Adam Gussow, "Crossroads Blues" (2010)
今回のblogは,体調不良の為にまた総集編です。過去blogから、比較的に評判が良かったものを選んで見ました。加筆はして居ません。過去記事の侭です。「メリー」と「マリー」の話を追加収録しました。最後にあります。最近このblogを知った方や、過去に読んだ記憶がある方ももう一度読んで観て貰えると嬉しいです。また、今回は掲載文はあまり多くはありません。短いので読み易いかと思います。それと動画も少しなので観てもらえると嬉しいです。貴重な動画が多いですから。ではどうぞ....。
ー「レンタルビデオの想いで」ー
昔、私の実家のすぐ傍に「セレクション」と言うレンタルビデオ屋があった。私は近所なもので、よく其処にビデオを借りに行った。1980年代後半頃だった。店にはアルバイトの少し背が高い女の子が店番をして居た。私はその子に予約は出来ないかと聞いた。当時はレンタル店に寄っては、新作に限って言えば予約できる店もあったからだ。その子は「いいですよ」と軽く引き受けてくれた。名前と電話番号を言い。黒澤明東宝作品、全21作品を予約したのだ。当時、黒澤明の映画は劇場でリバイバル公開を見るか、細々とテレビの深夜放送の日本映画名作選で見るしか見る手段が無かった。ビデオには成って居なかったのだった。私は輸入ビデオで何作かは持っては居たが、21作品が一挙にリリースされるとあって、まだ、他の客が借りる前に新品のものを借りて、ビデオデッキでダビングしようと思ったからだ。私は毎月4本ずつレンタルされる作品を心待ちに待った。すると電話が掛かって来て、出てみるとレンタル屋のそのアルバイトの子で「今月分の黒澤明作品4本入荷しました」と言う。私はそう聞くと小銭を持って「セレクション」までコートを羽織って借りに行った。息急き切って店に駆け込むとそのアルバイトの女の子は和かに、「お待ちしてました。4本のうち今日は何巻レンタルしますか?」と聞くのだ。私は何時も「全巻レンタルします。」と言って、1600円程払って1泊2日でレンタルした。そしてそんな事をほぼ1年続けた。そのうち私は一人の身体障害者の若者が車椅子に乗って店に入って来て居るのに気がついた。私はこの店の人は車椅子の客は嫌がらないのか?と思って見て居ると。その女の子がカウンターから出て来て、その男の言うことを聞いて、店にあるビデオを持って来て見せて、「今日はこれですね」と言って、テープを袋に入れて、その客に渡しお金を貰うと、その人の車椅子を押して店の外に出して、その人が礼を言うとにこりと笑って店に入ってくるのだった。よくそのビデオ屋を観察しているとその障害者の客は月に2回は来て居る様だった。そして、その店員の女の子と話して居るといかにも嬉しそうな顔をしていた。私は出来た子だなと思って微笑ましく見ていた。そして私は黒澤明のビデオの他に、当時東映から出ていた栗塚旭主演の「新選組血風録」の全13巻が並んだので喜んで借りに行ったのだった。私は喜んだ。この店のオーナーは目利きだと思った。栗塚さんの「新選組血風録」は新撰組のTVドラマとしては名作なのだ。私はもちろんダビングが目的だ。だからいつも日曜日に当日で2巻ずつ借りに行った。私の家はこのビデオ屋から近い。近所だから返却するのも簡単だった。私は血風録をダビングしてむさぶるように観た。栗塚旭はいい。この作品はオリジナル脚本は結束信二によるもので、リリカルな描写が目立つ。なお、当初、司馬遼太郎は東映によるテレビドラマ化に難色を示していた。東映が映画化した『新撰組血風録・近藤勇』の改変に不満を持っていたためだった。それを説得するため、プロデューサーの上月信二は土方歳三に扮した栗塚旭と共に司馬へ挨拶に行くと、それを見た司馬が「土方そっくりや!」と絶賛し、ドラマ化が決定した。脚本を担当した結束信二の墓碑には、司馬の筆による「結束さんは人生をよき景色としてみていたすばらしい心のもちぬしでした」の言葉が刻まれている。私は何遍もこのTVドラマ・シリーズを観た。ちなみに今はDVDで発売されたものを所有しています。
土方歳三を演じて50年になる栗塚旭
【イッキ見!】新選組血風録 全予告編
