団塊世代おじさんの日常生活

夏 日本で二番目に気温が高く、陶器と虎渓山と修道院で知られる多治見市の出身です。

毎朝と夕、夫が眠る墓に通っています。

2024-11-21 01:32:44 | 日記
 中日新聞の読者投稿欄に「泣き笑い 命あってこそ」というタイトルで、77歳の女性が投稿されていました。

 夫が6月に79歳で急逝し、大切な人を失ったつらさが今も身に染みます。

 毎朝と夕、夫が眠る墓に通っています。

 暑かった夏がようやく終わったと思ったら、日没時間はどんどん早くなり、土手のヒガンバナや耳にする虫の音に季節の移り変わりを感じます。

 無料通信アプリを介して「何かあったらメールしてね」と連絡してくる妹や、「きょうは何してたの?元気?」と私のことを気にかけて毎日電話をくれる友人の存在はうれしい限り。

 私は長男夫婦との同居ですが、何かと私を外出に誘ったり、私の食べたいものを買って来たりしてくれて。

 新聞で目にした谷川俊太郎さんの詩「生きる」の一節にあったように、泣いたり笑ったりできるのは生きているからこそ。

 私はこの先も周囲の励ましに支えられつつ、趣味の俳句や畑仕事に精を出す所存です。

 以上です。

>毎朝と夕、夫が眠る墓に通っています。

 これは凄い!、よほどご主人の事を大切に思われていたんだ。

 大切なご主人を失ったつらさの日々をお過ごしのようですが、周りの人の優しさに救われているようですね。

 まだまだ悲しみが癒えないようですが、趣味の俳句や畑仕事に没頭する事で少しは辛さを癒していただきたいです。




ノツティングヒルの恋人・何度見ても感動的で素敵な映画・・
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80歳の壁を乗り越えるのは、なかなか難しいでしょうね。

2024-11-20 02:06:17 | 日記
 中日新聞の読者投稿欄に「最後の中学同窓会 盛況」というタイトルで、80歳の男性が投稿されていました。

 1966年に閉校になったものの、同窓会は数年ごとに開かれて、今回は7年ぶりでした。

 卒業生150人のうち半数近くが鬼籍に入り、皆高齢となったこともあって今回が最後の開催となりました。

 私も含め40人ほどが出席し、食事をしながら懐かしい学校生活を思い返しつつも、近況報告では自身の体調や家族の話題も出て互いに気遣いました。

 校歌を合唱しましたが、皆まだ歌詞とメロディーを覚えていて実に盛況でした。

 最後の幹事あいさつの一環として私は、音楽の授業で習った米国の黒人哀悼歌「オールド・ブラック・ジョー」を歌いました。

 中学校の仲間は永遠ー。

 機会があればまた集まりたいです。

 以上です。

 私の中学校の同窓会は55歳の時に始まり、65歳の時の3回目で終わっています。

 どうやら幹事がいないようで。苦笑

 65歳の時に体調が悪く欠席したので、残念ながら2回しか出席していません。

 出席する人と出席しない人は、だいたい決まっているように思いました。

 中学校時代に、良い思い出がない人は出席しないのでは?

>卒業生150人のうち半数近くが鬼籍に入り、皆高齢となったこともあって今回が最後の開催となりました。

 半数近くの方が、亡くなっているんですね。

 80歳の壁を乗り越えるのは、なかなか難しいでしょうね。

 私も80歳の壁を乗り越えれるか不安です。

 
>校歌を合唱しましたが、皆まだ歌詞とメロディーを覚えていて実に盛況でした。

 中学校の校歌は、覚えていません。

 小学校の校歌は6年間歌った事もあり、だいたい歌えるように思いますが。




「カサブランカ Casablanca ~時の過ぎ行くままに As Time Goes~ 」ドーリー・ウィルソン  Dooley Wilson
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高齢者は、転んだり倒れたりする事が一番危険だと思います。

