此れ聴いて見て下さい、アングラ・フォークシンガー。怨歌の世界、、「三上寛の世界」です、、
Kan Mikami 三上寛 The World of Kan Mikami 三上寛の世界 1971
此の映像をご覧下さい。初めの映像は本邦初公開です、、
Violet Evergarden Movie 2020 | Violet Finds Gilbert ((movie link in description))
Violet bertemu Gilbert | Violet Evergarden |
薬の効用で、眠くて仕方ないkiyasumeです。すぐにうたた寝をして仕舞います。。。。
「仏教の教え」
「世の中には醜さと言うものはない。世の中には正しさと言うものはない。世の中には素晴らしさと言うものもない。世の中には虚しさと言うものもない。そして苦しさと言うものもない。全てそれぞれ人が過去の経験と過去の経験によって強化されて来るものの網様体賦活系によって苦しき情報を集め、悲しき情報を集めそして自分で苦しんで居るものだ。」これはあるお坊さんの言葉ですが、よく人の魂はステージが決まって居て、上に上に上がる様になされて居ると言いますよね。人の位と言うものは金持ちだからいいと言うものではない。豪邸に住みランボルギーニに乗って居ても自分はダメだと嘆く人も居れば。私の様な6畳間に4,5畳間と2畳半のお勝手ひとつでも満足して居る人も居る。日頃の自分の生活は勿論自分が作り挙げたものだけども。
物事に感謝する人、例えば日々の食べ物に感謝する人。食事になるおかず例えば豚肉。魚。皆命を頂いて食して居ますよね。だからキリスト圏の特にアメリカなどでは謝肉祭と言うものがある。肉に感謝をして居る訳ですよね。自分の魂のステージを上げる為には人に対する感謝を持たないと行けない。例えば私が日頃気に食わないと言って居る。人をすぐ小馬鹿にした笑みやら「ハハハハハ」とか皮肉を言う人の魂が上昇する事はありません。一番魂の上がるステージを持って居る人とは。何かしても決して見返りを求めない人。愚痴を言わない人でしょうね。魂は上品(じょうぼん)、中品(ちゅうぼん)、下品(げぼん)と分かれて居るとよく言います。
上品とは理想的な人格、清き正しく慈悲に溢れて居て、人の為に涙する優しさ、そして強く厳しい処もある。そう言ういい処ばかりを集めた魂。中品とは悪くも無く良くも無く普通の状態の魂。下品とは悪い人の全てを取り揃えた。妬み嫉み僻み、悪い状態の魂を一手に引き受けて居る人の最低な魂。私はどうやらこの下品の魂を持った人を沢山見て来た様だ。「今、此処」と言う事があります。私たちは未来に生きて居る訳でもなく、過去に生きて居る訳でもなく。「今此処」でしか生きられない、何か自分でやれるとしたら「今此処」を無心に生きると言う事。世の中生きて居れば、どん底に落ちる事もあるし。又どん底まで落ちて落ちる処まで落ちたら、又浮かび上がって元の処に戻って来る。
世の中も人生もおよそ下がれば跳ね返るアップダウンと言う事を繰り返し平均値に収まって来る。自分の力とか自分の進化とかが問われるのはアップして居る時ではなくてダウンしてる時ですね。アップが良いダウンが悪いではない。この波をどうやって生きて行くのかが人生では無いかと思う。「今此処」で関われる事をするしか無い。より良き自分を見据えた時にそれが解らない事であるがこそ、「今此処」で関われる事をするしか無い。そして今掴んだ点と点と点が線になり、形になって行く事を信じて生きて行くしか無い。生きがいが見出せないと思う前に「今此処」で与えられて居る環境で、そのポジションで一生懸命に生きなければならない。そうする事で生きがいも出て来るのだと思います。そう思う、今日この頃です。。。。
