哲学日記

ブッダの教え「二の矢を受けず」について

 

佐々木閑 仏教講義 8「阿含経の教え 4,その8」(「仏教哲学の世界観」第11シリーズ) - YouTube


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雑阿含経に「二の矢を受けず」の教えがある。

 

2009年の記事に、昔の自分の解釈を書いてる。

人生において、失敗は避けられない。
避けられない失敗は、実はまだぜんぜん失敗ではない。←一の矢
その避けられない最初の失敗を、さらに大きな失敗になるまでなんの対策もうたず放置することだけが、本当の失敗だ。←これが二の矢
それは避けることが可能な失敗だから。

 

主張単体は、特に間違いとまで言えないが、ブッダの「二の矢を受けず」の解釈としてなら、まったくもってトンチンカンであり、大間違いだ。

ブッダの教えはもっと本質的で、ずっと深く広い内容のものだからだ。

 

一番最近の記事では、2019年に(過去記事編集再録だが)

 

(雑阿含経10 闡陀経)より引用 
苦は生ずる時生じ、
滅する時滅せん。 
(引用終)
 
 
 
 釈尊ほどの無我の聖者といえども受苦をまぬがれることはないということだ。 ただ最初の受苦に対して一切妄想せず相手にしないだけだ。……

 

「第二の矢」に関する釈尊の本当の教えは 
身受を受けても
心受を受けず 
という非常に深遠な内容のものだ。 
実行には刹那の反応が必要で、おれなんかにできるものではない。 
だけど、この境地、なんとか、ちょっとだけ真似したいのだ。

 

教えの「三受に影響を受けない」の実行は、今も激ムズで身動き取れないが、理解だけはだいぶ進んだとおもう。
 
 
肝心の実行が、
なぜいつまでも困難なままで、
向上しないのかについては、
 

人間は、苦から逃れるために、

なんと、苦を楽と錯感受して、

あるまじきことだが、

苦に夢中になってる。

 

からだと、近頃気づいた。

 

ブッダのことば。

苦に夢中なら、

当然、

その人は苦から抜けられない。

 

 

この動画で

(欲楽以外に、その苦から逃れる道を知らないから)

欲楽を喜ぶようになる。

と説かれてるのが、この部分だとおもう。

惨めなことだが、貧する者は鈍するという意味で、それなりの回避困難性は理解できる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(My Favorite Songs)  

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