寂しがり屋のハーモニカ吹き。(障害者の日常生活)

日常生活...。 今回を最後に本当に休息します。。。。

 

 

 

 

しかし、調子が悪い。抗精神薬の後遺症で頭が、脳が痺れて来ると何も出来ません、、、行けない、またおかしくなって来た。だから少し寝ます.....。今起きた3時間ぐらい横に成って居ました。まだ調子は悪いですけど。此の前のblog記事にて、当分は更新出来ませんと言いましたが。今回を最後に本当に5日間から6日間ぐらい更新を控えますので皆さん宜しくお願い致します・・・・。それでは暫く休みます。。。(๑>◡<๑)

 

最近思うけど、私はドゥールズの言う所の、差異を生きて居ずに生成変化の反復ばかりをして居る。日常生活はベルクソンの言う処の、永続的な時間の接続を生きられずに、ヒュームの言う処の切断で生きて居ますよ。本来ならばこの2つが相対的に絡み合って居なければ成らないのですが....。要するにリゾォームが上手くいかなくて、ツリーになってしまって居る。デリダの言う処のパロール(話し言葉)は苦手になってしまって居て。エクリチュール(書き言葉)の間違ったテクストの読みで、パラノ的に生きて居る。私の病名はスキゾ(統合失調症)だけども。ドゥールズの言う意味の、開かれた自由と言う意味でのスキゾとは程遠いいのですよね。全く嫌に成る!!!ああ、また眠い。薬を飲むとすぐにコレだ。何も出来ないし、何も考えられはしない?だから、また少し横になります・・・・。そう言えば昔、「スキゾ・キッズの大冒険」と言う本の中で浅田彰はひたすら現場から逃げろと言って居たが、最近では宮台真司が矢張り逃げろと言っては居ますが。耕作はして於けと言って居ますよね。昔はただ逃げればどうにか成ったが。今は準備がなければ、逃げてもどうしようも成らないのだそうです。それでは、また暫く中断して横に成ります・・・・・・・・。

最近、駅前の食堂で夕飯を食べようかとも思うのですが、何か何時も気が乗らないんですよ、、だから、今日なんかもバーミヤンから500円の弁当を3つ買ってそれを一つ昼に食べた、後2つは夕食と明日の昼食です。なぜ3つ取るのかと言うと、金額が1,500円以上では無いと持って来てくれ無い物ですから。今、現在、足は腫れるは、腰は痛いわで難儀して居ます。今日は、何時もの喫茶店に行って、ホットケーキを食べようかと思って、外に出たのですが、何とアパートの鍵かけたっけ?と言う状態でしたので、それにお金も掛けられないなと思って。食べずに本屋とパン屋だけ寄って帰って来た。そして、食パンと惣菜パン、それからコンビニで野菜サラダを3パック買って帰って来た。何せ後6日間、来月に保護費が入るまで5千円で暮らさなければ成りませんから。紹介するパン屋は、可也おいしいパンがあります。店内を写真撮影しました。観て見て下さい。。。

大学時代やら働いてた頃は、眼が薬のせいで、トロ〜ンとしたり、薮睨みに成ったりで、、、大学時代はそれで因縁をつけられたり、からかわれたりしたので、サングラスを掛けて居たんですよ。よく「あいつ、おかしいよな、、」とか陰口叩かれたし。働いて居た時は私は平気だったのですが、、世間体を気にする、バカ親父が、「おめえは、眼がおかしいんだから、サングラスを掛けていろ!!」と言いまして。サングラスを掛けてました。家でも掛けてろと言われて、、掛けて居たら弟が「兄貴何やってるんだ。そんなもの外せよ」と言ってましたっけ。お陰で、新宿で、歩いて居たら。鬼の様な形相のヤクザが、寄って来て、肩をすり寄せて来たので、少し肩を傾けて交わしたんですが・・・・。そのヤクザは「バカヤロ〜!!ぶち殺すぞ!!」とは言って居ましたが、交わされて肩が当たって居ない手前、それ以上は何も言えず。襲っても来ませんでしたが、、

最近ですよ、本当に、、目つきが普通になったのは。

 

今日訪問看護師が来た。今日は、午前11時に来ると言って居たが。昨日の夕方に午前の9時半位になると電話が掛かって来て、昼9時半に来た。私は何時もの様に話をしたが、、今日は、前に来てくれて居た人が来た。最近来て居た男の看護師さんが「翔んで埼玉」と「続・荒野の用心棒」を見て居ないと言うので。DVDに録画して来たら渡そうと思って居たので其の女性の看護師さんに彼に渡して下さいと頼んだ。そして彼女が帰った後に、出かけて書店に行った。

 

 

 

人生、金が全てだ。それは余りに侘しいと言う人も居るだろうが、金が全てなのですよ。人生も人付き合いも。出世も。寿命も。趣味も。全ては金です。私の母は下宿屋をして居たが、その事を身体で覚えたのは父の実家に居た時でした。まだ自分ら夫婦は家が持てず、父方の実家で暮らして居たのです。母は、姑がやって居た下宿屋を姑と共に切り盛りして居ました。

ある日、下宿人の大学生が、下宿代が払えなくなって下宿代を1円負けろと言ったそうです。たまたま1円無かったらしい。姑はその学生に怒って言ったそうです。「1円ぐらい、どうとでもなると言う甘えた根性が嫌だ。あんたは下宿を出て行きなさい!!」そしてその学生は出て行ったそうだ。私は母が実家で下宿屋をやって居たので、金の大切さは身を持って知って居るつもりだ。でも、私はケチケチはしない性分です。勿論お金は大切だし。節約は考える。だが、掛かって仕舞ったお金は、ある程度は高額でも仕方がないと思って居る。前にもblogで書いて居るが。物事半分も叶えばそれでいいと思って居るのですよ。つい、この間、夏場用に買って居た半袖のシャツを着ようとしたら。サイズが小さくて入らない。私は普通XLサイズだが、Mサイズの様に小さいのだ。私が太って仕舞ったからかと一瞬考えがよぎったが、そうではなくそのシャツの作りがXLサイズでもMサイズぐらいの大きさなのです。

