17日阪神大震災から11年 教訓継承誓い各地で追悼 (共同通信) - goo ニュース
今年の日並びは1995年と全く同じです。当時、ハッピーマンデー法はなかったので、一部の祝日は
当時の日付とは違っていますが、3月には日曜日と春分の日に挟まれた3月20日月曜日というのも
しっかり存在しています。
では11年前の1月16日は何をしていたか?まだあの当時は名古屋の実家に住んでいました。
ひとつ覚えているのは、その日の深夜にBS1でNFCチャンピオンシップの放送があったということです。
カウボーイズ@49ers。翌日、17日の火曜日はもちろん学校があるわけだから、夜更かしして、
これを見ようかどうか悩んだ末、録画するのも忘れてそのまま眠ったのではないかと思います。
そして翌日の早朝5:30過ぎに何となく目が覚めました。しかしその16分後にグラグラっと家が揺れて、
完全に目が覚めました。「こんなことで目が覚めるのだったら夕べNFLを見るんだった」とその瞬間、
真っ先に思ったことです。このグラグラは、実は大地震だったということは今更説明を加える
必要もないでしょう。この日は神戸近辺が大変になっているということを、多くの人々は首相官邸よりも
先に知ることになるのですが、自分は普通に学校へ向かいました。
しかし、何だか体の調子がおかしく、早退して家で寝込みました。その日の夜、神戸出身の
鈴木杏樹さんが泣きながらレギュラーのラジオを放送していたのを、自分の部屋で寝込みながら
聞いていました。それ以降、神戸の地震をテレビで見ながら、自分は高熱にうなされながら、
病院で点滴を打ち、週末まで寝込んでいました。
あれから11年が経過しました。あの時にはその日を生きるのに必死だった人が神戸周辺に溢れかえり、
同時に日本の緊急事態への対処がいかにお粗末なものかを思い知らされる結果となりました。あの地震が
教訓となって、民間業者が建築基準の審査を行うことができるようになったわけです。しかし、11年経って、
それが耐震偽造という事態を生むとは皮肉なことです。おまけに17日には耐震偽造に関しての証人喚問が
行われるとは11年前に誰が予想したのでしょうか?(あえて17日に証人喚問を組んだという穿った見方も
できそうなのですが)ちなみに17日召喚される証人は、11年前の震災のとき、ビルが崩れて責任を取った
人物がいるのかと反論しているのもまた皮肉なことです。
昨年、震災から10周年ということもあり、そこで一区切り、11年目からは新たな一歩という雰囲気もあるようです。
いつまでも「神戸=震災」というイメージだけで語るだけでなく、「ポスト復興」の神戸の姿を見せる必要もあるので、
10年というのはそれなりの区切りなのかもしれません。そうなれば、被災体験の風化も懸念されるのですが、
復興云々を問わず街並みや防災システムを整備することと震災の話を伝えつづけることは両輪ではないでしょうか。
ただし、2006年に関しては、いやでも11年前のこと、そして昨年末からのことを結びつけて考えざるを得ない
1月17日になりました。被災体験は、被爆体験のように風化してしまう可能性があるかもしれませんが、
1995年1月17日にあのようなことがあったという事実は、風化しないどころか、11年経った今になっても、
さまざまな意味で価値が見出される結果となりました。
今年の日並びは1995年と全く同じです。当時、ハッピーマンデー法はなかったので、一部の祝日は
当時の日付とは違っていますが、3月には日曜日と春分の日に挟まれた3月20日月曜日というのも
しっかり存在しています。
では11年前の1月16日は何をしていたか?まだあの当時は名古屋の実家に住んでいました。
ひとつ覚えているのは、その日の深夜にBS1でNFCチャンピオンシップの放送があったということです。
カウボーイズ@49ers。翌日、17日の火曜日はもちろん学校があるわけだから、夜更かしして、
これを見ようかどうか悩んだ末、録画するのも忘れてそのまま眠ったのではないかと思います。
そして翌日の早朝5:30過ぎに何となく目が覚めました。しかしその16分後にグラグラっと家が揺れて、
完全に目が覚めました。「こんなことで目が覚めるのだったら夕べNFLを見るんだった」とその瞬間、
真っ先に思ったことです。このグラグラは、実は大地震だったということは今更説明を加える
必要もないでしょう。この日は神戸近辺が大変になっているということを、多くの人々は首相官邸よりも
先に知ることになるのですが、自分は普通に学校へ向かいました。
しかし、何だか体の調子がおかしく、早退して家で寝込みました。その日の夜、神戸出身の
鈴木杏樹さんが泣きながらレギュラーのラジオを放送していたのを、自分の部屋で寝込みながら
聞いていました。それ以降、神戸の地震をテレビで見ながら、自分は高熱にうなされながら、
病院で点滴を打ち、週末まで寝込んでいました。
あれから11年が経過しました。あの時にはその日を生きるのに必死だった人が神戸周辺に溢れかえり、
同時に日本の緊急事態への対処がいかにお粗末なものかを思い知らされる結果となりました。あの地震が
教訓となって、民間業者が建築基準の審査を行うことができるようになったわけです。しかし、11年経って、
それが耐震偽造という事態を生むとは皮肉なことです。おまけに17日には耐震偽造に関しての証人喚問が
行われるとは11年前に誰が予想したのでしょうか?(あえて17日に証人喚問を組んだという穿った見方も
できそうなのですが)ちなみに17日召喚される証人は、11年前の震災のとき、ビルが崩れて責任を取った
人物がいるのかと反論しているのもまた皮肉なことです。
昨年、震災から10周年ということもあり、そこで一区切り、11年目からは新たな一歩という雰囲気もあるようです。
いつまでも「神戸=震災」というイメージだけで語るだけでなく、「ポスト復興」の神戸の姿を見せる必要もあるので、
10年というのはそれなりの区切りなのかもしれません。そうなれば、被災体験の風化も懸念されるのですが、
復興云々を問わず街並みや防災システムを整備することと震災の話を伝えつづけることは両輪ではないでしょうか。
ただし、2006年に関しては、いやでも11年前のこと、そして昨年末からのことを結びつけて考えざるを得ない
1月17日になりました。被災体験は、被爆体験のように風化してしまう可能性があるかもしれませんが、
1995年1月17日にあのようなことがあったという事実は、風化しないどころか、11年経った今になっても、
さまざまな意味で価値が見出される結果となりました。