シャンチー(中国象棋)の魅力、奥深さを多くの方に知っていただくために、毎年開催されている「シャンチーのつどい」が、今年も4月17日、東京・目黒区民センターで開催されました。
今年の「つどい」は、午前中に2ラウンドのゲームが行われ、このほど現役からの引退を表明した過能国弘選手(1994年アジア選手権、95年世界選手権、96年アジア選手権代表)の引退試合が行われました。対戦相手を務めたのは、昨年の世界選手権ノンチャイニーズ・ノンベトナミーズ(NC/NV)の部で6位に入賞した松野陽一郎選手。「プロ野球の引退試合ではないので、真剣勝負で」という事務局からの要請に応え、双方とも時間ぎりぎりまで考える熱戦に。結果は過能選手の勝ちとなり、会場からは「まだ引退するのは惜しい」という声が上がりました。
午後の講演の部のトップバッターは、その過能国弘さん。元中国残留孤児という数奇な人生体験を持つ過能さんに、「私の歩んだ道」と題して、半生を振り返ってのお話をしていただきました。以下はその要旨です。
「1945年4月に中国黒竜江省に生まれた私は、父が終戦直後に死亡、母が兄、姉と生まれたばかりを私を連れて日本に引き揚げる途中、私だけを中国人に預けたのです」
「養母は私をとても愛してくれました。小さいころ、まわりは私を日本人だとはやし立てましたが、母はそんなことは嘘だと言い、私も大好きな母が本当の母ではないとは信じたくありませんでした」
「自分が日本人だとはっきり知ったのは、大学受験のときでした。日本人だからどこの大学にも入れないと分かり、就職先もなく、絶望的な気持ちになりました」
「そんな絶望感を、小さいころに習い覚えたシャンチーに打ち込むことで紛らわせました。シャンチーの本を買い込み研究に没頭しました。特に同じ黒竜江出身の王嘉良さんの本はむさぼるように読みました。1年ほどで県の大会で準優勝するほどに上達しました」
「養母が亡くなり、帰国したいという思いが募りました。幸運なことに1981年の第1回訪日調査団に加わり、自分が初めて過能国弘という名前だと知りました。82年に帰国後は、2年間は日本語の勉強に集中しました。職業訓練校に通い、就職してからは夢中で働き、生活が落ち着いたときは帰国から10年が経っていました」
「帰国後すぐに日本でシャンチーの日本選手権があることは知っていましたが、日本語の習得と仕事を覚えるのが先だと思い、10年間はシャンチーのコマに触れませんでした」
「初めて日本選手権に参加したのは1993年、翌年の日本選手権では3位に入賞し、その年のアジア選手権(マカオ)に日本代表として出場しました。95年、96年と3年連続で国際大会に日本代表として出場できて、日本シャンチー協会には感謝しています」
「2000年代に入ると、国を相手取って帰国者の生活保障を求める集団訴訟を提起し、原告団の事務局を務めることになりました。国とは2007年に和解が成立しましたが、その年から上海へ長期出張することになったので、シャンチーからは遠ざかる生活になってしまいました」
「振り返ってみると、母が私を連れて日本に帰ろうとしたら、おそらく私は日本に着く前に命を落としていただろうと思います。今も命があって生き永らえることができているのは、中国人に預けられて残留孤児となったおかげといえるかも知れないと思うと、不思議な気がします」
「戦争の悲惨さは、戦争のときだけのものではありません。戦争が終わった後も、その傷跡は長く残るのです。若い人たちを前にして、皆さんに言いたいことは、戦争という手段は絶対に用いてはならないということです」
最後に「シャンチーが上達するためのアドバイスを」という質問に、
「残局をみっちりと頭にたたき込むことです」という言葉で、講演を締めくくりました。
続いて松野陽一郎さんの「私はいかにして世界選手権で入賞したか」。初級者が中級レベルに移行するための勘所を、自身の国際試合での実戦を例に取って分かりやすく解説しました。
「シャンチーの学習は、過能さんが言われたようにまず残局、それから布局、中局の順に学習し、その次はさらに上のレベルの残局へと、ループ状に進んでいくことが必要です」
講演のトリは、世界シャンチー連合会(WXF)認定フェデレーションマスターの所司和晴さん。世界最多となるNC/NV部門4度目の優勝を飾った昨年の世界選手権の自戦を例に取り、「中炮進三兵対屏風馬」の布局について、対局当時の自身の心の動きも含めて、詳しい説明がありました。
今回の「シャンチーのつどい」は、短い時間でしたが、とても充実した内容となりました。まさに「来た人だけが得をした」ものとなりました。
過能選手引退試合
過能さんの講演『私の歩んだ道』