それは若者向けのネット・ブテックですが、そこでシャツは初めて購入したのです、私は諦めた。最近は外資系の会社が多い。服などは殆どが外資系だ。私はユニクロと日本のメーカーが経営して居るブテックでもシャツを購入して居た。ユニクロは良かったが5着のうち、2着が小さくて着られなかった。安いシャツだが1着1,300円です。2着だから2,600円の損だ。私は捨てるのはもったいないし、どうしようかと思って居た。まだ腕も通して居ないのだ。だから私は知り合いの女の子が旦那が居ると聞いて居たので、あげる事にした。彼女は散々貰えないと言ったが。貰えないと捨てる事になると言った。「古着屋に持って行けば」と言うが。私は以前、買取業者を頼んだ事がある。そうしたら服やらシャツなどは有名ブランド物しか引き取らないのだ。よく何でも引き取る業者が居ると言うが。大抵はタダで引き取るのです。UNIQLO、GU のシャツなぞは、絶対に引取りませんよ。

今、流行りの古着屋に持って行くのはいいけど。電車賃で足が出る勘定です。こう言った場合は身近な人に挙げるのが一番です。まあ、2,600円の損ですが、外で美味しい物でも食べたと思う事にしました。私の母は、物を買うときにケチるなと私に教えて居ましたねぇ、、私は小心者なので、1980年代に、初めて自室用のカラーテレビを購入しようとした時に、14型のものを購入したのですが、母に怒られました。後1万円ぐらいの処で、ケチって14型のテレビを買うよりも1万円出して16型のテレビを買った方が良かったと言われました。お金を掛ける時には、躊躇せず、多めにお金を掛けなさいと言いましたよ、お金は掛けただけある物が手に入ると教えられましたよ。安物買いの銭失いにはなったら行けないと、

だからカード決済などもリボ払いなどは持っての他。一括で払えと言われた。月賦も勧めないと言われましたね。理由は、つい、月賦だからと複数の品物を購入して仕舞うから。私は今、保護費で暮らして居ます。ただ、最近は、保護費から毎月使えるお金は4万円なので。その中に食費も入りますからね、使えても1万が良い所ですが。だから買えても。DVDか本か、それか、衣料品かですね。処でこんな話をして居ると「ダンサー・イン・ザ・ダーク」と言う映画を思い出しますね。人生はお金ですね。映画まだ未見な人は見て下さい。しかしあなたの心が不快になるのは責任を持てませんが。((((;゚Д゚))))))) 主演は「ビョーク」です。ラース・ファン・トリアー監督作品です。この監督の映画では「エレメント・オブ・クライム」と言う映画が好きですね。近未来のフィルム・ノワールです。

 

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母は少し変わって居たと思う。それは幼少期に莫大な財産を持つ地主で医者の家に生まれ、お父さんが死ぬまで何不自由無い生活を送って居たからだ。母の父、つまり私の祖父は東大出の医者でドイツに留学した経歴を持って居た。戦前、家には往診用の自家用車があり。お抱え運転手が居て、政界の要人たちとも親交があった。母に言わせると小学校3年までお金を知らなかったと言う。なぜならデパートでも街の商店でも全ての人が母の家を知って降り、お金は後から請求されたらしい。町に水道を引いたのも祖父だった。知事選にも立候補した。それが戦後、祖父は直腸癌に掛かりあっけなく亡くなって仕舞った。さあ、それからが修羅場だった。祖父の財産を狙った親戚縁者が毎日のように自宅に押し掛けて、ついには祖母まで若くして白血病になり死んで仕舞った。後には3人の姉妹が残された。其の儘だったら莫大な財産と土地があった訳だが。なんと戦後GHQによる農地改革が始まった。

改革の目的は、農地を所有しながら自らは耕作をしない地主と、土地を借りる代わりに農作物の大半を地主に納める小作農との格差を縮める事だった。 農地改革に関する法律は、農地を耕作農民に解放する立場から、一世帯が所有できる農地を家族が自ら耕作できる面積に制限する事だ。特に所有地に住んで居ない不在地主からは国がその所有地全部を、北海道以外の地域に住む在村地主からは1ヘクタール(2.5エーカー)、北海道の在村地主からは4ヘクタール(10エーカー)を超える分を強制的に買収して、小作人に売り渡した。そして祖母が残して居た遺言状は全て親戚や養子にして居た兄貴に寄って奪われ、財産は全て奪われて仕舞った。慌てた母は役所に掛け合ったが、言われた事は「あんた、女の子だから誰か養子の婿でも貰えば、財産は自分の分は国に召し上げられずに済むよ。結婚でもしたらどうだい?えっ?」と15歳の身の上で言われたそうだ。私が子供の頃に母は良く私を連れて知り合いの、茅ヶ崎の大学教授の家に遊びに連れて行ったが。度々、教授から「あれだけあった家の財産はどうなって仕舞ったのかね」と言われて居たのを思い出す。

母は幼い姉妹を遠縁の親戚に預けて、一人でその大学教授を頼って上京した。そして ‎三省堂書店などやらデパートの店員を転々とし4畳半の下宿で暮らして居たそうだ。稼いだお金は、高校受験を控えた妹たちに送って居たと言う。預けられた姉妹たちは冷遇されて居たそうだ。そして母の元に一番上の妹から、高校の受験料がないから送ってくれと手紙が来て、母はお金がないので父親の形見だった。懐中時計を質屋に入れてお金を作って送ったらしい。叔母たちは成人し。一人は貧しいながらも娘を短大まで出して、もう一人の叔母はイギリス、アメリカで娘を生活させたと言う。やはり血筋でしょう。母は姉を大学まで行かせた。弟は小学校から私立に行かせ大学は医大、その後、弟は二つの大学院を自力で医者として働きながら出た。私は一応は大学に行ったが。宗教哲学を専攻した姉と医者の弟に比べれば劣とる。一応、大学では商学部で第2外国語はインドネシア語を学んだが。まあ、殆ど忘れて居る。大学では成績は取って居たが。途中で病気になり。又、好きだった音楽活動も辞める羽目になった。父は根っからの商人で、会社を実の兄貴と起こし、私は病気だったが、会社に入れた。会社と言っても小さな会社だけども。ただ許せないと思ったのは、弟が医大の受験勉強をして居るのに。「お前は高卒でいい。商売を継いでくれ」と、毎日のように説得した事だ。その為医大に入ってから弟は家出をした。

