本当はもっと後からblog記事を上げると言って居ましたが。私の息抜きがblogだから。この際思い切って、今日上げて置きます。何だか休む休む詐欺みたいですけど・・・・。それでは今回のblog記事です。(● ˃̶͈̀ロ˂̶͈́)੭ꠥ⁾⁾
今日は、病院に行った。精神科の主治医に痒み止めの薬と糖尿病の薬を外してくれと言ったら。どうやら、おへそが曲がった見たいだ。皮膚科の痒み止めは外したが。皮膚科に予約を入れてはくれないし。糖尿病の薬も外して。あとは内科に言えと言う。私は内科に掛かった時に先生に精神科の主治医からそう言われたと言ったら。「おかしいわねぇ、、カルテには何の連絡事項も書いて無いわよ?」と言う。だから、「尿を体外に出す糖尿病の薬は、泌尿器科から糖尿病亀頭包皮炎になるから辞めてくれと言われましたから、、」と言ったら。内科の女医さんは。「あの薬はね、糖まみれのドロドロの尿が出るからねぇ。でも体重も減るんだけどね。」と言うのですけど、私が「他の糖尿病の薬ありますよね?」と言ったら「勿論、色々な種類の薬あるから。試しにその中から出しておくけど。あなたの糖尿病は軽いから。運動と食事療法でどうにかなるはずだけどもね、、」と言うのですよ。
だから言いました。「毎日、20時間は寝て仕舞い。何も出来ないのですよ...。」と言ったら。「それ精神科の主治医に言ったの?」と聞くので「さっき言いました。そしたら睡眠薬が外れました....。」と言いました。それから、筋力、脂肪、体重測定の内科医の女医さんに見て貰った所。体重は80,7kgで、筋肉量は増えて体脂肪量は落ちて居ると。いい傾向ですねと言われた。最後に栄養指導の先生の所に行ったけど。まだ若い子なので上げようと「金曜ロードショー」で放映された「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」のアニメを録画したDVDを上げたら申し訳なさそうに。「貰えないんですよ。せっかく録画して持って来てくれたのは解りますけど・・・。」と言うので「そうですか決まりかな?」と言ったら。「・・・」だから押し付けても悪いから辞めといた。そして話して居て昨日の夜は松屋でカットステーキ定食を食べたと言ったら。「あれね、、1000キロカロリーはありますよ・・・。」と言われて矢張りなと思ったが。このぐらいの量食べないとやっては行けない。
でも、その子に言ったのだ。「僕はもう生活保護だから。今のうちにせめて美味しい物を食べて置きたいんですよ」と。そうしたら「お金あるうちに?」と言うので。「そうですね。」と言ったら黙って居た。そして「野菜は毎日食して下さいね」と言われた。野菜サラダでいいと言うのですよね。コンビニで売って居る。この子は可成り可愛い顔をして居る。まだ歳は26、7歳と言った処か。しかし、流石に精神病院に勤務して居るから。患者の扱い方には慣れて居る。私が上げようとしたDVDもやんわりと嫌味にならない言い方で断って来たし。利口ですね。こう言う女性が私は好きだ、確かに栄養の事では怒るけどね。それも患者の事を思えばこそだ。優しい女の子です。先ほど私のケア・マネージャーと話をしてせめて生活保護費が16万ならと言ったら。
その案も勝手はあったらしいのだが。その金額では働かずに国からお金を貰おうとする連中が居るのだそうだ。だから生活保護費は年々切り詰められて仕舞い。食えるか食えないかの瀬戸際なのだそうです。でも14万はキツイよね。どうして暮らして行こうかと、今から色々と考えては居ますが、正直この金額ではどうしようも無いですよ。食費が出ませんよね。きのう。auに電話かけて携帯電話の事を聞いたが。買うなら、お金がまだ有る今しかないですからね。でも私の持って居るiPhone8は、まだまだ現役で使えると言うし。auの本部では、iPhone7ですら、まだ使えると言って居る。7も8も保証期間切れなんですけどね、もう。だからスマホのiPhoneを買うなら。今はiPhone13が11万で買えるらしい。「購入しますか?」と促されたが。「まだ今はいいです」と言って電話を切った。生活保護でスマホは持てるんですよ。パソコンもね。ただどちらも1台限りですけどね。タブレット端末は余程の利用頻度が無い限り持て無い見たいですね。
今日の夕食はレバニラ炒め定食でした。。。
レバニラとはバカボンのパパがニラレバ炒めのことを反対に言ったのが始まりと言うのは有名なんだろうか。随分と前はレバーのイメージから食べず嫌いでしたが,一度食べたらその旨さに驚いたものです。あれ,結構食べたくなるんですね。この日もレバニラ気分で未食の気になって居た中華屋に。店頭メニューでレバニラを確認して入店。入店時にアルコール消毒を促されます。窓も開放されて居て店内換気は十分。先日通りかかった際にはかなり混んで居たと思いますが,丁度、お昼の第一陣が退店したあとの午後3時半だからなのか,空きテーブルが結構ありました。注文は勿論レバニラ定食を,780円。
