いつまでも木霊(こだま)する銃声……。
カイブシコリは全神経を聞こえてきた方向に集中させた。
決して抗う事のできない音。
微妙に震える四肢。
これが聞こえてきたという事は、何者かの命が絶たれたという事を理解していた。
普段なら一目散に逃げる。
反対方向に脇目もふらずに逃げる。
だが彼はそうはしなかった。
野生の勘がそう囁くのか、行かなきゃいけない…そう感じていた。
『なんだ?』-このまとわりつくような不安感は。
なにか自分の身に重大な事が起きているような錯覚さえしていた。
行ってみよう……カイブシコリはゆっくりと歩を進めだした。
「一度村に戻ろう。」-初老の男はそう言いながら、踵を返した。
「この熊はどうしますか?」
その問いに、当然だといった表情をしながらこう答える。
「村に運べ。向こうでちゃんと供養せねばな…。」
押し黙る皆。
その言葉に露骨に嫌悪感を示す者もいた。
無理も無い…すでに2人もの尊い命が犠牲になっているのだから。
だが、誰もその決定に口を挟もうとはしなかった。
なぜなら初老の男の目には、有無も言わさない無言の圧力が備わっていたし、
なにより、この男の言葉は絶対だからだ。
「よし……行くぞ。」
カイブシコリは歩を進めるたびに、どんどん不安にかき立てられていた。
「なんなんだ、いったい!」
食物をいくらか口にしたとはいえ、この巨体を満たすにはほど遠い。
時折、体が不自然にぐらつきながらも、すでに尾根を一つ越えていた。
「もうすぐだよっ、もうすぐっ」-頭上でオナガが囁く。
一瞬だが、きな臭い匂いが微かに鼻の前を通り過ぎていった気がした。
錯覚?
我に返った事で、カイブシコリはここまで来てようやくある事実に気付いた。
歩くのに夢中で、殺されたのが同類だと気が付かなかったのだ。
草や花の倒れ方、そしてこの足跡……明らかに熊であった。
ふと見ると、木の幹に爪の跡がある。あまり大きくはないな…。
「ちっ、なんで俺は……。」
ほぞを噛みながら、自分の今している行為に嫌気がさしていた。
-なにをやってんだ俺は!この先には殺害現場があるのみ。
そんな所に行ってどうするつもりなんだよ!
しかもまだ人間の奴らはいるかもしれないってのに!!-
だが一方では、この得体の知れない嫌悪感を払拭するには行かねばならないと
心の奥底でなにかが囁いている。
カイブシコリはふと立ち止まった。
いつのまにか陽は落ち、晩秋の冷たい風がざわざわと木々をゆらしている。
巨大な物体が立ち止まった事で、暗がりに潜んでいた虫達が
精一杯のラブソングを奏ではじめた。
「月は出てないか。」
なにやら心が和んだ。
この土地々々こそ我らの生活の場。
この全てが我らの縄張りなのだ。
ホーホー……。
いつのまにか一羽のフクロウが視線の先にいる。
「お前はどこから来て、どこへ行こうとしているのじゃ。」
「……俺にもよくわからん。」-カイブシコリはかぶりを振った。
「知床に向かおうとしてはいるが、凄く気になる事があってな。」
フクロウはその大きな目を一瞬細めた。
まるでカイブシコリの心の奥底まで覗こうとするかのように。
カイブシコリは聞いた。
「なにか見えるかい?」
一瞬の間ののち、フクロウは言った。
「……お前は珍しい生き物じゃな。ほんと……珍しい。」
「ん?なに言ってる。熊がそんなに珍しいか?見た感じ相当年寄りっぽいが。」
「違う。そんな事を言ってるのではないわい。
お前のように心が多彩な生き物は、ここんとこしばらくお目にかかれなかったのでな。」
カイブシコリは呆気にとられた。思わず口元に笑みが浮かんだほどだ。
「それって褒めてんのか?だとしたら素直に受け取っておくが。」
「…心が多彩なゆえに、翻弄され、傷つき、ボロボロになってしまうものなんじゃ。」
「褒めてねぇじゃん…まぁいいや。じゃあ先を急ぐんでな。」
歩きだそうとするカイブシコリの前で、フクロウは翼を広げた。
「しばし待つのじゃ。」
「なんだよいったい…。」
「お前さんにはこの先苦難が待ち受けてるやもしれん。だが、足掻くのじゃ。
足掻いてこそ、報われる事もある。」
「へっ、よくわかんないな。明日を生き延びるので精一杯なんだよこっちは。」
ホーホー…一段と強く鳴いた。
「わからんか?そのうち儂の言った事がわかるようになる。
だが……しかし、うーむ実に惜しいのう。」
フクロウは目を閉じた。
「……まぁ、忠告ありがとさん。じいさんも熊の世話してないで自分の事しっかりとな。」
背後に遠ざかるフクロウがまた鳴いた。
ホーホー……足掻くのぢゃ……。
2つ目の尾根を越えた。
どうやら近いな……森がざわついている。
ここからは慎重に行かねばならない……。
今できる最大限の注意を払いながら、ゆっくりと歩きだした。