私は大学に一応は行きました。しかし、私は、今、美術学校に行けば良かったかなと思っても居ます。此間、まあ、前にですが20歳の訪問看護師から、「何でkiyasumeさんは、経済学部などに行ったの?漫画が好きなら漫画学科でもなんでもあったじゃ無いのヨォ!!」と言われたが、彼女は1970年代当時を知らない。私の時代は私は商学部でしたが。経済を学ぶのが一番いいとされて居た。次に良いとされて居たのは、工学部だった。文学部やら美術系はとことんダメだと言われて居た。時代も流行り言葉こそ「ビューティフル」だったが。時代的に見れば「モーレツ」な世の中だった。私は最近になって高校の担任が「お前、東京電機大学なら推薦が取れるぞ!!」と言って居た事を思い出す。担任は言って居た「お前らなぁ〜〜。経済学部出たってなぁ、よほどに良い大学でなければ良い会社、企業には入れんぞ?それより手に職が付けられる電気大学なら推薦で入れるし。これからの時代には必要で引く手数多になるぞ!!」そう言っても誰も推薦すら貰う学生は居なかった。何故なら当時としては電気職人いわゆるブルーカラーと言う意味合いが強かったからだ。だから他の高校はどうだか知れないが、私の高校では誰も推薦が取れたのに、行く人間は居なかった。私は高校3年の時に美大に行こうとしたが、やはり封建的な思想の親は猛反対をした。「美大なんか出たって食えやしない.....。」今みたいに開けた世の中では無かった。だって1974年当時だ。偏見もあった。
人生=色々です。(古いかな) いい大学に入ってすべてがうまく行けば、高学歴ワーキング・プアなんて生まれません。 "意志ある処に道あり"ですよ。学歴は手段に過ぎません。就職ランキングで上位にある様な会社へ行きたいんであれば、その手段としていい大学へ行けばいい。でも、美容師を目指して居る人が大学へ行っても何の意味もありませんよね? 人間に取って一番大事なのは、どう生きたいか、どんな風になりたいか、ですよ。それが解って居るのなら逆算して目指して頑張ればいい。それを人は「意思」と呼びます。 世界は広いから、勿論、高学歴で無いとどうにもならない世界もあります。そして、それとまったく同じように、高学歴であってもどうにもならない世界もあります。 学歴が無いと役に立たないと言う人は、学歴が必要な世界に身を置いて居るからそう思って居るのであって、勿論まったく別の世界では何の役にも経ちません。料理人の世界では中卒で修行をして来た人の方が評価されるでしょう。 大事なのは、人では無く自分がどんな世界で生きて居たいのか、なのですよ。人間は自分で選んで生きる道を決めて行きます。高学歴と言うのは、あまたある選択肢の一つにすぎません。 自分でどんな道を選んでもいいと思います。そして、自分で選んだ道だから頑張れるのです。それがよく言う、「置かれた場所で咲きなさい。そこで精一杯の努力をすればいい。いつか必ず花は咲きます。」の意味なんだと思います。
欲を減らす。欲を捨てて行くと言う考えがありますが。でも実は欲を減らす捨てて行くばかりが、クローズアップされて居て欲を育てて行くと言う欲もあります。それは、「渇愛。私欲。」と言う2つの欲です。渇愛とは、十二因縁の一つで、対象のものごとを貪ったり、執着することを指す。仏教においては中核的概念のひとつであり、身体・精神的な「渇き、欲望、渇望、貪欲」を指して居る。愛とも訳される。 欲愛 - 感官によって得られる刺激・快楽への渇愛。 有愛 - 存在することへの渇愛 。非有愛 - 存在しなくなることへの渇愛と言います。 「渇愛」とは詳しく言うと、ベーシック・ニーズと言う生きて行くのに大切な睡眠欲。性欲。食欲などの身体に取っての感覚器官が気持ちいいと思う欲なんです。そして欲には際限が無い。お金を持って居なくても今はそこそこ美味しいものは食べられるし。服もUNIQLO /GUなどでデザインがいい服が安く手に入る時代です。
