三年目、、、想いを言葉にするにはなんて言葉は少ないんだろう。。。いつもそう思います。
先日から毎日新聞は写真で子どもを亡くした親を綴っています。
収穫した真っ赤なトマト、その赤が命の赤に見えた。
それを手にしているのは高齢の父、、、、、両手のトマトに挟まれたその笑顔がたまらなく切なかった。
「子を亡くすことはこの年でも堪える」
年齢なんて関係ない、、、きつくてきつくてたまらない、胸に刃を突き刺したまま生きている、そんな言葉さえ薄っぺらに感じる。
今は悲しんでる時じゃない、頑張らないと。。。
これは親を亡くした子が言っていた言葉。
悲しみを感じてしまったら、もっともっと生きるのがしんどくなる。
いつか悲しみを感じることにOKが出せる日が来るといいなぁ。。。
感じることにOKが出せた日は思いっきり泣き崩れて悲しみを愛おしんでくれるといいなぁ。。。
何年経とうとも、その日がその人にとって悲しみを感じ始めるにはベストタイミングなんだ。
もう〇〇年も経ったのに、、、と言わず、ただ、やっと泣けた、悲しみを感じられた、そのことだけを感じながら一緒にいてくれる人がいたらいいなぁ。。。
魂は永遠の旅を続ける。
けれど、現世で一緒に生きられない悲しみは、生身の確かな実感。
魂の旅の一場面と感じられるには、長い時が必要。
でも、いつもいつも変化の中にいる私たち、悲しみの一部が癒えていくのもまた現実。
その時、癒えていこうとする自分の一部を、ちょっと細い目で、眩しそうに、愛しく見つめていたい。。。
☆☆☆祈り☆☆☆