父は晩年に成ってテレビと競馬とパチンコが趣味で、私がビデオデッキを2台持って居て、そのうち1ヶ月前に購入した新品の方を父が良く見ている時代劇を録画して楽しむように渡したら、「お前、このビデオ・デッキは幾らに値切って買ったんだ!」と言うので「それは、ほぼ新品だよ」と言っても「新品なら箱を見せろ!!」と言うのです。私は「そのビデオデッキは安くは買ったけど新品だし10数万はして居るものだよ」と言ったが。あのバカ親父は「嘘を付け中古だろう、幾らで値切って買ったんだ!!」と言うのだ。私は父を蔑みながら、息子の親切心を仇で返す父が許せなかった。母が父と知り合ったのは、母が神保町の三省堂の書店員として働いて居た頃だと言う。父はまだ大学生だったそうだ。いつも本を買いに来るが。その本の下に「自分と付き合ってくれ」と書いた手紙を握って居たそうだ。初めは、そんな父を訝しがって居た母は、職場の主任に言って裏口から帰って居たそうだが。父は毎日来たそうだ、母はその熱意に負けたらしい。戦後間も無く両親はリアカーに母の部屋の荷物を乗せて、4畳半の下宿から父の実家へと移って住む様に成ったらしい、結婚式は兄弟と親戚だけで自宅で挙げたと言う。戦後、間も無くは結構そう言った結婚形態は至る所にあった。

 

母は、音楽には理解があって75歳を裕に超えて居るのに、Led Zeppelinが演奏するBluesの「Since  I've been loving you 」が好きで、何時も聴かせてくれと部屋に入って来ては、ライブ映像を見ながら、「いい曲だわね〜」と聴いて居ました。ロバートプラントの歌声が好きだった見たいだ。ジミー・ペイジのギターのソロも素敵だと言って居た。

 

 

Since I've Been Loving You - Jimmy Page & Robert Plant

 

 

歌詞:日本語訳。

【Since I've been loving you】

Working from seven to eleven every night
毎日朝から晩まで働いて
It really makes life a drag
人生は退屈なものに変わった
I don't think that's right
こんなはずじゃなかったのに
I've really, really been the best of fools
おれはとんだ道化者になったもんだ。
I did what I could'
俺は俺の出来る事をして来たんだ。
Cause I love you, baby
何故ってお前を愛してるからだよ
How I love you, darling
How I love you, baby
How I love you, girl, little girl
俺がどんなにお前を愛して居るか
But baby, since I've been loving you
でもお前を愛し始めて
I'm about to lose my worried mind
Oh, yeah
不満も不安も麻痺しちまったよ

Everybody trying to tell me
皆しきりに俺を諭そうとするんだ。
That you didn't mean me no good
それはお前の為にならないってさ
I've been trying
俺だって分かってるさ
LORD,let me tell you
Let me tell you
なあ、聞いてくれよ
I really did the best I could
俺はすべき事は全部して来たんだ
I've been working from seven to eleven every night
毎日朝から晩まで働いて、
I said It kinda makes my life a drag
そのせいで俺は不幸になるのか
Lord, that ain't right
ああ、そんなのってないよ
Since I've been loving you
お前を愛し続けて
I'm about to lose my worried mind
俺の人生は変わっちまった


Said I've been crying, my tears they fell like rain
こぼれ落ちる涙が雨のように激しく地面を打つのに、
Don't you hear
聞こえないのか?
Don't you hear them falling
お前には聞こえないのか?
Don't you hear
Don't you hear them falling
この涙の音が聞こえないのか?

Do you remember mama,
なあ覚えてるだろう?
When I knocked upon your door?
俺がお前の家を訪ねた時のこと
I said you had the nerve to tell me
You didn't want me no more, yeah
もう俺を愛して居ないのか、俺はお前にそう聞いた
I open my front door
Hear my back door slam
でも勝手口の閉まる音を聞いて悟ったさ
You must have one of them
New fangled back door man
お前には誰か居るんだろう、裏口から情けなく逃げ出す新しい男がな

I've been working from seven, seven, seven
To eleven every night
毎日朝から晩まで働いて来た
It kinda makes my life a drag
それなのに幸せにはなれなかった
Baby, since I've been loving you
ベイビー、君を愛したせいで
I'm about to lose, I'm about lose to my worried mind
俺はこの泥沼でもがく事さえ辞めてしまったんだ
 

それから間も無くして父は亡くなり。母はアルツハイマー型の認知症に成って仕舞った。私はほぼ6年間認知症の母の面倒を見た。其の間。姉さんの子供。姪っ子が大学在学中からシンガーソング・ライターとしてCDを出し。その後、IT企業からヤフーに引き抜かれた東大を出た男性と結婚した。そして7年前に弟が48歳の若さで亡くなって仕舞った。