そして1年が経とうとした時に、私はこのレンタル店で「真夜中の刑事」を見つけた。その時は狂喜乱舞したものだ。まさかのレンタル、こんなマイナーな映画がレンタルされるとは思わなかった。私は棚に置いて有るのを見つけると、すぐに手に取って、カウンターへと持って行った。このビデオを見た店員の女の子は「イブ・モンタンお好きなんですか?」と聞いて来た。私はこの映画は、フィルムノワールの名作で、監督のアラン・コルノーの処女作にして大傑作だと熱弁を振るった。その子は、感心して聞いて居た。そしてこのビデオを借りて帰ろうとすると、小学生高学年ぐらいの男の子が店に入って来た。そして言った。「姉ちゃん、家帰らんとね・・・」私は、「あれ東京の子ではないのか?」と話が聞こえて、振り返ったら、店員の女の子が「姉ちゃんね、あの人と一緒になろうか思うとんのよ」と言った。私は「あの子、結婚するのか」と思いその場を去った。
Police Python 357
それでそのビデオを返しに言って、暫くした頃だった。前に見た身体障害者の若者が綺麗な女の子に車椅子を押されて店に入って来た。私は少し驚いて見て居た。いや、その連れの女の子が可也な美人だったからだ。その障害を持った若者は、山田洋次の「学校」と「息子」をその女の子に棚から取って貰い。嬉しそうに店員の女の子に渡した。店員の子は何時も通り、笑顔で2泊3日と聞いてお金を受け取ると袋にテープを入れて渡して居た。また1年も終わりの冬が来た。私はこの頃、体調を崩して居た。会社を休んで1日療養をして居たのだが、ある日実家の庭に置いてある壺に、氷が張って居たので、壺の中の金魚が窒息しないかなと思い見ていると。家の門の前をあのセレクションの店員の女の子が若いイケメンの男性と手をつないで通ろうとして、私に気付いて私に軽く会釈をして通って行った。私は「御幸せに・・・」と呟いた。その後、セレクションにまたビデオテープを借りに行った。もうあの女の子は辞めて居なかった。そして、その日は松本零士のOVAアニメの「エメラルダス」を借りて帰ろうとして表に出て見たら、あの障害を持った若者が一人で車椅子を動かしながら詫びしそうに前を通って行ったのだった。私は此の間の女の子はどうしたのかなと思いながら、その障害者を暫く見て居た。。。
Queen Emeraldas 1998 OVA, japanese voice - english subtitles
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最近、一人幽霊に出くわす。此間は駅前の書店に居た。「お前さあ、こんな本は読まないだろう。そうだろう、だから聞いてんだよ」とあたかも相手が居るか如く一人で勝手に喋って居る。見れば年の処、30歳ぐらいの中年の男だ。見た目は少し小太りな中年に成り掛けの青年か?と言う様な出で立ちだ。頭がおかしいのかと思うが、ごく普通に話している。多分、彼の耳には相手の声が聞こえているのだろう。以前にも居た。電車に乗って居た時だ、矢張り30歳ぐらいの男だった。彼も小太りだった「本当によう〜。俺、困っちゃったぜ。もう、お前と来たらよう・・・」とか一人で話して居た、病院にも一人居た。彼は痩せぎすの23歳ぐらいの青年だった。「俺さあ、あれほど皆んなが居る前では喋ってはダメだと言って居たろう?なんでおとなしく黙って居ないんだよ・・・」と言って居た。此間は、本屋で本を2冊買って、お金が端数4円と言われたので、「ちょっと待って下さい・・・」と探すが、こんな時に限って小銭が無い。なので「すみません4円あるかと思ったら無かったです」と2千円を渡すと。ブックカバーをお付けしますかと聞かれた。「いや、いいです」と言い。お釣りを貰って、会計から離れると、「今の人はおかしくなかったわよ?」と女の子の店員が若いイケメンの青年の店員に話し掛けて居たら、彼は大きく頷いて居た。私は「ちょっと、俺もおかしく見えて居るのかよ?」と思い、店の中にある鏡の前に立って自分の姿を映してみた。確かに、私は若作りだ。今時こんな格好をしている初老の男は居まい。でも、そんなにおかしくは見えまいとは思う。しかしこの間、J:COMの営業が来て一緒に家の近辺を歩いて居たら。