奥の厨房から鍋をふるう音が聞こえて間もなく着膳です。レバニラ炒めはよくある、あの味でびっくりするほどおいしいと言う訳では無いですが,まぁ安定の味と言うか,ごはんのおかずにぴったりの味。味には文句は無いですけど,此方に限らず,レバニラ炒めを名乗って居ても殆どはレバーもやし炒めがふさわしい様に思います。元々がニラとレバーの炒め物でニラレバのはずで、もやしはプラスアルファな気がしますが、、どうなんでしょうか。それはともかく,ホールのコックのアルバイトの愛想が良くてなかなか良いお店と思います。。。( ◠‿◠ )
沢田研二 巴里にひとり
さっきいい話を聞いた。ある男の人が言って居たのだが。昔、夕食の約束を恋人の彼女として居たそうだ。しかし仕事が推してしまって、彼女との待ち合わせの喫茶店に行ったのは、もう夜9時だったそうだ。「怒って居るかなあ.....。」と思って居たら。彼女は自分を見るなり。「お仕事お疲れ様でした。遅くまで大変だったよね」と言って。そして昔の事で、もうその時間では食べ物屋がどこも閉まって居て開いて無くて、大衆食堂の定食屋しか空いて居なかったそうだが。彼女はそこにしようと言って、彼の手を引いて、定食屋に入って行き。とんかつ定食を食べたのだそうだ。そして食べながら「とんかつ定食美味しいね♪」と言うのだそうです。その時に彼は「自分の嫁はこの子しか居ない!!」と思って今はその子が奥さんだと言うのですよ。いい話ですねぇ、、羨ましいですよ。そんな子が居るなんて...。普通は怒りますよ。余程に出来た女の子だったのでしょう。
思えば私が電車の中で見た夫婦のカップル連れでも旦那が赤ん坊を抱いて、その側に奥さんが寄り添って幸せそうに旦那の顔を見て居た夫婦ずれだとか。もの凄く可愛い女の子にジッと下から見つめられて赤く成って居た大学生だとか。まあ、これは新宿歩いて居たら横を歩いて居たカップルの女の子の方が突然「あたちぃ〜〜。おちっこ支度なっちった」と言ったバカ女を連れてた男も居たが。私はこの時には男の顔をまじまじ見てしまった。私もなぁ、彼女とは別れなければならない理由があったし。それ以後、女の子からのモーションはそれ以後にも掛けられた事もあるが。電車に乗って居たら「次の駅で降りませんか」とか、バスでも「次の停車場で降りませんか」とか、、でもね、私は悲しいかな精神病なんですよ。私が女の人を幸せにする事は出来ないんです。寂しいですけどね。女の人は幸せになりに来るんですよ。それでも旦那が良くても姑が悪いとか色々あるけどね。
この話は何回も言って居る話ですが。昔、新宿の紀伊国屋書店の中の3階の入り口付近に ICBMと言う、中古ビデオとレーザーディスクを売って居た店があったのだけども。そこはレンタルビデオ屋でもあったので、私はよく、レンタルビデオを借りたり、レーザーディスクやら、中古ビデオを購入して居たのだけども。そこの店員の女の子がよくしてくれて居て。私が注文するレンタルビデオのタイトルを電話で言うと「お客様のご要望の商品は全て揃えます」と言って、仕入れ担当の女の子と2人で無いものは取り寄せてくれて、、そして、レーザーディスクもまだ1980年代は日本盤では黒澤明の「七人の侍」でさえ商品化されてなくて、だからアメリカではクライテリオンと言うメーカーからビデオが始め出て、その後、レーザーディスクが発売されて私は両方とも。その女の子に頼んで取り寄せて貰って購入したのですが。何だか、行く度にその子がよく椅子に座って居る様に成って、怒られて居て。
私はこの子。身体がどこか悪いんじゃないかなと心配に成ったのだけども。ある日、「惑星ソラリス」だったっけな、その映画のレーザーディスクを頼んで、しかし、何時まで経っても連絡が来なくて、電話を掛けても不在で居ないと言うので紀伊國屋まで行って見たら。他の女の子が「お客様、大変お待たせ致しました。今日の午前に入荷いたしました。」と言われたので。処でその何時も私を担当してくれて居た、女の子はどうしたのかな?と思い聞いて見たら。「ああ、彼女は辞めました。お客様の注文を最後まで担当しておりましたが・・・・。」と言うので「なんで辞めたんですか?」と言ったら言いにくそうに「実は彼女は病気になりまして、、」私は気になり「何の病気?」とつい聞いてしまったら「白血病です」と言うのです。私は「えっ!?」と言ったきり黙り込んでしまったら。その子は他の仕事をやり始めて。
私は黙って仕舞い。彼女はそんな病気の中、私のレーザーディスクの発注を無理をして相手のメーカーと確認の仕事をして・・・・・。そう思いながら売り場をぼおっと見て居たら男の店員さんが「ああ、〇〇さんなら、解りますよね?この「野獣暁に死す」と言う映画。仲代達矢と言うのですか.....。日本人の映画みたいだけども、これって邦画なんですか?」と聞いて来たので「いや違うよ。「マカロニ・ウエスタンだよ」と言ったら「ウエスタンって西部劇なんですか!!それを日本人が撮った映画なんですね?」と言うので。「違うよ。マカロニ・ウエスタンとはイタリア人が作った西部劇なんだよ。その映画に悪役で出たんだよ。いい映画だよ」と言ったら、「おいこれ、あの子が、柴崎さんがレンタル落ちだとか言って居たけど。レンタル期間過ぎたからセルの中古にしていいんだよね」と言って居るので。「それ柴崎さんが発注して居て担当したビデオですか?」と聞いたら「そうですよ、彼女はもう退社して居ませんけど」と言うので。
