遇合庵主人のブログ PART2

遇合庵主人のブログです。

風「22才の別れ」

2020年10月10日 | 昭和歌謡

    もう四半世紀以上も前のこと。大学生の頃、所属研究室の飲み会で、二次会(カラオケ)が終わり、三次会(夜中でも開いている居酒屋かうどん屋)も終わって、それでも朝にならないので、誰かの下宿先に集まって明け方まで(もうお酒は飲まないでお茶などを飲みながら)マッタリ過ごそう、ということが何度かありました。そんな時、一度ではなく複数回リクエストされたと記憶しておりますが、四年生の女性の先輩から、ア・カペラで歌ってほしいと言われて歌ったのが、「22才の別れ」でした。でも、この曲のリリースは1975(昭和50)年のことですので、当時4歳だった私は、もちろんオンタイムで憶えたものではなく、中高生の間にラジオで聴いて憶えたのです。
高校を順調に卒業し、浪人しないで大学に進んだ者が、大学を4年で無事に卒業するその時に経験する別れが「22才の別れ」ではあります。でも、歌詞を読めば分かりますし、1975(昭和50)年の大学進学率が27.2%だったことを踏まえても、この曲は、大学卒業時の別れの歌として捉えるのは甚だ苦しいです。そのことは分かっておられたのでしょうが、きっと女性の先輩は、22歳という御自身の年齢に重ねて、この曲を私に何度もリクエストされ
たのだと思います(実は、谷村新司の「22歳」もリクエストされた記憶がありますので、やはり御自身の年齢に重ねて、曲をリクエストされたのだと思います)。
さて、この「22才の別れ」については、私は全然解せない所があります。これは、私が男だからかもしれません。以下は、この曲に対する私の理解です(間違っていたら、何卒御寛恕下さい)。
    この曲は、同棲している男を見限って(男の「知らないところへ嫁いでいく」ために)自発的に別れていく22歳の女の心情を歌ったものです。でも、この女の人、いつの間にか黙って立ち去るのではなく、男にきちんと「さよなら」って言って別れるんだよなぁ。そして、「さよならって言えるのは今日だけ」なのです。なぜなら、女は男が好きだから。明日、また、男の「あたたかい手にふれたら」「さよなら」を言えなくなりそうだから、「今日だけ」なのです。
    では、好きなのに、なぜ、別れるのか? それは、女は現実言い換えれば将来を考えたのです。女は、親戚のおばちゃんから、とても良い条件の縁談の話をもたらされ、同棲している男に内緒でお見合いしたのです(たぶん)。以下は、私の妄想?です。

    お見合いの席を立ち、二人で近くの喫茶店で話をしたあと、駅でお別れした。「会ってみたら、私にとても優しくしてくれるし、さわやかだし、定職に就いていらっしゃるし、申し分ないわ。」女は率直にそう思った。その日の夜、親戚のおばちゃんが電話をかけてきて、こう言った。「どうだった?良い人だったでしょう。さっき、先方の世話人から電話があって、結婚を前提にお付き合いしたいです、という返事をもらったのよ。ねぇ、どうする? このチャンスを逃したら、こんなに良い縁談、これから先、あまり無いと思うわ。勤務先も安定した所だし、毎日きちんと食べられるって、とても大事なことよ。早く結婚するって、何よりの親孝行よ。お父さんとお母さん、安心すると思うわ。まぁよく考えてみてね。」
    その夜、女はなかなか眠れなかった。「隣で寝ているこの人のことは好きだけど、夢ばかり追いかけていて、先が見えない。」女は、17歳の時に知り合った男との五年間を振り返り、なかなか眠れなかった。
    翌日、男が出かけている時に、女は、親戚のおばちゃんに電話をかけた。「私も、結婚を前提にお付き合いしたいです。よろしくお願いします。」何かを吹っ切るように、力強く、そう言ったのだった。

    妄想、終わり!
    でも、大体、こんなシチュエーションでしょう。
    “一緒にいる男のことは好きだけど、これまでの五年間、夢ばかり追いかけて、全然うだつが上がらない。そこへ、甚だ条件の良い縁談が舞い込んできた。親戚のおばちゃんの強い勧めで、会うだけと思って会ってみたが、当初の意に反して、お相手に好印象を抱いてしまった。お相手は、私のことをとても好いてくれている。どうしよう。一晩悩んで決意した。翌日、おばちゃんに伝えた、よろしくお願いします、と。”
    女は、五年間の膠着状態を打破したかったのです。いつ抜け出せるか分からない男との貧乏暮らしに終止符を打たない限り、「次」へ進めないのです。女は、「次」に進んで見たかったのです、できれば五年間一緒にいた男と。でも、それは無理だと分かっているから、自分を「次」へ連れていってくれる別の男に嫁ぐことに踏み出したのです。
    この曲のサビのところの歌詞が、一番・二番とも意味深です。