しかし母の思い出と言うと余り良い話ばかりでもなく。例えば私が二十歳に成った時にトレンチコートを買いに行くと言ったら、何故か猛烈に怒り。デパートに行って小田急で初めてダーバンのトレンチコートを買ったら、「お前は、あんなものを買ってどうするんだ。店員に騙されて居るんだ!!」と言うので、喧嘩に成り、デパートの下の道が見渡せる3階にある喫茶店に行き、私が「下見て見ろ!皆んな何着てるんだ!」と怒ったら「皆んなトレンチコートを着て居る・・・」と要約、言わなく成った。結局、時代が1980年代に成り1960年代後半からの1970年代に掛けてのフーテン族。ヒッピー・ムーブメントの煽りを受けて、また当時流行っていたマキシ・コートに対する嫌悪感が根強くあったのだろう。私の家は親父の稼ぎだけでは苦しくて、母が自宅の部屋を3部屋、下宿にして大学生を食事付きで置いて居た。私は小学生の頃に大学生のお兄ちゃんたちのラジカセから流れてくるロックを聴いて育った。だから洋楽はすんなり聴けた。ビートルズ。ローリング・ストーンズを始め。ピンク・フロイド。レッド・ツェッペリン。ジミ・ヘンドリックス。ブラック・サバス。ジャニス・ジョプリン等、色々、ロックを聴かせて貰った。。

中学頃に成るとステレオを買って貰えないので、秋葉原まで行って1,600円のスピーカーを買って来て、ベニヤ板でスピーカーボックスを作り、スピーカをはめ込んで、自作でスピーカーボックスを作り。それにラジカセを繋げて聴いて居た。高校に成ると要約バイトで貯めた金でステレオを買ったが、残念ながら近所の同級生たちはロックを余り聴いてなくて話が合わなく、まあ、小学生の頃から話は合わなかったのだけども。。。そして今だ。色々あった。映画でも寺山修司のATG映画だとか見て居ると、同級生は「フーテンの寅」を見て居ると言った具合だった。今は母は施設に居る。姉さん達が会わせません。此処8年間連絡が取れません。まあ、良いのだ。母の面倒は私は見て上げた自負があるから。しかし寂しいですね、母は生きて居るのか?生きて居たとしても、もう93歳に成るはずだ???。長々と此処まで読んでくれた方、有難う御座いました。この話は此処までにして置きます。

 

【かあさんへ】 島津亜矢/吉 幾三

 

 

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自撮りです。最近調子が悪いのでしかめっ面で撮れて居ます。( ´Д`)y━・~~

 

 

カセットへの録音はしっかり出来て居る。

 

漫画本は余り読めて居ないのです。読んでいる暇が無い。毎日寝てしまって居ますからねぇ.....。

 

 

 

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〜〜懐かし映画館〜〜

 「天使のたまご」1985年 徳間書店・鈴木敏夫プロデュース作品。押井守監督作品.....。

 

アート・アニメです。
旧約聖書をモチーフに天野喜孝のヴィジュアルで構築した、頽廃した幻想世界での映像作品。

ストーリーと呼べるストーリーは無く、禅問答に似たエッセンスが提示され、終わる。71分もの時間を使って。禅問答のような側面があるので、観る人の感性によっては非常にフェイバリットな仮説に辿り着くのだろう。その解釈は人によって異なるし、主観的には正しい解釈でもある。本当の答えは当時の押井守の脳内にしかなく、主観的解釈も仮説に過ぎないと割り切って居るのであれば、本作を解釈する事は楽しい知的ゲームであるとさえ言える。

しかし実際の処、中身は難解だ。卵を抱える少女は不思議な存在であり、登場する青年はキリストの投影に見える。起承転結は無い。この作品を高く評価して居る人は、この作品自体がインテリジェンスに満ち溢れて居る訳である。

一方で映像的にはイマジネーション溢れる魅力が散見される。まぁ71分もあるのだから映像的な魅力も皆無では話に成らないが、例えば宗教的な北欧の様な感じの映像がちらほらと見受けられる。参加した作画スタッフは実力派ベテラン・アニメーターの名前ばかりで、天野喜孝のイラストタッチの絵を雰囲気を崩さず上手く動かして居る。

しかし総じて…よく言えば「人を選ぶ作品」、悪く言えば「監督の自己満足を71分見せ付けられる苦行」と言ったアニメだが。アート作品と見られる。アートっぽいアニメ作品は「ロボット・カーニバル」「迷宮物語」と言ったものや、海外のアニメーターによる短編作品があるし、主だったストーリーの無い長編映画はリュック・ベッソンの「アトランティス」などがある。しかし本作は難解だ。「アトランティス」のような構成の起伏も無い。本当にただ1時間以上も殆ど起伏の無い架空世界を見せ続けられる作品なのだ。


しかし「悪い部分」と言うのは少ない。作画は綺麗だし、映像は時々イマジネーションに溢れた魅力的なものがあるし、例えるなら、浜辺など自然豊かな場所で風景をのんびり眺める感覚に似ている。自然豊かな風景の代わりに、ジョルジョ・デ・キリコの絵画をダークファンタジーにしたかの様な映像が流れ続ける。相変わらずの押井節でキリコというよりダリの世界だが。

しかし「寓話の世界の景色を眺めながら無為に時間を過ごしたい」のであれば本作は丁度良いのかも知れないし、時間に余裕があるのならば、抽象的な禅問答に思考を集中させるのも悪くないだろう。

 

アニメ界の闇に葬られた超難解カルト作品が鬱くしすぎる!押井守『天使のたまご』【異端の創世記】

天使のたまご

 

 

まあ、押井守の完全な趣味企画だった訳だけど、正直早すぎる。この発想は…。ましてこれが出た当時。日本のアニメはキャラ萌えやロボ・アニメで賑わって居た訳で、そんな中でこんなアート・アニメ見せられても失敗するだけだった。実際これ以降、パトレイバーの仕事来るまで干される訳だけど、ただじゃあ無意味なアニメだったかと言うとそう言う訳では無い。

少なくとも「キャラとストーリーに依存せず、どこまで魅せることが出来るか?」という点においては成功して居る。天野さんの作画や絵は最高レベルだし、全体として退廃的な雰囲気も上手に表現してる。何よりも照明の明暗が、これまでになく明瞭に出て居て、凄く印象に残る映像になって居る。何だろう、原作物じゃないからこそ、普段は気づかない様な処に気づけると言うか、純粋に映像に集中出来るし良い感じに酔える....。

 

