寂しがり屋のハーモニカ吹き。(障害者の日常生活)

「親父のおかしい話」「哀しみのベラドンナ」「動物化するポストモダン」etc.....。。

 
 
私が18歳の頃だった。丁度、アニメは松本零士アニメが日本では大流行をして居て。私も御多分に洩れず。劇場で「銀河鉄道999」とか「我が青春のアルカディア」「宇宙戦艦ヤマト」などを観ていた。特に私はりんたろう監督の手腕が良かった事もあって。「銀河鉄道999」の劇場版は、2作目の「さらば銀河鉄道999」と両方のものを見て居たが。それは私が18歳ぐらいの時だった。それから、2年程して、「銀河鉄道999」と「さらば銀河鉄道999」はテレビの洋画劇場で放映された。私は20歳の時にそれをまだ発売されたばかりのモノラル・ビデオデッキで録画して、ある休日に楽しんで見て居た。そうしたら競馬から帰って来た親父が来て。その様子を見て言った。「お前みたいなバカはいねぇなぁ、こんな3歳児が見る漫画を見て面白のか!!」と言われた。私は「ああ、あんたには3歳児が見る漫画に見えるのかい?」と言ったらこう言う「機関車が宇宙を飛ぶなんてのは赤ちゃん向けだろう。てめえは知能指数が最低に低いやろうだな!!」私は言ってやった。「あんたさぁ、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」って小説知らないのか?」「何?銀河鉄道だと!!そんな幼稚なものは知られえぞ!!」だからもう私は話をしても、このバカな父親には何も解るまいと思って黙って見て居た。
 
 
 
 
 
【解説動画】劇場版『銀河鉄道999』ドルビーシネマ版とは!?
 
 
 
 
 
当時ビデオデッキは応接間にあり。応接間には16型のブラウン管のカラーテレビが置いてあって。それに繋げて見て居たからだ。だからバカ親父は私を見てバカに仕出したのだ。私は構わず見て居た。するとバカ親父はとことん私をバカに仕出して。ソファーに腰を掛けると競馬新聞を広げて、見ながらチラチラ。テレビのアニメ映像を見出した。そして主人公の少年が母親の仇(人間狩りで彼の母親は機械伯爵によって殺されている)を「戦士の銃」と言う銃で敵の機械伯爵の頭を撃ち抜いたら。彼の奥さんであるリューズと言う時間を操れる魔女の女性が。「これでよかったのよ。さあ、もうこの城は崩れ落ちるわ。早くお逃げなさい」と言って洋服のドレスを脱いで下着姿になり伯爵の遺骸に掛けてやっている場面を見たら。「おい、これさっきの漫画か?」と言い出した。 私は「だから言ったろう宮澤賢治を知らないのかって?彼のコンセプトをベースにしてSFアニメ映画にしているんだよ。」そう言うと、何がなんだか解らない顔をして見ている。しかし言うのだ「だって機関車が宇宙になど飛んで行くなんて言うのは幼稚だろ!!」だから私は宮澤賢治の「銀河鉄道の夜」の話を短めにした。すると「そんな話を宮澤賢治は作って居たのか?」と言って。吃驚している。最後、主人公の哲郎と彼を銀河鉄道に誘った謎の美女メーテルが別れるシーンになって、哲郎が(主人公の少年)がメーテルの名を叫けびながら、機関車を追いかけて行き。分岐点まで行って止まった処で「銀河鉄道999」は空へと消えて行って城達也のナレーションで「そして少年は大人になった」と言う所まで見たら。「これ続きもあるのか?」と聞いて来たので「あるよ、2作目が、、」と言ったら黙って自分の寝室へと入って行った。
 
親父については言いたい事だらけだ。あの人は物事を何も知りはしなかった。大映に1960年代の中頃に作った「大魔神」と言う特撮映画がある。悪代官たちを美しい女性が「自分の命と引き換えに成敗して下さい」と神に祈ると。大魔人が現れて悪代官たちを皆殺しにすると言う映画だ。この映画は全部で3部作あり。悪い城主に虐げられている貧しい人たちの祈り(大抵は20歳ぐらいの若い女性)。を聞くと体長30メートルぐらいの物凄く怖い顔をした大魔神が現れて城主を殺して人々を助けて消えて居なくなると言う話です。この映画は私が5歳から7歳ぐらいにかけて劇場で父親に連れられて見たが。大映の当時の特撮の粋を集めて作られた映画で。今、、観ても見られる映画です。音楽はあの伊福部昭が担当し荘厳な音楽を聞かせてくれていた。処がこの映画を見た後も、あの親父はバカな事を真面目な顔をして言って居た。あるテレビ番組のクイズ番組での事だ。「おい、〇〇!!あの人を見てみろ!!あの人の顔が魔神の顔だぞ!!きっとそうだ、大魔神はあの顔だぞ!!あの男が魔神なんだ!!」と言うのだ。
 