(一番)
わたしには鏡に写ったあなたの姿を見つけられずに
わたしの目の前にあった幸せにすがりついてしまった

(二番)
今はただ五年の月日が長すぎた春と言えるだけです
あなたの知らないところへ嫁いでゆくわたしにとって

    ここまでは、解るのです。ところが、私が全く理解できないのが、最後のところ。

(最後)
ひとつだけ こんなわたしのわがまま聞いてくれるなら
あなたはあなたのままで変わらずにいてください そのままで

    いやぁ、男としては、この「わがまま」を聞くことは、できないでしょ。男の側にしてみれば、女から別れを切り出されるのは、寝耳に水。「あなたのままで変わらずにい」たので、夢が叶わず、貧乏暮らしから抜け出せないでいるのに、「あなたのままで変わらずにい」ることが果たして良いことなのか。加えて、別れを切り出された側としては、平静でいられないですよ。下手すると、自暴自棄に陥るでしょうし、ふつう、「俺、変わらなきゃ。」と思うでしょ。だから、

あなたはあなたのままで変わらずにいてください そのままで

は、男にとって、とても酷な要請です。でも、女にとってみれば、「わたしが好きになったあなたは、そのあなたなのだから。」という思いなのでしょう。それは、そうなのかもしれないけれど、やはり男としては、「あなたはあなたのままで変わらずにいてください そのままで」は、受け入れられないです。だったら、俺と別れるな、と思うのです。
この曲の最後のところは、こんな風に思ってしまって、未だに理解できていないのです。

    作詞・作曲は伊勢正三、しょうやん。しょうやんは、多くの国民が大好きな名曲「なごり雪」や「海岸通り」など、他にも別れの歌があり、私もこの2曲は大好きです(「海岸通り」は、自室にいて陽光が入らなくなってくる夕方にラジオから流れてくると、思わず泣きそうになります)が、「22才の別れ」だけは、約半世紀生きてきても、理解できない部分があり、スッキリしないのです。