「テーマは無いアニメーションで、ストーリーやキャラクターに依存せずに、どこまで世界観を表現出来るのか。それをやって見たかった。良く考えると筋は通って居ないけど、妙な説得力と言うか圧倒されると言うか。そう言うものを形にしたかった。たった一人の妄想だけなんですよ。主題やテーマから離れても映画は成立するのではないか、アニメにはその力があるのではないか、と...。」

                                                                                                by押井守

 

この言葉の通り。

しかし私は圧倒された。身体が震えた。それはどこかのおとぎ話のような幻想的な世界で、ありえない、妙な納得感がある。そう言うものなのだと納得して仕舞う。その意味では彼の表したかった映画は100%映像化されたと言っていい。

しかし、それはあまりにも個人的で、幻惑的で暴力的な作品であった。

 

ノアの箱舟や生命の樹等が出て来た為に、何かしらの宗教的もしくは、生命、進化に関するメタファーを訴え掛けて居る様にも思いましたが、明確なテーマの不在な事で。哲学的に分析または解釈学的に分析されうる物であろうと思います。

それゆえに、ふに落ちない、難解、理解不能な作品になって仕舞ったのでしょう。

やはり人間はその映像化されたものに何かしらの目的や意図を見出し、探って仕舞うものです。しかし、それらが存在しないこのアニメーションは、アニメーションや美術を堪能するための作品でもあるのです、そしてだからこそ哲学的な問いを投げかけて来ます。テクストの読みでいいのです。心が荒れた時などに見るのが良いでしょう。

 

本人、著名アニメクリエイターの評価

一方で押井はこの作品を作った事により、「訳の解らない物を作る監督」と言うレッテルを貼られ、『機動警察パトレイバー』の企画が来るまでその後の仕事の依頼がさっぱり無くなって仕舞ったと言う。

ちなみに監督本人も通して見ると疲れるらしく、TVプロデューサーの堀越徹は一回目に寝て仕舞い、読売テレビも訳の解らない侭、テレビで放送したと言う。

宮崎駿は本作に対し「努力は評価するが、他人には通じない」と述べており、さらに宮崎によると、直接押井に対して「帰りの事なんて何も考えてない」「あんなものよく作れた」「頭がおかしい」と言ったと言う。

本作を観た押井の母親からも、「もう観客が来なくなるのではないか」と、今後を心配されて居る。

この作品自身はビデオソフトが後に廃盤になり、DVDなどで再発されるまでの間、作品の入手手段が完全になくなる不遇の時代を経験して居る。製作中、監督料は要らないから印税が欲しいと頼んだが、印税は殆んど入らなかったので貧乏生活を送った。

 

しかし、クオリティーと言う点に関して言えば、もの凄いアニメだと言う事は間違いありません。

確かこの頃。私はハイデッガー辺りを良く読んで居たのだが、全体的にはキルケゴールとかセールとかショーペン・ハウエルとかと言った系統の哲学に心酔して居る時期だった。この事から『天使のたまご』は非常に座り心地の良い作品だった。また一方、時代は「ニュー・アカデミズム」全盛の頃で、右も左も「記号論」とか「ポスト構造主義」ばかりであった。私はそんな時にこの作品を見た。そしてこれはM・フーコーだなと思った。『言葉と物』などを読んで居た目には、この『天使のたまご』の中にフーコーの「考古学」の雰囲気が非常に強く感じられたのだ。方舟の回廊は知の考古学に説かれるエピステーメーの移りゆきを思わせ、ラストシーンは砂浜の相貌のごとく消え去る「人間」というフーコーの不気味な予言を感じさせた。

『天使のたまご』を、フーコーの言う処の16世紀的エピステーメーである「類似」の作品ではないかと考えた。いま観て見てもそう言った印象を持つ。フーコーの言うエピステーメーの変転を見出せるのだ。この作品は当時そう言う風に思って見て居たのです....。

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〜ラカンへの誘い〜「簡単な哲学と心理学」

「私」が「私」でなくなるとき――ラカンと哲学


ドキュメンタリー・フィルムを観て、そこに証言されている「現実」に圧倒されて仕舞うと言う経験は、誰の身にも覚えがあるものだろう。私ではない誰かが生きた「現実」のなかに自分の一部を連れ去られた様な、どこか危ういあの感覚には、たんに「考えさせられた」と言う事には尽きない何かがある。それは思考や認識よりも、むしろ言葉になる以前の身体感覚やざわざわとした感情の蠢きのほうに近いと言えるかも知れない。
では、思考すると言う事がこうした曖昧な感覚やと危うさときっぱり切り離されてあるのかといえば、決してそうではない。むしろ、時として日常の平穏の外に私たちを連れ出して仕舞う可能性にこそ、じつは思考の核心があるのではないだろうか。そもそも、日々をのんべんだらりとやり過ごして居るだけの人が、何かを切実に考える事など果たして出来るだろうか。

この事を良く教えてくれるのは、17世紀の哲学者デカルトである。デカルトにとって、哲学的思考とは思考する当人の存在そのものを巻き込んでなされる全人格的な実践であり、行為にほかならなかった。1641年にパリで出版された彼の『省察』は、六夜に及ぶこの実践のドキュメントという形式で編み上げられて居る。

この書物の主人公にあたる省察者の「私」が、およそ自明に思われていたあらゆる事柄を問いに付すことで「コギトcogito」(「思考する」という意味のラテン語)を打ち立てたのち、神と精神という主題をめぐって思索を繰り広げる。あとであらためて述べるが、デカルトは思考の本質を、なによりも物事を「疑う」という実践に見いだしている。「私」が知って居る事や「私」が見て居るものすべてが問いに付され、不確かなものとみなされてもなお、思考する「私」、今まさにあれやこれやを疑って居るこの「私」だけは確かなものである。少なくとも、考える=疑うという行為の最中だけは、「私」は確かに存在する。この様にして確立される主体の存在根拠の事を、デカルトは「コギト」と呼んだのだった。
 