 
 
 
7/16(金)公開「妖怪・特撮映画祭」上映告知~「大魔神」三部作予告篇【4K】~
 
 
 
 
幾ら小学校低学年生でも大魔神の顔は作り物の仮面の顔だと解っている。私は「お父さん何言ってるの?あの大魔神の顔は作り物でしょう?」そう言っても「いや間違いない。あの男が扮装したんだ」と丸バカな事しか言えない。そして晩年になってから親父にジョルジュ・ロートネルのサスペンス・ノワール。「フランス原題の「寄生虫の死」/ 日本題名チェイサー」と言う。アラン・ドロン主演のフランス映画を見せて居て。最後になって親父の部屋に入って行ったら。正義感が強すぎて返って殺人を起こしている警部をドロン扮する実業家が接触し。会話をテープに録音して最後に彼に「それでは自分の罪を聞きたまえ」と言って駅構内で。スピーカーから録音してある音声を公開して流したら。その警部はドロンに向かって「おい、悪党を逃すのか!!」と自分が憎んでいる人間の事をそう言っているのに。あの親父は「おい、あいつは、まだ自分が悪いのに悪く無いと言い訳しているぞ」と言うのですよね。私はこの人は相当にバカかと思って自分の父親ながら呆れて聞いて居た。物事を解らないで見て居るのですよ。そして何時も自分の狭い裁量で判断して物を言う。だから大抵が当たっては居ないのですよね。でも此れは、けんじにもゆきかずにも言える事だ。要するに物事を何も解っては居ないのだ。節穴と言うべきか、物事を何も解っては居ない種族なんですよね。親父の一族は。私は違う、だから、あの人たちと一緒に居るとアツレギが生まれたんです。。。

 

Mort d'un pourri - Bande annonce 1977 HD

 

 

 

〜〜男の世界〜〜

 

私は厭世的な生き方をして居ると自分の事をそう思う。大体が、スポーツは嫌いだ。野球もサッカーもラグビーも駅伝も見ない。だから選手たちの名が解らないし。解って居る名でも選手の顔が解らない。私は子供の頃は野球に興味があった。親に少年野球チームに入りたいから、ユニフォームを買ってくれと言ったが、買っては貰えなかった。私は父親に野球のミットとボールを買ってくれとねだった。親父は暫くすると、ミット2つと野球ボール1つを買って来た。そして家の前の道路でキャッチボールを朝早く起きて始めたが、暫くして近所に住んでいた同級生の女の子が、「なんだヨォ!〇〇が野球なんかするのかよ〜!!」と言って通って行ったら。親父はそれ以来起きて来なくなった。私が扁桃腺の手術をして小学校を半年休んで、勉強が丸で解らなくなって、親父の処に行って勉強を教えてくれと言っても、朝早く勉強をする事になったが、3日坊主と言うのならまだ分かるが。1日で起きて来なくなった。私はどうせ誰も助けてはくれないんだと思う様になって行った。そんな私が好きなスポーツがあった。プロレスだ。私は小学校の頃、1960年代後半から1970年代に掛けて格闘技がブームとなっており。その煽りを受けて、アントニオ猪木が好きだった。彼は日本プロレスの力道山にブラジルで、日系の移民として暮らして居た処を見出されて、凱旋帰国をして、プロレスラーになった。彼の同期には巨人軍の野球選手だった馬場が居た。此の二人を力道山は実験台とした。まず、猪木にはもの凄くきつく辛く当たった。そしてもう一方の馬場には優しく優遇して扱った。猪木は馬場をライバル視して、過激なプロレスをする様になった。一方の馬場はボンボン育ちのレスラーへとなって行った。

 

アントニオ猪木 「道」 伝説の名言 

 