私はとっさに言いました「そのビデオ、セルで売るなら買うから、、私に買わしてくれる?」そう言ったら、「いいですよ。お客さんは常連さんだから、値段は今計算しますね。」と言って。1万4千8百円して居たそのビデオを2千8百円にしてくれた。そしてこう言った。「この作品は、なんか殆んど借りてが居なかったから、テープの状態は可也いいですよ。」と言って居たが。私はその中古の「野獣暁に死す」のビデオを購入して帰って来た。その女の子の想いでの為にだ。そして「惑星ソラリス」のレーザーディスクと一緒に、ベットの上に置いて黙って見つめて居た。そうしたら急に悲しく成って涙が溢れ落ちて来た。今とは違って医学も進歩して居ない当時は、白血病に罹ったら癌と同じで死ぬしかなかったからだ。「かわいそうに....。」と思った。そして何時も笑顔で私に接してくれて居た。彼女の誠実で可愛い顔が思い浮かんで来て、涙は暫く止まらなかった。「野獣暁に死す」のビデオはいまだに持って居る。此れだけはその子の想いでの品だと思って居ます.....。
私は昔から、涙脆いのですよ。高校の映画観賞会で映画館でクラスの連中とシルベスター・スタローンの初めて主演した感動的なボクシング映画「ロッキー」を見た時も、最後には泣いて居た。私は人が苦労して最後はダメでも一生懸命に努力する様な映画には弱い。そして悲しい映画やらアニメをよく観る。それとフィルム・ノワールの様な暗黒街で生きる孤独な男の話も好きだ。要するに私が侘しいんだろうと思う。特に私はフレンチ・ノワールの雄だったアラン・ドロンの作品は、ほぼ全作品見て居る。彼には、本当に驚かされる。彼はハンサムで美形だったけど。それだけだったら、恐らくあそこまでの俳優にはなれなかっただろう。若い頃に彼の奥さんの使用人だったマルコビッチという男が殺された。彼はゴミ捨て場に拳銃で射殺されて死んで捨てられて居たのだ。そしてその容疑者としてドロンが捕まった。彼は何度も自分は無罪だと説明したが警察はドロンが殺したと決めつけた。なにせ演じて来た役が役だ。暗黒街の殺し屋だからだ。その事を詳しく説明する。
事は1968年10月1日、ステェファン.マルコビッチ ( 31歳 ) と言うユーゴスラビア人の射殺死体が、ヴェルサイユ近くのエランクールの公衆ゴミ捨て場で念入りに縛った大きな麻袋の中から発見された事から始まる。彼 ( ステェファン ) は1964年から1968年まで、ドロンとナタリーの第1ボディーガード兼召使兼ドロンのスタンド・インで、68年1月までパリ8区メッシーヌ通りのドロン邸に2部屋をあてがわれ、月2千フランの小遣いをもらって居た。(此処で注意すべき点はステェファンがドロンとナタリーが結婚した年に召使になって居る事である。一説にはこの男はナタリーがドロンと結婚する前から彼女と愛人関係にあったと言われ、ナタリーをドロンに紹介したのも彼だと言う)彼は死体で発見される以前の9月22日から蒸発して居たらしい。何者かに消されたマルコビッチは生前、ユーゴに住む彼の兄 ( 海軍士官のアレクサンダー・マルコビッチ ) に次の内容の手紙 ( 9月17日付け ) を送って居る事が兄の証言で判明した。 「 もし自分の身に異変が起こったら、ドロンとナタリー、そしてドロンの親しい友人フランソワ・マルカントニーに事情を聞いてくれ 」。( マルカントニーは暗黒街の顔役で、マルセイユなどでは名の通ったヤクザだった。) この手紙は警察の手に入り、事件は当然、警察の注目を浴びる様になった。
処で、このマルコビッチ殺害事件に先立つ2年前の1966年1月31日 ( ドロンが 「 テキサス 」 の撮影中 )、ドロンの元ボディーガードだったユーゴ人、ミロス・ミロシェヴィッチがハリウッドで、俳優のミッキー・ルーニーの五番目の妻バーバラ ( 彼女はミロシェヴィッチの情婦だったと言う ) と共に変死して居る。当初この事件は情死事件として処理されたが。後の調査によって痴情問題とは関係なく麻薬密売の犠牲となり消された事が分かった。処が、ドロンは殺されたミロスは友人である故、彼の遺体をユーゴへ送還する費用 ( 100万フラン ) を支払った。ミロシェヴィッチの実妹ゾリカ ( 当時ローマでカバーガールをして居た ) は、兄は 「 マルコビッチに殺された 」 と主張した。マルコビッチは兄を殺して、ドロンの第1ボディーガードの地位に就こうとしたと言うのが彼女の説であるが、事実、マルコビッチは、この後、ドロンの第1ボディーガードの地位を獲得した。
