Nishida Kitaro
最近に成ってから、西田幾多郎の本を読み始めた。前から興味はあったのだけども.....
日本最初の哲学書といわれる「善の研究」の執筆者で近代日本を代表する哲学者、西田幾多郎。強靱な思索力で意識を深く掘りさげ、心の最深部にある真実の心は何かを探求し、独自の哲学大系を構築した。若い時は肉親の死 、学歴での差別( 東京大学における選科への待遇 )妻との一度の離縁など 、多くの苦難を味わった 。そのためか大学を出た後は故郷に戻って中学の教師となり 、同時に思索に耽った 。その頃の考えが温まって、最も著名な著書『 善の研究 ( 弘道館 、1911年1月 )に繋がったと言う。
最晩年に示された「 絶対矛盾的自己同一 」 は 哲学用語と言うより宗教用語のように崇められたり 、 逆に厳しく批判されたりした 。 その要旨は「 過去と未来とが現在において互いに否定しあいながらも結びついて 、現在から現在へと働いていく 」あるいは 、鈴木大拙 の「 即非の論理 」(「 A は非Aであり 、それによってまさにA である 」と言う 金剛経に通底する思想 )を 西洋哲学の中で捉え直した「 場所的論理 (「自己は自己を否定するところにおいて真の自己である 」)とも言われている 。そこには行動と思想とが言語道断で不可分だった西田哲学の真髄が現れている 。
論文 『 場所的論理と宗教的世界観 』で 西田は「 宗教は心霊上の事実である 。 哲学者が自己の体系の上から宗教を捏造すべきではない 。 哲学者はこの心霊上の事実を説明しなければならない 。」と記している 。
何だかセーレン・キルケゴールと似ているような感じがする。
今、歯医者に通っている。初めは前歯が1本抜けただけなのだが、それを付けに行ったら、下の前歯が1本虫歯になっているとの事で、治療になったが、その処置が終わると、今度は上の歯が1本差し歯になって居るのがグラグラに成って居たら、それを抜くというのでまあ仕方がないと思い任せる事に、すると今度は、取れた前歯と糸切り歯を全部抜いてブリッチにすると言う、「待ってくれ」と言って、差し歯1本だけ新しい差し歯にできないのかと言うと「無理です」と言う、まあねぇ....確かに私は歯の殆どが差し歯だ。自分の歯は3本しかない。しかし、糸切り歯の差し歯は、今掛かっている歯医者で保険が効かない差し歯で、10万も取られている歯だ、それを何ともないのに抜いて、グラグラに成っている差し歯を糸切り歯と前歯1本とをつないでブリッジにすると言うのです。明らかに治療の為とは言え、金儲けの算段だ。しかし仕方が無いので、了承した。すると、今日は10万掛かった糸切り歯とグラグラになっている差し歯を抜いて仮歯を入れた。そして、次回は歯を抜くので、今掛かって居る病院からどんな薬を処方されて居るのか教えろと言う「何故ですか?」と聞いたら「今度歯を抜くので出血が止まらなく成ると行けないので、聞いて置く」と言うので「肝臓の薬とビタミン剤それに精神科で睡眠薬を処方されて居る」と言ったら「睡眠薬。あ...」と先生が言ったら。歯科助手も薄ら笑いを浮かべて「あ・・・」と言う。又かと思った。所詮は歯医者だ。そしたら、横でその先生の父親の歯医者が治療して居る患者が「先生。前歯は治療だけで良いのではないですか、なんで差し歯にするんですか?」と言った。そしたら先生が「あのね、あなたの前歯は神経が死んでいるの。だから差し歯にするんですよ」と言って居る。何だか、それを聞いていたら怒りが込み上げて来て「先生。ブリッジにするのは良いけど。問題は幾ら掛かるのですか!」と言ったら。「・・・・」少し間が有ってから、保険の歯を入れるので1本1万です」と言う、此間よりは良いかと思い、まあ、仕方がないので、それで良いと言った。
私の弟は外科医だった。義理の兄貴は眼科医です。その義理の兄の兄弟は内科医でその子供は歯科大に通っている。2流大学出の私がこう言うと何だか自分でもこそばやいが、医療関係の事情については、普通の人よりは解るつもりだ。この間、今の掛かり付けの歯科医に値段を聞いたら5万だと言って居た。それが今日は1万だ。まあ、1本だけども、3本で合わせて3万だ。右側の奥は奥歯が無い。だから入れ歯にすると言う。部分入れ歯だけども。それも此の間金額を聞いている。ほぼ1万だそうだ。全部で治療費込みで5万は掛かる。しかし仕方が無いだろう。まあ、5万位で済むのならそれで治療するしかない。やれやれだ金も無いのになぁ・・・