しかしある時に日本プロレスの崩壊事件が起こって仕舞った。力道山がヤクザにドスで刺されて死んで仕舞ったのだった。二人は力道山の死んだ穴を埋めるが如くに試合をこなして会社に儲けを持たらした。しかし会社の幹部連はその彼らの血と汗で稼いだ金を持っては毎晩。キャバレーで豪遊して1日で100万円も使って仕舞って居た。猪木はそんな経営幹部が許せなくなり、密かにアメリカ帰りのレスラーたちと東京プロレスという団体を旗揚げしようとした。しかし此の事は事前に漏れて居たのだ。猪木はどうしてだと思ったら、一緒に東京プロレスで旗揚げしようと言って居た馬場が日本プロレスの経営サイドに金で買収されて、裏切って居たのだった。猪木はそれ以来馬場を憎んだ。憎んで、憎んで、憎み通した。結果、猪木はプロレス界を追放処分となったが、猪木は東京プロレスを旗揚げした。そして、馬場は一人で日本プロレスを背負うエースとなった。その後。紆余曲折あって、猪木は東京プロレスを解散し、新しくテレビ朝日のテレビ放映権を貰って新日本プロレスを立ち上げた。馬場はダメになった日本プロレスに見切りをつけて全日本プロレスを日本テレビ放映権を貰って旗揚げして。以来、此の2つの団体は敵対する様になって行った。私はこう言う経緯を踏まえてプロレスは1990年代まで見て居た。

 

 

 

いつも一緒に 

 

 

 

1980年代に新日本プロレスで猪木の弟子である藤波辰巳と長州力の因縁抗争が勃発し、二人の対戦カードが組まれる様になった。それまでジュニア・ヘビー級のベルトを敵地のマジソンスクエア・ガーデンに乗り込み、見事アメリカのwwfのチャンピオンをドラゴン・スープレックスという大技で失神させてベルトを勝ち取り凱旋帰国した、藤波に、雑草だった元オリンピック選手で鳴らした長州力が噛み付いたのだ。「俺は藤波の噛ませ犬じゃない!」と宣言した長州は維新軍団を組織して正規軍である藤波、猪木に刃を向けたのであった。新日本プロレスは組織を2分する危機的状態へと陥って行った。しかし猪木は此の申し受けを堂々と受け入れて藤波と長州との試合を組んだ、恐らくは猪木は自分の波乱万丈の人生に長州と藤波を重ね合わせたのだろう。二人の試合は壮絶なものとなって行った。初めは試合にならなかった。長州と藤波は試合では無く喧嘩だった。二人してぶん殴りあって居た。そんな状況を見て居た世の中の人は次第に此の2人の試合を注目しだして、社会現象とも言えるプロレス・ブームが1980年代に巻き起こった、テレビの視聴率は65%を超えた。前代未聞だった。

 

 

 

飛龍革命 音声字幕

 

 

 

私は長州は好きに慣れなかったので藤波を応援して見て居た。或る日、ゆきかずが私をバカにして言った。「プロレスなんて八百長を見て居るのか、貴様はバカか!!見るのやめたらどうだ〜〜!」ゆきかずに聞いた「長州って知って居る。」すると「そんな奴は知らない。プロレスは見て居ない」と言う。何も事情が解って居ないで人を非難して居るのだ。「やめたらどうだ〜〜」とはよく言えたものだ。ゆきかずはゴルフの会員権を二つも持って居た。そして言う。「ゴルフぐらい出来無いと男じゃないねぇ!!」私は金も無いのにゴルフに興じて自分を一流だと思って居るバカを見て居て。つくづく、こんなバカは居ないと思って居た。話はプロレスだ。長州との因縁試合で藤波は足の骨を折って仕舞った。しかし彼は試合に出る為に麻酔を足に局部注射して戦った。見て居て、試合も冒頭5分ぐらいから麻酔が切れて、藤波は苦痛の顔を浮かべて戦った、麻酔は5分しか持たなかったのだ。そして長州に敗れてべルトは奪われて仕舞った。私は此の二人の抗争を見て居て、これを組織としての規律を曲げてまで許した猪木と、反逆した長州。受けて立った藤波。皆、素晴らしいと思って見て居たのだった。世間は男のドラマに酔いしれて居た。

 

 

 

長州力・藤波辰爾 マイクパフォーマンス 

 

 

私が好きな声優の青木志貴ちゃんです。彼女は声優でモデルで、舞台俳優で、YouTuberです、、

 

 

 

【㊗︎チャンネル登録10000人突破!】仕事、YouTube、本音をぶっちゃけトーク

 