さて、マルコビッチ事件に話を戻すが、警察の捜査が進むにつれて、マルコビッチという男がエトワールに近いポール・ヴァレリー街 ( パリ16区 ) にある高級売春宿 ( マダム・クロードの店、一説にはゲイバーとも言われる ) を経営し、そこでしばしば、政界の要人や芸能界の有名人を集めて、秘密の乱交パーティーを催し、その現場を写真に撮るなどして、それをネタ ( レラック警視率いる犯罪捜査課は、マルコビッチが生前大事に持ち歩いて居たと言われる一冊の住所録を入手した。その住所録には、フランスやユーゴの政界の要人や芸能界の有名人の名前が記入されて居た。) に客をゆすって居た事が判明した。処が顧客の中に元首相で次期大統領候補のポンピドー氏とその夫人の名前が浮かんで来た時、政界の圧力だろうが、捜査は一旦打ち切りのかたちとなった。
一方、事件直後の10月9日、サン・トロペで 「 太陽が知っている 」 のロケ中だったドロンは地元警察の刑事たちの尋問を受け、メッシーヌ街のドロン邸では家宅捜査が行われた。翌1969年1月16日、マルカントニーが殺人の共犯で逮捕され告訴された。 ( 69年12月3日に証拠不十分で保釈された。) 1月23日、ドロン夫妻とその他14名が重要参考人として召喚された。そのうち4人がドロンの仲間すなわち、マネージャーのボーム、運転手のマルセル・ガスパリー二、カメラマンのジャン・ピエール・ボノット、プロデューサーのラフィーニであった。ドロンは風邪で39度の高熱を訴えながらも召喚に応じ、35時間も拘置された。ナタリーはローマで ”姉妹” の撮影中であった為、召喚に応じなかった。 ( ドロンはその後3月12日にも召喚されて居る ) この事件を担当したルネ・パタール予審判事によれば、マルカントニーの逮捕とアラン・ドロン召喚の理由は、特捜班が調べた結果判明した次の三つの事実を明らかにするためであった。すなわち (1) マルコビッチが生前にベオグラードの兄に送った手紙の内容を明らかにする事。ドロンの付き人をしていたウロシュ・ミリチェヴィッチとリウボミール・ミロシェヴィッチの証言 ( マルコビッチが兄宛てに書いた9月22日の手紙の内容は、68年8月にドロンに解雇されたマルコビッチは復讐の為にドロンの秘蔵の武器のコレクションを盗みだし、それをカタに大金をせびり取る計画を企てたが、相棒のマルカントニーに裏切られて失敗した。) を再確認する事。
(2) ウロシュ.ミリチェヴィッチの証言によれば、ウロシュは、1968年9月22日 ( 日 ) の夕方、マルカントニーがマルコビッチとともに、ドロン邸を出て、一緒に車に乗る処を目撃して居ると言う。此れはマルコビッチが少なくとも生きて居た最後の日であり、その後、死体が発見される10月1日までのマルカントニーの足取りとアリバイの有無の確認。 (3) マルカントニーは9月25日、すなわちマルコビッチが蒸発した日から3日目に、南仏のツーロンへ旅立って居るが、その旅行の目的の確認。 訊問の結果、(1)の点につては、マルカントニーもドロンも全く心当たりが無い事を再度明言。 (2) の点に付いては、マルカントニーは、9月21日の夕方から23日までの足取りを明快に説明し、アリバイを成立させた。すなわち、マルカントニーは、21日、友人から車を借りて、週末をグザンヴィル ( パリ郊外 ) の別荘で過ごすために出発した。そして、23日までそこを動かなかった。その間の証人として、彼は、パンを買いに行った時のパン屋の主人と、ツーロン及びパリから受けた二本の長距離電話の相手の名前を挙げた。 ( しかし、この同時刻に、ミリチェヴィッチは、パリのメッシーヌ通り22番地で、マルカントニーがマルコビッチを連れて車に乗る姿を目撃したと言うのである。) (3) の点に付いては、マルカントニーは、ただ、バカンスの為だと言う以外には、南仏旅行の目的を明らかにしては居ない。しかるに、サン・トロペのドロンの別荘の番人を依頼された隣のホテルの主人の証言によれば、9月末 ( 何日かは不明 ) 、ちょうどマルカントニーが南仏に滞在している期間に、1人の男がドロンの別荘 「 ラ・カピラ 」 を訪ねて来た。
ALAIN DELON in D'URBAN/Part-1
しかも、その男は、確かに、マルカントニーと名のった。そして、その時ドロンが不在だと分かると、再びそそくさと帰っていった、と言う。この点に付いては、マルカントニーは否認した。そこで、この証言者であるホテルの主人を呼んで、ドロンの別荘を訪ねて来た男の顔の確認のために、写真を見せたところ、なんと、マルカントニーの写真ではなく、ウロシュ・ミリチェヴィッチの顔写真を指さしたのであった。この為、ミリチェヴィッチが、マルカントニーをおとしいれる為に偽装したのではないかとの疑いが濃厚になり、(1) 及び (2) の点に関するミリチェヴィッチの証言に付いても、偽証の可能性が考えられる。このミリチェヴィッチは68年10月25日、ベオグラードに帰ったきり、二度と召喚に応じて居ない。理由はパリに戻れば、 『 殺される 』 と言うのだった。そして、フランス・ソワール紙の特派員に、 「 ハリウッドでミロス・ミロシェヴィッチとバーバラ・ルーニーを殺したのも、フランスでマルコビッチを殺したのも、同一犯人だ。おれだって何時殺されるか分かったものじゃない。俺は色々な事を知りすぎて居るからな。マルコビッチだって、ハリウッドの殺害事件について知りすぎて居た為、消されたんだ。