前から来た50歳ぐらいの奥さんがジーと私を見て居た。私は目が合わない様にしたが、しばらく自転車を押しながら見て居た。確かに、年取ってからの長髪はあまり居ない。と言うか。ロン毛の若者も余り見ないご時世だ。私は1970年代風ファッションをしているだけなのだが、矢張り目立つのだろうと思う。ヘルパーのオバハンが「何時もちゃんとした格好をしているけど、堅っ苦しくないの?」と此の間聞いて来た。私は少しびっくりして「なんで?」と聞いたら、「だって何時も白いワイシャツを着ているじゃない?」と言う。「そうですね・・・」と言ったら、「それ汚れたらどうするの?」と言う。私がその時は洗濯しますよと言うと。「かえはTシャツ着ないの?」と聞いてくるので「Tシャツは、最近、殆んど着ないですね」と言ったら「へぇ〜〜。」と言うので、「替えのワイシャツはありますので」と言ったら。「いちいち洗うんだ〜」と言って不満そうにして居た。私は映画監督の小津安次郎がいつも同じ格好で居て、不思議に思った女優が小津監督の家に行った時、監督が席を外した隙にタンスを開けたら。同じ服が沢山ハンガーにぶら下がって居たと驚いて居た話を知って居る。お洒落とはそう言った物だと思う。人間こだわりを持たないといけない。今は、ファスト・ファッションの時代だ、みんな脱個性派の格好をして居る。それは言い方を変えれば世の中、世間に溶け込む方法でもある。1990年代に入ってから個性的な格好をして居る人はメッキリ少なく成った。私はその頃40代だった、私はミリタリージャケットを羽織り生活をして居た。今やミリタリージャケットを着て居る人は少ない。ああ、此の間、歯医者で同じ60代の親父が来て居たっけ....私は原田芳雄さんを真似ただけだが・・・。1990年代から2000年代に掛けてはミリタリーファッションが流行ったものだ。
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私がおススメの大人なミリタリージャケットの着こなしを解説
しかし今は何来てもいい時代だと思う。私が、50代の頃、矢張り髪を長髪にして帽子をかぶり、長めのコートを羽織って、冬場母を連れて歩いて居たら、若者から「あの人、目立つ格好を仕手居るよな・・・」と声が聞こえて来た事があった。見るとその若者二人は安手のパーカーにマフラーを仕手居たが。最近の若者は虚栄心が強い。ちょっとカッコイイなと思う若者を見ると人の目を気にして男も女もスノッブな感覚で歩き始める。原宿のある人気ナンバーワンのカリスマ美容師の元には日本全国から若者がやって来る。皆んな彼による。カッコイイ髪型を求めてだ。しかしその美容師は注意深くその若者を見て、例えば前髪を長くして目を隠している若者には、「眼が大きいのだから、前髪を切ろうと思うのだけども、どう?」と聞く。若者はその美容師の言うことは意味があるのを知っているから任すのだ。そうすると俄然カッコイイ髪型にしてくれる。思えば若者はいい。美容師でもスタイリストなカッコイイ髪型に仕手呉れる美容師が居る。それに比べたら、年寄りには、そんな美容師は居ないし、大体が髪は短めにするのが決まりみたいな風潮がある。私はよく年配の方から「ご職業は、物書きですか?芸術家ですか?」と聞かれることが多い。そんな時は何時も「ミュージシャンです」と答えている。。。私は50代の頃の自分に戻しただけなのだ。それは20代の頃やら30代の頃に戻したいが、寄る年波には勝てない。問題は痩せる事だ。減量を始めようと思う。
「美」を創る仕事〜美容師としての四半世紀〜
OCEAN TOKYO代表 高木琢也出演「日本一の美容師とホストスザク」(歌舞伎町 clubApple)本店代表高木✖︎原宿店代表三科のコラボセット講座
Sweet Home Chicago - Blues Harmonica
Blues Harp NATSUKO - Sweet Home Chicago 2017.01.01 shinjuku jam