千昌夫「北国の春」

2020年09月19日 | 昭和歌謡

今から20年以上前の1998年の秋のこと。「君、何か、出し物をやってほしい。」北京のある宴会の席で、中国人の先生からこう言われ、私は本当に困りました。実は、それから8年後、北京のカラオケボックスで、私は1999年頃に中国で盛んに歌われた(中国のテレビ・ラジオで盛んに流された)ある一曲を歌い上げて大喝采を浴びたのですが(←自分で言うな!)、この20年以上前の宴会の席では、その歌もまだ知りませんでしたし、手品ができるわけでもなく、唯一参加している日本人として、何をすればよいか、本当に困りました。私の出番の一つ前の人たちが、タテブエでの演奏でした。それを聞いた時、「そうだ!」と思い立ち、演奏終了後に、私の出番でも伴奏してほしいと交渉してOKをもらいました。私の出番となりました。私は、「日本語で「北国之春」を歌います」と言って、タテブエの前奏に続いて、「しらかば~あおぞ~ら」と歌い始めたのです。1番だけ歌って終えましたが、大喝采とまではいかず、拍手もそこそこでした。つまり、受けたわけではなく、反応がいまいちだった、ということです。この理由は、後で判るのですが、出番を終えた私は、ともかく終わったという安堵感でいっぱいで、その宴会がどのようにして終わったのか、記憶に残っていません。
なぜ、私が北京の宴会の場で「北国の春」を歌って、そんなに受けなかったのか。それは、もちろん、私の歌の実力が無いことも影響しているでしょうが、実は、「北国の春」は、中国では、テレサ・テンの中国語によるカバーが大ヒットして彼女の代表曲として大衆に浸透しており、その「北国之春」は、テレサ・テンのオリジナル曲だと多くの中国人が思い込んでいて、私は、彼女の「北国之春」を日本語訳詞で歌った、と思われたからです。実際は逆です。日本人によって日本で作られ(いではく作詞、遠藤実作曲)、そして、日本人の歌手・千昌夫によって歌われ、日本で三年にわたってロングヒットした曲を、テレサ・テンがカバーして中国でも大ヒットし、彼女の代表曲とされているのです。これと同じことは、「蘇州夜曲」や「四季の歌」(中国語で「四季之歌」)にも見られる、という話を聞いたことがあります。
さて、先ほど、「北国の春」は、「三年にわたってロングヒットした曲」だと書きました。千昌夫は、作曲家の遠藤実の門下生。「星影のワルツ」が、実はこの歌も3年かかって売れてミリオンセラーの大ヒットとなり、1968(昭和43)年のNHK紅白歌合戦に初出場しています。千は、この年から紅白には4年連続で出場していますが、その後、低迷期を経験します。でも、この時期に、良い歌が出ているんですよ。それは、1976(昭和51)年リリースの「夕焼け雲」です。1番の「帰らない 花が咲くまで帰らない 帰らない」、3番の「帰れない 帰りたいけど帰れない 帰れない」、ここの歌詞は、田舎を離れ、よその土地で踏ん張って生きている者の胸には、突き刺さるんですよね。横井弘の詞です。
そして、この翌年1977(昭和52)年に「北国の春」が発売されて話題となり、千は6年ぶりに紅白にカムバックします。この歌は、発売初年よりも翌年に、そしてさらに翌々年に、と売れ続けてミリオンセラーとなり、1978(昭和53)年も1979(昭和54)年も紅白では「北国の春」を歌唱しています。1979(昭和54)年の紅白では、白組司会の山川静夫アナウンサーから「3年連続同じ歌」と紹介されました。これはどういうことかと言うと、紅白で3年連続同じ歌を歌唱したのは、千が初めてだったからです。
「北国の春」は、結局、1980(昭和55)年の春頃まで売れたロングセラーです。千は、その後、1986(昭和61)年まで紅白に連続出場しますが、この再び脚光を浴びた時期の千の歌のベースは、望郷だったと言えます。紅白での歌唱歴で確認してみますと、1981(昭和56)年の「望郷酒場」、1982(昭和57)年は歌唱4回目の「北国の春」、1983(昭和58)年の「夕焼け雲」(この歌はこの年に再リリースされました)、1984(昭和59)年の「津軽平野」、1986(昭和61)年の「望郷旅鴉」というラインアップです。北国への望郷の歌(ふるさと演歌)と言えば、千昌夫がそれを代表していた時期が確かにありました。
