寂しがり屋のハーモニカ吹き。(障害者の日常生活)

yohji yamamotoとジャズと「うる星やつら」!!

狼少年成らぬ(狼オヤジ)が来たと言わないでね。この記事以降。本当に更新出来なく成りますので。よろしくね..。

 

 

 

 

 

 

若い頃、好きだった風吹ジュン。一度、明大前の肉屋で小型犬(名前が分からない)を連れて肉を買って居て。隣に居た私に微笑んで「此処の焼き豚美味しいよ」と挨拶代わりに教えてくれたのを思い出します。

風吹ジュンの画像

風吹ジュンの画像

 

 

 

Yohji Yamamoto x MJFJ 2016 Vol.2 ジャズとファッション

 

 

 

ーはじめにー

丸山圭三郎と言う、哲学者をご存知でしょうか?
1980年代から1993年に亡くなるまで、世界的に第一級と認められるソシュール研究でその名を轟かせました。,独自の言語論・人間論・文化論を作り上げ,華々しい足跡を残しました。

圧倒的な明快さを誇る数々の著作で展開された「丸山言語哲学」は、現在のこの混沌とした時代にこそ、必要とされる哲学だと思います。

この彼の言語哲学とは、フランスの現代言語学の原点にして構造主義のバイブルとなったソシュールの『一般言語学講義』と言う著作があるのですが,ソシュール晩年の講義に出席して居た学生の聴講ノートを基に二人の弟子によって刊行されたもので、、

丸山氏は、このソシュールの言語学をさらに発展させ、彼独自の哲学に昇華させました......。その論理の一つを言いますと、物の名前があるからそのモノは存在すると言う考え方です。。

「犬」と言う言葉がなければ、「犬」は存在しません。ワンワン吠える生き物は「犬」と言う言葉(記号)があるから「犬」になります。「犬」という言葉がなければ「狐」や「猫」と同じでしょう。

シニファン(概念を表す言葉)。
シニフィエ(言葉によって表せられる概念)。
と言う事です。

フランスでは蝶も蛾も同じパピオンですよ。
何故なら、この2種類の生き物を別々に表す言葉が無いからです。

それだけ言葉と言うモノは大切なんです。

丸山氏は「身分け構造」と「言分け構造」の理論から跳躍するために精神分析の知を導入し,言語論に立脚する独自の「無意識」理論を展開しました。.「無意識はランガージュの産物でありながら,ランガージュ以前であって構造化されて居ない」と言う逆説的な無意識像を提示し,その構造を説明するために「欲動」の概念を導入した彼は,欲動を「コードなき差異」として追求して行く事になります。

長文で失礼致しました。

今の世の中は「ら」を抜く。ら抜き言葉やら、言葉が乱れて居ます。
最近は、便利なので私も使って居ますが、、スマホで音楽をストリーミングして聴くと言う事が主流です。

私の様にラジカセやらステレオとかカセットデッキを繋げて聞いたり。ステレオでレコードを聴いたりする者はもはや少数派ですよ。

私はブルースが好きですが、最近のミレニアルの世代に「BLUES」と言う音楽の概念がそもそもありません。音楽が解らないんですよ。シャンソンなどはもはや死語です・・・・。

一般の皆さんはロックとかよくは知らないと思いますが。今の若者の言う「ロック」はヒップホップです。そしてラップとJ・ポップ。K・ポップ、そして、ノイズやらガーレジと呼ばれる音楽しか知りませんよ。

私は最近になってロックギタリストのAKIさんと言う人と懇意になりました。彼は自作の曲も書きます。そして今、彼が演奏したブルースギターの音源を送って貰って、それに私のブルースハープのアドリブを入れる事になって居ます。要するにコラボです。

しかし、今、私は調子が悪く録音が出来ません。

私は、よく散歩をしますが、、コロナがまだ収まって居ずに感染者も多く居ると
言う事は重々承知して降ります。ですが、、、散歩は私に取っての治療の一環で、散歩に出た時ぐらい、近所の空いて居る喫茶店やら蕎麦屋、本屋に寄りたいのですよ。何時も一人ですから、、しかしこの状況下では最早行くのを流石に辞めて居ます。

私のblogを読んで居てくれて居るから解ると思いますが、この間、私は恥ずかしい話ですが尿道から血が出ました。内科の検査でも血尿が混ざって居るそうです。これらは飲んでいる薬の後遺症なんですよ。そして幻聴が聞こえ。色々と障害が出て来て、危険な状態に陥りそうに成りました。そして薬がまた数錠増えました。まあ、当分はこの状態で行くと思います。ただ主治医が私に言いましたが。「〇〇さんは自分で自分の病状がわかって居るから、、幻聴が聞こえても冷静に処理して居る。結構凄い事ですよ、」?と言われたけど・・・・・・。

 

人間、何時死ぬか分かりません。この間は喉を包丁で刺して死のうとしましたが。ある本によって、死ぬのを辞めました。歯止めが掛かったと言うのでしょうか、私は今、自分の一生は何だったのかと考えて居ます。考えてもこれが、私の一生だったのですが。ならばそのもう短い一生を受け入れなければ成らない。私はあと1年と数ヶ月で生活保護の身です。もし通らなかったらその時こそ本当に死ぬしかありません。生きられないと言う事は死ぬしか無いんですよ最後は。ただ、これからは日々を大切に生きて行こうと思って居ますよ。死ぬ時に。私の人生、此れは此れなりに良かったんだと思って死にたいですから。

今回書いた、言語哲学の事も参考程度に知って居て下さいね。もし皆さん知って居たら大変失礼を致しました。

以上、長文に成りましたが。是似て、、( ◠‿◠ )

