【モテる人の共通点】【モテるためにやれること】「GACKT流 誰でも異性からモテる極意」『GACKT超思考術』出版インタビュー@NORTH VILLAGE六本木ジパング店 vol.05!
今日の夜は此れでした。。。。美味しかった。。。。
この記事も、勿論読んで貰いたいけど。この前の記事も是非読んで見て下さいね。よろしくね。今回は美輪明宏さんについてと青木志貴ちゃんについて彼女らの生い立ちを書いて居ます。人には色々と苦労話がありますよ。読んで見て下さいね・・・・・。
美輪明宏さんが言って居た言葉、、
1つのものを見る時に
多角的に物事を見た方がよい。
目に見えるものを見なさんな。
見えないものを見なさい。
目の前の人の魂・霊魂
それが如何に正しく清く、美しいか。
それだけを見る様にすると良い。
そうすると怖いものがなくなる。
学歴や職業を脱いでの勝負。
私が考えるのに、この言葉を言える人は並大抵な苦労をして来た人では無いと、、なかなか言える言葉ではありません。皆さんは、美輪明宏と言うと。男なのに女装をして居る変態とか、ゲイのくせしやがってからにとか、口の悪い人は。彼女(彼)がどれだけの苦労人で彼女(彼)が見て来た事はどうだったのかと、言う事を知りもしないで批判する人が居ます。前に私の処に来た女性が私が美輪さんはいい人だと言ったら「おかしんじゃない?なんかkiyasumeさんが、あの人評価してるなんて、」と言いましたが、、私は(多分この文読んで居るかと思いますけど)その人はなんだかんだ言っても、人生を解っては居ないのだなと思いましたよ。今はLGBTと言う考え方があります。
LGBTとは
Lesbian(レズビアン=女性同性愛者)、Gay(ゲイ=男性同性愛者)、Bisexual(バイセクシュアル=両性愛者)、Transgender(トランスジェンダー=生物学的性と性自認の同一性に違和感を感じる人)の頭文字をとった言葉で、性的マイノリティの総称として多く使用されて居ます。
しかし、それ以外にもX-gender(エックスジェンダー=性自認が男性・女性のどちらでもある、どちらでもない、場合によって変わるとして居る人)、Asexual(アセクシュアル=性的指向が他人に向いて居ない人)、Pansexual(パンセクシュアル=相手の性のあり方を条件としない)、Questioning(クエスチョニング=性自認や性的指向を決めて居ない、解らない、模索して居る人)など、性のあり方はLGBTの4つだけでは表しきれない多様なものとなります。
また、いわゆる典型的とされる性のあり方についてはCisgender(シスジェンダー=生物学的性と性自認が一致する人)、Heterosexual(ヘテロセクシュアル=異性愛者)と呼ばれて居ます。
例を取れば。私が好きで応援して居る。青木志貴ちゃんはパンセクシャルな女の子です。パンセクシャルとは、今言った通り。相手の性のあり方を条件としない人と言う事です。兎角とバイセクシャルと同じだろと言う方が居ますが。この場合は2つの性が好きになる事。男と女どっちもと言う事で少しパンセクシャルとは違います。彼女は産まれた時からすでにパンセクシャルであった為に、
幼き日におママごとをする時に、どうしても奥さん役はしたくは無くて。旦那役か、それがダメなら動物の役をして居たと言います。そして小学生の頃から高校まで、彼女はその美しい容姿とは裏腹に、パンセクシャルであると言う事で陰湿な虐めにあったと言います。例えば表上は、「青木!一緒に帰ろうよ」と言われて喜んで着いて行くと「お前?なんで着いて来るの?着いてくんなよ!!」と言った具合だったと言います。彼女は女の子が着る水着が嫌で夏になると女性用の水着の上に海パンを履きTシャツを羽織って海水浴をして居たと言います。たった一人で・・・・。彼女の親は確か父親がフランス人でしたが。そんな彼女の事は何も解ってあげられずに。籍を抜くと言ったそうです。