つづく
カイブシコリは全神経を聞こえてきた方向に集中させた。
決して抗う事のできない音。
微妙に震える四肢。
これが聞こえてきたという事は、何者かの命が絶たれたという事を理解していた。
普段なら一目散に逃げる。
反対方向に脇目もふらずに逃げる。
だが彼はそうはしなかった。
野生の勘がそう囁くのか、行かなきゃいけない…そう感じていた。
『なんだ?』-このまとわりつくような不安感は。
なにか自分の身に重大な事が起きているような錯覚さえしていた。
行ってみよう……カイブシコリはゆっくりと歩を進めだした。
「一度村に戻ろう。」-初老の男はそう言いながら、踵を返した。
「この熊はどうしますか?」
その問いに、当然だといった表情をしながらこう答える。
「村に運べ。向こうでちゃんと供養せねばな…。」
押し黙る皆。
その言葉に露骨に嫌悪感を示す者もいた。
無理も無い…すでに2人もの尊い命が犠牲になっているのだから。
だが、誰もその決定に口を挟もうとはしなかった。
なぜなら初老の男の目には、有無も言わさない無言の圧力が備わっていたし、
なにより、この男の言葉は絶対だからだ。
「よし……行くぞ。」
カイブシコリは歩を進めるたびに、どんどん不安にかき立てられていた。
「なんなんだ、いったい!」
食物をいくらか口にしたとはいえ、この巨体を満たすにはほど遠い。
時折、体が不自然にぐらつきながらも、すでに尾根を一つ越えていた。
「もうすぐだよっ、もうすぐっ」-頭上でオナガが囁く。
一瞬だが、きな臭い匂いが微かに鼻の前を通り過ぎていった気がした。
錯覚?
我に返った事で、カイブシコリはここまで来てようやくある事実に気付いた。
歩くのに夢中で、殺されたのが同類だと気が付かなかったのだ。
草や花の倒れ方、そしてこの足跡……明らかに熊であった。
ふと見ると、木の幹に爪の跡がある。あまり大きくはないな…。
「ちっ、なんで俺は……。」
ほぞを噛みながら、自分の今している行為に嫌気がさしていた。
-なにをやってんだ俺は!この先には殺害現場があるのみ。
そんな所に行ってどうするつもりなんだよ!
しかもまだ人間の奴らはいるかもしれないってのに!!-
だが一方では、この得体の知れない嫌悪感を払拭するには行かねばならないと
心の奥底でなにかが囁いている。
カイブシコリはふと立ち止まった。
いつのまにか陽は落ち、晩秋の冷たい風がざわざわと木々をゆらしている。
巨大な物体が立ち止まった事で、暗がりに潜んでいた虫達が
精一杯のラブソングを奏ではじめた。
「月は出てないか。」
なにやら心が和んだ。
この土地々々こそ我らの生活の場。
この全てが我らの縄張りなのだ。
ホーホー……。
いつのまにか一羽のフクロウが視線の先にいる。
「お前はどこから来て、どこへ行こうとしているのじゃ。」
「……俺にもよくわからん。」-カイブシコリはかぶりを振った。
「知床に向かおうとしてはいるが、凄く気になる事があってな。」
フクロウはその大きな目を一瞬細めた。
まるでカイブシコリの心の奥底まで覗こうとするかのように。
カイブシコリは聞いた。
「なにか見えるかい?」
一瞬の間ののち、フクロウは言った。
「……お前は珍しい生き物じゃな。ほんと……珍しい。」
「ん?なに言ってる。熊がそんなに珍しいか?見た感じ相当年寄りっぽいが。」
「違う。そんな事を言ってるのではないわい。
お前のように心が多彩な生き物は、ここんとこしばらくお目にかかれなかったのでな。」
カイブシコリは呆気にとられた。思わず口元に笑みが浮かんだほどだ。
「それって褒めてんのか?だとしたら素直に受け取っておくが。」
「…心が多彩なゆえに、翻弄され、傷つき、ボロボロになってしまうものなんじゃ。」
「褒めてねぇじゃん…まぁいいや。じゃあ先を急ぐんでな。」
歩きだそうとするカイブシコリの前で、フクロウは翼を広げた。
「しばし待つのじゃ。」
「なんだよいったい…。」
「お前さんにはこの先苦難が待ち受けてるやもしれん。だが、足掻くのじゃ。
足掻いてこそ、報われる事もある。」
「へっ、よくわかんないな。明日を生き延びるので精一杯なんだよこっちは。」
ホーホー…一段と強く鳴いた。
「わからんか?そのうち儂の言った事がわかるようになる。
だが……しかし、うーむ実に惜しいのう。」
フクロウは目を閉じた。
「……まぁ、忠告ありがとさん。じいさんも熊の世話してないで自分の事しっかりとな。」
背後に遠ざかるフクロウがまた鳴いた。
ホーホー……足掻くのぢゃ……。
2つ目の尾根を越えた。
どうやら近いな……森がざわついている。
ここからは慎重に行かねばならない……。
今できる最大限の注意を払いながら、ゆっくりと歩きだした。
つづく