筑井孝子の毎日日記

絵を描き 教え 頑張る毎日

あたご資料館

2020-09-10 16:29:12 | 日記

私新聞のことです

けんちゃんの休みで

中之条に行きました。

 

今日は

「前橋」のあたご資料館です

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これが防空壕です

 

 

いまはもうここは終了になりました。

 

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そして新聞の一説です

 

『中之条町歴史と民俗の博物館「ミュゼ」』
ここは好きなところの一つなので私の「スケッチブックシリーズ4」にも載っています。今回は前橋の「あたご資料館」のが出ると聞き出かけていきました。「ミュゼ」は吾妻の小学校で群馬県指定の重量文化財になっています。その中にはこの付近の歴史が年代ごとに展示がなされています。そして企画展の会場では貴重な品のほかビデオがながれていました。すると館長さんが来て細かく説明してくれたのです。そこには前橋の空襲の後の様子。そして中之条に疎開していた子供たちの様子も見ることができました。東京の子供たちが疎開をして2月末に帰って様子がありましたが、6年生が卒業式で帰ってすぐ東京空襲(3月10日)があったそうです。暗い時代をここまで栄えた日本に感激をおぼえました。
鈴木ひで
わたしは「渋川北橘村」のカルタを制作しました。(絵と文字)そんなとき中之条でカルタをみつけました。簡単な絵だなと思ったのですが、買い求めました。お手紙だったので簡単だったのですね。今回その方がどんな方かわかりました。ひでさんはお姉さんに向けて毎日絵手紙を送っていたそうです、その数はなんと9000枚だそうです。その中には戦争のときの周りのことを細かく描いた作品も多数あったのです。ひでさんは94歳で今もご存命だそうです。絵が大好きで描いていると聞き感激しました。今度「ミュゼ」に彼女のコーナーができるそうです。わたしも簡単な絵日記かいています。主人といるようになって描きはじめもうそろそろ3000枚です。ひでさんの事もっと広がるといいです

いろいろ書いていたら16ページを超え
あわてて増刊号つくることになりました
増刊号
前橋は「第二次世界大戦」で空襲にあいました。前橋空襲昭和20年 8月 5日 午後10時30分、市内4ヶ所に投下された照明弾で空襲が開始され、米B29爆撃機92機により焼夷、被災面積は全市の22%、被災戸数は全市の55%、被災人口は全市の65%に及んだそうです。母はその話をよくしました。私の母は前橋女子高だったのですが、燃えてしまったので新前橋の高校に行っていたそうです。その時「人根橋」というところに焼夷弾の跡がしばらくあったと大人の生徒さんからも聞いてことがありました。今の「人根橋」は前橋の町中に入る広瀬川のカレーの「ポンチ」のあるところです。ポンチが焼け残っている写真も会場でみたのですが、ここで添付できるかわからずすいません。
そんな空襲のことを「人根橋」から歩いて数分のところに「あたご資料館」っていうのがありました。この3月(2020)に町の有志が開いていたのですが、幕をとじました。開いている時間が少なかったのですが、なかなか時間が合わず、やっと数年前知り合いに頼んで入れてもらいました。中には前橋空襲の貴重な資料が残っていました。あたご資料館の前には今も防空壕がのこっています。アーツ前橋でも真っ暗なカーテンの中に入っていくと「もう入れないぞ」「だめだ」「くるな」「奥の人はもう息をしていない」と声が響く芸術がありました。真っ暗な中で「空襲」の体験をするものでした。今の時代こうして平和でいろいろできるようになって世界ですが、「コロナ」にかかり亡くなる人はこの空襲の人たちのように苦しかったでしょう。そのあたご資料館の内容が今回『中之条町歴史と民俗の博物館「ミュゼ」』で開催と聞きでかけてきました。その内容は裏になります。

 


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