ところが、それが揺らぎ始めます。歌のことだけに絞って理由を考えてみますと、やはり大きかったのは、青森県出身の吉幾三の台頭だった、と思います。吉幾三が世の中に知られたのは、1977(昭和52)年リリースの「俺はぜったい!プレスリー」のヒットですが、その後ヒットが続かなかったところ、千昌夫に提供した1984(昭和59)年の「津軽平野」がヒットし、演歌の作詞・作曲で頭角を顕します。翌1985(昭和 60)年には自作の「俺ら東京さ行ぐだ」が大ヒットします(「ザ・ベストテン」にもランクインしています)が、コミックソングのように捉えられたのか、年末の紅白には選ばれませんでした(吉は、その翌年から紅白に16年連続出場しますが、この歌を紅白で歌唱したことがありません)。翌1986(昭和61)年、絶対売れないという千の反対を押し切ってリリースしたのが、自作の演歌「雪國」でした。秋から冬にかけて、じわじわ売れてきて、ちょうど吉がNHKの大河ドラマ「いのち」に出演していたことも良かったのだと思いますが、年末の紅白に初出場を果たします。この1986(昭和61)年の紅白には、千と吉が二人とも出場していますが、この「雪國」の大ヒット、そして「津軽平野」「俺ら東京さ行ぐだ」のイメージから、北国への望郷を歌う東北地方出身の代表歌手は千から吉に完全に移ってしまった観があります。流行歌手としての千の紅白出場はこの回で終わり、その位置に吉が座って、両者が入れ替わったのです。それと、この時期は、細川たかしの「望郷じょんから」(1985年)、新沼謙治の「津軽恋女」(1987年)といった北国出身の歌手が歌う北国を想う演歌がヒットしたことも、千ひとりが北国への望郷の歌を担うわけではなくなった一因だろう、と私は考えています。
さて、「北国の春」に話を戻しますと、千は紅白には1986(昭和61)年に出場した後、翌年・翌々年は選ばれず、昭和が終焉を迎えました。ところが、千は、1989(平成元)年の紅白に再出場を果たします。この年の紅白から、放送時間が拡大して2部制になりますが、この年は第1部が「昭和の紅白」、第2部が「平成の紅白」で、千は第1部の出場歌手に選ばれ、なんと5回目の「北国の春」を歌唱したのです。つまり、「北国の春」は、昭和を代表する大ヒット曲だという位置付けで、千は選出されたのです。まぁ、紅白で「3年連続同じ歌」を歌ったのは、昭和時代では、千だけですからね。
千は、これまで、紅白で「北国の春」を6回歌唱しています。その6回目はいつだったのかというと、2011(平成23)年に22年ぶりに出場した紅白においてです。この年の3月11日に発生した大震災で、千の出身地の岩手県陸前高田市は津波で壊滅的な被害をこうむりました。被災地域の復興と被災者への支援が叫ばれていく中で、私は「これは、ひょっとしたら、千昌夫が出場して、「北国の春」を歌うかもしれないな。」と、思っておりました。案の定、千は選出され、22年ぶりの紅白で「北国の春」を歌いました。これが6回目。私は、この時、「北国の春」という歌の持つ生命力を感じないわけにはいかなかったです。
写真は、私物ですが、『千昌夫全曲集~若き日の歌~』というCDです。いやいや、若き日の歌とは言わず、千昌夫には、これからも元気に歌い続けてほしいです。特に「北国の春」には、長期にわたって支持されてきた生命力があるのですから。
最後に、今から想うと、紅白でのかなり象徴的な場面を。1985(昭和60)年、千は白組の3番目に「あんた」を歌唱しましたが、この時の対戦相手は、「愛人」で初出場を果たしたテレサ・テンだったのです。「北国の春」が(東)アジアで広くヒットした千と、(東)アジアの歌姫をNHKが引き合わせたのですが、私に言わせると、これこそ、「北国の春」と「北国之春」の組み合わせではないですか!「北国の春」の紅白同じ歌対決でも良かったなぁ。