今日は歯医者の帰りに隣町まで出かけて、紀伊国屋書店で、東京人を二冊とBlues&Soulレコードを一冊買ってきた。東京人は先月号の平成と言う時代はどんな時代だったかと言う号とアニメーション・スタジオに付いて書いてある今月号です。「東京人」は「男の隠れ家」と共にもう20数年前から欲しい号だけ購入しています。Blues&Soulレコードはこれも20年近く前から購入している。この本は月刊誌でなんとブルースのCDが付いています。今月号は最近死去した、オーティス・ラッシュの特集号で付属のCDには彼が作曲して演奏している曲を他のブルースマン達が演奏しているテイクが1枚に収めてられています。オーティス・ラッシュは素晴らしいブルース・シンガーでブルース・ギタリストだった。私は彼のコブラ盤など彼の名演奏を収めたレコードなどを所有しています。彼のギターの特徴はアール・フッカーやらロバート・ナイトホークのスライド・ギターのトーンやフレーズを指で再現しようとしてその試みが彼のダイナミックでアーシーな独自のプレイと成っていた。1970年代高校生だった頃に、当時のロックミュージックの月刊誌「ミュージック・ライフ」にオーティス・ラッシュの事を教えてくれとハガキを出した処、採用されてオーティス・ラッシュのミニ記事が掲載された事があった。それから、大学の頃、当時の日暮さんが編集長だったブルース専門誌「ザ・ブルース」にシュギー・オーティスを始めとした彼の父親のジョニー・オーティス・ショーについて日本での評価が低いと手紙5枚ぐらいに考えを述べて送った処、それが雑誌に載った事がありました。
1930年代の後半に南西部で好まれたジャンプ・ブルースは、ビッグバンド編成でブラス楽器がリフ・フレーズをガンガン吹くのが特徴です。そんな演奏に負けないように、大きな声を張り上げて歌うのがボーカリストの特徴に成りました。 その様なスタイルのボーカルを「シャウター」と言います。つまり、叫ぶ歌手です。 1940年代にシャウターは活躍しました。そんな彼等の人気が下火になった頃、彼等と自らのバンドのパッケージを組んで、 ツアーをしたりしたのが、「ジョニー・オーティス・ショー」です。ジョニー・オーティスはタレント発掘の達人であり、 いろんな人を世に出しています。13歳の天才少女「リトル・エスター」も、彼の元で「ダブル・クロッシング・ブルース」の 大ヒットを出してデビューしました。
ジョニー・オーティスはギリシャ移民の二世で白人ですが、子供の頃から黒人達と交流がありました。最初はドラマーとして活動してましたが、 後にサックスに転向しています。1970年に成り、かつての仲間をゲストに繰り広げられるライブは最高のテンションで、言う事無しです。息子のシュギー・オーティスは若干14歳でプロのブルース・ギタリストとしてデビューしてアル・クーパーなどとレコードを吹き込んで居る他。自身のアルバムも5枚ぐらい吹き込んでいます。ニューオリンズで活躍して居る日本のブルース・ギタリスト山岸潤史に吾妻光良が「シュギーのギタープレイは白人のブルース・ギタリスト、マイク・ブルーム・フィールドに似て居る」と言ったら、「彼のプレイは独特だよ。」と反論されたことがありました。
会社で働いていた頃に、同僚の男と同じ車に乗って荷物を配送して居たのですが、彼は色々と顔が広く、何と「スイング・ジャーナル」と言うジャズ雑誌の編集長の家に連れて行ってくれた事がありました。自宅に伺ってみると、家の中は、ほぼジャズのレコードで埋め尽くされて居てコーヒーとケーキを出してもらった事が懐かしく思い出されます。又、以前にも書いたので重複になってしまうのですが。私が倉庫番をして居た頃に、トラックに荷物を載せて来た、20代の若者がブルースを掛けてきたので、「俺もブルース・ハープを吹いて居たよ」と言ったら「今、吹いてないの?」と訊くので「今は吹いてないよ」と言ったら、「何で?」「他人が如何の斯うのじゃないですよ」と言うので「そうなんだけどね....」と言ったら「やらなきゃダメだよ!あなたの歳で吹けばまた違った音色が出るよ、きっと」と言われて、その他、新宿の路上でギターでブルース弾いて居た黒人の若者に「俺もブルース・ハープ吹いてたよ」と言ったらその黒人からも「今、ハープ持ってないの?」と言われて「持って居ない」と言ったら、「ハープ1本どの位の重さだよ?ジュニア・ウエルズが言ってたぢゃない。いつも持ち歩いていろとさ、もしあなたが今ブルースハープを持って居たら、此処でセッション出来たのにさ!」と言われて、そうだなと思い直し、またブルース・ハープを演奏する様に成ったのです。今はズボンのベルトに携帯フォルダーを付けて何時もブルース・ハープを持ち歩いています。