              ーーkiyasumeーー
 

ジャズマンたちのファッションをチェックして、リアルなジャズ×ファッションスタイルを見てみます。

60年代のマイルス・デイビス。

マイルス・デイビスはサウンドだけでなくファッションへの拘りも相当なもので、来ているスーツはオーダーメイドが中心だった様です。

菊地成孔氏によると、トランペットを構えた状態で最も美しいシルエットになる様に、採寸の際もトランペットを構えて行なって居たとの事。

一般人にはまず真似出来ません(笑)

 

 

Ascenseur pour l'échafaud / 死刑台のエレベータ

 

 

 

 

lounge lizardsの1stアルバムのジャケ写より。

ナロータイにスラックスとシャツというシンプルなスタイル。ジャケットを羽織って居なくてもジャジーな雰囲気を醸して居る。

半袖シャツでも、ジャズマンがタイドアップすればそこはかとなくジャジーな雰囲気が漂います。

ラウンジリザーズは奇才ギタリスト、アートリンゼイが在籍していた頃の音源である1st「lounge lizards」が狂気と緊迫感があってお薦めです。

話は逸れますがlounge lizardsがブランド名の由来だと思われる、ドメスティックブランドのlounge lizardは残念ながら2018awを持って休止して仕舞いました…。

 

じつは「往年のジャズマンのスーツ」に迫ろうとすればするほど、ステレオタイプ化したクールなイメージと、ジャズマンたちの実像との間に、ギャップが生じて仕舞う。レコードジャケットと共に記録された彼らのスーツスタイルを追って、写真集や動画を探して見ると、意外なほどルーズな着こなしである事もしばしば。さらに、あれほどカッコイイと思っていたジャズマンのスーツが、当時どこにでも売って居た既製品であることが殆んどで、特別な仕立てや風変わりなディテールは殆んど見受けられないのだ。

語り継がれてきたジャズの名盤や名演、これらに付随するレコードジャケットやモノクロ写真の数々。半世紀以上を経た。今なお魅力的なのは、そこに何らかの深い意味を汲み取ろうとして仕舞う、こちらの思い込みであるのかも知れない。クールな瞬間をだけを切り取ったモノクロ写真の裏には、ドロドロとした愛憎劇や幾多の苦悩があったはずだが、こうした生々しい部分はトリミングされて居る。

数か月間、そんな事を考えながら一人で悶々として居たが、これでは埒が明かない。まずは足を使い、識者の書物を漁るべきであろう。そこで、ジャズとスーツについて日本随一の見識をお持ちである、テーラー・ケイドの山本祐平氏のインタビューを読んで見た。今回テーマにしようと考えていた、マイルス・デイヴィスのスーツについて、氏の見解を知りたかったからだ。本によると開口一番、山本氏から飛び出して来たのは、ジャズ雑誌のコラムで取り上げられて居た。リー・モーガンのスーツに対する批評であった。数百冊はあろうかという本棚から、一冊の洋書『THE HIP』を手に取り、こう切り出したのだ。

注1:1967年に大阪生まれ、東京で育つ。小学生時代に観た映画『スティング』に影響され、ファッションと音楽に興味を持つようになる。2001年にテーラー ケイドを設立。ジャズと映画への造詣が深く、その博識ぶりと鋭い考察で知られ、数多くのファッション誌に登場し、トークイベントなどでも引っ張りだこ。学生時代からはじめたサックス演奏は、現在も不定期で続けている。http://www.tailorcaid.com/

「細身のスーツをスマートに着こなしていたイメージが強いリー・モーガンですが、実際彼が着ていたスーツは決して細身ではなく、いたって普通のフィット感なんです。彼の音楽と生き様がシャープだったからそう見えるだけなのです。どこのブランドであるかは問題ではないし、襟がどうとか、ネクタイがどうとか、そうした表面的なことは重要ではないと思うのです。当たり前ですが、普通の人がダークスーツを着てナロータイを締めても、決してリー・モーガンのようには見えない。結局、その人自身が発するオーラみたいなものがあるかどうか、そこにヒップネスが感じられるかどうか? なんですよ」

正直なところ、この発言には面食らって仕舞った。(;゜0゜)と言うのも、ジャズについての精神論を語れば語るほど、私にはその引き出しが少ないからだ。しかも、こうした精神論や抽象的概念と言うのは掴みどころがなく、個人的見解に終始して仕舞いがちだ。そもそも、あえて特定のアイテムや着こなしにフォーカスする事で、現代に通じる普遍的なファッションを紐解く手法を取って来たからでもある。山本氏は畳み掛けるに持論を展開して居る。

ジャズとはヒップを感じ、それを体現すること

「ジャズは都会の音楽、都会でしか生まれ得ない音楽です。チャーリー・パーカーを頂点とする、ニューヨークの52番街に集まったジャズマンたち。本当にごく限られた一部の人間だけで共有された感覚、それがジャズにおけるヒップでした。だからジャズマンにとっては、音楽もファッションも身のこなしも、“ヒップかヒップじゃないか”が最も大切なこと。たまたま、その時代のヒップがレコードジャケットとなって発信され、世界に衝撃を与えたということです。現在の日本のファッション雑誌で語られているようなダンディとかクールという言葉とヒップは違うのです」

その例として山本氏が説明したのは、米雑誌『エスクワイア』が60年代に特集した「ヒップとは何か?」という記事だった。そこでは、ザ・ビートルズのジョンとポールはどちらがヒップか? といった設問がなされ、ジョンの方がヒップであるとして居る。明快かつ論理的な思考がそこにある訳ではなく、非常に感覚的なものでしかない。ヒップと感じることができる周波数の様なものがあり、そこにチューニング出来るかどうか?なのだと。

