これからはじめる話は、
私の家族や親しい友人も知らないことです。
私自身も、なぜこんな人生なんだろう、、と
子どもながらに考え、育ってきていて、
こころの中で普通とは違うと感じていながら
普通を装い、時には傷つきながら、
生活していた話をしていこうと思います。
まず、私の幼少期の家族構成ですが、、
ちょっと特殊です。
祖父と祖母(父方)、
父(私が産まれるころから精神病)、
叔父(父の弟、知的障害者)、
母(家庭環境が複雑で帰る家がない)、
兄(一つ年上)
ちなみに、祖父と祖母はお互いに兄弟が多いのですが、知的障害者の叔父がいるというだけで親戚付き合いをせず、疎遠になっています。
中には毛嫌いしている方もいたようです。
私が産まれる一年前、父(22)、母(18)、兄(0)は、借家暮らしをしていました。
若くに結婚してしまった上に、母は中卒で幼い兄を看ながら働くことは出来ませんでした。
父も、結婚する前は自衛隊で働いていて安定していましたが、結婚後になぜか辞めてしまい、
お金を稼ぐために、一日病院の看護助手で働いていました。
母の二人目の妊娠もあり、日中の仕事に加えて
夜は運送業で働いていたとのこと。
まともに睡眠もとれずに毎日家族のために、
生活していて、父は、
ある時から死にたいといいだし、家の中で
包丁を持ち出すなどの鬱症状がではじめていました。
祖父母も心配し、祖父母の家で一緒に暮らすことに。
私が産まれる前まで鬱症状が続き、包丁を持ち出すことだけではなく、紐があったら自分の首をかけようとまでしていたそうです。
父が精神病院に入院するまで、祖母と母の二人で交代しながら監視していたそうです。
そんな中、私が産まれました。
幼少期、あまり覚えてはいないのですが、、
父親がいないことは当たり前でした。
父が居るときは、症状が落ち着いて退院してる時だけ。
こんな家庭環境じゃ大変そうだな、とか思われてそうですが、実際はそんなに暗くはなく、
むしろ、病気の父自身が元々明るい人だったので、症状が落ち着いて帰ってきてるときは、よく兄と私と叔父と母を動物園や水族館、公園へよく連れて行ってくれていました。
兄が幼稚園にいくころには、世間体を気にして
就職して働きにでては、症状が悪化し、入院の繰り返しだったと思います。
その頃の私は、初めての女の子ということもあり、家族には別の意味で一目置かれていました。
祖父は元々働いていたのですが、祖父のお金だけでは生活出来ず、祖母が父の代わりに病院で日中働き、夜中はホテルのベッドメイキングの仕事をし、家計を支えてくれていました。
母はというと、祖母から一日のスケジュールを事細かに決められ、決められた食費でやりくり、家事をしていました。
家では、なぜか夜8時には寝るという規則があり、テレビもあまり見れませんでした。
唯一、父が帰ってきてるときは自由に過ごせる感覚は今でも覚えています。
そんな生活をしてたら、母もストレスの吐口もほしくなりますよね。。
私は、幼少期から、母に日頃のストレスを聞かされて育ってきてしまったために、なぜか、
異常に共感能力が高く、物心ついたときから、祖父母は厳しい存在で、父の代わりに母を守るために自分は聞き分けのいい子でいないといけない、でも間違ってることは言うこと聞かないという思考を持っていました。
その為、兄は、祖父母に可愛がられるが、私はあまり可愛がられていないように感じていました。
実際に、祖母からも兄は優しくて明るくていい子なのに、融通の効かない子だと言われ比べつづけてきました。
笑えと言われても面白くもないのに笑えないじゃないですか。
そんなことを言われながらも、内心傷つき、私は間違っていないと心に刻んで家では泣かずに生きてました。
本当に私、頑張ってたな、、
幼稚園の3年間、友達を作ろうと思わなかったし、いなかった。
毎朝、先生の膝の上で泣いていた。
幼少期はその心情がわからなかったが、
子どもながらに精神を安定させるためだったのかなと、大人になってから気づきました。
幼少期、暗い日々の中にも父という光もありました。
過去の私も認めて抱きしめる。。