彼女にはお兄さんが居て。何時も虐められて居る彼女を庇い助けてくれたそうです。そして高校に行ってクラスでも成績がトップだった彼女は、学級委員長になり副学級委員長の男子生徒と仲が良くなりますが。彼から「付き合ってくれないか?」と告白されてもその事が嫌で、先生に涙ながらに「自分は人とは違う....。」と話すと。先生はもらい泣きをして。彼女の親元に行って話してくれたそうです。しかしその事やら諸々の事があって。学校を辞めてしまいます。東京に出て来た彼女は私立の芸能高校に通って芸能の知識を身につけ。そして声優になりたくオーデションを受けますが、なかなか通らず、その後、「アイドルマスター・シンデレラ・ガールズ」のオーデションに採用されて。・アイドルマスター シンデレラガールズ(二宮飛鳥)・カードファイト!! ヴァンガードG シリーズ(浅田マコト)・狐狸之声(ユシン)・真・中華一番!(レオン〈少年〉)・天空侵犯(二瀬真由子)・EDENS ZERO(ホムラ)などの役の声を当てて今があります。
彼女も来年でもう32歳になりますが、、私は応援して居ますよ。
彼女の本をある中年の女性に読ませたら「フン!!この子は美人だから、相手にされて居るけどドブスだったら、誰も相手にはしないよ。こんな子!!」と言われました。人は醜いです。この間、孫の手が無くなりました。どこを探しても無いので。昨日の夜にAmazonから購入して先程届いたのですが。待てよ?と思い座布団をめくって見たら。何とその下に隠してありました。どんだけ心根が貧しい連中なのか。そして私が今から8年前に購入した。ラジオ付きのボイスレコーダーが忽然と姿を消して、此れもどこを探しても無いのです。私は「盗られたんだな」と諦めて此れも昨日購入しました。人は、悪い人間は、どうしようもなく悪いですよ。私は訪問看護師と諍いをしたく無いから。DVDやらBlu-rayに映画やらアニメを録画したものをよく貸します。中には借りるのは嫌だと言う女性も居ますが。前に「GACKTの勝ち方」を読んで御覧と貸したら、2日で返して来た女性も居ましたけど、、此間、この部屋の鍵を全て取り替えました。鍵屋が言うのには、合鍵は余程のところで無いと作れないと言うので。外部から入ったものが盗んで居るのでは無いですね。疑いたくは無いけど。どうしてもヘルパーやら訪問看護師を疑ってしまいますよ.....。
そして『美輪明宏さん』です。。。
年齢は?出身は?身長は?本名は?
美輪さんは、1935年5月15日生まれ、
長崎県長崎市のご出身、
身長161センチ、
学歴は、
佐古国民学校(現・長崎市立佐古小学校)
⇒海星中学校
⇒国立音楽大学附属高校中退
ちなみに、本名及び1971年までの芸名は、「丸山 明宏(まるやま あきひろ)」で、幼名は、「丸山 臣吾(まるやま しんご)」です。
裕福で恵まれた幼少期
美輪さんは、遊郭の近くで「世界」という名のカフェを営む、お父さん・丸山作一さんとお母さん・ヌメさんとの間に、5人兄弟の次男として誕生すると、20人近く働いて居たカフェ(キャバレーとバーの中間くらいの店だったそうです)の女給さんやホステスさんたちに、かわいがられて育ったそうです。
また、お店の隣には「南座」と言う芝居小屋があり、小さい頃から出入りして居た為、此処でも役者衆に可愛がられ、演出の仕方から、大道具、小道具、衣裳、化粧の仕方などを間近に見る事が出来たほか、そこでは、映画も上映されて居た事から、ありとあらゆる世界中の映画を観る事が出来たそうです。
さらには、家の向かいには楽器屋兼レコード屋さんがあった事から、そこから流れて来る、ありとあらゆる音楽が自然と耳に入って居たそうで、芸術的にもとても恵まれた環境で育たれたのでした。
子供の頃から批判的?
ところで、美輪さんの実家は、カフェのほか、料亭とお風呂屋さんも営んで居たのですが、
美輪さんは、お風呂の番台に座って居る時には、上等なキャメルのコートを着た紳士淑女が、服を脱ぐと貧相な体をして居るのを見ると、
着るものってなんなの? インチキじゃない!
と、思い、
街のお偉いさんがカフェで酔っ払って、女給さんのスカートの中に手を入れてひっぱたかれ、ヘラヘラして居るのを見ると、
何時も偉そうにして居るけど正体はこっちじゃない。
と、思い、
この人間の正体は何なんだろう?