 

 

 

 

Charlie Parker- Confirmation

 

 

 

 

いたって普通のスーツを着て居たに過ぎない

「ブルックス・ブラザーズのスーツやジャケットは、多くのジャズマンが愛用していましたが、着る人によって全く違うスーツに見えるのです。ブルックスは当時の国民服みたいなもので、どんな男性のワードローブにもあった。ブルックスのスーツを着てネクタイを締めるのは、男の習慣ですらあった訳です。でも、ごく当たり前のスーツであっても、ヒップなジャズマンが着ればかっこよく見えてしまう。オーセンティックな服であればあるほど、着る人のパーソナリティが滲み出てくるから」

「チャーリー・パーカーを追いかけてニューヨークまで来た、駆け出しのマイルスは、いよいよバードに演奏を見てもらう機会を手にしました。そこで、当時の兄貴分であったデクスター・ゴードンに自分のスーツ姿を見てもらうのです。そうするとデックスに、こう言われたんです。『そんなスクウェアな(生真面目でつまらない)格好で、バードに会いにいくのか? 一緒に歩くのも恥ずかしいから、このテーラーに行ってスーツを仕立ててこい』と。せっかくブルックスのスーツでめかしこんだつもりのマイルスでしたが、デックスの教え通り、そのテーラーでスーツを作ってもらったんです。若い頃のマイルスは、しばらくずっとそのオーダースーツを愛用していたようですね」

ドレープスーツからアイビースーツへの変化

チャーリー・パーカーが活躍していた40年代は、ドレープスーツ(その名の通り、たっぷりと生地を使う事で、流れるように優雅なシワが入るスーツ)が主流。特にファッショナブルと言う訳ではないドレープスーツであっても、あのバードが着て居たと言うだけで、多くのファンが彼の真似をした。汗だくになって、ヨレヨレになったスーツですら、バードが着て居ればヒップだった。バードの晩年である50年代は、ゆったりとしたドレープスーツとコンパクトなアイビースーツが混在する様になる。1958年、アート・ケインがハーレムで撮影した一枚の写真が、ビバップからハードバップへと移り変わる、まさにその転換期を映し出している。

 

 

 

Miles Davis - 'Round Midnight (Audio)

 

 

 

 

「当時ヒップとされたスーツスタイルは、チャーリー・パーカーをスタイルアイコンとしたストリートファッションでもあったわけですね。彼の死後、グリニッジ・ヴィレッジを中心に、アイビースタイルが定着していきます。3つボタンの上2つ掛けの、コンパクトなスーツが多くなってくるのもこの時期です。当時のマイルスは稼いだギャラのほとんどをスーツに使ってしまうほど、身なりに気を使っていました。ローマのカラチェニという高級テーラーで仕立てていたのは有名ですよね」

「ニューヨークがメンズファッションの最先端で、ジャズマンたちが着こなすナチュラルショルダーのアイビースーツが、世界中の若者たちの憧れとなったのです。身体のラインに沿って仕立てられたマイルスのスーツは、彼の音楽同様、非常にコンテンポラリーに見える。彼はトラッドではなく、やっぱりモードなんです。後になって写真を見てみると、意外なほど同じスーツを着ている。気に入ったものがあると、そればかり着ているというのもマイルス流ですね」

 

 

 

Miles Davis - My Funny Valentine 1964 Milan, Italy

 

 

 

若い頃は分不相応なスーツを着て、ヒップを体現していたマイルス。70年代以降はタンクトップにフレアジーンズ、派手なレザージャケットにギラギラとした大型のサングラスと、時代の流れを俊敏に嗅ぎ分けて、音楽性もファッションも変わり続けてきた。中年になると若作りするかのように、自己イメージを絶えず更新し続け、セルフプロデュースして来た。

時代とともに自らを変容させた稀代のスター

ジャズに限らず、すべての音楽ジャンルにおいて、黎明期・成長期・円熟期・衰退期と言うものがある。特に若者文化としての音楽と言う事であれば、約20年のサイクルを経て、新しいジャンルへと引き継がれてい行った。ジャズからロック、ロックからパンク、パンクからオルタナティブやヒップホップへ。

そうしたサイクルに埋もれる事なく、約半世紀にも渡り第一線で活躍して来たマイルスは非常に稀有な存在であり、ロックにおけるデイビッド・ボウイにも通じるのかも知れない。どちらもオンリーワンであり、彼らは決して後ろを振り返らず、その先へ進もうとした。ボウイの遺作となった『ブラック・スター』が、ふんだんにジャズのエッセンスを用いたことは偶然ではなかろう。山本氏のインタビュー記事は、ジャズからモッズ、そしてパンクや渋谷系へと話が脱線していったが、そんな中で印象に残る本に書いてある言葉を記しておきたい。

「ご存知の通り、マイルスは時代の変化を敏感に感じ取って、変わり続けてきました。アメリカン・カルチャーは常に進化を求め、前ばかり見てきたけれど、レニー・クラヴィッツがはじめて古き良き時代を振り返ったのだと思います。これまでアメリカ人自身が封印していた60~70年代(ベトナム戦争以前)が、90年代に復活したんだと…。ファッションデザイナーで言えば、トム・フォードも同じかもしれませんね」

 

 

 

Miles Davis - So What (Official Video)

 

 

 

20年周期で訪れるヒップの正体とは?

