哲学日記

俗世間の希望をいれると、修行は苦行になる。

 

スマナサーラ長老の禅語提唱(七)至道無難、唯嫌揀択 修行とは自然の流れそのもの/俗世間を師匠とするなかれ


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スマナサーラ長老の教えを聴きましょう。

(メモ)

人の好みに合わせて、

自然現象が変わるわけないでしょうに。…

 

(本物の)

修行とは、修行ではないんです。

ただ自然の流れそのものなんです。

 

修行という単語は、俗世間の単語なんです。…

 

俗世間の希望をいれると、修行は苦行になる。

 

ただ俗世間が決めた修行をやってるんです。それはバカバカらしいんです。…俗世間が仏様じゃないんだから。師匠は、俗世間ですかね。…

だいたい宗教はこの罠にはめられますよ、どんな宗教も。

 

 

(感想)

至道無難 唯嫌揀択

は、禅宗三祖僧璨「信心銘」冒頭の一句です。


至道無難 唯嫌揀擇
但莫憎愛 洞然明白
毫釐有差 天地懸隔

 

(試訳)
悟ることは簡単だ。
えり好みさえしなければいいのだ。

憎悪や愛着を起こさなければ、
世界はなんの問題もない。

しかし、最初髪の毛1本ほど間違うと、
最後には天と地ほど離れてしまう。

(以上)

 

 

俗世間の顔色を見て

俗世間にアピールする修行(苦行)

をするのは止めましょう。

バカバカらしい罠にはまらないように!

 

 

これに関連した、

ブッダの有名な説法

を想起した。

河を流れる丸太に修行者を例えた説法だ。

(相応部サラーヤタナヴァッガ)

 
世界の名著1『バラモン教典・原始仏典』 (責任編集 長尾雅人)から、
関連部分のみを引用させていただきます。
 比丘よ、人がもち去っていってしまうというのは、どういうことなのか。比丘よ、この世の中では、家庭をもった者が互いに社会をつくって住み、喜びをともにし、悲哀をともにし、種々の楽しいことにあたって楽しみ、種々の苦しいことにあたって苦しみ、(いっしょに住むことによって)生じてくる種々の義務に対しては、自らそれに参加する。比丘よ、これが人によってもち去られることなのである。
(以上。長尾雅人・工藤成樹共訳)

 

 

 

意味は極めて明瞭だ。
ブッダはいつもこういう風にズバッと核心を突く。
 
貪瞋痴に苦しみ貪瞋痴に夢中の愚かな俗世間
に、さらわれて溺れ死ぬ修行者の姿を説いている。
 
 


このブッダの教えを次第に守らなくなった弟子たちによって仏教は衰退し、あるいは名前だけ残って中身が別物になった。

たとえば、
一切衆生病めるを以て、是の故に我病む。…衆生病めば、すなわち菩薩病み、衆生の病癒ゆれば、菩薩もまた癒ゆ
といった維摩経の菩薩観。
このイメージに後世、さらに加上した(=人の隠れた欲を投影しエスカレートさせた)ものとして、
人々と苦しみを共にし救うために、死んでもまたこの世へ還って来る菩薩、といった
曇鸞還相回向

この「死んでもまたこの世へ還って来る」ところが、人の隠れた欲です。

これらは優れた文学であっても、ブッダの教えとは別物だ。
すなわち「さとりに向かい、さとりに流れ込み、さとりに入っていくことに」ならない。

 

 

 

ブッダの教えは究極真理。
それに加上すれば、すなわち必ず(発展、改良、革新、向上、新機軸という美名の下)修行の衰退が起きた。

 

 

 

 

サティ
「瞬間の現在(今・ここ)」に気づくこと。

ヴィパッサナー実践
「瞬間の現在」に気づき続けること

 

 

 

 

 

 

 

 

(My Favorite Songs)

岡林信康
「がいこつの唄」 (Live)



若い頃にこの歌、この歌手を知ることができて良かったよ。
今聴いても完璧だ。正しい、深い、面白い。
おれはこの歌に強い影響を受けたとおもう。
 
喧嘩しないでくらそじゃないか
すえはたがいにこのすがた
一休禅師
 
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