「松野節」炸裂『私はいかにして世界選手権で入賞したか』
所司さんはいつも分かりやすい解説
今年の「つどい」は、午前中に2ラウンドのゲームが行われ、このほど現役からの引退を表明した過能国弘選手(1994年アジア選手権、95年世界選手権、96年アジア選手権代表)の引退試合が行われました。対戦相手を務めたのは、昨年の世界選手権ノンチャイニーズ・ノンベトナミーズ(NC/NV)の部で6位に入賞した松野陽一郎選手。「プロ野球の引退試合ではないので、真剣勝負で」という事務局からの要請に応え、双方とも時間ぎりぎりまで考える熱戦に。結果は過能選手の勝ちとなり、会場からは「まだ引退するのは惜しい」という声が上がりました。
午後の講演の部のトップバッターは、その過能国弘さん。元中国残留孤児という数奇な人生体験を持つ過能さんに、「私の歩んだ道」と題して、半生を振り返ってのお話をしていただきました。以下はその要旨です。
「1945年4月に中国黒竜江省に生まれた私は、父が終戦直後に死亡、母が兄、姉と生まれたばかりを私を連れて日本に引き揚げる途中、私だけを中国人に預けたのです」
「養母は私をとても愛してくれました。小さいころ、まわりは私を日本人だとはやし立てましたが、母はそんなことは嘘だと言い、私も大好きな母が本当の母ではないとは信じたくありませんでした」
「自分が日本人だとはっきり知ったのは、大学受験のときでした。日本人だからどこの大学にも入れないと分かり、就職先もなく、絶望的な気持ちになりました」
「そんな絶望感を、小さいころに習い覚えたシャンチーに打ち込むことで紛らわせました。シャンチーの本を買い込み研究に没頭しました。特に同じ黒竜江出身の王嘉良さんの本はむさぼるように読みました。1年ほどで県の大会で準優勝するほどに上達しました」
「養母が亡くなり、帰国したいという思いが募りました。幸運なことに1981年の第1回訪日調査団に加わり、自分が初めて過能国弘という名前だと知りました。82年に帰国後は、2年間は日本語の勉強に集中しました。職業訓練校に通い、就職してからは夢中で働き、生活が落ち着いたときは帰国から10年が経っていました」
「帰国後すぐに日本でシャンチーの日本選手権があることは知っていましたが、日本語の習得と仕事を覚えるのが先だと思い、10年間はシャンチーのコマに触れませんでした」
「初めて日本選手権に参加したのは1993年、翌年の日本選手権では3位に入賞し、その年のアジア選手権(マカオ)に日本代表として出場しました。95年、96年と3年連続で国際大会に日本代表として出場できて、日本シャンチー協会には感謝しています」
「2000年代に入ると、国を相手取って帰国者の生活保障を求める集団訴訟を提起し、原告団の事務局を務めることになりました。国とは2007年に和解が成立しましたが、その年から上海へ長期出張することになったので、シャンチーからは遠ざかる生活になってしまいました」
「振り返ってみると、母が私を連れて日本に帰ろうとしたら、おそらく私は日本に着く前に命を落としていただろうと思います。今も命があって生き永らえることができているのは、中国人に預けられて残留孤児となったおかげといえるかも知れないと思うと、不思議な気がします」
「戦争の悲惨さは、戦争のときだけのものではありません。戦争が終わった後も、その傷跡は長く残るのです。若い人たちを前にして、皆さんに言いたいことは、戦争という手段は絶対に用いてはならないということです」
最後に「シャンチーが上達するためのアドバイスを」という質問に、
「残局をみっちりと頭にたたき込むことです」という言葉で、講演を締めくくりました。
続いて松野陽一郎さんの「私はいかにして世界選手権で入賞したか」。初級者が中級レベルに移行するための勘所を、自身の国際試合での実戦を例に取って分かりやすく解説しました。
「シャンチーの学習は、過能さんが言われたようにまず残局、それから布局、中局の順に学習し、その次はさらに上のレベルの残局へと、ループ状に進んでいくことが必要です」
講演のトリは、世界シャンチー連合会(WXF)認定フェデレーションマスターの所司和晴さん。世界最多となるNC/NV部門4度目の優勝を飾った昨年の世界選手権の自戦を例に取り、「中炮進三兵対屏風馬」の布局について、対局当時の自身の心の動きも含めて、詳しい説明がありました。
今回の「シャンチーのつどい」は、短い時間でしたが、とても充実した内容となりました。まさに「来た人だけが得をした」ものとなりました。
過能選手引退試合
過能さんの講演『私の歩んだ道』
「松野節」炸裂『私はいかにして世界選手権で入賞したか』
所司さんはいつも分かりやすい解説