と、子供の頃から考えて居たそうで、
後に、美輪さんは、東京で知り合われた三島由紀夫さんや川端康成さんに、
「九州の田舎者は普通おどおどしているのに、君はどんな偉い人が来ても平気な顔して居る」
と言われた事があった事を引き合いに出し、一切、容姿容貌、年齢、性別、国籍、着て居るもの、肩書で、人を見た事がないとおっしゃって居ます。
ただ、”貧相な体”も”容姿”、男性のヘラヘラを汚らわしいと思われたのも、同性愛者だからと言う側面もあり、この頃から、美輪さんの物事に対する批判的な考え方はあったようです。
悲惨な光景を目の当たりにし、さらに批判的に
こうして、裕福で、芸術的に恵まれた環境の中、大人たちにかわいがられ、すくすくと自由に育たれた美輪さんですが、1941年、太平洋戦争が始まると、幾度となく、今でも忘れられない光景に出くわしたそうです
ある日の事、実家のカフェで働いて居たボーイの三ちゃんに召集令状が来た事から、美輪さんと女給さんたちは長崎駅へ見送りに行ったそうですが、三ちゃんを乗せた汽車が動き始めたその時、三ちゃんのお母さんが、突然、飛び出して来て、
死ぬなよっ。どんげん(どんな)事があっても帰って来いよっ
と、三ちゃんにすがりついて叫ぶと、
軍服を着た男が近づいて来て、
馬鹿者。軍国の母は『死んで来い』と言うんだ!!
と、三ちゃんのお母さんの襟髪をつかんで引きずり、投げ飛ばしたそうで、三ちゃんのお母さんは、鉄柱にぶつかり、頭から流血。
美輪さんは、
三ちゃんは、血だらけになったお母さんを見ながら出征して言ったんですよ
と、涙ながらに語られて居ます。
また、ある寒い朝の事、美輪さんは、美輪さんの親類が経営する旅館の近くで、工場に向かう女子挺身隊員の点呼が始まったのを見て居ると、もんぺ姿の女学生たちが並ぶ中、突然、監督官が、
おい、貴様
と、一人の女学生を指差し、
この戦時下において、軟弱な格好しとるとは何事か。脱げ!
と、服を脱ぐ事を命じ、その女学生が服を脱ぐと、黄色、赤色、紫色などカラフルな毛糸の下着が現れたそうで、
それを見た監督官はその下着を切り刻み、さらには、胸を隠してしゃがみ込む女学生に殴る蹴るの暴行を加えたそうで、女学生の耳が切れ、口が切れ、鼻が切れ、血だらけになりながら、
許して下さい、許して下さい・・・
と、許しをこう声が次第に小さくなって行ったそうです。
そして、その女学生は、その後、その怪我がもとで亡くなり、着けて居たカラフルな毛糸の下着は、お母さんが、「寒い思いをしない様に」と、いろいろな服をほど居て、編み直したものだった事を美輪さんは知ったそうで、
(その下着のカラフルな色が、襟から少しだけ覗いて居たのを、監督官にみとがめられたのでした)
裕福な人や偉そうな人に対する批判的な考えはさらに強まって行ったのでした。
(左から)お父さん、お母さん、美輪さん、お兄さん。
美輪明宏は子供の頃に長崎で原爆に被爆していた!
カフェを営むご両親のもと、大人たちにかわいがられて、何不自由なく育った、美輪明宏(みわ あきひろ)さんですが、太平洋戦争では被爆し、様々な悲惨な光景も目の当たりにされたのでした。
戦争を経験
やがて、戦火が激しくなると、1941年12月には、店先のマネキンが「退廃的」とされて撤去させられたほか、カフェも、「敵性文化を商売にする事は時局にそぐわぬ」との理由で廃業せざるを得なくなり、
(その後、お父さんは、金融業に転業されたそうです)
モダンで国際色豊かだった長崎の街からも、次々に色が消し去られて行きます。
原爆のピカドンを目の当たりにし被爆
そして、1945年8月9日、美輪さんが10歳(小学4年生)の時、自宅の2階の部屋で、夏休みの宿題として、御伽草子の「万寿姫」の絵を描いて居ると、
なかなかの出来だった為、張り出された時にどう見えるかを確かめたくて、勉強机から2、3歩下がったその瞬間、まるで、何千ものマグネシウムを焚いた様な白い光が走ったそうで、
こんないい天気なのに雷?
