野村克也さんが死去・・・・84歳だったそうです。奥様がお亡くなりになられて・・・元気がないようにテレビから感じていました。私の年齢では野村監督!!現役時代はかすかな記憶しかありません。名監督で毒舌!理論派!ID野球!再生工場!そんな言葉が頭に残ります。我が阪神の暗黒時代!!苦肉の策??毒薬で(笑)野村監督が就任。よーーー受けたなとびっくりしました(笑)しかし・・・在任期間の3年間はすべて最下位に低迷( ノД`)シクシク…まさに暗黒時代でした。後の野村監督の著書には阪神の監督を受けた事が野球人生の最大の恥部(笑)そんな事を嫌味まじりに書いておられました。しかし・・・野村監督の3年間は多くの選手が育ちました。順位は別として!阪神は野村監督の後に星野監督が就任!これもびっくりでしたが!見事に優勝(^^)/野村さんの遺産も多いと言われていました。それは楽天の監督時代も同じ!私は大好きな方でした。
野村監督のプロ野球生活・・・激動の連続だったようです。京都の峰山高時代はまったくの無名。54年にテスト生として南海に入団しました。必死で野球でメシを食べる事を目指したそうです。3年目にはレギュラーに定着。63年には52本塁打、65年には3冠王に輝くなど強打の捕手としてチームを支えました。そこには大きな努力と考える力があったと思います。大学野球の花形で華やかな巨人の長嶋とたたき上げの自身を比べ「長嶋はヒマワリ。私は浜辺に咲く月見草だ!とたとえた名言。70年から選手兼監督としてチームを率い、73年にはリーグ優勝を果。
しかし・・・77年に女性問題が発端でフロントの信頼を失い、シーズン中に監督を解任されます。この当時、交際していたのが17年12月に亡くなった沙知代夫人だったそうです。南海退団後は“!!!生涯一捕手!!としてロッテ、西武でプレー。80年限りで現役を引退。
超辛口野球解説者を経て89年オフにヤクルト監督に就任。データを重視するID野球を掲げてチームを鍛えなおします。9年間で4度のリーグ優勝、3度の日本一に輝きます。
98年オフ、三顧の礼で阪神監督に迎えられた。翌99年の春季キャンプでは、初日夜のミーティングで、自らが執筆した分厚い教本を全選手に配り「成功は結果であって、目的であってはならない」などの「ノムラの考え」を約1時間半にわたって講義。チームの意識改革に取り組みました。広い甲子園で機動力を生かすため、赤星ら俊足の選手をそろえ!!懐かしいF1セブンと命名するなど低迷期の阪神を変えようとしたが、結果は出ず・・・3年連続最下位( `ー´)ノ01年オフ、沙知代夫人の脱税問題が浮上し引責辞任。しかし、この3年間が03、05年の阪神リーグ制覇の礎をつくったともいわれています。
その後にびっくりしたのが?社会人シダックスの監督でした!!!その後に楽天監督を務め、09年に退団。現場を離れてからも評論家、球界のご意見番として各メディアでも活躍。
◆データ
野村克也(のむら・かつや)1935年(昭10)6月29日、京都府生まれ。峰山高から54年にテスト生として南海に入団。ロッテ、西武で80年まで名捕手として活躍し、歴代2位の657本塁打を記録。65年には3冠王に輝いた。通算成績は3017試合に出場し2901安打、1988打点、657本塁打、打率2割7分7厘。MVP5回、ベストナインは19回受賞。監督としては70~77年に南海でプレーイングマネージャー、90~98年ヤクルト、99~01年に阪神、社会人野球シダックス監督を3年間務め、06~09年まで楽天で指揮を執った。データを重視する「ID野球」でヤクルト監督時代の92年にリーグ優勝、93年、95年、97年に日本一。89年に野球殿堂入り。93年に正力賞。愛称はノムさん。妻の沙知代さんは17年に死去。息子の克則は父が監督時代の97年にヤクルト入り。今季は楽天の1軍コーチ。
野村監督・・・お疲れ様でした・・・ご冥福をお祈りいたします。
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