あの頃、多くの若者たちが熱狂したニューヨークの52番街は、いまや観光地でしかない。モッズの聖地カーナビー・ストリートも、パンクスが集ったキングス・ストリートも、いまやそうした若者を見かける事は出来ない。音楽とファッションが深く結びついたムーブメントは、強烈であるがゆえに時代の徒花として記憶される。当時その場所に居た者だけが知り得た共通感覚こそが、ヒップの正体であり、すべてのムーブメントの原動力ともなって居たのだ。

インターネットによって情報が氾濫し、何を見るべきか、何を聞くべきかが個人に委ねられ、細分化して居る現在。ヒップという感覚を持ち得る音楽が、今どこで鳴って居るのだろう? そしてヒップを体現して居るファッションをどこで見ることが出来るのだろう? アメリカ人が自らを振り返ることが当たり前となった2000年代以降、突出したムーブメントは登場していない。

今の自分が気付いて無いだけで、もしかしたら今どこかで新しいヒップが生まれて居るのかも知れない。しかし、それはインターネットで見つける事が出来るだろうか?。しかし、そして私は最近になってモードの復活を知った。私が今ヒップを感じて居るのは「ヨウジ・ヤマモト 」だ。私の写真を見れば解る様に、私は「ヨウジ・ヤマモト」の影響を凄く受けて居る。彼の作る服は物凄く、カッコイイ。1980年代に山本耀司の。日本に於けるファッション・ショーのドキュメント番組を見てから、このデザイナーに関心を持って居ました。

「たかが服、されど服 ――ヨウジヤマモト論」

 

この本は哲学者の著者がヨウジヤマモトを論じた本です。鷲田さんの膨大な知識・様々な引用を駆使した話の展開に追いつくのは大変でしたが、緩やかなリズムを楽しむ事が出来ました。1981-82年から2002-2003年までのコレクションの写真も沢山あり、本のデザインも美しくていいですね。

本書は、2002年にイタリアの出版社CARLA SOZZANI EDITORE srl から刊行された山本耀司の作品集『TALKING TO MYSELF BY YOHJI YAMAMOTO』のために書き下ろされた著者の文章に、若干の加筆・修正を施したものです。(巻末より)


上記のようにこのハードカバーは、1981AW-2002AWまでのコレクション写真118点がほぼ時系列順に登場し、その合間合間に問いかけと応答のように著者のモノローグが差し挟まれている。挿絵付き詩集の感覚でリズミカルにするすると読める。そして味わい深い。

モード界への、身体への、性へのアプローチ。しかし各論ではなく、ゆるやかに重なり合う。かような文章とグラフィティの一体感を損なわぬように、また論稿自体は『モードの迷宮('89)』『悲鳴をあげる身体('98)』等で既出のものも含まれて居る為、とりわけ印象的なテクストの引用程度に留めたい。


<今>と言う瞬間を、山本はしばしば刹那と表現するが、そう言う意味気分で、壊れゆくもの、消えゆくものとして、今にふれて居るのだろう。言ってみれば、山本は後ろ向きに未来の方を向いて居る。(p27)

いたる処に道が見える以上、破壊的性格自体は、つねに岐路に立って居る如何なる瞬間と家ども、つぎの瞬間がどうなるか解らないのだ。破壊的性格は、既成のものを瓦礫にかえて仕舞う。しかし、それは瓦礫そのものの為ではない。その瓦礫の中をぬう未知の為なのである。(p45, W・ベンヤミン「破壊的性格」高原宏平訳より)

 

 

David Bowie - Space Oddity live excellent quality

 

 

 

そんな山本が最初に取り掛かったのは、からだの線を強調して女らしさを見せるのではなく、男性用テーラードの構成を解体して、ぶかぶかの形もはっきりしないシルエットと「性の制服」としては非常識とも言えるカッティングで、女性的なるもののかたちを表現する事であった。人がたまたま手にしたもの(この場合なら性)、それを防具として生きると言うのは、人の「プライド」に反する。なんの格闘もなしに、偶然に手にしたもので自らを売りに出すと言うのは貧しさの極みである。女性的なモノへのこの想いに、山本はきっとデザイナーとしての自分を重ねて居たのだろう。東京に生まれた事は自分の功績でも何でも無い……。山本はパリ・デビューに際しても、「ジャポネ」を売りに出す事だけは仕舞いと思った。(p67)

過ぎて行くもの、通りすぎて行くものに対する追いすがる様な想い、しかし追い着く事を予め自分に禁ずる意地。山本は、横から、あるいは斜め後ろから見た女性の背中に魅きつけられると言って居た。背中と言う、女性の支柱の凛とした美しさへの憧れと畏怖、それが山本の女性服を織りなして居る。(p91)

私は此処の間、ヨウジヤマモトの服を意識した格好をして居る。それの着方を少し変えるだけで<現在>(ici-maintenant)の服になる。それは、私を「私よりももっと古い私の存在」(メルロ=ポンティ)にふれさせる。そしてその服を着るとふっとどこかを徘徊したくなる。山本耀司の思想は、つまる処、いかがわしい服、すれすれの服とは、私を「私が生まれたよりももっと遠い所、そこではまだ可能が可能のままであった所」(九鬼周造)にまで連れて行って来れる、<自由>の事なのだ。私は今、「ヨウジヤマモト 」同様に、黒いシャツとズボンそして黒いロングベストに身を包んで居る。

皆さんも興味がある人は是非この本を読んで見て下さい。

 

 

Yohji Yamamoto x MJFJ 2016 Vol.1 キービジュアル

 

 

 

ごめんしゃい〜〜。

 

 

 

〜〜懐かし映画館〜〜

「ビューティフル・ドリーマー」

押井さんの演出が冴えるシーンです。

"Sounds Like 'Deja Vu'" (Urusei Yatsura 2: Beautiful Dreamer)