と、不思議に思い、同じ部屋で布団の手入れをして居たお手伝いさんに聞こうとしたその直後、
まるで世界が息を止めたかの様な深い静寂に包まれ、次の瞬間、激しい爆発音が鳴り響き、家がグラグラと揺れ、ガラス窓が割れ、瓦が降って来ます。
その後、すぐにお手伝いさんに促されて2人で布団を被ると、唸る様な「B29」の爆音が聞こえ、それが遠ざかり始めた頃、空襲警報が鳴り出したそうで、
逃げましょう。また敵機が来るかも知れないから
と、お手伝いさんに促され、1階に下りた処、お兄さん(安宏さん)が柱の下に倒れて居たものの、お兄さんにケガはなく、お手伝いさんと共にお兄さんを助け起こすと、3人で「大徳寺」と言うお寺の下に掘られた防空壕(ぼうくうごう)を目指されたのでした。
(美輪さんの自宅は爆心地から南東約3.9キロの長崎市本石灰町にあり、美輪さんは被爆してしまったのでした。)
家族全員無事も・・・
ただ、防空壕を目指す途中では、船大工町の「福砂屋本店」付近で、荷車を引く馬が倒れ、すぐ脇で、おじさんが、まるでフライパンの上でいった豆の様な動きでピンピンと飛び跳ねる異様な光景を目にしたそうで、
美輪さんは、
やけどして痛かったのか、発狂なすったのか解らないけど、それを見て怖くなって、パーッと逃げたんです
と、ほこりや煙がもうもうと立ち込める中、必死の思いで進み、ようやく防空壕に到着。
すると、ほどなくして、美輪さんのお父さんがやって来たそうで、実は、お父さんは、カフェ閉店後、金融業を営んで居た為、浦上に集金に行って居るはずだったのですが、さぼって、茂木に魚釣りに向かって居た為、難を逃れて居たのでした。
こうして、家族全員無事だった美輪さん一家は、その日のうちに、お父さんの知人宅がある、郊外の「田手原町」に逃避する事になったのでした。
空襲後の悲惨な光景を目の当たりに
そして、その道中では、いきなり誰かに腕を掴まれ、振り返ると、建物の下敷きになった人が助けを求めて居たにも関わらず、驚いて腕を振り払うと、その人の肉がズルっとむけて美輪さんの腕にくっつ居た事があったほか、
ある下宿屋の前では、そこの娘と学生2人が、リヤカーに枕1個だけ積んで、呆然と立ち尽くして居る姿を目にするなど、
この世とは思えない空襲後の悲惨な光景に、何度も何度も立ち止まり、燃える長崎を見ては、溜息をつきながら、数多くの人たちと市街地から山を越えて郊外に向かわれたのでした。
10歳の時に原爆を体験し、地獄絵図を目の当たりされた、美輪明宏(みわ あきひろ)さんですが、終戦後は、ボーイソプラノに感動すると、小学生でピアノと声楽のレッスンを受けさせても貰い、中学ではシャンソンを独学、高校になると上京するなど、裕福な実家をバックに、音楽の世界に邁進されます。
終戦後も目を覆う惨状を目の当たりに
8月15日、玉音放送(天皇の肉声による放送)を聞き、戦争が終わった事を知った美輪さんは、爆心地の近くの「山里町(現・平和町)」と言う処に住んで居たおばあさんたちが心配で、居ても立っても居られなくなり、家族の静止を振り切って一人でおばあさんのもとへ向かったのですが......。
勝手は、天主堂が立ち、お花畑が広がる、風情ある美しい街並みだったその場所は、
この世の終わり。人類が滅亡した世界の様だった。
と、見渡す限り、瓦礫の山で、どこがおばあさんの家だったのかも解らなかったそうで、なすすべもなく、家に戻られたそうです。
そして、実家には、瀕死の被爆者らが水を求めて押し寄せて来たそうで、一家総出で水を飲ませてあげて居たそうですが、
ある女性は、顔が溶岩に流された様にやけどをして居て、唇は無残にもまくれあがって、うまく唇が合わさらず、
スイッセンガ、イズヲクダサイ(すみませんが、水を下さい)
と、言われたそうで、
美輪さんが水を飲ませてあげた処、その女性は、とても穏やかな表情をして、まだ子どもだった美輪さんに手を合わせ(拝んで)、そのまま亡くなったのだそうです。
小学生の頃からピアノと声楽のレッスン
こうして、目を覆いたくなる惨状を沢山目にしてきた美輪さんですが、終戦後まもなく、古川ロッパさん主演の「僕の父さん」(1946年)という映画を観て居た処、子役の加賀美一郎さんがボーイソプラノで歌う美しい歌声を聞き、感動したそうで、
繰り返し映画館に通いつめ、劇中歌を全部覚えた事から、学校の廊下で歌って居ると、先生に見つかってしまい、
あとで教員室にいらっしゃい
と、言われてしまったそうです。
そして、叱られる覚悟で職員室に行くと・・・
なんと、他の先生の前で歌わされたそうで、
この子、才能あると思いませんか?