2024-11-19 01:35:10 | 日記
 中日新聞の読者投稿欄に「道で倒れ搬送された日」というタイトルで、80歳の女性が投稿されていました。

 8月上旬の午後、夫と地下鉄の駅から自宅まで徒歩で向かいました。

 暑い日でした。

 20分ほど歩き、自宅の手前300メートルほどで夫が「先に行ってクーラーをつけておくよ」と。

 夫の背中を見ていたのは覚えていますが、その後の記憶がありません。

 気づいたとき私は病院のベッドにいました。

 看護師によると、道端に倒れていたのを近くの人が見つけ119番して救急車で搬送されました。

 転倒した際に右手首を骨折し、しばらく気を失っていたからか、熱せられた路面で左客をやけどしていました。

 幸い大事に至らず、入院することもなく、帰宅できました。

 どなたかは分かりませんが、お世話になりました。

 感謝しています。

 以上です。

 高齢者は、暑い日は気をつけた方がいいようですね。

 投稿者さんは、軽い熱中症にかかられ気を失われたのかな?

 高齢者は、転んだり倒れたりする事が一番危険だと思います。

 骨折などして歩けなくなり、車椅子状態になるかも知れません。

 私も横断歩道でよそ見をして、バランスを崩し転びそうになりました。

 幸い隣にいたかみさんが支えてくれたので、転ばずに済みました。

 もうちょっとで転んで骨折でもしたら、大変なことになっていたと思います。

>20分ほど歩き、自宅の手前300メートルほどで夫が「先に行ってクーラーをつけておくよ」と。

 ご主人は親切心のつもりでしょうが、高齢の奥様を残しそんなに先を急ぐこともなかったように思います。

 5〜6分早くクーラーをつけても大して変わらないのでは?

 それより奥様と一緒にいらっしゃれば、気を失いかけた奥様をすぐに対応出来たのでは?

 ご主人は自宅で、奥様はちっとも帰って来ないとヤキモキされていたのでは。

 まさか救急車で病院に運ばれているなんて、知る由もなかったでしょうね。

 投稿者さんは幸いな事に、右手首の骨折と左脚のやけどで済み、大事に至らず良かったですね。

 これが入院となり、長引いて車椅子状態になったとしたら大変だったと思います。



The Third Man / 第三の男
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たった一つの命だから

2024-11-18 00:25:30 | 日記
「たった一つの命だから」副タイトル「14歳の少女が遺した言葉(上)

 作者 桑野優子

 「病気になったのが友だちではなく私でよかった」

 中学2年生でお母さんにさらっと答えたのは、骨肉腫という病を告げられた横浜市に住む西尾誉佳(えいか)さんという14歳の少女でした。

 2005年4月のことです。

 誉佳さんは入院して化学治療を受けますが、5ヶ月後に右腕を切るという手術を受けます。

 ところが誉佳さんは泣きません。

 そんなことで涙は出なかったというのです。

 でも、一度だけ涙がこみあげたことがあると話してくれました。

 治療がつらかったからではありません。

 生きるためには腕を切るしかないと話すお母さんの目に涙があった・・・。

 それで、こらえきれなかったそうです。

 自分自身の痛みでは泣かず、誉佳さんはお母さんの苦しみを感じて泣いたのです。

 同年12月、8ヶ月間の闘病生活を終えて退院した時、誉佳さんは久しぶりに外の空気に触れました。

 すべてのものが新鮮に思えて、すべてのものに「ありがとう」を言ったそうです。

 太陽、空、見なれた校舎、駅、お店。

 あらゆる物に感謝の気持ちが生まれ、そして自然にある言葉が湧きました。

 誉佳さんは、利き腕の右腕を失い、残された左手でお世話になった人に宛てる06年の年賀状に向き合います。

 そこに「たった一つの命だから」と書きました。

 命があれば、右腕はなくなったけど強く生きていける!と、みなぎる力と感謝の心で書いた言葉でした。

 私の知人男性が誉佳さんのお父さんの友だちでした。

 その男性から年賀状を見せてもらい、誉佳さんに会いたいとお願いすると、同年1月、ご両親と3人で福岡に来てくれました。

 交流が始まりましたが、間もなく誉佳さんは余命1年の宣告を受けます。

 神様はどこまでも残酷です。

 どうしても「奇跡」を起こしたいと思いました。

 この世は想いの世界・・・。

 想えば通ずる。

 ならば、たくさんの人の命への想いで誉佳さんの命をつなごう。
 
 誉佳さんが書いた「たった一つの命だから」につなぐ言葉をたくさんの人に考えてもらおうと、近所のママ友や高校生の息子たちとその友人たちが集まって、呼びかけを始めました、

