Cube3で走るオーストラリアの旅2012

シドニー、メルボルン、アデレードそしてタスマニアを訪れ、夫婦のんびり旅行のエピソードや楽しみ方を伝えたいと思います。

Cube3で走るオーストラリアの旅 2012 資源国Australiaの形が見えるNew Castle

2012年09月05日 | 日記
Cube3で走るオーストラリアの旅2012   資源国Australiaの形が見えるNew Castle

3月3日(土)
起床は8時。天候は曇り、午後の予報は雨である。明後日5日にGold Coastに着く予定。
New castleは海辺の静かな街で人口は28万人も有している。この街の商店が並ぶ場所は海沿いとその道からさらに少し坂を登った小高い場所にある。
New castle駅の路線案内を見ると旅の初めに私達が訪れた鉱山の町やその他、内陸に向け四方に延びている。資源のあつまる所に人が流れてくるのである。私達はCube3を海が望める丘の道路に停めた。そこは既に、数台の車が停まっていた。少し風があったが海には多くのサーファーが期待する波を待ちながら、ボードに座っている姿が見えた。私は、潮風を体に受け、暖かいコーヒーを飲みながら、しばらくのんびりした時間を過ごした。私達の頭の上をカモメが羽の中に目いっぱい風をため込み、ゆっくり空を飛んでいた。私達は遠くの岬へ向かい歩く人の姿が見えたので行ってみることにした。入江の近くの駐車場にCube3を停める。
入江にそって先端を目指し20分程歩いた。道の端にある砂地の中には所々埋もれたレールがむき出している。
昔、この入江が浅い頃、内陸から運ばれた資源を機関車が岬の先端まで運んだ様子がうかがえる。入江を深くした後は、大型貨物船が通行できるようになった以降はレールが不要になってしまったのだ。
街は外洋のTasman Seaから長い入江を進すみ一番奥になっている。今日も、この入江から大きな貨物船が街に向う光景を見る事が出来た。入江の幅は目測で30~40m程と思われる。19世紀初めのころより内陸から運ばれてきた資源の重要な輸送拠点だったのである。その様な理由でNSWの中では2番目に大きな街なったのだろう。
この岬を見降ろす、高台に「Fort Scratchley」悪魔の要塞と言われる施設があったので訪れると、そこは第2次世界大戦の時、日本軍の潜水艦からこの町を守るために造られたのだ。きっと、資源の運送基地を攻撃するために日本軍が攻めてきたのかもしれない。
14時過ぎにNewcastleを出発しWillow tree までのNaviを設定する。Singletone⇒Muswellbrook⇒Scone⇒Murrurundiへと移動する。これらの町は旅の初めの時,The Blue Mountainsへ向かう時に訪れた。ここだけが行き帰り重複するルートになった。私達はMurrurundiにあったCaravan Parkに宿泊する為、Bondを支払ったが何と冷蔵庫もなく、シャワーもあまりきれいでない為、Bondを返金してもらい直ぐに立ち去ることにした。
しばらく(40km程)Cube3を走らせると小さな町にさしかかった。幸子の意見で今夜の宿泊は、この街のHotelにする事に決めた。いくつかのHotelのうちHeritage Hotelの名前が目に張った。私は名前が気に入った為、Cube3をHotelの前に停め、中に入るとこのHotelの昔の写真が壁に掛けられていた。まさしく西部劇にでてくるHotelであった。現在は、当時とは異なるが、親切そうな旦那さんが出てくると2bedsで$79と言うので、部屋を見せてもらった。私は直ぐに$70と言うと彼は上目づかいに親指を立てた。
今日のCube 3の走行距離は277’0km