なぜ「昭和」の歌謡曲なのか?

2020年09月06日 | 昭和歌謡

このブログでは、時々、私の趣味である歌謡曲について、卑見を綴りたいと思います。
「ヒット曲」ではなく、「歌謡曲」と書きました。なぜか。それは、ヒット曲は、例えば一部の若者たちだけに熱狂的に支持されて年配の人たちはほとんど知らない曲でもヒット・チャートの上位にいればヒット曲と言いますが、歌謡曲は、老若男女分け隔てなく大衆に浸透し根付いている曲だからです。私は1970年代・1980年代に子ども時代を送りましたが、その頃は、テレビ・ラジオともに歌番組がたくさんありましたから、幼い子どもにも歌謡曲が浸透してきていました。それが、私の日常でした。例えば、私が幼稚園児だった時、「きょうとにいるときゃ~ しのぶとよばれたの~」と歌って、父からひどく怒られたことを憶えています(当時、神戸に住んでおりましたので、その続きの「こうべじゃ~~」の歌詞も、知ってました)。そして、同じ頃、「かばんにつめこむ けはいがしてる~」の直後に、テレビに向かって、勢いよく野球帽を投げ、やはり、よく怒られていました。ちなみに、この頃のテレビは、チャンネルが手でガチャガチャ回すタイプのものでした。小学生になると、「ゆううつなどふきとばして」を聞き間違え、「ジュースなどふきとばして」と歌いあげ(小2の私は「憂鬱」という言葉を知りませんでした)、ジュースを吹き飛ばしたら、親や他の大人たちに怒られるかも分からんけど、そらぁ、元気が出るし、カッコええやんか、と勝手に思いこんでいました。また、小3のクラス会では、会の最後に全員で「贈る言葉」を歌ったことを憶えており(メロディーは知っているが歌詞が分からん、と言ったら、女子たちが、歌詞を知らない男子たちのために、歌詞カードを作ってくれた、そんな優しい時代でした)、図画工作の時間に作ったオルゴールの音色がやはり「贈る言葉」でした。金八先生が大人気だったのです。そして、小4の時の担任の先生は、休み時間に「このまま~何時間でも~ 抱いていたいけど~」と、よく口ずさんでおられました。でも、この頃の私は、外で遊ぶことが第一でしたし、夜8時には寝ていましたので、意識してテレビの歌番組を視ることはありませんでしたが、それでも、こんなふうに、よく売れた曲は、いつの間にか、歌番組を視なかった幼稚園児・小学生にも届いていたのです。そういう時代でした。
私が歌謡曲に興味を持ち始めたのは、1983(昭和58)年の秋頃から。NHKの「レッツゴーヤング」や賞レースの番組を視たりして、当時の私はすっかり岩井小百合に心を奪われてしまいました(もう37年も前のことか……岩井小百合、めちゃくちゃ可愛かったなぁ)。そして、何よりも毎週、TBSの「ザ・ベストテン」を視るようになり、翌1984(昭和59)年からは、毎週、番組をビデオに録画し、10位から1位まで、曲名・歌手(グループ)名・得点・スポットライトの出演者と曲名を、大学ノートに記録し始めました。1988(昭和63)年4月14日まで記録したそのノートは、今も大切に保存していますが、これについては、後日、紹介することにします。さらに、大晦日のNHK紅白歌合戦も、1984(昭和59)年から毎年欠かさずビデオに録りつつオンタイムで視、ビデオでもテープが擦りきれるくらい視返しました。この年の紅白は、都はるみの引退が話題になりましたが、私は中学生であったにもかかわらず、郷土の星・菅原洋一のすばらしい歌声に魅了されていました(この年は「忘れな草をあなたに」を歌唱)。
一方、この頃から、私はAMラジオのヘビーリスナーとなり、NHK第一の中西竜アナウンサーによる「日本のメロディー」、その直後の午後10時からのABC朝日放送の夜の番組「ABCヤングリクエスト」、深夜の「3時です。もうすぐ夜明けABC」、明け方の「おはよう浪曲」まで、めっちゃ眠かったけど、母に「まだ起きとんか。早よ寝り。」と、出身地の方言で何度も注意されながら、本当によく聴いたなぁ、と思います。私は、部活を終えて学校から帰ったら、晩ごはんとお風呂を済ませると、「ザ・ベストテン」以外の日は、とにかく、自分の部屋に入り浸って、学校の勉強をしながら(?)、常にラジオを聴いておりました。ラジカセで、最新のヒット曲から昭和初期の懐メロまで、これでもか、というくらい録音しました。そのたくさんのカセットテープは、捨てないで今も残してあります(暇を見つけてCD化を計画しています)。このスポンジのように何でも吸収してしまう中高生の時期に、私は歌謡曲漬けになってしまったのです。
ここまで、主に私の中高生時代の歌謡曲遍歴を記してきましたが、私が高校生の時に、大きな出来事が起こりました。昭和天皇が崩御され、昭和が終わり平成が始まるという時代の移り変わりです。実は、歌謡曲は、昭和から平成への移行期を境に、かつての勢いを失い、衰退していった、と私は見ています。というより、当時、私はもう感じていました。私が「ザ・ベストテン」の毎週の順位を記録するのをやめたのは、言葉でうまく表現はできないけれど、何かそれまでとは違って、ランクインする歌の中に心に響いてこない曲が増えてきた、というか、ヒット曲に説得力が無くなってきた、と感じたことによります。久米宏が1985(昭和60)年に「ザ・ベストテン」の司会を降板したのも、「ザ・ベストテン」が1989(昭和64・平成元年)年で終わったのも、日本テレビの「ザ・トップテン」を引き継いだ「歌のトップテン」やフジテレビの「夜のヒットスタジオ」が1990(平成2)年に終わったのも(夜ヒットについては司会の芳村真理の意向が大きかったと言われています)、やはり歌謡曲に何らかの大きな潮目の変化を感じたからなのでしょう。紅白だけは、それらを掬いとるように拡大し、昭和時代は午後9時~午後11時45分の2時間45分の番組でしたが、平成元年に第一部(昭和の紅白)・第二部(平成の紅白)の二部構成で1.5時間ほど拡大してからは、この二部構成の時間帯のまま、平成時代を駆け抜けました。もちろん、平成時代に生み出されたヒット曲も少なくないのですが、私はベースは昭和の歌謡曲だと思って見続けてきました。「津軽海峡冬景色」と「天城越え」が隔年で交互に歌われたり、もう今回で紅白卒業と自ら線を引いた大御所の歌手が「マイ・ウェイ」や「おふくろさん」や「まつり」という昭和の名曲を歌ったことが、そのことをよく示しています。事実、平成時代の紅白で、昭和時代の曲は、たくさん歌われました。以上から、平成時代も昭和時代の歌謡曲がベースにあったと言って、過言ではないのです。
そして、私が、このことを強く確信したのは、なかにし礼の『歌謡曲から「昭和」を読む』(NHK出版新書、2011年12月)を読んでからです。その11ページには、「ところが、歌謡曲の世界が消滅する日がやってきた。……。昭和から平成へと移るころである。」と書かれています。私は、「歌謡曲の世界が消滅」したとは考えてはいませんが、「昭和から平成へと移るころ」に歌謡曲に大きな潮目の変化があったという点では、なかにし礼の見解に、同意しております。そういう意味で、この本は、歌謡曲全盛の昭和の終盤十数年を知り、平成の流行歌の様子を自分なりに視てきた私にとって、自分の立論の一つの拠り所となる貴重な一冊です。
そういうわけで、私がこのブログで綴ろうとしているのが、「昭和」の歌謡曲である理由が、解っていただけたのではないか、と思います。