人生とは善への希求であり,その努力にこそ人生の真の意義がある.善こそは人生の目的なのだ.だが,この目的は何によって達成しうるのだろうか.トルストイはこう断ずる,それは人間にのみ与えられたあの理性の働き,即ち愛によってである,と.『人生論』には,この偉大な「人生の教師」晩年の思索と体験のすべてがこめられている.人生論は人それぞれにあって此処に異なる事象です。トルストイはそこのところをよく論じて書いています。私の人生は何だったのか。私のレゾンデートルとは?私は今自分を聞かれたらこう言うでしょう、[who are you?][my name is no body] 名も無き男ですよ。でもこう言うことも考えます。
差別とは、強い力を持つ側が弱い立場の者を侮蔑し、尊厳をおとしめようとすること。加害者と被害者の間には立場の非対称性がある。そのため、日本国憲法は14条1項後段で「差別されない」権利を保障している。「差別は許されない」ことには、ほとんどの人が賛同し、法律家の間でも、差別は禁止すべきものとされる。しかし一方で、その定義は難しく、法学界でも「差別」の語が「区別」と同義に使われることもしばしば。差別なき平等な社会を構築するために、「差別」をどのように正しく定義すればいいのか。
本書では、
非嫡出子の相続や同性婚・夫婦別姓をめぐる日常のテーマから、奴隷解放など人種や民族をめぐる歴史の変遷まで、差別の構造を徹底検証。差別から個人を守るため、「差別されない権利」をいかに構築していくか――気鋭の憲法学者が必要な法理論を提起する。
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差別をしている人には、「悪いことをしている」とか「不当な差別をしている」といった自覚がないのが一般的だ。自覚のない人に「差別だ」と言っても、実りあるコミュニケーションにはならないだろう。差別を自覚し、止めてもらうには、何が必要なのだろうか。本書では、「許されない差別を糾弾する」ことよりも、「差別のしくみを分析し、どこにその悪性があるのかを解明し、問題解決の糸口を発見する」ことに努めた。本書が、差別する人に自覚を促す活動の一助になることを願っている。(「エピローグ」より)
〈主な本書の内容〉
差別とは何か/差別をする人はどんな行動をするのか?/差別と憲法の歴史/なぜ差別者は「差別の意図はない」と言うのか?/憲法24条と家制度/夫婦同氏問題と合理的配慮/合理的根拠のない区別/差別と区別の分類論/平等権と差別されない権利の違い/秘密の差別の害悪/分けるには理由がいる/理由の説明からの逃避 など、、、
人間の愚かさ – 戦争ばかりする人間たちはいつかこの地球から消えてゆくだろう –
「あらゆる宗教は慈悲の修行を勧めるという点で共通しています。
慈悲を動機とする非暴力という基本的な「行」は、私たちの日常生活ばかりか世界中の国々においても必要とされているものなのです。」
「非暴力」というのは、基本的な「行」だというのです。
「行」であるというのは、実践なのだということです。
非暴力を実践しなければなりません。
たったこれだけのことも、実践できないのが、悲しいかなお互いこの人間なのであります。
国と国、人と人、暴力というのは、無くそうと皆努力するのですが、残念ながら無くならないの実際であります。
『坂村真民全詩集第八巻』にこんな詩がありました。
予言
戦争ばかりする
人間たちは
いつかこの地球から
消えてゆくだろう
そして
熊や象たちの
世界となるだろう
空もきれいになり
海もきれいになり
吹く風もすがすがしくなり
神さまも
仏さまも
何の心配もなく
鳥たちと一緒になり
母なる地球に
祝福を
与えてくださるだろう
わたしが飛天になろうと
願ったりするのも
そんな世界を
見たいからだ
ハッとさせられる言葉であります。
これほどまでに戦争や暴力を繰り返してしまうのであれば、ほんとうにやがて人間は消えてしまうのかもしれません。
そして熊や象たちや、動物たちだけの世界となるかもしれません。
愛
愛を
失ってしまった
人間たち
愛を持ち続けている
動物たち
愛媛という県に
移り住んで
愛という字を
誰よりも多く
書いてきた
わたし
山は父
川は母
山はきびしく
川はやさしく
愛に輝く
ああ
大和の国よ
という詩も真民先生は残されています。
人間たちは、もう愛の心を失ってしまったのでありましょうか。