この記録のなかでまず着目したいのは、主人公の「私」自身が変化してゆくその様である。

先取り的に結論めいた言い方をするならば、それに身を投じる者を変化させて仕舞う様な行為としての思考――それこそが哲学である。だとすれば、デカルトがこのドキュメントと言う形式に託した企ては、読者自身がこの行為に踏み出す事、つまり『省察』の主人公さながらに変化してゆく事に向けられて居るはずだ。

***

フランスの精神分析家ジャック・ラカン(1901‐1981年)は、まさにこの懐疑のうちに、臨床の本質を考えるための手がかりを見て取って居た。つまりラカンは、文字通り「度を越した」デカルトの懐疑(=「誇張的懐疑」)を、きわめて真剣に受け取って居たのである。ラカンにとって重要だったのは、ある種の主体はデカルトと同じ懐疑を生きざるを得ない、と言う事実だった。「ある種の主体」と言うのは、精神分析の「主体」、すなわち自身の症状を持て余し、その根本原因をみずからの無意識のうちに探るべく、分析家のオフィスを訪ねて来る者のことだ。分析において「患者」のポジションに身を置く者の事をラカンは「分析主体(analysant)」と呼び、その主体的かつ行為遂行的な本性を強調した。それは、「治療者」としての分析家ではなく、彼のもとで分析を受ける者自身の欲望こそが、精神分析の原動力となるからである。

実際、無意識――「私」の在り方を決定的に方向づけているにもかかわらず、「私」自身にはどうやってもアクセスできない領域――というフロイトの仮説をひとたび受け入れたならば、おのずと自分に関するいっさいが疑わしくなって来る。自分は本当にこれを望んでいるのか。どこまでが自分自身の考えなのか。自分が現実だと思って居るものの多くは、都合よく改変されて出来た幻想かもしれない。無意識を認めると言う事は、要するに、「私」の一番重要な部分については、「私」自身には知ることもコントロールする事も出来ないのだと認める事である。精神分析とは、この認識を出発点として、主体がみずからを問い直し、変化してゆく実践に他ならない。

ラカンが分析主体とコギトを同一視するテーゼを示したのは1965年の事だが、すでに1946年の講演「心的因果性について」において、彼はデカルトを「乗り越え不可能」な思想家とみなす発言を残して居る。ちなみに、「象徴界(le symbolique)」の理論(これはラカンの仕事全体を代表する成果のひとつだ)がおおむね完成するのが1958年前後、ラカンが国際精神分析協会から教育分析家(分析家の再生産に携わる分析家)の資格をはく奪されて新たに「フランス精神分析学派(École française de psychanalyse)」を立ち上げるのが1964年、そしてその難解さで悪名高い主著『エクリ』の出版が1966年だから、件の46年の講演原稿はラカンのキャリアの初期に位置づけられるべきテクストである。要するに、ラカンの分析家としての歩みの少なくとも一部は、はじめから、彼のデカルトへの強いこだわりを抜きにしては考えられないのだ。

この事を強調するのは、精神分析家が哲学について語ること、哲学を参照しながら精神分析に固有の主題(無意識、欲望、症状、転移、抵抗といった)を論じる事が、決して自明でも普通でもないからである。これは、精神分析の創設者であるフロイトの著作を繙けばすぐあきらかになる。

無意識(心理の深層部)を対象とする厳密な科学として精神分析を確立する事を望んだフロイトは、哲学をひとつの「錯覚」とみなすことを躊躇わなかった。フロイトによれば、哲学は論理的に首尾一貫した世界観を構築する事に拘わるあまり、現実離れした思弁に終始して仕舞う。それに対して精神分析は、臨床実践と理論的な練り上げを両輪とする事で、現実の経験に裏打ちされた実証科学として自らを洗練させて行かなければならない、と言う訳である。今日でこそ、その「思想家」としての顔が広く知れ渡っているフロイトだが、彼自身の関心や考えに従うならば、分析家とは日々の臨床のかたわらで精神分析の事を、すなわち「患者」の抱える症状の意味やそれにアプローチする技法の事を考え、語る者であって、様々な哲学者の議論を頻繁に援用するラカンのスタイルは、この点であきらかに異端のそれなのである。

処で、哲学に対するフロイトの辛口意見は、哲学を専門としない人の多くが口にしそうなありきたりなものであるにせよ、やはり一片の真理を含んで居る。思うに、伝統的な哲学(日本の大学の哲学科で必修講義のタイトルになって居る類の哲学と言い換えても良い)がほとんど語って来なかった事柄、あるいは致命的に語り損なって来た事柄と言うものが幾つか存在する。とりわけ精神分析との関係で目につくのは、「性」という主題だ。よく知られて居る様に、フロイトは神経症者の症状の根に抑圧された(意識の外部に押し退けられ、抑え込まれた)性的経験の記憶があることを発見した。ここでフロイトの症例に立ち入る事はしないが、私たちの個人としての「存在の原因」について考えるうえでも、あるいは私たちの日常を考えるうえでも、性をめぐる問いを丸ごと放棄する事は不可能である。

「私」が存在すると言う事は「私」の生物学上の両親が少なくとも一度は性行為に至ったと言う事実と分かちがたく結びついて居る。しかも、自分の親が性的存在であると言う現実に対してひとが多かれ少なかれ抱くあの居心地悪さを思えば、この事実はたんなる生物学的所与に留まりはしない。むしろ、それを担なる生物学的所与として片づける事が出来ないという点に、私たちが我知らず性に与えている、心理的な意味や価値について考え直す手がかりがあるのではないだろうか。

あるいはまた、「私」が時としてコントロールが利かなくなる程に他人を愛したり憎んだりする事、それどころか、ある場合には愛しても憎んでも居ない相手に訳も解らずハマって仕舞う事、こうした欲望の日常に属する事柄は、やはり「私」が性的存在であると言う事実と無関係ではありえない。