其れから10日程経ったある日。その男から電話が掛かってきて「今度、千葉でメンバー皆んなで合宿をやることになったのだけど来ないか、交通費は掛からない車で行くからな」と言うのだが、私は「あの一曲でもういいよ。大体が俺はブルースがやりたいんだから、」と言ったら「そうか、じゃあ、また機会があったらな!」と電話は切れた。結構さっぱりした連中だった。しかし今、私は思って居る。ミッキー・カーティスみたいな老人になりたいと。無理ですか。お粗末。。。。
「二人の女性」
私の家の側にヤクザの子供が住んでました。その息子はヤクザの家だからなのか、親同様に可也なワルでした。私が小学校2年の時にその子は1年でした。親は胸がとても大きい売春婦でした。新宿の歌舞伎町には1968年当時、売春をする小屋がありました。夜になるとミニスカートを履いた女性たちが厚化粧でその小屋の前で客引きをして居ました。当時、街の至る所で女の子の裸の写真に幾らだとか電話番号が書かれたものが貼られて居ました。新宿3丁目にはゲイバーが結構ありました。歌舞伎町などは夜は様変わりするので危なくて、一般の人は立ち寄らない所でした。そのヤクザの息子の母親はその小屋に居ました。ある日幼かった私は、その子の家の近くにある駄菓子屋に丁度買って貰ったばかりの「宇宙大怪獣ギララ」と言うプラモデルの人形を見せに行きました。その駄菓子屋のおばさんとはよく知った仲だからです。おばさんも昔廓に居た人でした。子供好きで、私の事を「坊や」と呼んで。何時も優しくしてくれました。或る日、そのおばさんが私を京王線に載せて高尾山まで連れて行きました。高尾山に住んで居る知り合いの家に行ったのです。そのおばさんの知り合いの家には同い年ぐらいのおかっぱ頭の女の子が居ました。遊びに行くとその女の子が山に行こうと言いました。私は黙って着いて行くと沢まで連れて行き流れ出る湧水を手で掬い飲むと、私に「おいしいよ」と言いました。私は「飲めるの?」と言って飲んで見ました。夏なのに冷たく澄んだ湧水でした。私は暫くその子の家におばさんに連れられて通いました。私は当時宇宙怪獣ギララのプラモデルを買って貰ったのが嬉しくて、何時もおばさんの家に見せに行って居ました。何故ならおばさんの弟は工房で怪獣の撮影用の着ぐるみを作って居たからです。おばさんの駄菓子屋にその弟さんはよく顔を見せに来ました。おばさんの弟は私を見つけると「おお。坊主。大映の怪獣かい。いいねぇ」と言いました。私はそのおばさんの弟さんに褒めて貰うのが嬉しかったから駄菓子屋にはよく行きました。そんな或る日、私が何時もの様にプラモデルを持っておばさんの家に行こうとすると、ヤクザの息子が家から出て来て言いました。「それ、見せろ」私はプラモデルを抱いて言いました「嫌だ」するとその子は私からプラモデルを奪い取ると地面に叩きつけ足で無茶苦茶に踏んでバラバラに壊してしまいました。そして「へへ。ざまみろ」と言いました。私は泣き泣き壊れたプラモデルを拾うとそれを持って家に帰りました。そのヤクザの息子とは小学校が一緒でした。或る日、そのヤクザの息子は砂場で一人遊んで居ました。すると私のクラスの一人の同級生が石をその子に向けて投げ付けました。そして言いました『ヤクザの子供!!」そいつは石が当たっても薄ら笑いを浮かべて居ました。すると校庭にいた他の生徒たちも次々石を拾いその子に投げ付けだしました。或る子が投げた石は大きく、その子の額に当たりました。額が切れて血が滴り落ちましたが、その子は口に入った血をベロで拭うとまた不敵な笑みを浮かべてにやにや笑って居ます。終いにはその不敵に頭から血を流しながら笑うヤクザの息子に、皆んな、寒気を感じて石を投げるのを辞めました。その時に、気がついたのですが。高尾山であった女の子が離れた処に立って居てその様子を見て居たのでした。そして言いました「酷い・・・」私はその子に気が付いて「あれ、君、どうしてこの学校に居るの?」と聞きました。その女の子は言いました。「お父さんの忘れ物を学校まで届けに来たの。母さんが今渡している。」「お父さんって・・・」と言うと「この学校の先生なの」私はびっくりしてその子を見ました。「じゃあ、、俺がこの小学校に居ると知って居たの?」するとその女の子は下を向いて「うん」と小さな声で言いました。私は驚いてその子を見つめました。そのヤクザの子は小学校6年生になると、子供の癖にヤクザ者の様に歩き始めました。