 

ご存知の通り、「うる星やつら」は高橋留美子が1978~1987年にかけて週刊少年サンデーで連載して居た漫画で、本作は1984年に公開された劇場版アニメの2作目です。

 

「うる星やつら2 ・ビューティフル・ドリーマー」 


劇場版の第一作目「うる星やつら・オンリーユー」につづき押井守が監督をした作品です。

この作品は、その後の押井守作品の原点となるものであり、明らかに出世作となりました。

結構当時からこの作品については、大きく賛否が分かれ、中でも原作者である高橋留美子氏から否定的な評価が下された事は、広く知られて居ます。

それは、面白く無いから否定的ではなく、明らかに高橋留美子が築き上げた原作の世界観や、また、原作に対するアンチテーゼでもある作品と見られるからです。

映画版のうる星やつらとして、この作品を超えるものは無く、そして、うる星やつらの映画でも無いと言う解釈が出来る映画です。

だからこの作品は、押井守が押し込んだうる星やつらの思想が可也入った、脚本も面白い作品で、うる星やつらの映画の中では、今でもダントツに人気があります。

うる星やつらの映画と言えば「うる星やつら2・ビューティフル・ドリーマー」と言うぐらいの傑作かと思っています。今上映しても、内容的に古くも無く面白いと思います。

映画本編、ノーカットです。観て見て下さいね。。。。

 

Urusei Yatsura Filme 2 Beautiful Dreamer(legendado)

 

しかし、上記に書いたその押井守の製作思想が優秀であり、原作者高橋留美子が築き上げた世界観も優秀ゆえに、そこで大きくバッティングもあり、場合によっては原作の方向性も変えなければならないのでは無いかと思わせるぐらいのインパクトがありました。

うる星やつらの原作を知って居る人はご存知かと思いますが、アニメのように最初からヒロインはラムではありませんでした。うる星やつら原作では、最初はしのぶがヒロインで始まる漫画です。しかし、押井守氏が頂点に立つアニメ版は最初からラムがヒロインでした。

画像2

「この映画が観たい#65~押井守のオールタイム・ベスト~」に出演する押井守監督

 

 

1984年に公開された押井監督の出世作。その後のアニメなどに影響を与えた。自身の転機になったという名作「ビューティフル……」について、監督に聞いた。

 ◇「ビューティフル・ドリーマー」で何をやってもいいと思い込んだ

 押井監督が「ビューティフル・ドリーマー」を最後に見返したのは10年ほど前。ブルーレイディスク発売前にチェックしたのが最後だったという。「作り終わってから3、4回しか見ていないかな? リニューアルする時に見るくらい。ちゃんと見たことがほぼない。自分が作ったものを見ることはほとんどない」と話す。

 「ビューティフル・ドリーマー」は、高橋留美子さんのマンガが原作のアニメ「うる星やつら」の劇場版第2作。とある一日を延々と繰り返す夢の世界に放り込まれた人々を描き、アニメにおけるループものの元祖とも呼ばれている。アニメだけでなくさまざまな作品に影響を与えた作品。

 「監督としての展望が一気に開けた。売れたし、評判にもなったので。逆に言えば、つまずきの石にもなった。何をやってもいいと思い込んで、イケイケになってしまった。それがなければ(85年に発表されたOVAの)『天使のたまご』はなかった。『天使のたまご』をやって3年以上、仕事がなくなって貧乏生活になった。一番苦しかった時期。苦しかったと言っても実際にはそんなに悩んでいたわけではく、ずっとゲームをやっていたんだけど。(オンラインゲームが登場する映画で2001年に公開された)『アヴァロン』で元を取った(笑い)」

 押井監督は「機動警察パトレイバー」で第一線に復帰することになる。

 「『パトレイバー』を依頼されなかったら、あのまま沈んでいたかもしれない。『パトレイバー』をやったことは職業監督としては意味があった。それまでは何をやってもいいと思い込んでいたので。『ブレードランナー』(82年公開)を見て、世界観を作るのが映画の仕事だと思い込んじゃった。今でも割と思い込んでいるところもあるんだけど(笑い)」

 ◇映画監督は作家でも芸術家でもない

 「この映画が観たい」では、自分が作る映画の方針が決まったという「ブレードランナー」、SF作家になろうと考えるようになった「2001年宇宙の旅」(68年公開)、映画監督になろうと思った「映画に愛をこめて アメリカの夜」(73年公開)と、影響を受けた作品や少年時代に見て強烈に印象に残っている映画について語る。映画について語る押井監督を見ると、新作を見たい!という思いが強くなるファンも多いだろう。押井監督は今後、どんな作品を作っていくのだろうか……。

 「『スカイ・クロラ The Sky Crawlers』をやった時から決めたんです。(依頼が)来たものを全部やる。自分で決めない。その方が監督の在り方として正しい。映画監督は作家でも芸術家でもない。依頼が来たものをどうやって自分のものにするかだから。(予算が)安い高いも関係ない。来たものからやる」

 「全部やる」というのだから、新作にも期待したい。

 

タクシーにて

 

 

ー以下は私が敬愛するWWFの論客・ヘーゲル奥田氏の「ビューティフル・ドリーマ」論です。

楽しんでお読み下さいね。「 WWF/同人誌」からの抜粋です。大した論客ですよ。彼は。。。。

BDでは自分のいる世界を疑い始める行動するのは、温泉マーク、サクラさん、面堂、あたるというように、顔の見える登場人物ばかりです。しかし実際にその世界を破壊する最初の契機を作ったのは、理性的な「現実」へ還ろうと事態を解決すべきものと捉え主体的に動いていたサクラさんや面堂などではなくて、後先を考えず(表層的ロゴスに左右されない)自分の欲望に正直なあたるだったわけです。このモチーフは「オタクはアニメなどという心地よい夢にかまけていないで現実に戻るべきだ」的にアタマで考えるメタ方向の運動が実は何の効果も現し得ないことを皮肉っていると思われますが、どうでしょう?