 

 

此処に一冊の本がある。
のちに角川書店から刊行される『犬狼伝説』のオリジナル版とでも言うべき日本出版社版である。この本のあとがきにこう書かれている。

「周囲の人は困ったもんだで済ませていたが、間違いなく彼は本気だったのだ。枚数もないので詳細な記述は避けるが、己の手掛ける作品に隙あらばこそと出没させるだけでは飽き足らず彼等立喰いのプロの系譜を辿りつつ日本の戦後史を新たな視点から再編すべく企図された虚構の歴史ドラマ。

『立喰師列伝/全六巻』の企画を真剣に検討していたことや、その為の準備と称して架空の民俗学者・柳谷邦男名義による『闇の系譜――立喰師の世界』『立喰師騎馬民族学説』等の出版を目論で挫折したという噂は紛れもない事実である。それらの壮大にして奇怪な企画が実現しなかったのは、ただ単に彼の周囲に冒険主義的なプロデューサーが存在しなかったからに過ぎない(と彼は今でも信じている)」
(押井守/あとがきより)ー「ガブリエルの憂鬱」より抜粋しましたー

周りの誰しもが、冗談だろうと思っていた此の構想10年越しの企画を、押井守は日本の戦後の総括的意味合いと共に2006年に映画化しました。公開当時は、結構、話題に成ったので、知っている人も居るかとも思いますが、此の「立喰師列伝」は、その後、「女立喰師列伝ーケツネコロッケのお銀・パレスチナ死闘編」を得て、今年、「真・女立喰師列伝」を公開しました。

しかし、どちらの作品ともめっぽう面白いので、まだ、観ていない人はレンタルででも、観て見る事をお勧めします。本当に面白いですから。。。
下で予告編が観られます、クリックする事で映像が始まります。

 

押井守監督作品「立喰師列伝」 予告編

立喰師列伝 お銀抜粋編

女立喰師列伝 短縮版

 

此の話は以前にも書いたと思うが、私はある女性のblogを見に行って居た。だが私はこの女性は知識がある様な事を言っては居るが。本当の処。それは書物からの知識では無いかと思う様に成って行った。確かに本はよく読んで居た見たいだった。しかし彼女の掲示板での書き込みで手塚治虫は素晴らしいと言って居たのだが。なんと「手塚治虫」を「手塚 治」と言って居るのだ。手塚氏は昭和20年代からずぅーとペンネームの「手塚治虫」の名を使って来た。彼女は何も彼の事を知らないのだ。ただ皆んなが手塚氏は凄いと言って居るから、自分も凄いと思い込んで知りもしないのに凄いと言って居るだけだ。果たして手塚氏の漫画を読んだ事はあるのだろうか?恐らくはあるまい。手塚氏の漫画を読んで居たら「手塚治虫」と言うペンネームを知って居るはずだ。

恐らくはテレビで「鉄腕アトム」ぐらいは見たのかも知れない。しかし断言する。「手塚治虫」の漫画本は1冊も読んでは居まい。手塚氏は往々にして児童漫画。子供向けの漫画しか描いて居ないと思われがちだ。しかし実際は違う。例えば「空気の底」「奇子」などの近親相姦の漫画やら、「きりひと賛歌」などと言う「モンモウ病」と言う奇病に付いての外見による差別や人間の尊厳などをテーマとする重厚なストーリー漫画もある。同じ医療漫画であるそれから3年後の『ブラック・ジャック』が非現実的な要素も交えた作風で尚且つ「医学は人間を幸せにし得るのか」というテーマを扱って居るのに対し、本作では医学界に於けるa power struggle(権力闘争)を主たるテーマとして描いた、1970年代初頭の社会派的色合いの強い作品となって居る。

一般の人は知らないでしょう。こう言った漫画を手塚治虫が書いて居た事を。そして彼は「アドルフに告ぐ」ではヒットラーの生涯を、3人のアドルフと言う名の人たちの愛憎を絡めて描いて居る。「シュマリ」では明治維新の事を。北海道での五稜郭を舞台に、実は生きて居た新撰組副長の土方歳三とシュマリの友情を描き。昨年公開された稲垣吾郎と二階堂ふみによって実写映画化された異常性欲者の作家と、それを救おうとするミューズの「ばるぼら」と言う映画を手塚治虫の息子である映画監督である手塚 眞氏が撮って居る。この映画では二階堂ふみの全裸での体当たりの演技が良かった。R15になった作品だ。原作の漫画は私も持って居るが、黒魔術やらセックス・シーンが累半に出て来る漫画で。1970年当時にビックコミックと言う青年漫画誌にて連載された漫画だ。