私の近所にはあんみつ屋があったのですが、そこの子も同級生でした。しかしある日嫌な事件が起こりました。なんとそのヤクザの息子が、そのあんみつ屋の子供を、或る共同マンションの屋上に呼び出し、お金をせびって。その子が拒否すると、何と、ヤクザの息子はその子に屋上の柵を越えさせ。そして、ど突いて突き落としました。その時、駄菓子屋のおばさんはちょうど自分の部屋から外の景色を見て、そのマンションを見て居ました。そして子供が下まで真っ逆さまに落ちて行くのを見ました。おばさんは大変だと、警察に電話を掛けました。私は、高尾山で知り合った女の子と親しくなって居ました。その日はその子がおばさんの家に来たと言い。一緒に駄菓子屋に行ったのですが、店は休店でした。それで、帰ろうとしたら、おばさんがドアを開けて息急き切って家から出て来て言いました。「恵子の子供があんみつ屋の子供を殺した!!」私は「恵子の子供って誰の事?」と思って居ましたが、ほどなく、パトカーが3台来て、ヤクザの息子の家に警官が入りました。ヤクザの息子の母親は、その時はスッピンで出て来て、一見平気そうな顔をして居ましたが。その息子は婦人警官に付き添われて出て来ると。驚いて見て居る私たちを見ながら不敵に笑ってパトカーに乗り、その場を後にしました。その子の母親は少しその様子を黙って見て居ましたが、すぐに残った派出所の警官に何か話されて居ました。母親は、私たちを見ると、少し嫌な顔をして警官に付き添われて残って居た警官と一言二言会話を交わすと、矢張りパトカーに乗せられてその場を去りました。私は、ふと、おばさんを見ました。すると何故かおばさんは泣いて居ました。家に帰って事の顛末を話すと母が「あの二人は知り合いだったからねぇ、」と言いました。私は訳が分からず母に「どう言う事?」と聞き返しました。母は「子供の知る事ではありません」とだけ言って夕食の準備をし出しました。その後、高尾山で知り合った女の子の父親の先生は学校が変わる事になって、女の子たちも引っ越して仕舞いました。おばさんは駄菓子屋を辞めて、弟夫婦と一緒に住むと言って、矢張り居なくなりました。私はその後、高尾山に行って沢で湧き水をまた飲んで見ました、湧き水は相変わらず美味しかったです。。。
非情のライセンス 昭和ブルース
ーエッセイー
昭和36年頃、私の実家は、長屋だった。その長屋には2軒の家の間取りが繋がってあり、長屋の半分は人に貸して居た。当時は家の脇にどぶが流れ、そこにはどぶ板がしてあった。日本は高度成長期を向かえ、皆んなが一丸となって時代を開こうと暮らして居た。隣の貸した長屋には子連れの男が暮らして居た。庭の真ん中にロープが一本貼ってあって、隣の住居人とはそれで区切られて居た。私は当時3歳ぐらいだった。幾らロープで区切られて居るとはいえ、隣の様子はよく解る。私はいつの間にかロープ越しまで三輪車に乗って行ってしまって居た。するとその隣の住人の男は、「このロープの近くまで来るんじゃねえ、ガキが!!」と言って、私を三輪車ごとひっくり返した。私は毎回泣いて居た。その男の息子は小学校4年生ぐらいだった。しかしその割には幼く見えた。知恵遅れだったのだ。そして庭には池があったが、その子は池の中から金魚を手で捕まえると石で金魚の腹を裂いて殺して喜んで居た。ある日、若かった母は家賃を貰いに隣の男の部屋まで行ったのだが。家賃を払わずその男は「うるせーババア!!」と言って足で母の胸を蹴ってどついた、母は堪らず、すっ飛んで頭を柱にぶつけると頭から血が流れた。それを見て居た近所のおばさんが大変だと近所にある派出所まで息急き切って駆け込んだ。警官が見にきたのだが警官の一人はその男に手錠をかけると暴行傷害罪だと言い。もう一人の警官が倒れて居た母を起こし「大丈夫ですか、奥さん。」と言い。警官を呼びに行ったおばさんがタオルと絆創膏を持って来て、アルコールで傷口を拭くと絆創膏を貼り、そしてタオルで頭を巻いた。警官は無線でパトカーを呼び、男は警官に促されてパトカーに乗ったが、なぜか母の容態を見て居た警官が、「奥さんもどうぞ」と言ってパトカーに乗せて警察署まで連れて行った。私は其の模様を見て居たが不思議と怖くは無かった。