どうして傷つけあい、苦しみ続けるのであろうかと考えさせられます。
その苦しみは、いったいどうして起こるものなのか、『ダライ・ラマの仏教入門』から学んでみましょう。
次のように書かれています。引用させてもらいます。
「それではこのように苦のもととなる行為はどこから起きるのでしょうか。
それは「愚かさ」(癡)、「怒り」(瞋)、「欲望」(貪)という「三大煩悩」(三毒)から生じます。」
と明言されています。
チベットに伝わる十二縁起の絵には、愚かさは豚、怒りはヘビ、欲望は雄鳥で表わされています。
「絵によっては豚が雄鳥とヘビの尾をくわえている形で描かれたもの」もあるそうで、
それは
「「欲望」と「怒り」が「愚かさ」に根ざしていることを表わします」というのです。
愚かさとは、真理を知らない無知であります。
その無知について、『ダライ・ラマの仏教入門』には、ナーガールジュナ(龍樹)の『空についての七十の詩』から引用されて説かれています。
「原因と条件によって生じたにすぎない事物を
真実に存在するものであると執着する意識は
仏陀によって無知と呼ばれている。」
この無知からさまざまな苦しみが生まれてくるのです。
どのようにして苦しみが生まれてくるのか、『ダライ・ラマの仏教入門』には順を追って解説されています。
「最初の段階において、対象が意識に単純に現われているときでも、それがそれ自体で存在している、すなわち実体として存在しているかのように見えます。
しかし心はあまり強く対象に関わってはいません。
二番目の段階では、対象に対する欲望が、「対象が実体として存在している」と捉える無知によって引き起こされています。「対象が実体として存在している」と捉える意識と同時に存在している、微細な欲望もあります。
しかし、欲望がより強くなったとき、「対象が実体として存在する」という思い込みは、欲望の原因となって、より強い欲望を引き起こすのです。
この場合「対象が実体として存在する」という思い込みは、欲望に先行しているために、正確には欲望と同時に存在しません。
また、三番目のレヴェルでは、実体的かつ素晴らしいものと思い込まれた対象への執着(我所執)と、自己への執着(我執)という二本の強い執着の流れは一つとなり、欲望はより一層強いものとなります。」
というのであります。
すべては移ろいゆく、空なるものであり、仮に現れた現象に過ぎないのに、それを実体視してしまい、心に執着を抱いてしまうようになるのです。
ダライ・ラマ猊下は、更に、繰り返して、
「最初の段階では、対象は実体的存在として意識に現われます。
二番目の段階では、この現われに同調した意識が、対象を実体として存在しているものと把握して、欲望を引き起こします。
三番目の段階では、実体的な素晴らしいものと認められた対象を、買って自分のものとしたとき、意識はそれを非常に価値のあるものであると思う、強力な所有観念に巻き込まれています。」
と説いています。
怒りもおなじことなのです。
ダライ・ラマ猊下は同書で、
「同じことは怒りにも当てはまります。
対象の性質について客観的に知覚している状態が最初のレヴェルです。
たとえば、何か悪いものを見て、それを悪いと判断します。これが怒りの最初の段階です。
しかし、「これは本当に悪いものだ」と思い、怒りを生じる場面に至ったとき、これは二番目の段階に入っています。
そして対象があなた自身へと関わってくると、怒りはより強くなります。
それがあなた自身に害をもたらす可能性があるように思われたとき、それはさらにより強い怒りへと展開していくのです。
したがって、対象が実体として存在していると思い込む無知は、欲望と怒りの両方を助長するものなのです。」
と説いています。
無知は、苦しみの原因なのです。
あきらかに観察して、すべては関わりあって存在している、縁起の道理を知ってこそ、初めて苦しみから解放されるのです。
ですから、仏教の祈りは、あらゆる人に正しい智慧の眼が開かれますようにと願うのであります。
以上。横田南嶺氏のHPから参照いたしました。
「存在意義」は、フランス語でレゾンデートルともいいます。
中学生くらいから、自分の存在意義を意識し始めます。
存在意義がわからず、それを感じることができないとき、
人は自殺したり、暴力や殺人などの非行に走ることもあります。
どうすれば存在意義を見出せるのでしょうか?