マルコビッチはしゃべりすぎた。特に、ナタリー・ドロンを信頼しすぎて、彼女に全てを打ち明けて居た。 」 ルネ・パタール予審判事は、1969年2月初め現在、「 ミリシェヴィッチの証言の再確認が事件解決の大きな糸口になる。” 旨を発表して居る。1969年1月25日のフランス・ソワール紙の伝える処によれば、殺されたマルコビッチの父ヴォイテッチ・マルコビッチは次の様に語ったとい言う「 息子はナタリーにひと目惚れしてしまった。ただ彼女への一途な愛故に、悪党のドロンの手下になって甘んじて居たのだ..... 」 と。ドロン邸の同じ屋根の下で共同生活をして居たこの三人の奇妙な関係に付いては、様々な憶測が入り乱れて居る。パリ・プレス紙によれば、ドロンは嫉妬のあまり、一時は、ナタリーを車でひき殺そうと試みた事実さえあると報じて居る。そして更に奇妙な事は、ナタリーがマルコビッチに書いたと言われる24ページのラブレターが、重要証拠物件として特捜班の手に渡る寸前に、忽然としてマルコビッチの部屋から消えてしまったらしい。ドロンは彼女が信用出来なくなり離婚をして居る。
ALAIN DELON in D'URBAN/Part3
しかしこの話は作り話だ。確かにドロンはギャングやら殺し屋などの役を演じて居るから。暗黒街の人間の中には知り合いも居よう。例えば日本の山口組などが前に、お笑い芸人やらロック歌手を宴会に呼んで芝居やら演奏をさせたり。GACKT君はヤクザものの親分に呼ばれて酒を飲めと言われてテキーラを8本も飲んだそうです。口から溢れ出しそうに成っても我慢して居たそうです。そうしたら「お前は面白え男だなぁ〜〜!」と言われたので「何せガキなもので、これでご勘弁を...。」と言ったら一緒にその場に居たヨシキが「よく耐えたな、、」と言って居たそうですね。芸能界は厳しいし。暗黒街やらヤクザ物との関係も取り沙汰されて居る。GACKT君は怒らせたら怖い男だろう。何せテコンドーの黒帯だし。ケンカの腕っ節は物凄く強い。自分の友人たちをファミリーと呼び。ちょっとマフィア的な発想を持って居る。此間もシンガーポールで、皆んなと食事をして居たら。彼に喧嘩を売って来た白人の4人組の男が居たそうだ。彼は「何が気に食わないんだ?」と聞いたら「黄色人種のアジア人のくせしやがって。ランボルギーニに何か乗って来るんじゃねえよ!!」「何でだ?」「音がうるさいんだよ!!」「音がうるさいのは車屋に言え......。」そう言うと「てめえは喧嘩売って居るのか」と言うので。「そうか喧嘩か、ならば買おうか?」と言ったら「面白え!!」と言われたので仲間に「俺一人で喧嘩をするから」と言って。飲食店の経営者を呼び、「何か店に被害が出たら僕が全額弁償しまうから」と言ったら一緒に食事して居た友人たちがナイフを持ち。あるものはビール瓶を持ち。またはフォークを持ち。皆んなしてGACKTと共に一斉に立ち上がったら。その外人連れは、「やばい本気だ」と逃げて行ったそうです。
Gackt - Show 1-3 مترجم عربي
またこう言う話もあるNHKの番組でアフリカに取材で行って。猛者たちが戦う試合があってよせばいいのに。NHKの撮影隊のテレビ班のチーフ隊長が、「GACKTさんは試合やりませんかね?」と言って嗾けたら。「そうですか・・・。」と言って中に入って行き特殊部隊の戦闘員がニヤついて殴って来て、1発、GACKTの頬に当たったら。彼はその戦闘部員をあっと言う間にのしてしまったそうです。NHKのテレビ・クルーは撮影はして居たけど。あまりに凄惨な勝ち方なのでテレビでは放映出来ないと彼の凄さを知ったそうですよ。彼には新日本プロレスのもう引退したけど。獣神サンダー・ライガーと言う選手が居るけど。親しい中ですよ。GACKT君は「プロレスはスポーツですけど。僕の場合は喧嘩ですから、、」と言って居ましたね。でも彼は池袋に昔住んで居たらしくて、友達のミュージシャンのマンションのベランダでワインを飲みながら涼んで居たら。友人が「GACKT、そこに居たら危ないぞ」と言われて、「何故?」と聞いた途端に、隣のドアに拳銃の弾が撃ち込まれたそうで。「此処はやばい.....。」と思ったそうですよ。そして新宿でも3丁目の裏道を歩いて居て。「新宿は裏道でも人が歩いて居るんだな結構皆んな歩いて居るよなぁ」と思って居たら身体中血塗れな男が彼にぶつかりながら小走りに走って行ったら。青龍刀を持った中国人たちが「あいつをぶっ殺せ」と言いながら走って来たらしいです。
GACKTが4億円のフェラーリに落書き!?
