哲学日記

善心で悪心を除けると思う者は、ぶよを除き、らくだを飲み込む

 

先月29日の記事に
「新約だけでなく旧約の詩篇や箴言などもじつに興味深い。キリスト教の様々な教えが、仏教の様々な教えと、ちゃんと照応してることに気づくからだ」
と書いた。

この件を、もう少し書いてみたい。



(新共同訳マタイによる福音書24)から引用させて頂きます。

ものの見えない案内人、

あなたはぶよ一匹さえも漉して除くが、

らくだは飲み込んでいる。

(引用終)

 

ものの見えない案内人とは、立法学者たちとファリサイ派の人々を指してる。

心を、良い心と、悪い心に分別して、良い心で悪い心を除けると思うなら、あなたは、ぶよは除くが、らくだは飲み込んでしまう。

 

愚劣極まるイエス惨殺事件から数千年後の世界に生きる現代人も依然として、良い心と、悪い心に分別して、良い心で悪い心を除けると信じてる。

それの何が悪いのかと、相変わらず主張する。

立法学者とファリサイ人は、まさに現代人のことなのだ。


らくだとは、正義と信じてイエスを殺すこと。もっと一般的に言えば、聖教を諳んじても、それを実践せず、行いが道に契わないことだ。

それは、「ほかの何物にも勝って実がない」心を、自分自身だと信じた結果だ。

彼らは、まさにそのように心を使い心に使われて、大偽善に落ちた。




人間に頼るのをやめよ
鼻で息をしているだけの者に。
(新共同訳イザヤ書2,22)

キリスト教徒は、これを「=神に頼れ」と読む。

おれは仏教徒だから、「=自灯明、法灯明」と読む。

 

 

 



人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる。
誰がそれを知りえようか。
(エレミヤ書17,9)

 

これで、「自灯明」の自(分)とは、自分の心ではないと分かる。

仏教は、そこのところを


心は人に従うべきで、

人は、心に従ってはならぬ。

 

と説いた。

分かった。自分=欲望に負けない善心だな。

という解釈はファリサイ人がやった大間違いだ。
善心も、人に従うべき心の一部分にすぎない。

 

 言語表現の限界点に近づいているから、類似体験がないとちょっと伝わりにくい。

昔の人は「心こそ 心迷わす心なり 心に心心許すな」なんて言葉遊びの余裕まで見せてたけど、実際は儒教的理解に凋落していった無慙な事実がある。

ファリサイ人の呪縛からは、簡単に逃げられないってことだ。








神は人間をまっすぐに造られたが
人間は複雑な考え方をしたがる
(コヘレトの言葉7,29新共同訳)


むなしい者にはむなしいものが与えられ、
豊かな人々には豊かなものが与えられる

(エラズ記7,25)

わたしたちは、何も持たずに世に生まれ、
世を去るときは何も持って行くことができない

(テモテへの手紙1 6,7)

人は行いによって義とされるのであって、
信仰だけによるのではありません

(ヤコブの手紙2,24)

世も世にあるものも、愛してはいけません。

世を愛する人がいれば、御父への愛はその人の内にありません
(ヨハネの手紙1 2,15)

 

 

実際のキリスト教徒でさえ、この赤のメッセージはスルーしてる人が少なくないと、おれはおもう。

キリスト教徒でなければなおさらだろう。

これは「存在の意味」に直結していく言葉なので、興味のない人にはなんのことやら分からない。
「有るものは、なぜ有るのか」という問題。

この種のことに興味持つ人は、まあいないね。おれにとっては切実な問題ですが、まわりは「それのどこが問題?そもそも問題自体、意味わからないし」というスタンスです。

最終的な答えを提示するのは無理でも、このブログを更新することで、そういう大問題が確実にあると、2,3人に分かってもらえれば、じゅうぶん成功だとおもってやってます。