と、先生は、その日のうちに美輪さんのお父さんに進言。
こうして、美輪さんは、バリトン歌手の先生が教える音楽教室で、本格的にピアノと声楽を習う事になったのでした。
独学でシャンソンの勉強
そんな美輪さんは、海星中学校に進学されて居るのですが、この学校は、創立者がフランス人宣教師だったため、英語とフランス語が必須科目(戦時中は敵性語として禁じられるも戦後復活)だった事から、フランス語を基礎から勉強出来たそうで、
ある日の事、美輪さんが、家の前の楽器屋さんを覗くと、フランス語の歌詞が書かれた楽譜があったため、店員さんに頼んでレコードを聴かせて貰った処、
幼い頃から、時々耳にして居たその歌が、フランスのシャンソンである事を知ったそうで、その日以来、美輪さんは、独学でシャンソンの勉強を始めたのでした。
実家が破産も・・・
そして、中学卒業後の15歳の時には、歌手を目指して上京されると、国立音楽高等学校(現・国立音楽大学附属高等学校)に通う様になったのですが・・・
実家が破産してしまい、仕送りが途絶え、1年も経たないうちに中退。
下宿代が払えず、住んで居たアパートも追い出されると、当時、戦争で焼け出された人が多く寝泊まりして居た新宿の地下道や駅の構内に、美輪さんも潜り込まれたのでした。
しかし、そんな中、高校時代の上級生にばったり出会い、
君、ジャズ歌えるか?
と、誘われ、この事をきっかけに、進駐軍のキャンプ回りを始めると、進駐軍相手にジャズを歌ってお金を稼ぐ様になり、
その後、アルバイト先の喫茶店で顔見知りになった学生から、
今度、早稲田の喫茶店で、宝塚歌劇団出身の橘薫さんがシャンソンのコンサートをやるんで、前座で歌ってくれないか。
と、頼まれ、二つ返事で引受けると、橘さんが認めてくれ、今のままでは勿体無いからと、今度は、銀座にあるシャンソン喫茶「銀巴里」を紹介されたのでした。
「銀巴里」で歌唱する美輪さん。
シャンソン「メケ・メケ」で大ブレイク
宝塚歌劇団出身の橘薫さんから、銀座のシャンソン喫茶「銀巴里」を紹介された美輪さんは、早速、専属契約を交わし、国籍、年齢、性別不詳として売り出されると、
美輪さんいわく、
私が『銀巴里』で有名になったのは、ひとつは男でも女でもないと言う、お小姓ファッションです。日本には古くからそう言う文化がありました。
平安時代のお稚児さんや、元禄時代の色若衆。徳川綱吉の側用人の柳沢吉保は、全国から美少年を集めて歌舞音曲を仕込み、女物の柄の振り袖を着せて諸大名をもてなしました。柳沢十六人衆です。
と言う伝統を復活させ、めきめきと頭角を現して行き、
〈神武以来の美少年〉などとマスコミで喧伝されると、そのうち、レコードを出さないかと言う話になり、1957年、シャンソン「メケ・メケ」を日本語でカバーすると、大ヒット。
美輪さんは、艶麗なルックスでシャンソンを歌い上げる姿が観客を魅了し、一躍ブレイクされたのでした。
「メケ・メケ」
「銀巴里」を文化の発信地に
処で、美輪さんは、フランス・パリでは、文化人や芸術家が集まるカフェが文化の発信地になった、と言う事を本で読んで知って居た事から、「銀巴里」もそんな店にしたいと思って居たそうで、
そんな折、中村勘三郎さんが、店に作家の江戸川乱歩さんを連れて来た事があり。いろいろ話をするうちに、面白い子だと気に入って貰えたそうで、
その後すぐに、三島由紀夫さん、川端康成さん、岡本太郎さんほか、多くの文化人が来店する様になり。当初、美輪さんが望まれて居た通り、「銀巴里」も知的な議論を楽しむ事が出来る店になって行ったそうです。
「銀巴里」で歌唱する美輪さん。
大人気から一転、激しいバッシング
さて、「メケ・メケ」で大ヒットした美輪さんは、三島由紀夫さんから「天上界の美」と絶賛されるほか、マスコミからも、「神武以来の美少年」「シスターボーイ」と称されたのですが・・・