それ以来。新宿も危ない処だと思ったそうですね。確か今は新宿はヤクザ勢力は中国人が勢力を伸ばして居る見たいですね。歌舞伎町なんざ、中国のチャイニーズ・マフィアに乗っとられて居るとか前に聞きました。何しろ前に日本のヤクザとチャイニーズマフィアとの話し合いがあったそうですが。今は警察による規制で、ヤクザと言えども拳銃はなかなか持てないそうですが。その話し合いの最中に中国人が「話は此処までだ!」と言ったらトカレフを持った10人の中国人に取り囲まれて2人のヤクザ者が撃ち殺されました。撃ち殺したのは中国人の不法残留者やら留学生だったそうです。チャイニーズ・マフィアは自分らが捕まる様なヘマはしない様ですね。捕まっても組の構成員ではないから。自分らは罪にはならない。日本のヤクザ組織は昔は日本を守って居たんですよ。例えば何故、イタリアのマフィアが日本に入り込めなかったのかと言うのは、日本にヤクザが居たからですよ。だから警察もヤクザは生かさず殺さずの態度を取って来た。しかし1990年代からチャイニーズ・マフィアの勢力が強まった見たいですね。以下に歌舞伎町におけるヤクザの組織勢力を書いて於きます。
わずか五百メートル四方の歌舞伎町には、アジア各国、南米のマフィア組織が集まり、蠢き、警察もうかつに介入出来ないほど恐ろしい黒社会が築き上げられて居る。此処では歌舞伎町の実態とその原因について考え、その後ではどのような組織が暗躍して居るか、中国人密入国者が増加している原因として中国の貧民層の実態を取り上げ、マフィアとヤクザの違いと関係、警察の対応などについて調べた。今回は、歌舞伎町の戦後から現在にいたるまでの様子と、不況下での歌舞伎町の姿について調べを進め、警察などの公共機関が今後とるべき対応について感想をのべた。
1、戦後→現在 黒社会の広がり
戦後の混乱が落ち着いてまもない歌舞伎町では、〇〇会の“シマ”と言われた様に、比較的縄張りがハッキリして居た。 だが、まもなく博徒系とテキヤ系の区別が薄まるなどして縄張り争いが激化。関西系組織の関東進出もあり、「今の歌舞伎町にはヤクザ事務所だけでも1000近くある」(鴻池氏)と言う無秩序状態になる。 この為、昔は通りやブロック単位だった“シマ”も次第に細分化され、ビルやテナント単位となった。
この街で台湾黒社会が暗躍を始めたのは89年半ばから。90年代に入ると、今度は東南アジアの中国系と大陸出身の中国マフィアが台頭。現在、街娼まで含めればコロンビア、ルーマニア、ナイジェリア…と国籍は全世界に及び、それぞれが複雑に絡み合う。
日本で最も早く海外勢力の侵食を受けた街だけに、外国人による犯罪は頻発し、日本各地で起きた外国人犯罪の実行犯のほとんどもその足跡を残す。警視庁もこの点に注目し、3年前に専従の特別捜査隊を発足させ、界隈の外国人マフィア狩りに着手して居るが、絡み合った人と人、民族と民族の糸を解きほぐす事は容易ではない。
中でも群を抜いて厄介なのが中国人犯罪だ。
コマ劇場の北側に広がる歌舞伎町2丁目。この一帯には中国クラブが集中。歌舞伎町のド真ん中にありながら、知られざる世界を構築して居る。
中国クラブの特徴は午後7時から午前零時までの早番、深夜1時から朝5時までの遅番がある事。店名は其の儘だが、経営者は別人だ。遅番だと中国人客は日本人客の半額の5,000円で飲み放題になる。このため、ボックス席は中国人にほぼ独占され、全国各地で多発しているピッキング、組織窃盗、押し込み強盗、高級車窃盗などにかかわる黒社会の中国人が数多くグラスを傾ける。
「店で中国人が話す事は、日本で儲けた金で中国で大きな家を建てる、ビルを建てる、食品会社を始める…。そんな夢ばかり。彼らは大金が入るなら、人殺しを頼まれてもやります」
ある店の遅番ホステスの話である。彼女が日本に来て購入した品で、正規に買ったものは下着ぐらい。高級腕時計、ネックレスなどの装飾品や衣服類、家電製品は盗品と知ったうえで中国人の男から市価の半値で手に入れたとの事だ。
北京、上海、福建…と出身地ごとに勢力が色分けされ、歌舞伎町は日本人には見えないほど深い部分で“ブラック・チャイナタウン”として成熟しつつある。黒社会の構成員は、密入国者だけに指紋登録がなく、警視庁必死の捜査もいわば実体のない“幽霊”を追って居るに等しいのだ。
また当初は、青龍刀で対立相手の首を落とすような凄惨な手口を毛嫌いし、距離を置いて居た日本の地元暴力団も最近、個人レベルで中国マフィアと密接に連携を開始。携帯電話の普及が組織のつながりを越えた個々の関係を生み出し、そこにさまざまな代紋の利害、思惑が絡みつく。