まだ本当に幼い子供だったのだ、暫くして母は一人でタクシーで帰って来た。そして其の様子を見届けたおばさんが帰ると、私と姉に向かって母は怒って言い始めた。何でも警察で事情聴取を受けた際に警官に「足で鳩尾を蹴られた」と言ったら、警官は「奥さん。足で蹴られても大した事にはならんのですよ。これで殴られたなら殺人未遂になりますがねぇ」と言って拳を突き上げたそうだ。母は怒りながら食事の支度をし出した。冬だったのでその日の夕飯はおでんだった。父からは電話が掛かって来て、大丈夫か聞いて居た様だった。すると隣から子供の「お腹空いたよ〜」と言う泣き声が聞こえて来た。母は怒りながらもお皿におでんの竹輪部と蒟蒻、大根にツクネを装いお茶碗にご飯を装うとそれをお盆に乗せて隣の部屋まで行って置いて来たのだった。それから10日は経ったであろうか、その男がやつれた顔で帰って来た。どうやら留置所に入れられて居たらしい。帰って来ると、大人しくなり、母に謝りに来た。母はお金が払えないと言う男に「それでは出て行って下さい」と言って居た。男はそれから3日ぐらいしてから知恵遅れの子供を連れて背中に風呂敷を背負い出て行った。私はその中年男が侘しく子供の手を引いて長屋から出て行く様子をただ黙って見て居た。
A day in Tokyo, Japan, in 1963 東京
ニッポン高度成長物語
それから、数年経った。私の実家は最初の2階建ての家になって居た。私はその頃には小学校2年生になろうとして居た。この家は会社で建てた家だった。昭和40年ぐらいはまだ近所の飲み屋街が残って居た。私の家の前には旧環七の青バス通りという道路が通って居た。隣は飲み屋だった。飲み屋と言っても居酒屋ではなく、小さいながらもホステスが数名いるキャバレーだった。私は姉と一緒の部屋に居た。よく朝方早く起きる事があった。なぜなら清掃婦のおばちゃんたちが大勢大きな声で、話しながら歩いて前の青バス通りを通るからだ。その声で目が覚めえるのだ。隣のキャバレーではよく飲んだ客が私の家の玄関に立ちションをして行った。母は毎回怒って居た、何故なら酔った客は、玄関先に置いてある牛乳に向けて小便をするからだ、母が客が立ちションをするのは店にトイレが無いからだと隣のキャバレーのママさんに苦情を言って居た。私は部屋の窓から下を覗き込んで通りを見るのが好きだった。学校に行く前の3時間ぐらい前に目が覚めてしまい外を見る事がよくあったのだ。その頃の私のあだ名は”裕次郎”だった。そうあの国民的大スター、石原裕次郎に子供の頃はそっくりだったのだ。カメラが好きで、父から買って貰った3千円のカメラを持って街中を写して廻って居たのだった。よく歩いて居る人から、「坊主、裕次郎に似てるな〜」と言われる事がよく在った。隣の若いホステスはそんな私をからかった「裕さん、大人になったら私と結婚する〜〜。」「裕ちゃんはまだお母さんがいいんだものねぇ〜〜。」その日は学校が旗日で休みだった。私は何時もの様に通りを眺めて居たのだが、その日午後遅く夕方になってガチャンと言う大きな音が外から聞こえて来た。私は窓を開けると外を見てみた。すると隣のキャバレーのステンドガラスが割れて其の前に包丁を持った男が突っ立って居た。ドアが開いて、キャバレーのママさんがその男に注意しながら走って交番に駆け込んだ。すると警官が4人程、警棒を持って出て来て、男を取り囲んだ。男は何か怒声で叫ぶと一人の警官に切りつけた。警官は腕を切られて言った。「おい、お前、これで警官致傷罪だからな!!」そう言うと他の3人の警官が其の男を一斉に取り囲み、棍棒で物凄い勢いで殴りつけた。男はなおも暴れて居たが腕を切られた警官が男が手に持って居た包丁を叩き落とし、そして男は4人の警官にめちゃくちゃに棍棒で殴られ。其の男も額から少し血を流して居た様だった。警官はなおも殴り続け、棍棒で殴るのをやめてゲンコツで其の男をぶん殴って居た。暫くすると男はぐったりして大人しくなった。そうこう仕手居ると、パトカーがサイレンを鳴らして現場に到着して男を引っ立てて乗せて居なくなった。残った交番の警官がキャバレーのママさんに事情を聞いて居た。聞く処によると隣のキャバレーのホステスに一方的に惚れた男が、袖にされたと因縁を付けたらしかった。私は何故か警察と縁があるみたいだ。私はその事件のあった後も窓から外を見るのが好きだった・・・そしてその実家にはその後30数年間住んで居た。