「渇愛」、もっと欲しいと言う欲は捨てなければ行けない。もっと欲しいと言う物欲は人生を破滅させて仕舞うくらい大きな物欲です。生きて行く欲が生きて行く以上に広がって行っては仕方がありません。「私欲」と言うのは己が良いと思った事に邁進して行く欲の事です。高度な欲は身を滅ぼします。身分に合わない浪費をすれば借金まみれです。または、能力以上に働き過労死待ったなしかも知れません。ただ、オリンピック選手の様に、とことんまで極める事に生きがいを感じる人も居ますので、例外はあると思います。これが私欲です。個人の価値観や完成による処が大きい。
適度に欲を捨てる。例えばお金の掛かる事、コスパの悪い事を辞める。ある程度で満足できる体質になる。すっぱいぶどうだと言って自分を騙せる体質になる。騙して居る事すら気づかなくなる。そうすると、無理に働いてお金を稼ぐ必要もないので様々な苦労から開放される。その開放された時間に上手に余暇を楽しめれば幸せでしょう。まぁ引退した高齢者を見ているとしっかりと働くほうが幸せな人も居ますし。価値観はそれぞれですが、欲が少なければ酷使する必要がないですので、欲に振り回される時間が減りますので、一般には幸せだと思います。
全て欲を捨てる。食欲すらなくなれば死にますので、幸福も不幸も感じなくなると思います。
皆んな、他人が自分に対して、不利益を与えて苦しめると言うがそれは違う。自分が自分に不利益を与えて苦しめて居る。ブッタの言葉で「自己をよく守れ」と言う言葉がある。此れは自分をよく守れと言う事ですね。自分が自分に不利益を与えて苦しめる。此れは人間の一番愚かな処です。ブッタの言葉は自分から自分を守れと言う事だ。私は統合失調症だ。しかしある人から言われました。「此れは障害と思わずに多様性だと思え」と・・・・。「だから世間と適合すればいい」と言われた。なるほど私は今まで過去の自分に縛られて居た。しかし、例えば認知症の母は私の側にはもう居ない、姉さんは近寄っては来ない。弟はとうに死んで居ない。親父もだ。自己の本来持って居るものをダメとするものはもう居ない。これは自己を守ると言う事だと言う。「此の私のトラウマを嫌わずに生きる事。怒りと言う猛毒を持ち続けて、生きて行くと言う事は愚かな事だ」と言われた。いい事を言われたとは思う。然し私の仁は抑えようが無い。
ひとつ具体的な議論を追って見よう。トラウマは脳にもその痕跡を残す。典型的には、トラウマを負った人では扁桃体が過敏に反応する様になって居るのである。扁桃体と言えば、情動反応の処理に於いてとくに重要な役割を果たして居て、脳に於ける「煙探知機」に喩えられる部位だ。脳画像でも確認されて居る様に、そうした探知機が過敏に反応するからこそ、患者は必要以上に危険を感知し、ストレスホルモンがたびたび強く分泌されて仕舞うのである。
ただし、トラウマと関係して居る脳部位は扁桃体だけではない。扁桃体との関係でとりわけ重要なのは、前頭前皮質だ。前頭前皮質はいわゆる実行機能を担っており、とくに内側前頭前皮質は脳の「監視塔」に喩えられる。煙探知機として警報を鳴らすのが扁桃体の役割だとすれば、その警報が妥当なものかどうかを判断するのが内側前頭前皮質の役割である。かりに煙探知機が警報を発したとしても、監視塔がそれを誤報だと判断すれば、ストレス反応は、じきに抑制される。だから重要なのは、扁桃体と内側前頭前皮質の均衡関係なのである。その証拠に、そうした関係が崩れてしまうと、現にトラウマを負った人がそうであるように、すぐさま闘争/逃走モードの様な状態に陥って仕舞う事になる。と言う様に、トラウマ性ストレスにうまく対処するためには、まさに両者の均衡関係を維持・回復する事が肝要だと考えられる。そして、そうした均衡を維持・回復する手段には、トップダウンの調節方法とボトムアップの調節方法がある。トップダウンの調節は、監視塔の力を強化するものであり、具体的にはマインドフルネス瞑想やヨガなどがそれに当たる。他方、ボトムアップの調節は、自律神経系の再調整を促すものであり、具体的には呼吸や身体動作、接触などを介して行われると良いと言われて居る。要するに薬を飲もうと言う事ですね。
今日撮った写真。調子が悪いので髪もザンバラです。。。