認知の歪みなのだろうか。そんな薄情者なのに死ぬ間際は僕にああしろこうしろと煩かった。結局自分の事しか考えていなかった。
そして母親だがそんな父とべったりした関係にあり、2度の交通事故で両足に金属が入っていて痛みで苦しがっていた。けれど自分で出来る事もあるのに父に甘え、風呂でも父に体を洗ってもらい、すべての事を父に依存していた。そして晩年二人が食事にも困って僕の所に電話して寄こし、3日分の食料の買い物の度に僕が実家に戻っていた。けれど僕に対する両親の依存はますます強くなり、仕方なく役場の地域包括センターに相談に出かけた。それからは社会資源を利用し何とか生活を立て直したが、両親は有難うすら言わなかった。
その後症状が酷い母親が認知症と偽り病棟に入院したが、何度もわざと転倒し頭を強打して脳内出血を起こし総合病院に搬送された。けれど父のもとに戻りたい母は看護師さんを殴り実家に帰ろうとしたが、それは叶わずベッドに拘束された。その頃父は大腸がんが進行していて或る日大量の下血があり集中治療室に入ることになった。僕も立ち会ったが体重が25キロと衰弱していて、ほんの二言三言言葉を交わしただけだった。
このように両親は苦しんで亡くなった。自業自得と言えばそれまでだが両親に対して僕には良い思い出がない。とにかく我が家の家族関係は他に例がない様なもので、僕の苦しみも深い。でも依存症治療院の精神科医はおおよその状況を話しただけで、すべてを理解したので依存症と言い流石だと思っている。これからは自分の人生を生きていきたい。
そして母親だがそんな父とべったりした関係にあり、2度の交通事故で両足に金属が入っていて痛みで苦しがっていた。けれど自分で出来る事もあるのに父に甘え、風呂でも父に体を洗ってもらい、すべての事を父に依存していた。そして晩年二人が食事にも困って僕の所に電話して寄こし、3日分の食料の買い物の度に僕が実家に戻っていた。けれど僕に対する両親の依存はますます強くなり、仕方なく役場の地域包括センターに相談に出かけた。それからは社会資源を利用し何とか生活を立て直したが、両親は有難うすら言わなかった。
その後症状が酷い母親が認知症と偽り病棟に入院したが、何度もわざと転倒し頭を強打して脳内出血を起こし総合病院に搬送された。けれど父のもとに戻りたい母は看護師さんを殴り実家に帰ろうとしたが、それは叶わずベッドに拘束された。その頃父は大腸がんが進行していて或る日大量の下血があり集中治療室に入ることになった。僕も立ち会ったが体重が25キロと衰弱していて、ほんの二言三言言葉を交わしただけだった。
このように両親は苦しんで亡くなった。自業自得と言えばそれまでだが両親に対して僕には良い思い出がない。とにかく我が家の家族関係は他に例がない様なもので、僕の苦しみも深い。でも依存症治療院の精神科医はおおよその状況を話しただけで、すべてを理解したので依存症と言い流石だと思っている。これからは自分の人生を生きていきたい。