【懐かしい】オールカラー写真で見る昭和20~30年代の風景と人々の生活【戦後の日本人】
「マリー」と「メリー」
私は昔、白い猫を飼って居ました、、
その猫は母猫と、近所の家の壊れかけた、使われて居ない、
犬小屋の中で2匹で暮らして居ました。
母猫は白いペルシャ猫でした。そして人なつこかった。
猫が飼いたかった私は親猫とまだ小さな子猫だったその猫を家に連れて帰りました。
しかし親に見つかると、飼えないと言われるので、
暫くは自分の部屋で親に隠れて飼って居ました。
親猫はよく散歩に出かける猫でした。
家から少し離れた道路の前で横断歩道の信号が
青になるまでちゃんと待っている、賢い猫でした。
私は2匹とも飼いたかったのですが、、
ある事情があって、親猫を捨てなければならない
時がやって来ました。
会社の同僚の50歳の男がライトバンで埼玉までその猫を捨てに行こうと言いました。
私は今だに忘れられない事があります。それは、
捨てに行くのにその男と玄関に入り、
捨てられるとは知らない猫が出迎えた時に、
なんとその男は「首を締めろ!!」と叫んだのです。
その時その親猫は悲しそうに私を見て、そして
全てを悟った様でした。
勿論私はその猫を殺す事など出来ません。
ただ強張った。その猫を抱き上げてました
そして、寝ている子猫を見て涙が出ました。
私は親猫をそっと抱いてその男と共にライトバンに
乗り込みました。親猫は抱かれながら、
ずっと悲しそうな顔をして私を見上げて居ました。
埼玉の空き地に着くと私は白い箱に煮干と、
プラスチック容器に牛乳を入れて言いました。
「マリーごめんな。これでお別れだよ、お前は賢いから
誰かいい家の人に拾って貰えよ」
そう言って親猫の頭を撫でると親猫はミャ〜と泣きました。
それを見ていたその50代の男は「おらさなら玄関先で首を絞めて殺してたのに」と言いました。
私は「何時か見ていろゲスやろう!!」と小声で呟きました。
そしてその場を離れました。白い親猫は悲しそうな顔で私が居なくなるまで見て居ました。
私は後ろ髪を引かれる思いで帰って来ました。
そして母猫と瓜二つの子猫を育てました。
子猫の名は「メリー」と名ずけました。利口なメス猫で、
外から帰って来ると、私のうなぎの寝床のような部屋の窓を
自分で開けて部屋に入って来る様な猫でした。
何時の日か、「メリー」は親猫になって居ました。
そして子猫を生みました。
しかし産んだ子猫は死産だった様でした。
メリーは子猫を咥えて私のベットに連れて来ると
その猫を布団の中に凄い勢いで押し込めました、
私は言いました。「メリーその子は死んでいるよ。」
すると悲しそうな顔で私を見て泣きました。
この猫達はまるで人間の様に感情がありました。
それから暫く経って私が会社から帰って来ると、
母が慌てて飛んで来て言いました。「お前「マリー」が「メリー」を見にやって来たよ。」と...
何でも「マリー」が庭先でくつろいで寝ている
「メリー」を遠くの場所から見て居たと言うのです、そしてまた居なくなったと・・・
私は「マリー・・・」と呟きました。
それから数年経って「メリー」は病気に掛かって死んで仕舞いました。
去年の夏、私はパソコンを見ていたら倒れて意識がなくなってしまい。それを訪ねて来た人が見つけて、
部屋の中には入れないので窓を壊して緊急医療班が入って救急車で搬送されて2ヶ月間入院となったのですが。
入院中に寝ようとすると誰かがポンと叩くのです。誰だろうと思うのですが、
眠いので放っておくと又ポンと叩く・・・
薄眼を開けて見ていたら白い猫の前足が叩いて居ました。
その時に分かりました。前に飼っていた、
マリーだったのです。
医者からは、「よく持ち直しましたね、死んで居た所ですよ」と言われました。
天国に居るマリーが心配になって会いに来てくれたと思って居ます。
マリーの首を締めろと言った男ですが。その後
筋ジストロフィーになり60歳で死にました。
ワンサくん「捨て犬のテーマ」