存在意義・レゾンデートルの意味
参考までに、まず辞書の意味をみてみましょう。
存在意義・存在理由
=無視することが出来ないと人々が認める、そのもの独自の価値(引用:『新明解国語事典』第八版)
またフランス語のレゾンデートルの意味はこのようにあります。
レーゾン‐デートル
(フランスraison d'tre)〈レゾンデートル〉存在理由。あるものの存在を正当化する理由。(引用:小学館『スーパーニッポニカ 国語辞典』)
レゾンデートルは、哲学用語であり、自分自身の存在価値、生きる理由を意味します。
私たちの存在意義は何なのか、詳しくみていきましょう。
ボクは透明な存在だ
1997年、神戸の中学校の校門前で、切断された小学生の頭が発見されました。
その口にくわえさせられていた警察に対する挑戦状の差出人は、酒鬼薔薇とあります。
犯人像は30〜40代男性かと思われていましたが、
逮捕されたのは、14歳の中学生でした。
神戸新聞社に対する声明文には、世間の注目を集めたのは、
「透明な存在であるぼくを認めていただきたい」
とありました。
そして、
「警察はぼくの存在をもみ消そうとしているのではないか」
「存在理由、目的は殺人」
「透明な存在であるぼくを作り出した義務教育と社会への復讐も忘れていない」
とあることから、自分に存在意義が感じられず、
存在意義かを感じるために殺人を行った事件でした。
このように、自分の存在意義が感じられないことが、殺人につながることがあるのです。
そして、殺人だけでなく、自殺につながることもあります。
存在意義がわからず自殺
1903年、東大の前身である旧制一高の学生、藤村操は、
落差97メートルの日光華厳の滝から投身自殺しました。
滝上の傍らの木には「巌頭之感」と題した遺書が書き残されていました。
そこにはこうありました。
悠々たるかな天壤、遼々たるかな古今、
五尺の小躯をもってこの大をはからんとす。
ホレーショの哲学ついに何等のオーソリチィーに価するものぞ。
万有の真相は唯だ一言にしてつくす、
曰く、「不可解」。
我この恨みを懐いて煩悶、ついに死を決す(藤村操『巌頭之感』)
人間の一生の短さ
「悠々たるかな天壤、遼々たるかな古今、
五尺の小躯をもってこの大をはからんとす」
とは、広大な大宇宙に比べると、地球などはそこに浮かぶ塵のようなものです。
その地球の表面にへばりついて生きている人類は何十億もありますが、
自分はその何十億分の一の存在です。
そして、悠久の時間の流れからすれば、人の一生など短いものです。
地球の歴史を一年間とすれば、人類が生まれたのは
12月31日の午後23時37分、産業革命が始まったのは、
23時59分58秒です。
西洋哲学に存在意義を求めた
「ホレーショ」は、英語の人命で、シェイクスピアのハムレットに出てくる登場人物といわれますが、
「ホレーショの哲学」は、西洋哲学のことです。
藤村操は、この世界にどんな意味があるのか、自分はなんのために生きるのか知りたいと
西洋哲学を学んだのですが、
「いわく不可解」わからなかった、ということです。
実際、同じような疑問を懐き、実存主義哲学を創始したといわれるキルケゴールでも、結局答えを見いだせないまま、1855年に42歳の若さで生涯を閉じています。