【東京/新宿 歌舞伎町】SHINJUKU Kabukicho night spot -just walking-
歌舞伎町は、裏側が混沌状態だけで無く、そこで商売をする経営者も海千山千のツワモノ揃いだ。
新宿区保健所が現場の歌舞伎町1、2丁目の飲食店について実態調査をしたところ、調査した約3,400店のうち、台帳と一致していて居たのは約2,300店だけ。約1,100店は廃業したり、店名や経営者が変わるなど、届け出の無い店 だった。
「雑居ビルのテナントは、また貸しや、そのまた貸しなどゴチャゴチャで、正式な貸主や借り主が分かりにくい。風営法違反など届け出が出来ない店も多い」(飲食店経営者)
さらに、高い家賃を払うため、1日のうちで昼間と深夜では、別の経営者が営業して居るケースさえ珍しくはない。裏も表も実態把握が難しいカオス状態である事が、“魔都”とも呼ばれるワケなのだろう。
享楽、退廃、野望、失意…人種のさまざまな感情が渦巻くカオスの街、新宿・歌舞伎町。もはや一般人の常識で、この街の出来事を読み解く事は難しい。
2、不況下の歌舞伎町
新宿・歌舞伎町は此処数年、表も裏も急速にボーダーレス化が進行中だ。この界隈に縄張りを持つヤクザ組織も同様で、ひしめき合う代紋数は12、根城にするヤクザは2,000人を超える。こうした闇組織は街の隅々に既得権を張り巡らして居る。
道端で韓国人青年が靴やバッグ類を売る露店を開いて居た。と、まもなくテキヤ系ヤクザがショバ(場所)代の徴収に現れた。
「兵役で格闘訓練を受けて居るから、喧嘩をやればヤクザなんて一発で倒せる。でもね、後で大勢で来て、店を壊されるから…」 結局、韓国人青年は月に3~5万円をヤクザに支払う事になった。
日本人経営の店舗でも同様だ。この“商取引”は「みかじめ料」と言われ、歌舞伎町ヤクザのシノギ(稼ぎ)の中心をなす。面積はわずか500メートル四方ながら、5,000軒以上の飲食店と風俗店がひしめき、モグリ営業も約200軒あるとされる。すべてのアガリを合計すれば、かなり大きなマーケットなのだ。
みかじめ料は「トラブルなどの面倒を見る」と言うケツ持ち(用心棒)の対価と言う性格がある。ビール1本で5万円も請求するボッタクリ店は、当然、客とのトラブルが絶えない。こうした店ほどコワモテの後ろ盾が必要になり、月に30万円を出して居る処もあると言う。
処で、歌舞伎町が他の歓楽街と異なるのは、一定の区域や通り、ビルに対し縄張りが明確になって居る訳では無い事だ。5階建てのビルに5軒の店があっても、それぞれケツ持ちの代紋が異なる事も珍しくは無い。
通常は早い者勝ちでケツモチが決まるため、新装開店を狙った代紋の“商取引”は、情報の早さが勝負を分ける。出向くのが1分でも遅れ、「うちは××組の○○さんにお付き合いさせて貰って居ます」と言われれば後の祭りなのだ。
「明星56ビル」の火災でも、この歌舞伎町の特殊事情が、放火を想定した捜査を難しくして居た。関係するヤクザの数が多ければ多いほど、調べるべきトラブルも多くなるのだ。
ただ、水面下で此れだけのヤクザがはびこって居ても、歌舞伎町の既存勢力は抗争で互いに首を締め合う事を嫌い、基本的には共存共栄路線。仮に、もめ事から殺害に至っても、裏で金銭で和解を図る傾向にある。殺された者の組内の地位、喧嘩の発端などで、一方が出す見舞金の額は変わるが、平組員で1,000~3,000万円で和解すると言われる。勿論、裏社会を混沌とさせる要因がない訳では無い。バブル期から進出を始めた山口組企業舎弟の存在だ。
「山口組側が事務所を構えても、金融、不動産業の看板で経済活動をするだけなら、口出しは出来ん」 と指定暴力団の某組長は語るが、最近は山口組系組員が店から、みかじめ料を集める動きがあるなど、既存勢力の米びつに手を突っ込む事態が起きて居る。
この不況下にあっても、人並みが途絶えない不夜城。こんな時だからこそ、ヤクザたちはシノギを求め歌舞伎町に群がる。
3、歌舞伎町は無政府状態
石原慎太郎が勝手ゲットーと呼んだのは、この歌舞伎町や新大久保付近を指しての事だと思う。それはこう言う事なのだろう。仮に表社会と裏社会の2つの社会がこの世に存在して居るとすれば、前者は表の取締まり、後者は裏の取締りをして居た、と言えたのでは無いか。その2つが暗黙の了解のもと協力する事があったからこそ、世界でも有数の安全都市として、一般市民はその平穏無事な毎日を享有して居た。