Cube3で走るオーストラリアの旅 2012 第2編 囚人達が主役のRichmond、そしてPort Arthur

2012年08月18日 | 日記
2月23日(木)
第2編 囚人達が主役のRichmond、そしてPort Arthur
1時間ほど南へドライブするとRichmondに着いた。私はこの町を訪れるのは2回目になる。町を歩くと路地裏の小道や、公園の芝生にポツンと置かれたベンチなど何でもない風景が記憶の中によみがえる。この町には、1825年に完成した牢獄又、1823年にできたRichmond Bridgeがある。当時、この橋は、LauncestonからPort Arthurへ送られる囚人たちにより完成する事が出来たと記されている。ここにある牢獄はこの橋を作る人たちを収容する為に作られたのだろうか。いつの時代も社会に貢献した成果は人に感動を与えてくれる。この橋を建設した囚人たちはいったいイギリスでどんな罪を犯したのだろうか。その橋をCube3はゆっくり渡り、ハイウェイに向かう。
 ドライブをしていつも感じる事はTasmaniaの景色はどこか日本に似ており懐かしく感じる。曲がりくねった道の向こうに山が見え、その山がさらに遠くの視界を遮っている。NSWをドライブした時の解放感は無いがこの曲がりくねった道路を小気味よく走るセンスはさすがCube3である。
 2時半頃にCube3はPort ArthurのHistoric Siteに着いた。ここはオーストラリアのPrisonの中でも刑罰の重い囚人が送還されてきた。湾に向かってなだらかな斜面を利用して収容所が建設された。Tasmaniaの中でも南極に近い場所にあるPort Arthurの冬は、北海道の
網走と比べどちらが寒いのだろう。43年の間、約12,000の人たちがここで生活したのだ。丘の上は、監督官や係官の立派な建物が残り、湾に向け下る場所は、今も崩れた石造りの壁に鉄格子が残っている。その中に多くの少年囚人だけを収容する房あり1メートルの幅で壁で区切られた部分を見ると当時の厳しい生活環境を想像するには難しくない。このSiteは2時間ほど歩いて見学することもできる。又、船に乗り湾にでるとSite全体を望む事が出来る。その湾の中に1周数百メートル程の小島がある。そこにはこの収容所で死んだ数千人の亡骸が眠っている。何人かの観光客はその島を歩くが私達にはその様な気持ちになる事が出来なかった。そして1878年にこの収容所は閉鎖された。

 Port Arthurを発つとき、既に時計は5時を回っていた。Hobartに向かう途中海岸線をドライブした。この辺は南海の強い風と波に浸食された洞窟や切り立つ岩の壁が気候の厳しさを現している。
今日の停まりはまだ決めていなかったがCube3のガソリン残量を見るとかなりお腹をすかしているようだったが道路沿いにはモーテルや、Caravan Parkの標識は見当たらなかった。しばらくするとガソリンスタンドとレストランの看板が目に入り、期待して停車したが、
なんと店は閉められ、ガソリンの給油も止められていた。幸子はスタンドの向かいにある公園のテーブルにクロスを敷き、夕食を作り始めた。Cube3の食事を考えるとここで一夜を過ごすのが最適である。日本では急ぎアコモを探しそこでゆっくり食事でも取るのだが、このようなのんびりした旅行をするのも楽しいものである。食事を終えると陽は沈みかけあたりは夕やみに変わりつつあった。旅行中いつも気にかかることは、Cube3の食事であるが、Hobartに近づけばきっとスタンドは見つかると思い出発することとした。
夜のドライブは極力避けるようにしたが、不案内な道路を充分安全運転に気をつけ進んだ。
するとヘッドライトに照らされ「CAMP」と書かれた標識をみつけた。私達はやっと泊るところが見つかったと思いその方向にハンドルをきった。やっとの思いでそこに着くとそこは、地域コンベンションセンター「CAMP」であり、立派な建物が明るく照らされていた。
仕方なしに私達は近くにあったJettyのある公園に向かった。そこは地元のヨットクラブが使用しているJettyである。すでに駐車場に1台の車が停まっており水辺に釣人のライトの灯がぽつりと見えた。ここはLewishamと言われ静かな湾をのぞむ小さな町である。
海が暗いだけに夜空の星は一層輝きをまして視界に入ってきた。
今日のCube3の走行は237km。