2月15日(水)Broken Hillの街にて。
昨日の長距離の運転の疲れは、あまり残っていないようだ。8時前に目が覚めた。
幸子は、いつも私より1時間ほど前に目をさまし車内を整理し、すでに食事の準備をすませ、シャワーを浴び、昼のサンドイッチを作り終えたところだった。
私は、昨夜だけのシャワーでは髪の中の砂がまだすっきり落ちていないような気持ちだったので急ぎシャワーをとることにした。この街も雨が少なかったのだろうCaravan Parkの芝生も大きな霧吹で水をかけられ濡れた緑の草は朝日にあたり光っていた。私はCube3も体についた赤い砂を水で洗い流したいと思っているに違いない。早々に荷物をまとめCube3を芝生の上に移動した。さらに濡れた車体を水を含んだタオルできれいに洗い流した。これですっきりした気分で今日のドライブを楽しむことができる。
Broken Hillの人口は22,000人。1800年代に鉱山の街として発展してきた。その頃の様子は街のおおくの所にある古いスタイルのホテル、その他の建築物そして、私達が訪れたMuseumで良く理解できた。Coal ,Copper ,Silver等鉱物を運送する手段として鉄道が敷かれ、その頃の機関車(1888年,Manchester)やレールの上を走る自動車(Rail Car1938年製)等展示されている。炭鉱で働くけが人を運ぶ為に作られた救急車もあった。
この街の中心に石を積み上げた100メートル程の高台がある。それはLine of Lode Miner’s Memorial(鉱夫記念館)であり.多くの鉱夫が地下から鉱物を掘りだしたときの不要な石を積み上げて造られた。私達はその高台に向けてCube3を走らせた。White Cliffsや今日の目的地のKinchega NPの方向もわかる。その一角にあるトンネルの様な空洞の建物をのぞいてみると長い壁に表札程の小さなプレートが掛けられ、そこに人の名前が書かれている。出身地など記載されたプレートもあれば詳細不明と書かれたものもあった。いくつかのプレートに一輪の花が添えられている。色々な国、地方からここで働き事故でなくなったのだろう。一緒に働いていた仲間が石山を造り、無くなった工夫達がこの高台から遠いふるさとが見えるように気遣ったのかもしれない。
これからKinchega NPに向かう。途中、カーネルサンダーのケッタキーのサインが目に入ると幸子が急に「肉が食べたくなった」と言うのでKFCで昼食をとることにした。幸子の作ったサンドイッチは又午後のコーヒーブレイクで頂くことにしよう。
つづく
落書き:40年前の今日、私達は初めて苗場スキー場の宮様ゲレンデで会いました。
それから、2年後の今日、長女が生まれ・・・。
その頃、40年後にオーストラリアでこのような旅行をするとは思ってもいませんでしたネ。
昨日の長距離の運転の疲れは、あまり残っていないようだ。8時前に目が覚めた。
幸子は、いつも私より1時間ほど前に目をさまし車内を整理し、すでに食事の準備をすませ、シャワーを浴び、昼のサンドイッチを作り終えたところだった。
私は、昨夜だけのシャワーでは髪の中の砂がまだすっきり落ちていないような気持ちだったので急ぎシャワーをとることにした。この街も雨が少なかったのだろうCaravan Parkの芝生も大きな霧吹で水をかけられ濡れた緑の草は朝日にあたり光っていた。私はCube3も体についた赤い砂を水で洗い流したいと思っているに違いない。早々に荷物をまとめCube3を芝生の上に移動した。さらに濡れた車体を水を含んだタオルできれいに洗い流した。これですっきりした気分で今日のドライブを楽しむことができる。
Broken Hillの人口は22,000人。1800年代に鉱山の街として発展してきた。その頃の様子は街のおおくの所にある古いスタイルのホテル、その他の建築物そして、私達が訪れたMuseumで良く理解できた。Coal ,Copper ,Silver等鉱物を運送する手段として鉄道が敷かれ、その頃の機関車(1888年,Manchester)やレールの上を走る自動車(Rail Car1938年製)等展示されている。炭鉱で働くけが人を運ぶ為に作られた救急車もあった。
この街の中心に石を積み上げた100メートル程の高台がある。それはLine of Lode Miner’s Memorial(鉱夫記念館)であり.多くの鉱夫が地下から鉱物を掘りだしたときの不要な石を積み上げて造られた。私達はその高台に向けてCube3を走らせた。White Cliffsや今日の目的地のKinchega NPの方向もわかる。その一角にあるトンネルの様な空洞の建物をのぞいてみると長い壁に表札程の小さなプレートが掛けられ、そこに人の名前が書かれている。出身地など記載されたプレートもあれば詳細不明と書かれたものもあった。いくつかのプレートに一輪の花が添えられている。色々な国、地方からここで働き事故でなくなったのだろう。一緒に働いていた仲間が石山を造り、無くなった工夫達がこの高台から遠いふるさとが見えるように気遣ったのかもしれない。
これからKinchega NPに向かう。途中、カーネルサンダーのケッタキーのサインが目に入ると幸子が急に「肉が食べたくなった」と言うのでKFCで昼食をとることにした。幸子の作ったサンドイッチは又午後のコーヒーブレイクで頂くことにしよう。
つづく
落書き:40年前の今日、私達は初めて苗場スキー場の宮様ゲレンデで会いました。
それから、2年後の今日、長女が生まれ・・・。
その頃、40年後にオーストラリアでこのような旅行をするとは思ってもいませんでしたネ。