今回はNHK大河ドラマ「真田丸」の舞台にもなった、九度山町を訪ねてみました。
天下分け目の関ケ原の合戦で信繁親子は西軍に加わりました。 しかし西軍は敗退。
信繁親子は東軍(徳川家康)から死罪に処せられるところ、兄信之の嘆願により死罪を
免れたが高野山に蟄居を命じられます。 信繁親子は真田家の菩提寺である高野山蓮華
定院(れんげじょういん)に身を寄せ、隠棲生活がはじまったが、高野山があまりにも寒
かったのと、女人禁制の高野山であったためその年の冬に庵を九度山に移しました。
その跡地に建つのが善名称院(ぜんみょうしょういん)、真田庵です。
今回は、主な所を回ってみました。 祈りと共生(神仏習合)の世界遺産慈尊院(じそ
んいん)、丹生官省符神社(にゅうかんしょうぶじんじゃ)にも足を延ばしてきました。
慈尊院(世界遺産)
弘法大師の母公が晩年移り住み、没後その廟所として弥勒堂(重要文化財)が建てられ、女人禁制
の高野山に対して女人高野として呼ばれました。
「慈尊」とは、遠い未来に人々を救うために現れた弥勒菩薩仏でこの寺の本尊です
世界遺産慈尊院記念碑
慈尊院の受付所(御朱印が頂けます)
安産・授乳・良縁・育児等を願う乳房の民間信仰であると記されています。
日本でも非常に珍しい「乳房型絵馬」をご奉納するお寺。
ここ近年、特に多いのが乳がん平癒の祈願で多くの女性が
熱心に参拝に訪れている。
ゴン(ガイド犬)
弘法大師像の横にゴン(雑種の犬)の石像が載せられている、そのゴンについて紹介しましよう。
案内犬ゴンは平成元年(1989年)頃から白い雄の野良犬で慈尊院をねぐらとして、連日参拝者・ハイキング客を高野山までの
約20Kmの道のりを案内していた。 連日のように険しい道を歩き続けたため、平成4年(1992年)ガイド役を退きその後老衰
のため、平成14年(2002年)6月5日息を引き取った。 慈尊院の鐘の音を好み、いつしかこの犬の事を「ゴン」と呼ばれる様に
なりました。 案内犬ゴンの歌も作られている様です。
弘法大師と並ぶ案内犬のゴンの石像
築地塀・北門(県指定文化財)
大日塔
紀州続風土記や高野春秋などの古記録によれば天分9年(1540年)の紀ノ川の洪水による
旧慈尊院境内焼失時には、すでに建てられていたようで、これらの遺構は様式や技法から
みて16世紀の建立になり、築地塀は全国的に見ても非常に珍しいものであり
また、高野政所としての歴史を知る貴重な遺構であるとの説明がある。
丹生官省符神社(世界遺産)
弘法大師(空海)が慈尊院創建の時、守り神として地元にゆかりのある丹生都比売(にうつひめ)・高野御子の
二神を祀った神社です。 慈尊院からは119段の階段を登った高台にありました。
やっと上り詰めた所の境内
春日造り、桧皮葺極彩色の社殿(重要文化財)
高野山町赤道(世界遺産)
聖地へと続く祈りの道、高野山への表参道である石道が慈尊院から高野山へ続く約20kmの道程で約100Mごとに卒倒婆石が残り
歴代天皇や法皇、関白や将軍初め一般庶民が踏み固めてきた信仰の表街道です。
仏師能光尊
備前(岡山県)生まれで鳥羽院の時の人で、後に九度山町入郷に居住し、永治元年(241年)高野山中門の多聞、持国のニ天王を彫刻した。
ほか幾多の仏像を彫刻された偉大な仏師だったと伝えています。
真田古墳(真田の抜け穴伝説)
大坂夏の陣で六文銭の旗印をはせた、かっての武将真田幸村が隠住んだゆかりのちでもあり、この古墳は久しく「
真田の抜け穴」と伝承されている。
真田古墳と記された木版
単なる井戸跡のような?
真田庵(善名称院(ぜんみょうしょういん)(県指定史跡))
真田昌幸・幸村が閑居した寺院です。
幸村の旗印である六文銭が刻まれた門をくぐると本堂があり、真田昌幸の墓があります。
真田庵の入り口
幸村の旗印である六文銭
屋敷跡に建つ寺院
善名称院(真田庵)を初めて建てた大安上人の善名称院大安上人廟所霊屋
真田安房守昌幸墓地と記された案内板
真田昌幸が眠る墓地
真田ミュージアム(平成28年3月13日オープン)
ミュージアムの出入り口
甲冑姿の真田昌幸・幸村・大助が出迎えてくれます
六文銭家紋入りの文箱
真田丸の絵図面
丹生官省符神社 御朱印
慈尊院 御朱印
丹生官省符神社の由緒書き
次回は、高野山?冬に向かうし車では厳しいので、和歌山に向かってみましょう!