 この活動「ワンライフプロジェクト」が地元のラジオ局の目にとまりました。

 「『たった一つの命だから』にあなたはどんな言葉をつなげますか?」というラジオからの呼びかけに、多くのメッセージが集まり、半年後には本ができあがりました。

 そして、目で読むだけでなく、耳で聞いてもらおうと、朗読会が自然に生まれ、少しずつ広がっていきました。

 以上です。

 中日新聞の記事を読みながらインプットしていても、つい泣きそうになりました。

 私の会社の同僚がガンになって退院して来たので、3人ぐらいでお見舞いに行きました。

 彼が「どうして俺がガンにならなければいけないんだ!」と言った時には、返す言葉がなく3人とも黙っていました。

 これが普通の人の本音だと思います。

 それなのにこの女の子は、「病気になったのが友だちではなく私でよかった」

 このような言葉をいう女の子は、どんな人なんでしょうか。

 まるで天使のような女の子ですね。

>交流が始まりましたが、間もなく誉佳さんは余命1年の宣告を受けます。
 神様はどこまでも残酷です。

 神様なんていないと思います、誰かにすがりたいと思う人間が作り上げたものだと思います。

 神様がいれば利き腕の右手をなくした少女に、さらに過酷な余命1年なんてなるはずがないでしょう。



森山直太朗  愛し君へ (Live)
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今時 蝿帳を使われる人がいるなんて驚きました。

2024-11-17 01:13:34 | 日記
 中日新聞の「くらしの作文」に「蝿長」というタイトルで、70歳の女性が投稿されていました。

 結婚した時から使っていた卓上蝿帳(はいちょう)が、とうとう壊れてしまった。

 量販店で新しい蝿帳を買った。

 2週間後、突然、「パン!」と大きな音がして、4本の支柱の1本が外れてしまっていた。

 今度は近くの店で、違うメーカーの品を探したが、前の品と同じ物しかなかったので、それを購入した。

 10日後、また同じ大きな音がして、同じ部分が壊れてしまった。

 お店へ現物を持って行った。

 店員さんが「先日も他のお客さまが壊れたと言ってきたので返金しました」と言われた。

 私も同じように返金してもらった。

 夕食用にと、肉団子の甘酢餡と茄子の田舎煮を作って外出しようとした。

 今までなら蝿帳をかぶせておけばよかった。

 冷蔵庫に入れると味が落ちる気がするし、困ってしまった。

 猛暑の夏が終わり、ぴかぴかの新米で握ったおにぎりや蒸した薩摩芋、つやつやに仕上げた里芋の煮っころがし、茸の炊き込みご飯・・・。

 自然の温度でおいしく食べられる時季が来た。

 子どもの頃、母が作ってくれた鬼饅頭や茹で栗が、テーブルの上で蝿帳に入っていた。

 蝿帳の中の食べ物がおいしそうに見えるのは、何故だろう。

 蝿帳は私にとって大切な台所用品だ。

 きちんとした蝿帳が欲しいと願っている昨今である。

 以上です。

 今時 蝿帳を使われる人がいるなんて驚きました。

 私が小学校の頃は、使っていました。

 それにハイトリ紙も使っていました。

 ハイトリ紙には、蝿がいっぱい付いていました。

 今は蝿なんて、ほとんど見ないです。

 いても小蝿ぐらいなものです。






アランドロン・フォーエバー!「太陽がいっぱい」サウンド・トラック
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