西洋哲学では現代でも未だに答えは見いだされていません。
そして藤村操も、自分の存在意義がわからないことに苦しみ、
ついに死ぬことに決めた、ということです。
明治時代に旧制一高に進学するというのは、
現代の東大生よりはるかにエリートです。
藤村操の自殺は国家の損失とマスコミで騒がれます。
それほど将来を期待されている頭のいい学生でも、
存在意義はわからないのです。
存在意義のわからない若者たち
かつて女子高生のカリスマとして一世を風靡した浜崎あゆみの
デビューアルバム『A Song for XX』は、約150万枚を売り上げました。
自ら作詞を手がけた『A Song for XX』には、こう歌っています。
居場所がなかった 見つからなかった
未来には期待出来るのかわからずに浜崎あゆみ『A Song for XX』
居場所がないと感じるのは、
社会の中に自分の存在意義が感じられないからです。
そして、将来的に存在意義が見いだせる期待もできません。
未来は不透明です。
他にも、『TO BE』という曲では、
自分の事を「ガラクタ」と歌っています。
ガラクタというと値打ちがないので、誰からも大事にされません。
自分なんか居ても居なくても一緒だと感じているのです。
こんな歌が多くの人の共感を呼び、NHKのクローズアップ現代にも
「自分を歌う少女たち」というタイトルでとりあげられます。
それほど、存在意義のわからない人は多いのです。
それによって、自殺や暴力、殺人などの社会問題につながる可能性があるのです。
では、存在意義とは一体何なのでしょうか?
存在意義(レゾンデートル)とは
存在意義とは、自分が存在する意味ということで、
自分はなんのために存在しているのかという意味です。
これは、誰にとっての意味かということから、
大きく2つあります。
1つは、他人にとって自分の存在にどんな意味があるのか、
もう1つは、自分にとって、自分の存在にどんな意味があるのか
の2つです。
- 他人にとっての自分の存在意義
- 自分にとっての自分の存在意義
そしてほとんどの場合、論じられているのは、
比較的わかりやすい、
他人にとっての存在意義です。
では、他人にとっての存在意義とはどんなことなのでしょうか?
1.他人にとっての存在意義
他人にとっての自分の存在意義とは、
社会やグループの中で自分はどんな役に立っているかということです。
会社なら会社での仕事の内容、
地域なら地域の役割、
家庭なら家庭での役割分担などです。
この存在意義を見出すときには、
自分の強みを考えて、
他人にどんな貢献ができるのか、
自分を必要としているのは誰か、
どんな役割を担えるのかを考えれば見出せます。
これは、生きがいをもって生きるときに大切で、
自分の生き方を大きく左右することです。
他者貢献できない人の存在意義
では、もともと障害などがあって、
他人に貢献するほどのことができない人は、
存在意義はないのでしょうか?
また、これまで会社で活躍していた人が定年退職したり、
だんだん年をとって、社会に貢献するというより
社会の世話になったりすると、存在意義はなくなるのでしょうか?