 実際にBDの世界を破壊するきっかけになったのはシーハリアーによる垂直移動であり、その後にあたるによる聖バクの発動があり、白い少女との会話で一応完全な破壊があったわけですから、野田真外さんを含めた複数の人々が指摘しているように、それらのうち後の二者は他者と呼ばれる自閉的世界に亀裂をもたらす契機の象徴という解釈も成り立ち得るでしょう。

 しかし彼に他者だと指摘されている夢邪鬼、バク、白い少女についてですが、実は私はもう少し分けて考えたくて、これらのうち後の二つは構造を崩すための三段階のうちの二つの暗喩であると思っており、本当の他者と呼べるのは白い少女だけだと思います、もし他者が自己ではないという意味ではなく外部という意味ならば。順を追って話しましょう。

 まず構造を崩す契機の一段階目は夢邪鬼でも他者でもなくて、ハリアーです。これは直接的に世界を破壊させたものではありあませんが、世界の成り立ちを知りたくて飛行したその結果、世界は亀の上の閉鎖空間であるということが判明したというカタチでの破壊の結果的責任を言ったものです。このシーハリアー (アメリカ海兵隊<ここ結構重要かも>のAV-8Aか?) はVTOL; 垂直離着陸機であり、今まで友引町平面でゴチャゴチャとやってきたことに対する水平方向移動というメタ運動、次元を増やす運動、技術的な方法で人間の認識の限界を突破する方法そのものだったわけです(押井さんはジェット機はお嫌いみたいですがVTOLだから可だったのでしょうか? もしかしたら誰かがカッコイイと主張して通ったのでは? しかしそれこそが異化作用というもので、私はその後押井作品で頻用されるヘリよりもずっと絵になって成功だったと思います)。この技術的メタ運動で明らかになったのは自分の世界を見下ろす位置にいるという神様や「鳥」の視点すなわち鳥瞰図などではなく、その逆に世界=自分たちの世界が閉じた空間(亀の上の友引町)であったという自閉の確認だったという逆説です。しかしそれは構造の否定の契機とはならずむしろ否定的自己言及という形態・構造のベクトルの一部として構造に含まれると考え得るものでしょう。でもまあ第一歩は第一歩です。それが無ければ物語は動き出さなかったわけですから。

引用させていただいている野田真外さんの『前略 押井守様』において、夢邪鬼も前半部分では顔の見えない不気味な他者であったが、それが後半になり世界の創造者として現れたら主体的自己に成り下がったというようなことを述べており、私もその変遷を興味深く思います。しかし私の考えでは夢邪鬼はもとからBDにしっかりと組み込まれている構造の要素そのものであり、BDの前半では不可知の存在の不気味さを演出するのに「使われ」ますが、初めから本来の意味での「外部」とは言えないと思います。つまり夢邪鬼(世界の創造者としての押井さんの分身)は夢という作品をあたるたち(観客という私たち)に見せているという点ではひとつメタレベルの他者ですが、もう一つ上のレベルで見れば、同じシステムに操られている被害者に過ぎないとも考えられます。よって夢邪鬼(表現者)は他者を演出するための一時的な道化に過ぎませんが、メタ方向へのベクトルを暗示するという意味では重要な要素と言えるでしょう(BDの構造で「創造者と被創造物が同一平面にいる」と述べましたが、これは一見創造者に見える「他者」も、メタレベルをひとつ上がれば所詮は同じシステムに取り込まれている不自由な「演出家」である、というモチーフに他なりません)。だいたい夢邪鬼とはBDにおける押井さんの分身であり、彼は演出家であると同時に登場人物であるという二重の意味を持たされていますが、その意味は演出者の他者性としての一時的匿名性や優越を示すためのものではなくて、メタレベル上昇に伴う演出者と登場人物という二項対立の否定のためのモチーフと私は考えます。もし前者の立場で考えると、登場人物に向かって「夢から醒めろ」と教え諭す神様としての演出者を考えなければなりませんが、私は押井さんが神様の立場に立とうとしているとは考えません。野田さんは「神がやらなきゃ人がやる」方式で神ならぬ押井さんが体を張っておたく的ファンに他者性を訴えているという解釈をされていますが、私はモノを作る人ってもっと良い意味で「利己的」で、そのような「余計なお節介的な慈善」には興味がないと思いますが、どうでしょう?

 バクというかブタも外部や他者と紛らわしいのですが、このタイプの他者は他の押井作品に出てこないと野田さんは述べており、BD特有の他者であるという私の妄想もあながちはずれていないかもしれないと思っています。すなわちマルC付の首輪(とそのハンコがオシリに)が壊れて初めて破壊を司る聖バクになったと考えると、素直に考えれば(と言うかここからは私の完全な勘ぐりですが)第一義的にはその首輪はうる星やつらにおける高橋留美子(小学館?)マルCであると考えられ、そこから解き放たれた聖バクはそのタガが外れた破壊のベクトル、純粋な世界=意味破壊者として夢(作品)をブッ壊したわけです。とするとバクは原作「うる星やつら」という作品そのものの象徴ではないかと。詳細はここでは省きますが「正常なシステムを馬鹿正直に暴走させるとシステム自体に亀裂を入れる」を地で行ったのではないでしょうか? 押井さんの「答え」を聞いてみたい気もしますが、妄想を巡らせて楽しむのが一番でしょう。