Otis Rush & Derek O'Brien - Double Trouble
Shuggie Otis with The Johnny Otis Show Live at Monterey, 1984
今から16年程前に母がデパートに出かけて夜遅くに成っても帰ってこない。心配していたら、大きな袋を持って帰ってきた。そして、「これ、お前に買ってきてやったよ」と言って袋から取り出したのは、何と、天野喜孝画集だった、「どうしたの?」と訊くと、何でも天野喜孝の個展が伊勢丹でやっていて。人が結構居たのだけども、お前が好きそうだと思い買って来たと言う。あと1時間居れば本人が来てサインを画集にして貰えたが、時間も押して居る為、待たずに帰って来たと言う。
母は私が美大に入るのを反対していたが、後年になってお前には悪い事をしたと言っていた。でもね、良いのです。美大に入らなかったのは時代の雰囲気だったし、昔は絵描きは食えないから、それに美大は疎まれていた。ただ私はアニメ製作会社に入って、アニメーション監督に成れれば良いなとは思っていたが。映画監督にも憧れていたけど、1970年代当時は映画が斜陽な為、映画の撮影スタジオも入り難く。芸大を出た人でも映画関係では就職先が無かったんだから、アニメーターは過酷な職業だし。そのことは小学生の頃にはもうよく知っていた。手塚治虫が作ったアニメ製作会社、虫プロのアニメーターの子供が同級生に居て、その子の弁当は何時も日の丸弁当だった。白いご飯に塩を掛けて梅干しが真ん中にちょこんと乗っていた。虫プロでは激務の為、アニメーターが良く倒れたそうだ、死んだ人も居るようだ。「哀しみのベラドンナ」で有名な山本暎一監督が著書の「虫プロ興亡記」の中で書いている。何日も徹夜続きの為、アニメーターが倒れて、中には血を吐く者も居て、手塚氏は漫画の連載で何時も虫プロの横にある自宅で執筆をしていたが、医者の免許を持っていた手塚氏がその都度、呼び出されて、様子を見てからそのアニメーターを救急車で病院に搬送したそうだ。手塚氏は日本アニメの基礎となるリミテッドアニメを開発した。戦後テレビアニメの『鉄腕アトム』制作に制作費や制作時間を削減するために採用した。これによりリミテッドアニメーションを進化させ同時に日本製アニメーションの手法として定着させ、現在では洗練されアニメの手法として発展している。フルアニメーションと違って画面の一部だけを動かす場合、特にキャラクターの体や顔の向きと輪郭はそのままで、目や口だけが動く、画面内の多くのキャラクターのうち、1・2名のみが動く、複数のキャラクターが全く同様の軌跡で動く、などが特徴である。海外のリミテッドアニメは、動画枚数が1秒(24コマ)あたり12枚、つまり2コマにつき1枚の動画(セル画)を作成することが多いが、日本のリミテッドアニメはさらに少なく、1秒あたり8枚、つまり3コマにつき1枚の動画を作成することが多い。他にも同じようなシーンでセル画を使い回すバンクシステムなどの工夫が知られる。特定のシーンの動画、あるいは背景を"バンク"(銀行)のように保存し、別の部分で流用するシステムである。必要に応じて預金を引き出せる銀行に例え、手塚氏が命名した。
まあ、テレビアニメにおいては今だにこの技法が使われているが、東映スタジオ出身でアニメーターから成り上がって来た、宮崎駿はこれに意を唱え、フルアニメーションに戻す方向で考えていたと思う。
天野喜孝はタツノコプロの作画監督だった。押井守と組んだ「天使のたまご」は名作の誉れが高い。今は確かパリにいて画家としても活躍していると思う。