勿論、これはいわゆる恋愛や家族に限った話ではない。例えば、仕事相手と割り切って付き合おうとしても、ある特徴を備えた同性に対しては殆ど条件反射的な苦手意識を抱いて仕舞う人や(それが何故なのかは本人にも説明出来ない)、何故か異性との友人関係を維持出来ない(と確信し切って居る)人はどこにでも居る。こうしたありふれた事態の前で少しでも立ち止まって見れば、およそ社会生活が営まれる至る所で、性をめぐる問いは生じうる。

ちょっと乱暴な言い方をするならば、多くの人にとって、存在の本質やら正しい認識の為の原理やらと言った事よりも、性や欲望の方がよほど切迫した根本問題なのである。だが、性については頑として一切を不問に付す事で成り立つ秩序と言うものが確かに存在する。もしかしたら、哲学も我知らずそのような秩序のなかで長く安住して来たのかも知れない。フロイトやニーチェ以前に、この根本問題を正面から論じた哲学者、それについて本質的な考えを少しでも示すことのできた哲学者が、果たしてどれほど居ただろうか....。

***

精神分析と哲学との間には、取り分けその「守備範囲」をめぐって、この様な深い溝がある。この前提に立ち返ってラカンの仕事を歴史的に位置づけるならば、その独創のひとつは、この溝を跨いで、精神分析の実践をめぐる問いを哲学のうちに、そして哲学者が提起した問いを精神分析のうちに再発見した事にあるといって良い。ラカンの「デカルトへの回帰」の意義は、まさにこの様な視座のもとで捉えられるべきである。

さて、上で述べた様に、ラカンは「心的因果性について」のなかで、デカルトの懐疑を臨床の問題として捉え様として居た。此処でラカンが注目を促して居るのは、第一省察(『省察』の初回にあたる)でデカルトが狂気に言及して居る点である。デカルトはまず、感覚から受け取られるもの、つまり目に見えるものや手で触れられるものすべてに疑いの目を向ける事から始める。此処には、「度を越した」懐疑を徹底的に遂行すると言う明確な態度決定がある。懐疑はデカルトが真理を問う為に選択したひとつの方法論(メソッド)であり、それゆえに「方法的懐疑」とも言い換えられる。問題は、自分の感覚を端から端まで真剣に疑いだせば、おのずと「私は私である」という認識そのものが成り立たなくなり、そこに狂気の可能性が開かれて仕舞う、と言う事だ。ラカンが『省察』から引用している箇所を見てみよう。

この両手やこの身体が私のものであると言う事、私はこれをどうして否定出来るだろうか。もしも私が自分を誰かしら気の触れた者に、つまり黒胆汁〔いわゆる四体液説において、狂気の要因と考えられていた体液の事〕から出て来る悪性の蒸気によって酷く攪乱され、極貧であるにも関わらず「自分は王である」とか、裸であるにも関わらず「紫衣をまとって居る」とか、「頭が粘土で出来て居る」とか、「全身が水瓶である」とか「ガラスで出来て居る」とか、そうした事を終始言い張る者に擬えるのでないとしたら? しかし、このような者たちは正気を失って居るのであって、もしも私が彼らの例に倣ったならば、私も劣らず気の狂った人と思われる事だろう。

誇張的懐疑は、まさに常軌を逸した方法であるがゆえに、狂人の振る舞いにかぎりなく近づいてゆく。いいかえれば、『省察』の主人公は、みずからの問いの途上で狂人の鏡像となる。ひるがえって、哲学を専門的に学ぶ人々のコミュニティから一歩外に出れば、いまだにデカルトは、「近代的・理性的な人間主体を中心に据える哲学者」の代表格として槍玉に上げられてばかりである。しかも、この手の教科書的な常套句で満足する人たちはそもそもデカルトの著作を読んだ事がないと言うのが相場であるからか、専門家たちはそれをわざわざ訂正して回る事もあまりない。

かくして、一般的には忘れ去られた感もある〈コギトに至る懐疑の動的プロセスのなかの狂気〉という仮説をめぐるこの一節は、その一方で、戦後フランス思想史の(ある意味では華々しい)ワンシーンの記憶とともに引き合いに出される事がしばしばある。デカルトの狂気への言及は、ミシェル・フーコーが『狂気の歴史』(1961年)のなかでそれを取り上げ、ジャック・デリダが「コギトと狂気の歴史」(1963年)でフーコーの読みに公然と異議を申し立てた事で、その重要性が再認識されたのである。最終的には、フーコーからデリダへの激烈な再批判を経て、この論争は彼らの関係をすっかり冷え込ませる事になって仕舞った。此処でごく大雑把に二人の立場を要約して置くと、フーコーがコギトを狂気の可能性を排除する事で成立するものとみなしたのに対して、デリダは狂気の可能性はむしろコギトの成立条件そのものをなして居ると考えた。すなわち、『省察』の主人公がコギトという存在根拠を手に入れるプロセスに於いて、狂気の可能性は排除されて居るのか。それとも反対に、狂気の可能性を引き受ける事こそがコギトを成立させるのか。この点をめぐって、フーコーとデリダの見解は割れたのである。

此処でこの論争に触れて居るのは、「思考(コギト)の根幹に内在する狂気」と言う見立てを打ち出す事でデカルトを「西洋的理性による狂気の社会的な囲い込み」と言う構図の外へ連れ出そうとするデリダの振る舞いが、コギトの重要性を力説するラカンのデカルトに対する評価を思い起こさせずには居ないからである。実際、1991年に開催された『狂気の歴史』の出版30周年を記念するシンポジウムでサンタンヌ病院の壇上に立ったデリダは、この事を自ら示唆して居る。此処でデリダは、彼に取っては苦い思い出に違いない亡きフーコーとの論争と、ラカンによる「デカルトへの回帰」との同時代性について語る事で、「フーコーにおけるフロイト」という自身の講演テーマにラカンへのささやかなオマージュを織り込んでいるのである。このオマージュのなかでデリダはラカンの「心的因果性について」にも言及して居るが、ラカンはそこでどう述べて居るだろうか。