社会の中で自分の役割があり、多くの人に貢献しているのに、
なんとなく虚しく、自分に存在意義が感じられないという人があります。
そんな人に必要なのは、自分にとっての存在意義です。
2.自分にとっての存在意義
自分にとっての存在意義というと何か変な感じがしますが、
別の言葉でいうと、自分が生きる意味ということです。
他人の役に立つことは大切ですが、
他人にとっての存在意義だけでは、
他人の役に立たなくなったとき、
存在意義がなくなってしまいます。
小学校で運動が苦手な子が、球技大会で
「お前は見てればいい」と言われて仲間はずれにされ、
校庭の隅っこに寂しく体育座りをしているようなものです。
球技で他の人の役に立たないからです。
ところが、たとえスポーツができようができまいが、
友達がいようがいまいが、
才能があろうがなかろうが、
他人の役に立とうが立つまいが、
そんなことには一切関係なく、
生きている一人一人に重要な生きる目的があると
仏教で教えられています。
その目的を果たすために、
自分が存在していることが
自分にとって大切になってくるのです。
それが本当の自分の生きる意味です。
そんな存在意義は、実はすべての人にあります。
すべての人に生きる意味があるということです。
存在意義を見出す方法
ですから、その本当の生きる意味を教えられている仏教を聞けば、
どんな人でも、自分の存在意義を見出すことができます。
この存在意義が見出せれば、自殺する必要もありませんし、
殺人事件を起こして社会の注目を集める必要もありません。
他人の役に立つかどうか、
社会の役割があるかどうかにかかわらず、
どんな人でも「人間に生まれてよかった」
という喜びの人生を送ることができます。
自分の存在意義=生きる意味
今回の記事では、存在意義・レゾンデートルについて説明しました。
非常に賢い人も自分の存在意義がわからず絶望したり、命を落としたりしますので、
生きる上で最も知らなければならないことが、存在意義です。
そこで存在意義(レゾンデートル)を考える上で、大事なのは、他人にとっての存在意義ではなく、
自分にとっての存在意義です。
なぜなら他人にとっての存在意義、言い換えると他社貢献は、
いずれできなくなったときに存在意義を見失ってしまうから。
では、自分にとっての存在意義は何か、言い換えると、自分にとっての生きる意味とは何か。
生きる意味とは、
「私たちは何のために生まれてきたのか」
「何のためにいきているのか」
「なぜ生きなければならないのか」
「生まれてから死ぬまでに、何をすれば「人間に生まれてよかった、人生これ一つだった』
と満足できるのか」
という人生の目的(引用:『生きる意味109』)
のことです。
-Since I've Been Loving You- Guitar Cover by Ayla
Bourbon Blues 🥃 Best Whiskey Blues Music of All Time - Slow Blues Playlist to Calm Your Soul
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五社英雄監督のフランスのPAL盤DVDBOX「ローニン&ヤクザ」のDVDです。
(東京サウンド)石川二三夫氏談。
このアンプは、ブルース・ハーモニカ・プレイヤーの妹尾隆一郎氏を中心に、八木のぶお氏、続木力氏、そして私、この4人での監修。1994年頃、ビンテージ・マイクから現行のマイクまで使用できるようにとのコンセプトで制作。アンプ製作中に、あくまで個人的な意見だが、“トーンがまろやかすぎるので、Hi・Mid・Low全体を、もっとエッジの利いたはっきりしたトーンにできないか?”という意見に対しエンジニアの方は「簡単にできますよ」と答えてくれたが、特に何もしなかったようだ・・・
2012-10/27@BT 小出斎and石川二三夫 。blues Duo Live
20180805 四谷三丁目 ブルーヒート 6 石川二三夫さん オンステージ!
過去に教則ビデオも出していました。
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さて懐かし映画です。今回は「ブリット」です。
1968年アメリカ映画。ハードボイルドなマックイーンが堪能できる一本で、カーチェイスのアングルなども面白い。カーアクション映画の傑作。