さて、私が本当に他者の名に相応しいと思うのは、この白い帽子の少女(幼少期のラム?)だけです。その正体は「ラムの無意識」だとか「アニマ的集合意識」だとか「ロゴス外の無垢で利己的な存在の象徴」だとか、色々な推測が可能でしょうが、これはもう個人の解釈に任せて良い領域ではないかと思います。なぜなら、むしろ彼女は「他者」というより更に認識の外にあって言語的理解を拒む外部と言ったほうが相応しいかもしれないからです。ですから私が思うに、押井さんの「他者」は二項対立で出てくる構造の内なる他者で、物語を崩壊させるという意味での他者は「外部」として「役割」を区別して使っていると思われます。例えば先ほども述べたように夢邪鬼も二項対立の「創造者 vs.世界を生きる主体的自己」という意味では他者ではありますが、後には正体が妖怪だとバレて、メタレベルを登れば同じく何らかの動機をもった主体的自己であったことがわかるわけで、動機を持たない(私たちには不可知という意味で)外部だとは可哀想でとてもそうは断言出来ません。つまりメタ運動は他者を認識し得るわけで、押井さんが言うところの(全ての事象を影から操る不可知の黒幕としての)「鎌倉の老人はもういない」ということとも軌を一にしているような気がします(違うか)。

ちなみに私の使う「外部」という用語がテツガクやら数学やら社会システム学のそれと同じなのか知りませんので、一応定義(エラソウ)しておきますと、それは「私」の認識の外にあってシステムを形作る最後(最初)の一撃を与えたり、世界やシステムの破壊の時に初めて現れる不可知の「究極原因」という意味で使っています(数学で言うあるシステムの完全性や無矛盾性を保証する「外部」の命題ということからのアナロジーで、ゲーデルの不完全性定理が証明したように内部の命題だけではそれらは確定できない、らしいです)。なぜなら先ほどのBDの形態ではありませんが、私たちの「現実」とは「主体的認識」の産物である以上、外部とは「いま・ここの世界」という私たちの認識からはどんな手段を使って把握しようとしても漏れていってしまうからこそ「外部」と呼ばれるのであり、私たちの認識可能な「世界」の形成や起源についての「外部」の役割とは権利問題としてしか主張できないものではないでしょうか。もし「外部」が顔を覗かせることがあるとすれば、それは世界の「破壊」のときだけ事後的にであり、形式化の果てにそこから漏れ出るものこそ外部への通路だと考えた方がよいのではないでしょうか(一昔前の柘植じゃなくて柄谷行人さんの思想と似てる?かな)。他者は確かに外部として働くこともあり得る存在ですが、メタレベルの上昇により構造のなかに回収されうるものです。

しかしこれは別に野田さんとそれ程違うことを言っているワケではなくて、多分彼の述べる「完全に物語から距離を置いた地点をキープし続けている<少女>α」が私の言う「外部」で、「比較的中心地に近い位置にはいるけれど、やはり物語の進行には基本的に参加してこない<少女>β」が私の言う「他者」=二項対立で仮に動機を隠されている(メタレベルでは明らか)別の主体的自己、というように理解できるので、これは単に言葉の定義の問題でしょう。

 

 

友引全史

 

 

 

<外部と他者と男と女>

 

 何か演歌みたいなサブタイトルになってしまいました。さて白い帽子の少女のことがすっかり忘れ去られてしまいましたが、本題はこっち。一般的には?外部と言えば普通は理性や主体的自己や認識可能なシステムの文字通り外にある破壊的なもの、理性を揺るがすデュオニュソス的な壊乱者、意識の下に蠢くコントロール不可のエス、欲動、などということで明るい理性を是とする立場からは忌避すべきものと捉えられがちです。しかし押井作品においては他者や外部とは否定するべきモノではなくて、閉塞された「現実」(=メタレベルから見下ろせば誰かに作られた「夢」)を破壊して、新たな世界への契機となる「救い」の概念として提出されることがしばしばで、BDにおける白い少女もそういう意味があったのではないかと思います。外部は外部なゆえに構造に捕らわれず、階層を越境してどこにでも現れるわけで、チンドン屋と楽しげに練り歩いていた夜の街中、学園祭をボイコット貫徹した教室、風鈴屋の通る真夏の板塀の路地、フランケンあたるのパラレルワールド、そして最後にDNA模型世界に現れて、夢邪鬼の夢世界の「原初の海」の海面から上昇(落下)させるわけです。

 しかし問題は、それで本当にあたるたちを含めたキャラ全員は果たして「救われた」のでしょうか。この問いはメタ的には「外部なるものによる現実の壊乱で私たちは真の世界へと戻ることが出来るのか」と同値ですが、これは前者・後者とも当然ながら否です。形態解析の部分で述べたようにあたるたちは結局最後まで「現実」の地平には辿り着けず、もとのうる星ワールドに組み込まれたままとなりますし、私たちの現世界においても「外部」による混乱が起こってもそれは直接関係者にとってさえその体験は一瞬の世界の変容であり、それ以外の者にとっては「日常における揺らぎ」程度で日常やシステムやフーコーの言うところの「権力」の補完になることが多いようです(押井さんにとっての学生運動がそうであったように)。では押井さんは結局のところ「決定論者」であり理不尽であってもその「運命」を信じているのでしょうか? それとも永劫回帰のような無限の受難受苦を肯定もしくは永遠に抵抗することにしか「救い」や自我を支える「超越」は存在しないと考えているのでしょうか? 実際に登坂さんの同人誌等における押井さんインタビューとかを見てみると、ご本人が実際に「ぼくは決定論者だから」のような発言をされているようですので、制作者の意識レベルにおいてはそうかもしれません(単にテレ隠しや戦略かも)。