YDEと天野喜孝のコラボレーションが実現! 天野喜孝×HYDE展 天命と背徳~NIPPON EVOLUTIOHN~
【天野喜孝プロフィール】
1952年静岡市生まれ、15歳でアニメ制作会社タツノコプロに入社。
「タイムボカンシリーズ」や「科学忍者隊ガッチャマン」など数多くのキャラクターデザインに関わる。独立後の「ファイナルファンタジー」シリーズのイメージイラストは天野の名を世界的なものとしている。その繊細で妖艶・幻想的な絵柄は日本に留まらず、世界中で熱狂的な人気を博し、また現在活躍する様々な 分野のクリエイターに多大な影響を与えてきた。90年代後半から徐々にファインアートの世界に活動の中心を移し、パリ、ニューヨーク、ドイツ等で個展を開催。数々の賞を受賞するなど、芸術家として高い評価を得ている。 2014年には日本テレビの「24時間テレビ」のオリジナルTシャツのデザインを担当するなど活躍の場をますます広げ、2014年9月から2017年6月まで
全国で開催された『天野喜孝展~想像を超えた世界~』で更に評価を高めている。
母は少し変わっていたと思う。それは幼少期に莫大な財産を持つ地主で医者の家に生まれ、お父さんが死ぬまで何不自由無い生活を送って居たからだ。母の父、つまり私の祖父は東大出の医者でドイツに留学した経歴を持っていた。戦前、家には往診用の自家用車があり。お抱え運転手が居て、政界の要人たちとも親交があった。母に言わせると小学校3年までお金を知らなかったと言う。なぜならデパートでも街の商店でも全ての人が母の家を知って降り、お金は後から請求されたらしい。町に水道を引いたのも祖父だった。知事選にも立候補した。それが戦後、祖父は直腸癌に掛かりあっけなく亡くなってしまった。さあ、それからが修羅場だった。祖父の財産を狙った親戚縁者が毎日のように自宅に押しかけて、ついには祖母まで若くして白血病になり死んでしまった。後には3人の姉妹が残された。其の儘だったら莫大な財産と土地があった訳だが。なんと戦後GHQによる農地改革が始まった。改革の目的は、農地を所有しながら自らは耕作をしない地主と、土地を借りる代わりに農作物の大半を地主に納める小作農との格差を縮めることだった。 農地改革に関する法律は、農地を耕作農民に解放する立場から、一世帯が所有できる農地を家族が自ら耕作できる面積に制限しました。特に所有地に住んでいない不在地主からは国がその所有地全部を、北海道以外の地域に住む在村地主からは1ヘクタール(2.5エーカー)、北海道の在村地主からは4ヘクタール(10エーカー)をこえる分を強制的に買収して、小作人に売り渡しました。そして祖母が残していた遺言状は全て親戚や養子にしていた兄貴に寄って奪われ、財産は全て奪われてしまいました。私が子供の頃に母は良く私を連れて茅ヶ崎の大学教授の家に遊びに連れて行きましたが。度々、「あれだけあった家の財産はどうなってしまったのか」と言われていたのを思い出します。母は幼い姉妹を遠縁の親戚に預けて一人でその大学教授を頼って上京しました。そして 三省堂書店などやらデパートの店員を転々とし3畳半の部屋を間借りして暮らしていたそうです。稼いだお金は、高校受験を控えた妹たちに送っていたそうです。預けられた姉妹たちは冷遇されていたそうです。でも、叔母たちは成人し貧しいながらも娘を短大まで出して、もう一人の叔母はイギリス、アメリカに娘を留学させました。やはり血筋でしょう。母は姉を大学まで行かせました。弟は小学校から私立に行かせ大学は医大、その後、弟は二つの大学院を自力で医者として働きながら出ました。私は一応は大学に行きましたが。宗教哲学を専攻した姉と医者の弟に比べれば劣ります(笑)一応、大学では経済学部で第2外国語はインドネシア語を学びましたが。まあ、殆ど忘れています。大学では成績は取っていましたが。途中で病気になり。又、好きだった音楽活動も辞める羽目になりました。父は根っからの商人で、会社を実の兄貴と起こし、私は病気でしたが、会社に入れました。会社と言っても小さな会社です。ただ許せないと思ったのは、弟が医大の受験勉強をしているのに。格下の大学に入って商売を継いでくれと、毎日のように説得した事です。その為医大に入ってから弟は家出をしました。