狂気と言う現象にかんして、デカルトがそれを『省察』の中で深く考察する事はしなかったとは言え、真理を発見するべく出発するその最初の一歩から、忘れがたいほど無造作に、彼がこの現象と出会って居るという事実、これを示唆的なものと見なそう。

ラカンがこの講演で取り分け強調して居るのは、狂気の問いと真理の問いが切り離せないと言う事だ。逆に言えば、ラカンにとって、狂気の可能性を真剣に受け取るのを辞めると言う事は、そのまま、真理を問う事を放棄する事に等しい。したがって、デカルトの「誇張的懐疑」は狂気の可能性を経由すると言う事を真剣に受け取る点において、確かにデリダとラカンは同じ方向を向いて居たと言える。だとすればラカンは、デリダとフーコーの論争に20年近く先立って、真理を問う主体が必然的に経由する試練として狂気の可能性を位置づけると共に、コギトに、ひいては哲学的思考そのものに、この試練に身をさらす実践のひとつを見いだして居た事になる。哲学がそのような営みである限りにおいて、精神分析はそこから本質的な教えを引き出して来る事が出来るし、またそうしなければならない。ラカンが「精神分析とは何か」と言う自らの問いの道連れに哲学を選んだ背景には、この様な考えがあったのではないだろうか。

ラカンが語っている言葉は、精神分析家よりはむしろ哲学者のそれの様である。「今日では、古典哲学を「乗り越える」と言うのが流行だ」と時流に釘を刺したあとで、ラカンはこう述べて居る。

ソクラテスも、デカルトも、マルクスも、フロイトも、彼らがある対象のヴェールを取ると言う情熱をもって自身の探究を行ったそのかぎりで、「乗り越える」事など出来はしない。この対象とは、すなわち真理である。 「新○○論」、「ポスト○○主義」等々、これこそが時代の最先端であると謳うレッテルは、私たちの時代の「哲学」言説の中にもいやと言うほど溢れかえって居る。そう言う意味では、「乗り越え」の流行と言うのはじつは流行でさえなくて、むしろ言説が流通する場の常態だと言うべきである。こうした動向に抗う様にして、ラカンは「真理」という伝統的な(それゆえときには時代がかって見えさえする)キーワードを対置して居る。それだけではない。この「真理」への情熱こそが、哲学者たちの仕事を乗り越え不可能な、つまり絶えず参照し直されるべきものにして居るとラカンは言う。

『省察』の主人公の様に、あるいは自由連想を行う分析主体の様に、「私」がほかの誰にも肩代わり出来ない様な切迫した問いの渦中にある時、問題となって居るのは何よりも「私」自身の真理である。そこでは、主体が真理を問うと同時に、真理によって主体が問われると言う事が肝腎なのだ。自分がいまそうであるような自分であることは少しも当たり前ではない。ではどうして、「私」は現に此処に居る様な「私」になったのか。何かのきっかけで、あなたがやむにやまれずこのような疑問に突き当たったとき、この疑問を解く手がかりは、何よりもあなた自身の無意識の中にある。これがフロイトの実践の出発点にある発想であり、精神分析の根幹をなす考え方である。
 

ラカンが此処に付け加えたのは、無意識の問題とは同時に真理の問題でもあると言う事だ。言い換えれば、精神分析と言う営みにとっての無意識は、哲学――デカルトが『省察』で実演して見せた様な行為としての哲学――にとっての真理と等しい価値を、つまり問いのモーターとしての価値をもって居る。だからこそ、ラカンの考える精神分析は、哲学者たちとの対話のなかで練り上げられなければならなかった。そう思う......。

 

【VOICEROID】疾風怒濤精神分析入門(ジャック・ラカンの精神分析)増補改訂版【乱暴解説/講義】

 

 

今回は此処迄です。また昔のblog記事を上げても居ますが、、今回は此れで、また更新出来たら、宜しくお願いしますね。🙏、、

コメント一覧

kiyasume
リリンさん、コメント有難う御座います😊

母は音楽は好きだったんですよね、、、若い頃はよく勤め先
の近くの雑居ビルの、地下から聞こえて来た、ジャズバンドの
演奏を聴いて居たりしたそうです、、私が1970年代にラジカセで、
確かクニ・河内の「透明人間」やら、、ジョンレノンの「イマジン」やら
を聴いて居ると「その曲いいね」と、言って居ましたよ、、、

https://www.youtube.com/watch?v=vEefTr_xV9E

また来て下さいね。宜しく・・・・・・・。♪( ´▽`)
りりん sayusayu_008
お母様がLed Zeppelinが演奏する「Since I've been loving you 」がお好きだったとは
お母様の人生やkiyasumeさんの人生
このブログで読ませていただいて、いつも色々感じます。

お身体無理されませんように。
kiyasume
 suisenさん、コメント有難う御座います。。。

母は生まれはいいのですよね、、
ただ親に早く死に別れました。

母が15、6歳の頃にすでに亡くなって居るので、、
私は祖父の顔も祖母の顔も知りません、、、
ただ母が見せてくれた、セピア色の写真だけです。
見たのは・・・・・・・・・。

母は今年で93歳に成ります。姉が絶対に会わせませんから、、
もし、亡くなって居ても何も言っては来ないでしょうね、、
でもいいんですよ。私は此れでも母にはやれるだけの事は、
して上げましたから・・・・・・・・・・・・。

調子が悪いです。また5日か6日ぐらい更新が止まります
ので宜しくお願い致しますね。。それでは また・・・・。( ´ ▽ ` )
1948219suisen
kiyasumeさんに育ちの良さが感じられるのは、お母様の育ちのせいですね。

それにしても、お祖父様が東大の医学部を出られたお医者様でお金持ちだったのに、その後が悲惨すぎますね。

が、いったん落ちぶれても、昔よかった人はまた元に戻るということを聞いたことがあります。

今はそういう状況でも、きっとまたいつか良くなられると私は思います。

kiyasumeさんは良い方ですから、神様は悪いようにはなさらないと私は思います。

また体調が良くなられたら記事を書いてくださいね。
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