 しかし、優れた作品は作者の意図をしばしば越えることがあるわけで、構造的に作られた押井作品は、この文章で延々と述べたように「上位」のメタレベルへ議論が広げられるだけでなく、あくまで「原理的」にはではありますが、その逆に限りなく個人の心的レベルへも降りていける「可能性」を有していると私は思います。すなわち押井さんの現在の最も目につく「弱点」、すなわち自我同一性への絶対的希求と他者・外部による壊乱という二項対立の否定を無限の入れ子構造的に意識に適用してゆくうちに、意識から下意識、無意識、更にその下にあり欲動を動かす何か(イドでもエスでも結構)、さらにそれら実体論的構造を越える間主観的、関係論的な自己と他者の境界まで進みうるものではないかと思います。ただそのようなモノが今までの押井作品に実際あるかというと、正直私にはそう解釈し得るシーンなりシークエンスが見あたらない気がます。唯一、『攻殻機動隊』での素子と人形使いの「融合」がそのような問題に挑戦したモチーフだったのでしょうが、融合された人格がやはりメタ的自己同一性の罠に捕らわれたままなのか、それとも新しい内的認識を手に入れたのか、それはあの作品自体だけでは示し得なかったのではないかと思います。

 思えば押井作品の「主体的自己」、すなわちBDにおけるあたる、面堂、サクラさん、温泉マーク、そして物語後半の夢邪鬼(ラムはどうかと言う問題は後述)、彼ら全ては外的な[夢vs.現実]問題には悩み行動しますが、内的な問題としての[夢vs.現実]には悩んでいる様子は無いようですし、そもそも押井さんの人物の描き方は距離を置いた「他者」としての描写が殆どです。これは押井さんが自己の問題を大切にするが故の他人への強制と他人からの不遠慮な干渉を嫌う現れなのでしょうし、その立ち食い蕎麦屋的世界像は「他者」を認めるという上でオトナの対応であるばかりか、システムや「構造」に操られる人物を「状況」を描くには適した描写法です。つまり自己と世界の問題、すなわち共同幻想的問題の追及には適したフォーマットと言えましょう。                                                   

       ーヘーゲル奥田ー。

 

コメントなど頂けるとと大いに励みになりますのでよろしくね。

 

コメント一覧

kiyasume
雄陽丸さん、書き込み有難う御座います。
私はもうblogで散々言って居ますので原田芳雄さんと会ったのは
ご存知かと思いますが、、新宿ですぐ目の前を俳優の天本英世さんが、、

若い20歳ぐらいの女の子とお揃いのジージャンにジーパン履いて腕組んで嬉しそうに話しながら通って行くのを見かけましたよ。今から30年前ぐらいでしょうか、、、

https://www.youtube.com/watch?v=xx_PxvdEzI0


それから、矢張り新宿のタクシー乗り場で。タクシーが来るのを待って居たら、、
止まったタクシーから。岡田茉莉子が降りて来て、丁度母と一緒に居たものだから、
名前言いそうに成ってしまってドギマギしましたよ。彼女は軽く会釈して黒い
スーツ姿の男たちと、歩いて。すぐに居なく成りましたが・・・・・・。

話せば色々ありますよ・・・・・・。

https://www.youtube.com/watch?v=38un_ozcuRg

と言う事で。。。

最後に私が8歳の時にテレビで見て居て。「可愛いなぁ〜〜」と思って好きだった。
いしだあゆみの「ブルーライト・ヨコハマ」です。聞いてやって下さい。

8歳当時に私は真面目に大人になったら
あゆみちゃんの様な女の子を嫁にもらうと宣言して💦
両親ともひっくり返ったのですから、、、笑うな!!(● ˃̶͈̀ロ˂̶͈́)੭ꠥ⁾⁾

確かに風吹ジュンと話せたのは貴重な思い出ですね。
それでは曲です。。。。また来て下さいね。

https://www.youtube.com/watch?v=XKhsCLh86Dg
ar5panet
風吹ジュンとの思い出、一生ものですね。
私は有名人では、力士や光源氏の諸星君など、男性としか出合った事がありません。そうそう、女性では、柏木由紀子さんと、出合いました。でも最初気付かなくて、口はきけませんでした。

                      雄陽丸
kiyasume
マサさんコメントどうも、、、

風吹ジュンさんは私が見かけた頃は可憐でしたね、、
私は丁度、彼女と一緒の肉屋で、カツ買って居たものでして、

普段はそこでは買わなかったのだけども、、
私と話して居たら。そこに郵便配達の配達人が来たら、
その人とも親しげに話してましたね、、、

親しみやすい可憐な女の人と言った具合でしたでしょうか。

まあ、私は、これでも芸能人の思い出話は結構あるんですよ・・・・・・。
そのうちまた書くかも知れません.....。

書き込み有難う御座いました。
また覗きに来て下さいね。。。。。
masamikeitas
>若い頃、好きだった風吹ジュン。一度、明大前の肉屋で小型犬(名前が分からない)を連れて肉を買って居て。隣に居た私に微笑んで「此処の焼き豚美味しいよ」と挨拶代わりに教えてくれたのを思い出します。

こんな出会いがあったんですか!
一瞬でも、微笑んで「此処の焼き豚美味しいよ」と、声をかけられたなら、夢心地では。(笑)
今の風吹ジュンさんでも、このように微笑んで声を書けられたら、天に上ってしまいます。(笑)
名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「Weblog」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事