監督:ピーター・イエーツ 出演:スティーヴ・マックィーン(フランク・ブリット)、ジャクリーン・ビセット(キャシー)、ロバート・ヴォーン(ウォルター・チャルマース上院議員)、ドン・ゴードン(デルゲッティ刑事)、サイモン・オークランド(サム・ベネット警部)、ほか
「ストーリー」
やくざ者のジョニーは仲間を裏切り、200万ドルを持ち逃げした。その彼が目ざすはサンフランシスコ。少壮政治家チャルマース(ロバート・ヴォーン)が、もしジョニーが上院で証言台に立ってくれれば身柄を保護してやろうと確約してくれたからだ。しかしサンフランシスコにやって来たジョニーはニセ者だった。彼の本名はレニック。夫婦そろってのヨーロッパ旅行を報酬に身替わりになったのだ。そうとは知らず敏腕刑事ブリット(スティーブ・マックィーン)は、彼の護衛役をつとめた。だが、ある夜ブリットが恋人キャシー(ジャクリーン・ビゼット)に会いに行っている最中、ニセのジョニーは2人の男に射たれ重傷を負った。病院にかつぎこまれたが、そこでも、あやしげな男たちが、常につきまとう。チャルマースはブリットの失態を責めるが、何故かブリットはチャルマースの行動に疑問を抱く。政治的野心のためのなにかを……。医師の努力もむなしくニセのジョニーは死んだ。だがブリットは、彼がまだ生きていると見せかけて病院の外に運び出した。2人の殺し屋がブリットを追い、サンフランシスコの急坂道で、すさまじい追跡が展開。一方、チャルマースは、ブリットをこの事件から手をひかせようと懸命だった。だがブリットはひるまず事件の究明を続け、死んだジョニーはニセ者だったことを知った。そしてヨーロッパ旅行を楽しみにしていた彼の妻も殺されていた。彼女のカバンの中にはトラベル・チェックが入っていた。ブリットの勘がひらめく。本物のジョニーはヨーロッパへ行く!空港だ!広い夜の空港を逃走するジョニー。追うブリット。ついにロビーに追いつめ、拳銃が火を吹き、彼を射殺したのである。やくざ者ジョニーの背後にあった巨大な権力に、ブリットは自分の職務のすべてを賭けたのである。
Bullitt / 「ブリット」
この映画は深夜放送で観た。マックイーンと犯人の壮絶なカーチェイス、
ラストの銃撃。正真正銘のハードボイルド刑事映画だ。見方を変えれば、マックイーンの寂寥感、孤独、等の男の魅力たっぷりな映画です。本作には後の多くの刑事ものに見られるお約束事が少ない印象で、40年以上を経た現在でも却って新鮮でしょう。体制から逸脱することをカタルシスにするようなエンタテイメントは無く、拳銃を撃つのはラストシーンだけ。同僚の怪我の手術シーンが長かったり、自分が撃ち殺した男にすかさず上着を掛けて血を隠したりと、細かい描写に拘りがあります。極めつけは「暴力と死に囲まれた仕事」と彼女から責められるシーン。刑事ものはそれが無いと成立しないのだけど、確かに荒んだ仕事だと感じてしまうのは、マックイーンの無造作な所作に日常性が担保されて居るからだろう。何しろ年代が1968年だ。同時期に「逃亡者」で有名になったデビット・ジャンセンの「消えた拳銃」とかフランク・シナトラの「刑事」がある。どちらも刑事の私生活を描いているが、この「ブリット」も同じだ。時はちょうどハードボイルドから、ネオ・ハードボイルドへの移行期だった。最早、ただカッコイイだけの刑事や探偵に出番はない。クリント・イーストウッドの「ダーティハリー」もデバガメの容疑で町の住人から殴られる始末だった。「ゲッタウェイ」でマックイーンと組んだ、サム・ペキンパーは彼をベタ誉めで、それ故か映画も最高にハードボイルドに撮れていた。まあ、この映画は最近ではCS放送やらBSで放映する機会が多いみたいだから、もしやっていたら観てみてください。私としてはレンタルででも観る事をお勧めしますが。YouTubeで300円ぐらいで有料でみられますよ。。。
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アントニオ・グラムシ。「ヘゲモニー概念とは」
ヘゲモニーとは、人々による合意にもとづいた覇権や支配権のことをさす。この言葉の語源はギリシャ語のヘーゲスタイつまり、都市国家による別の 国家や農村の支配のことをさしていた。イタリアのマルクス主義思想家・運動家のアントニオ・グラムシ(Antonio Gramusci, 1891-1937)は、強制や恐怖による権力支配とは異なり、人々の合意による権力掌握のことについて指摘し、それをヘゲモニーとして称した。