父は晩年に成ってテレビと競馬とパチンコが趣味で、私がビデオデッキを2台持っていて、そのうち1ヶ月前に購入した新品の方を父が良く見ている時代劇を録画して楽しむように渡したら、「お前、このビデオは幾らに値切って買ったんだ」と言うので「それはほぼ新品だよ」と言っても「新品なら箱を見せろ!!」と言うのです。私は父を蔑みながら、息子の親切心を仇で返す父が許せませんでした。私が倉庫番をしていた1990年代、父は専務として得意先を廻って居ましたが。ある日、口の悪い得意先から「じじい!!よたって来るんじゃねえ!!」と言われたと言って悄気て居るので「専務として堂々として居れば良いだろう」と言ったら。その内、倉庫番の私に「会社にもう来るな!此れからは俺がここで倉庫番をしながらとり仕切るんだ」と言い。私は父は実の兄貴の策略にまんまと引っかかったなと踏んでいましたが。その通り従兄弟は私をイビリにイビリ抜いて来ました。そして私を辞めさせて会社は乗っ取られました。近所では兄貴が弟が作った会社をついに乗っ取ったと評判に成りましたよ。
母は、音楽には理解があって70歳を超えているのに、Led Zeppelinが演奏するBluesの「Since I've been loving you 」が好きで、何時も聴かせてくれと部屋に入って来ては、ライブ映像を見ながら、「いい曲だわね〜」と聴いて居ました。ロバートプラントの歌声が好きだったみたいです。ジミー・ペイジのギターのソロも素敵だと言って居ました。
Since I've Been Loving You - Jimmy Page & Robert Plant
歌詞:日本語訳。
それから間も無くして父は亡くなり。母はアルツハイマー型の認知症に成りました。私は8年間認知症の母の面倒を見ました。其の間。姉さんの子供。姪っ子が大学を卒業してからシンガーソングライターとしてCDを出し。その後、IT企業からヤフーに引き抜かれた東大を出た男性と結婚しました。
しかし母の思い出と言うと余り良い話ばかりでもなく。例えば私が二十歳になった時にトレンチコートを買いに行くと言ったら、なぜか猛烈に怒り。デパートに行って小田急で初めてダーバンのトレンチコートを買ったら、「お前は、あんなものを買ってどうするんだ。店員に騙されているんだ」と言うので、喧嘩に成り、デパートの下の道が見渡せる3階にある喫茶店に行き、私が「下見て見ろ!皆んな何着てるんだ!」と怒ったら「皆んなトレンチコートを着ている・・・」と要約、言わなく成りました。結局、時代が1980年代に成り1960年代後半からの1970年代に掛けてのフーテン族。ヒッピームーブメントの煽りを受けて、また当時流行っていたマキシ・コートに対する嫌悪感が根強くあったのでしょう。私の家は親父の稼ぎだけでは苦しくて、母が自宅の部屋を2部屋下宿にして大学生を食事付きで置いていました。私は小学生の頃に大学生のお兄ちゃんたちのラジカセから流れてくるロックを聴いて育ちました。だから洋楽はすんなり聴けたのです。ビートルズ。ローリング・ストーンズを始め。ピンク・フロイド。レッド・ツェッペリン。ジミ・ヘンドリックス。色々、ロックを聴かせて貰いました。中学頃になるとステレオを買って貰えないので、秋葉原まで行ってスピーカーを買ってきて、ベニヤ板でスピーカーボックスを作り、スピーカをはめ込んで、自作でスピーカーを作り。それにラジカセを繋げて聴いてました。高校になると要約バイトで貯めた金でステレオを買いましたが、残念ながら近所の同級生たちはロックをあまり聴いてなくて話が合わなく、まあ、小学生の頃から話は合わなかったのだけども。。。そして今です。色々ありました。映画でも寺山修司のATG映画だとか見ていると、同級生は「フーテンの寅」を見ているといった具合でした。今は母は施設にいます。姉さん達が会わせません。此処6年間連絡が取れません。まあ、良いのです。母の面倒は私は見て上げた自負がありますから。しかし寂しいですね。あれ程。仲の良かった姉弟が親とお弟が死んでからバラバラになってしまったのですから。長々と此処まで読んでくれた方、有難う御座いました。この話は此処までにして置きます。