警察は24時間交代制ではあるものの、それはあくまでも労働基準法に基づく仕事でしかない。それに比べ暴力団、マフィア側は24時間、文字通り、体を張って頑張る自営業者なのである。結果、ある種の情報収集は警察の何倍も暴力団、マフィアの方が優れ、この裏社会から表社会への情報提供が事件の早期解決に寄与して居た、とは考えられないか。
言うまでも無い事だが、裏社会がその名の下に行なって来た無法行為を認めろと言うのではない。行為に照らし合わせてその行為者が法の下裁かれるのは当然の事である。それと同じように、表社会の警察の不法行為に対しても裁くのはまたフェアな関係であると思う。
警察と暴力団が持ちつ持たれつの関係である事は誰もが知って居る事実だ。両者の貸し借りはまた、日常茶飯事の事である。裏社会のみを厳しく取締まり、表社会の不正を放置した事が、今日の現況につながる。改めて述べる事では無いが、暴力行為、恐喝行為、ノミ行為、麻薬・覚せい剤売買行為などを見逃せと言って居るのでは絶対にない。当然、不正行為の当事者や組織に社会的制裁を加える事は当たり前の事だ。だがそれは具体的不正行為や暴力行為に対してペナルティーを科すものであって、防止措置としてあらかじめ暴力団新法の様な制裁を加えるのが妥当な事かどうか、と言う点が疑問なのである。最近はこの防止措置としての新法が増えて来て居ると思われる。確かに暴力団やマフィアは怖いし、悪い事も一杯して居る。だが、防止措置としての新法の乱造はそれ以上の社会的恐怖を我々に与える可能性がある。
4K【新宿/Shinjuku】新宿駅東口アルタ前から新宿三丁目へ散歩、新宿歌舞伎町夜景ネオン街も / Walk around Shinjuku east night view Tokyo Japan
どうでしたか、新宿が安全な街だと思いますか。戦後間も無く、 飯島一家小倉二代目の尾津喜之助と言うヤクザが居ました。終戦直後の混乱に乗じて新宿駅東口を不法占拠し、1945年8月20日には新宿マーケット(「尾津マーケット」とも言う)を開店した。「光は新宿より」と言うキャッチフレーズと共に新宿マーケットは約7万人の商店主および商店関係者を傘下に収め隆盛を極めた。なお、新宿駅西口線路沿いには安田組の安田マーケット(民衆市場)が、南東口近辺には和田組の和田マーケットが同様に不法占拠によって闇市を開いて居る。しかし昭和30年代なかばに始まった新宿駅付近の大規模復興計画と軌を一にして関東尾津組は急速に勢力を落とした。1957(昭和32年)には傘下組織の武田組(武田一郎組長)と安藤組が抗争事件を起こした事も凋落の一因になった。尾津は全日本飯島連合会の会長も勤めて居たが、日本経済の復興により闇市は衰退し、関東尾津組は解散に至った。
業界騒然!伊勢丹新宿店メンズ館と奇跡のコラボ & EMMETIのBR別注に新モデル!| B.R. Fashion College Lesson.188 イセタンメンズ×B.R.ONLINEコラボ
この時期。私の母は伊勢丹で経理の仕事をして居たが。ある日、宝石商に行って仕事を手伝えと言われて出向いたそうだ。そこは何と尾津組の経営する宝石商で、母は秘書として雇われたそうだ。そして伊勢丹に尾津喜之助が行くと言うので、ついて行くとなんと尾津組長と共に伊勢丹の応接室に通されて。伊勢丹の社長が来るまで伊勢丹側が用意したフルーツパフェとオレンジジュースを出されて飲んで居たら。尾津組長が立ち上がり窓から下を見て「お嬢さん、戦争が終わった直後にな、私と組員で皆んなして遺骸をな、、穴掘って此処ら辺に埋めたんだよ。このデパートもその上に立っておる」そう言ったと言います。そして当時母は一人暮らしでしたが、自分の下宿まで帰る時に。組長が「お嬢さん、うちの若い衆を一人付けてるから安心して帰りなさい」と言われたけど。幾ら周りやら後ろ見ても誰も居ない様に見えたと言って居た。その後。また母は伊勢丹に戻ったそうです。そんな事があったから。当時付き合って居た父が母に伊勢丹を辞めさしたそうだ。その後母は書店に勤めるが程なく父と結婚した。
いやぁ、、今回は後半物騒な話でしたが。。。今回は此処までにして於ますね。過去記事からが大部分でしたが。また読んで観て下さって有難う御座いました。それではまた。今日は調子が上向いて来たのですよ。それではまた更新出来たら会いましよう。。。