さて、グラムシによるヘゲモニー理論のことを理解するためには、彼の政治的信条と実践の原理であったマルクス主義(共産主義)と、当時の共産主義の状況、さらにはイタリアのファシスト政権の樹立などのことを考慮すればわかりやすい。
マルクス『ゴータ綱領批判』(1875)では、革命の過渡期における「労働者階級=プロレタリアート」が権力を掌握し、政治支配を確立する統治 のアイディアが構想された。いわゆるプロレタリアート独裁についての考え方である。
この政治支配は、ロシア革命の政治権力の確立のプロセスにおいてにおいてウラジミール・I・レーニン(1870-1924)により一種のドグマ 的正当化に成功した。ここで興味ふかいことは、レーニンはヘゲモニー(ギリシャ語的語源のとおり「政治的支配」)をプロレタリアート独裁と同義語として 使っていたということであり、この用語法はやがて使わなくなる。しかし1918年にはドイツのK.カウツキー(1854-1938)は、プロレタリアート 独裁は、ソビエトによる一党独裁にすぎないことを喝破して(=今からみれば当然の批判のことながら「革命の遂行」という使命感に燃えていたソビエトからみれば裏切りと思われ、レーニンは口汚く批判した)、カウツキーは社会民主主義の立場を明確にした。
他方、グラムシは、イタリア社会党を経由して、1921年にイタリア共産党の結成にかかわり、翌年から1年ほどモスクワに滞在し、その直後亡命 先でイタリア共産党書記長になる。ファシスト=ムッソリーニ政権下で下院議員に選出されると、議員は逮捕を免れるという特権を利用して帰国するが、最終的 にはその特権が剥奪されて1926年より禁固刑に処され、1937年まで収監される。
グラムシは、獄中での論文等の執筆が許され、そのなかでサバルタンやヘゲモニーに関する論考の断片が記されることになる。グラムシによれば―― 自分の足元を掬ったファシスト政権の存在もあり――イタリアにおける政治支配の問題は、ロシアほど単純であるとは思われず、[共産主義者のみならず反共産主義の勢力の]支配の形態は複雑であった。つまり、政治を通して支配関係を確立するということは、力ずくの暴力だけではなく(=この点はプロレタリアート 独裁における単純な暴力観からは離礁している)、文化、道徳さらには教育というプロセス、さらには市民社会の確立や民主主義という政治制度(=この点では レーニンよりもカウツキー的な社会民主主義的な政治権力掌握の概念に近い)が関係していると理解した。
ただし、グラムシのヘゲモニーに関する議論は、むしろさまざまなノートの断片のなかに登場し、彼自身も(学位論文のように)一つのまとまった議 論としてまとめる(ブルジョア的?)という気持ちもなかったようで、グラムシのテキストのどこかに「グラムシのヘゲモニー論」があると期待すると失望する ことになる。また後のグラムシ研究者がヘゲモニー論として、その価値を取り出そうとする議論の多くは、贔屓の引き倒しのものが多いので、ノートから読者の 創造的解釈によってヘゲモニー論に新しい生命を与えるほうがより生産的であろう。
ヘゲモニーの理論では、主体性をもつ人々が、なぜ意見を異にする勢力や権力に従属するのかということについて明らかにする。すなわち同意をもとに活動に参加していると感じている主体は、その活動がもつイデオロギーを実践を通して内面化し、全体の活動に「従属」するということが可能になるということだ。これは、強制的な権力により従属していることでもなく、また処罰や恐怖によって主体性のある人をあることに従わせることでもない。
大衆動員が、参加者全員による合理的な理解によって可能になっているのではなく、その動員を正当化するイデオロギーに対して合意しているのだという共同体感のみによって従っているかも知れない。
政治的支配や統治について、文化、道徳および教育が深く関わるというアイディアは、のちにルイ・アルチュセール(Louis Althusser, 1918-1990)「国家と国家イデオロギー装置」の議論で興味深い展開を遂げる。
また、文化研究(カルチュラルスタディーズ, Cultural Studies)において、スチュアート・ホール(Stuart Hall, 1932-)は、この研究領域における重要な鍵概念として、としてグラムシのヘゲモニーと、アルチュセールのイデオロギー論をあげている。
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雨のバラード