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今は深夜にアニメが放送されている。此処数年アニメは深夜に放送されるのが当り前に成っている。このアニメの制作会社は杉並区と練馬区に集まっている。テレビアニメと言うと午後5時から7時半までが過去は多かったが、こう言った時間帯に放映されるのは此処20年間で最早、過去の物と成ってしまった。又、最近ではあるアニメがヒットすると物語の世界に出てくる場所を聖地巡礼する人が溢れ出す。熱心なアニメファンは何回も作品を繰り返し観るが、それはその瞬間限りのものだ。しかし何回も観る事に寄り読みの差異が生産される。これは意味の複数性が実現される。ロラン・バルトによる処の「還元不可能な複数性」になる。聖地巡礼とはこの「還元不可能な複数性」を生きる行為だと言えるだろう。私は1960年代のテレビ創世記のアニメから「鉄腕アトム」「鉄人21号」から1970年代のスポーツ根性ものアニメ。「あしたのジョー」「巨人の星」そして、ギャング物?の「ルパン三世」1970年代の終わりから1990年代までに渡るSFアニメ「宇宙戦艦ヤマト」「ガンダム」「エヴァンゲリオン」「カウボーイビパップ」までとラブコメ「タッチ」「シティーハンター」「うる星やつら」まではアニメをよく観ていた。しかし最近では「言の葉の庭」「君の名は」位なものです。「ガールズ&パンツァー」は面白いと思った。ああ。後「聲の形」は良かった。久々良いアニメを観たと思った。「聲の形」は少年ジャンプに期待の天才新人現るとの触れ込みで載っていた。前の入院時期に読んだ。病院に置いてあった為ですが。週刊少年マガジンでの週刊連載中も、優れたストーリー性と赤裸々な感情描写で大人気だったが、映画もそれに負けず劣らず良かった。しかし自分は要するにもう若くは無いと言うことだろう。それにしても最近のアニメは繊細で洗礼されている。若者が此れからのアニメを牽引して行く事を確信している。陰ながら見守りたい。そして、「聲の形」や「言の葉の庭」の様な、どの層にも受け入れられるアニメは此れからも観て行きたい。
今回は体調不良のため、懐かし映画コーナーは休みます。下は原田芳雄さんの対談から、ブルースに付いて語って居るので、抜粋して挙げて置きます。知らない人は知らないのでしょうけど、俳優の原田芳雄さんはブルース・シンガーでもありました。短い対談文ですが芳雄さんのブルースについての考え方が解ります。芳雄さんの歌は人間臭い日本人のブルースといった意味合いが強く。横浜ホンキートンク・ブルースだとか、他には宇崎竜童の作ったブルースで良いものがありますよ。今はCDが手が入るかと思います。もし知らない人が居たら聴いてみて下さいね。
待ち呆けのブルース - 原田芳雄
新宿心中 - 原田芳雄
決してメゲない”ブルースの女”がいい
考えてみると、男というのはみんな支えを必要としている存在なのかもしれませんね。
☆ ☆ ☆
歌謡曲を昭和二十年代から聞いてるけど 明るかったね、 決して暗くなかったんだよ。すごく明るかった。ひばりさんの初期だって、 明るかったんだな。処が、此処数年、歌謡曲は暗いんだね。良い悪いじゃなくて、 俺はそれが嫌だ。 |
下はBluesとRock(ブギ特集)です。
Otis Rush and Eric Clatpon "Double Trouble"
Low Down and Dirty - Luther Allison (Live)
Otis Rush: I`Cant Quit You Baby
Freddie King performs "Have You Ever Loved A Woman?"
Freddie King - Same Old Blues
Woodstock 1969 Canned Heat Woodstock Boogie-Part 1 HD
Foghat Chateau Lafitte '59 Boogie (live 1974)
climax blues band-come on into my kitchen
Allman Brothers Band Statesboro Blues
T Rex - 20th Century Boy
John Lee Hooker - Boogie Chillen
Kitchen Sink Boogie - Hound Dog Taylor & the Houserockers (Live)