その後、自身が同性愛者である事を公表されると、中性的ファッションや、美輪さんが自ら和訳した生々しいシャンソンが、当時の保守的だった世間から受け入れられずに、人気が急降下。
(もともと、日本では、シャンソンは、「蝶よ花よ、星よ月よ」と言った美しいイメージで歌われて居ました。)
さらには、
丸山明宏を芸能界から追放せよ
などと言った、美輪さんを批判する記事が全国紙に掲載されるほか、「男の腐ったみたいなゲイボーイ」と罵倒され、見知らぬ人から石やビール瓶を投げつけられる様になってしまいます。
作詞作曲を始めるもさらにドツボ
また、九州の炭鉱町に地方営業に行かれた際には、何か手違いがあったのか、会場が押さえられず、急遽、公民館が崩れ掛かった様な場所を用意されたそうですが、
舞台に立つと、板張りの上にゴザを敷いて、老若男女のお客さんがぎっしりと座って居るのが見え、さらには、シワや爪にまで炭塵が染み込んで真っ黒なお客さんの姿がよく見え、
それに引き換え、ヒラヒラとした格好でシャンソンを歌っている自分が申し訳なくて、恥ずかしくて、こう言う人たちを慰め、励ます歌は無いだろうかと考え始めたそうで、
外国には、労働歌や反戦歌など、様々なジャンルの歌があるのに、日本には歌謡曲しかない現状に、
じゃあ、自分でつくって、自分で歌おう
と、作詞・作曲を開始。
炭鉱町の子どもたちを題材にした「ボタ山の星」、反戦歌「ふるさとの空の下に」などを作り、華やかな衣裳を封印して、地味な格好で歌い始めたそうですが・・・
その途端、まるで潮が引くように周りからマスコミが居なくなり、世間から見向きもされなくなってしまったそうで、
地方のキャバレーで歌って居ても、
酒がまずくなる
と、おつまみが飛んで来るなど、全く仕事が無くなってしまったのでした。
「ヨイトマケの唄」で人気再燃
自分だけがステージでキレイな格好をして歌って居る事に申し訳なくなり、労働者を励ます歌や反戦歌を自ら作詞作曲して、地味な格好で歌う様になると、全く仕事が来なくなってしまった美輪さんですが、
それでも、労働歌や反戦歌を歌い続け、1964年には、建築現場で重石や槌を滑車で上げ下げして地固めする作業で懸命に働く母とその息子の親子愛を歌った「ヨイトマケの唄」をステージで披露。
そして、1965年には「NET」(現在のテレビ朝日)の「木島則夫モーニングショー」で、何か歌って欲しいとオファーを受けたため、「ヨイトマケの唄」の事を伝えると、それで行こうと言う事になり、
歌った処、その直後から、テレビ局の電話がジャンジャン鳴り、励ましの手紙が沢山届くなど大反響となります。
(ちなみに、1963年には、作曲家でジャズピアニストの中村八大さんの助けを借りて、日本初となる全作、自らの作詞作曲によるリサイタルを開催されて居ます)
「ヨイトマケの唄」が不適切な歌詞で放送自粛
処が、今度は、「ヨイトマケの唄」にある「土方」という言葉が不適切であると、やり玉に挙げられてしまい、
じゃあね、舞台で働いてる人は裏方さんって言うんです。武士の奥様は御裏方、それから長唄や端唄を歌ってる人たちは地方さんです。
それもすべて不適切なんですか。どうして土木工事の人たちだけが問題になるのか。
と、美輪さんは、テレビ局とやり合うのですが、
最終的には、テレビ局から、他の歌に変更するよう言われ、「ヨイトマケの唄」は、放送を自粛させられてしまったのでした。
NHKで再ブレイク
ただ、ちょうど同じ頃、NHKから出演依頼があり、美輪さんが、
(「ヨイトマケの唄」を)歌っても、大丈夫ですか
と、尋ねると、
うちは大丈夫です
との返事だったため、NHKで「ヨイトマケの唄」を披露した処、やはり、大きな反響が。