「存在の意味」に気づくために、仏法が服用を薦める特効薬は「死隨念」です。


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2020年11月17日に行われた朝日カルチャーセンター横浜教室オンライン講座〈いつ死ぬかわからない! ―『死』を自覚して人生の目的に達するブッダの教え〉から、参加者との質疑応答を編集して配信します。※2回シリーズの1回目

日本語字幕:関口玲さん@字幕制作班 サムネイル画像:冨田ひろみさん@サムネイル制作班

 

脳は

 

死を

 

理解できない。

 

00:00 人格者になる近道

00:57 死を受け容れるための思考

09:17 死の観察とは生の不確かさの観察である

10:47 麻酔状態と死の違い

 

この話を大多数は嫌忌し

俺様はぜってー死な~ん

と思い続けてる。

 

 

ターン・プッタタート講義、あるいは法話 12.怒りを倉庫に閉じ込める

より引用させて頂きます。

 今、世界中の人が死を忘れているので、死に意味がありません。つまり世界中が死を忘れているので、何でもいい加減にしています。

 「間もなく死ななければならない」と思えば、現在しているような間違った仕方はしません。死を思うことは、何かを犠牲にし、何かを受け入れ、何かを簡単にする助けになります。死を考えると挫けて何も手につかないのは、愚かな人だけです。

 自分に死が近づいていると考えるとどのようか、私は自分で試して見たことがあります。それは、挫けさせません。何かを早く、あるいは最高に善く終わらせたいと思います。少なくとも、まだたくさん残っている仕事を、死に間に合うように片付けたいと思います。挫けて「何年もなく死んでしまうなら、何もしないで快適に寝ている方が良い」とは思いませんでした。

(引用終)

 

 

 

サティ
「瞬間の現在(今・ここ)」に気づくこと。

ヴィパッサナー実践
「瞬間の現在」に気づき続けること

 

 

さて、聖書に戻って終わりにします。
わたしは悪人の死を喜ぶだろうか、と主なる神は言われる。彼がその道から立ち帰ることによって、生きることを喜ばないだろうか。
(エゼキエル書18,23)



善を行って苦しみを受け、

それを耐え忍ぶなら、

これこそ神の御心に適うことです。
(ペテロの手紙1 2,20)

 

 

 

 

 

 

最後に、おれの好きな『コヘレトの言葉』を

 

 

 

わたしは知った 
人間にとって最も幸福なのは
喜び楽しんで一生を送ることだ、と
人だれもが飲み食いし
その労苦によって満足するのは
神の賜物だ、と。

(コヘレトの言葉3・12,13 新共同訳)

それゆえ、わたしは快楽をたたえる。
太陽の下、人間にとって飲み食いし、楽しむ以上の幸福はない。
それは、太陽の下、神が彼に与える人生の
日々の労苦に添えられたものなのだ。

(コヘレトの言葉8・15)


さあ、喜んであなたのパンを食べ
気持よくあなたの酒を飲むがよい。
あなたの業を神は受け入れていてくださる。
どのようなときも純白の衣を着て
頭には香油を絶やすな。
太陽の下、与えられた空しい人生の日々
愛する妻と共に楽しく生きるがよい。
それが、太陽の下で労苦するあなたへの
人生と労苦の報いなのだ。
何によらず手をつけたことは熱心にするがよい。

いつかは行かなければならないあの陰府には
仕事も企ても、知恵も知識も、もうないのだ。

(コヘレトの言葉9・7~10)





 

 

 

これを、

あなたはどう読む?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(My Favorite Songs) 

テレサ・テン
「花」

 

「花」は、喜納昌吉のオリジナルがソウルフルで最高だけど、このテレサ・テンのもずいぶん好いとおもう。
亡母はこの曲が大好きでカラオケでよく歌ってました。一緒した近所の奥さんに「御詠歌みたいやね」とか言われてましたけど。
 
 
 
 
本家喜納昌吉の 「すべての人の心に花を」 
(父親喜納昌永きなしょうえい氏との共演)
 
(過去記事編集再録)
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