私新聞のことです
けんちゃんの休みで
中之条に行きました。
今日は
「前橋」のあたご資料館です
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これが防空壕です
いまはもうここは終了になりました。
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そして新聞の一説です
いろいろ書いていたら16ページを超え
あわてて増刊号つくることになりました
増刊号
前橋は「第二次世界大戦」で空襲にあいました。前橋空襲昭和20年 8月 5日 午後10時30分、市内4ヶ所に投下された照明弾で空襲が開始され、米B29爆撃機92機により焼夷、被災面積は全市の22%、被災戸数は全市の55%、被災人口は全市の65%に及んだそうです。母はその話をよくしました。私の母は前橋女子高だったのですが、燃えてしまったので新前橋の高校に行っていたそうです。その時「人根橋」というところに焼夷弾の跡がしばらくあったと大人の生徒さんからも聞いてことがありました。今の「人根橋」は前橋の町中に入る広瀬川のカレーの「ポンチ」のあるところです。ポンチが焼け残っている写真も会場でみたのですが、ここで添付できるかわからずすいません。
そんな空襲のことを「人根橋」から歩いて数分のところに「あたご資料館」っていうのがありました。この3月(2020)に町の有志が開いていたのですが、幕をとじました。開いている時間が少なかったのですが、なかなか時間が合わず、やっと数年前知り合いに頼んで入れてもらいました。中には前橋空襲の貴重な資料が残っていました。あたご資料館の前には今も防空壕がのこっています。アーツ前橋でも真っ暗なカーテンの中に入っていくと「もう入れないぞ」「だめだ」「くるな」「奥の人はもう息をしていない」と声が響く芸術がありました。真っ暗な中で「空襲」の体験をするものでした。今の時代こうして平和でいろいろできるようになって世界ですが、「コロナ」にかかり亡くなる人はこの空襲の人たちのように苦しかったでしょう。そのあたご資料館の内容が今回『中之条町歴史と民俗の博物館「ミュゼ」』で開催と聞きでかけてきました。その内容は裏になります。
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