そこで、1966年、「ヨイトマケの唄」(「ふるさとの空の下で」とのカップリング)をレコードとしてリリースすると、40万枚を売り上げる大ヒットを記録。
「ヨイトマケの唄」
こうして、美輪さんは、見事、再ブレイクを果たされたのでした。
47年の時を越え紅白で「ヨイトマケの唄」を歌唱
ちなみに、美輪さんは、1965年末、「NHK紅白歌合戦」出場の打診があるも、「ヨイトマケの唄」はフルコーラスで6分以上掛かる事から、当時の1曲につき2分半と言う時間の制約を大きくオーバーしており、かと言って、歌詞を切り刻んでしまっては意味が伝わらず無意味なものになってしまうため、出場を断られて居たのですが、
それから47年後の2012年には、ついに、「第63回NHK紅白歌合戦」初出場を果たし、「ヨイトマケの唄」を歌唱。大反響を呼んで居ます。
2012年「第63回NHK紅白歌合戦」のリハーサルで「ヨイトマケの唄」を歌唱する美輪さん。
寺山修司の「天井桟敷」旗揚げ公演「青森県のせむし男」で俳優デビュー
そんな美輪さんは、1967年には、寺山修司さんの演劇実験室「天井桟敷」の旗揚げ公演「青森県のせむし男」で俳優デビューも果たされて居ます。
実は、寺山さんは、「銀巴里」にしょっちゅう来て居た、松竹の女優・九條映子さんと結婚されて居るのですが、それから何年か経ったある日の事、
お店に九條さんが来て、美輪さんに、
ニューヨークに居る寺山から手紙が来た。ちょっと頼まれたんだけど読んで見てくれる?
と、頼まれたそうで、
美輪さんがその手紙に目を通したところ、
いま、こっちでは既成の演劇に飽き足らず、アングラ(※前衛的で実験的な演劇や映画などの芸術活動。)と言う洒脱なものが流行って居る。日本にもそんな芝居を定着させたい。
ついては『青森県のせむし男』と言う芝居を書いたので、その主役を美輪さんにやって欲しいから、ぜひ口説いて欲しい。もし、それがうまく行ったら、君が本当に美輪明宏と友達だと言う事を認めてあげる。
と、(美輪さんいわく)なんとも回りくどく、ずる賢い(笑)書き回しだったそうですが、台本を読んでみると、これがとても面白く、
美輪さんの役が「大正マツ」という名前の醜い老女の役だったため、所属事務所が、
せっかく「ヨイトマケの唄」のヒットで世間が認めてくれたのに
と反対するも、思い切って引き受けた処、この役が大当たり。
そして、次に、寺山さんが、美輪さんの為に書いてくれた「毛皮のマリー」にも出演されると、前作「青森県のせむし男」に輪をかけて爆発的な大ヒットを記録。
こうして、美輪さんは、寺山さんの作品だけでなく、江戸川乱歩・三島由紀夫脚本の舞台「黒蜥蜴」(1968)や、フランスの作家・ジャン・コクトー原作の舞台「双頭の鷲」(1968)、「マタ・ハリ」(1969)ほか、
「黒蜥蜴」より。
「黒薔薇の館」(1969)、「雪之丞変化」(1970)などの映画・テレビドラマの主演、
「黒薔薇の館」より。
1970年からは、ラジオ番組「ラジオ身の上相談」を担当し、以降25年という長きに渡り放送されるなど、幅広く活動されるようになられたのでした。
以上字数の関係で此処までしか書けませんでしたが。彼女(彼)の事は粗方分かったと思います。そして私が美輪さんの言葉で覚えて居るのは、落ちぶれて新宿駅構内で寝泊まりして居た時に。布団がわりに新聞紙を8枚ぐらい繋げてガムテープで貼り付けたものを寝袋として寝て居たと聞きました。彼女は、いまだに偏見に満ちた目で見られる事もあるそうです。だから、何時も思うそうです。目に見えるものを見なさんな。目に見えないものを見なさいと。それは人の心です......。と、、
今回は此処までとしておきます。読んでくれてありがとう。。。。。