皆さんは手塚治虫氏は児童漫画しか描いて居ない。例えば「鉄腕アトム」「ジャングル大帝」「リボンの騎士」「ワンダー3」などしか、子供向けの漫画しか描いて居ないと思って居る。その知識がある様に言って居る女性は何故、「手塚治虫」と呼ばれて居るのかが解っては居なかったのですよ。皆さん?.....。彼の本名は勿論「手塚 治」です。しかし彼は昔から昆虫マニアでした。だから日陰で一生懸命に生きて居る「オサムシ」を自分の治という名前に掛けて「治虫(オサムシ)」よって手塚治虫(てずかおさむ)と皆んなに読ませて居たのですよ。

彼は大人向けのアダルト・ポルノ・アニメ三部作も撮って居ます。「千夜一夜物語」「クレオパトラ」「哀しみのベラドンナ」です。この三部作は1968年ぐらいから1973年に掛けて公開され世界中で配信されました。今だに此の3作品は商品化されて居ますよ。1980年代にビデオ化されて、その後1990年代にはレーザーディスク化され、また低価格ビデオ化もされて、レンタルビデオ屋にも置いてあったし。今はDVDにも成って居ますしね。最近ではCS放送で「千夜一夜物語」と「クレオパトラ」は放映されましたよ。皆さんこう言ったアニメ映画を手塚氏が作って居た事も知らないでしょう?由緒正しい日本ヘラルド映画が配給元ですよ。ちゃんとした映画です。ポルノと言うから嫌たらしい映画だと思わないように。藝術的ですからね.....。

特に手塚治虫の片腕だった山本暎一監督の三部作の最終作「哀しみのベラドンナ」、この作品群はアニメラマと呼ばれて居ましたが「哀しみのベラドンナ」だけはアニメロマネスクと呼ばれ。エロチックではありますが、藝術的であり、サイケデリックな映像と佐藤允彦が作曲した丸で1970年代のプログレッシブ・ロックの様な神秘的で美しいメロディーの音楽は日本では1970年代にレコードになって居ませんがイタリアでサントラ・レコード化されて発売されました。ドイツやイタリア、フランスなどではCDになって今だに発売されて居ますよ。ちなみにこの「哀しみのベラドンナ」は2000年代にアヌシー国際アニメション映画祭で賞を受賞して居るし。1973年公開当時はベルリン国際映画祭で上映されました。

日本盤はDVDしか売っては居ないが。海外盤では4kリストラされたBlu-ray盤が売って居ます。私も購入して持って居ますよ。あの作品には4Kがよく似合う。私は手塚治虫を谷崎潤一郎やら、三島由紀夫と同等に評価して居ます。しかしそれはあくまで大人向けの作品群でね。その彼女の文を読んで居ると確かに本から得た知識はありそうだが、肝心な事が疎かにされてしまって居るなと思いましたよ。要するに能がある事を上機嫌で言って居ても、上辺だけの本の知識だけなのですよね。

私は彼女にはがっかりした。最後になりましたが。このアニメラマ三部作の予告編を挙げて置きます。「哀しみのベラドンナ」はこの後に挙げて居ますので。残りの2作品と「由紀さおり」が歌う「クレオパトラ」の挿入歌です。この曲は冨田勲作曲で中山千夏作詞のエキゾチックなるスキャットです。歌って居るのは由紀さおりです。聴いて見て下さいね。今見ると、「哀しみのベラドンナ」は今見ても凄いけど。他の2作品は単なる娯楽作品としての価値しか窺い知る事は出来ませんけどね。

 

千夜一夜物語

[アニメラマ]クレオパトラ_予告篇

Cleopatra No Namida

 

 

 

 

 

 

 

kiyasumeのハーモニカ・ソロです....。

 

 

 

 

母は絶対に私の美大の受験を許してはくれなかった。私とて馬鹿ではない、今時、画伯で食えるとは思わない。1975年当時ちょうど第2次アニメブームがやって来た。私は出来る事ならアニメ業界で働きたかったのだ。当時はイメージ・フォーラムなどや虫プロ映画祭で、世界中のアニメをよく見た。特にユーリー・ノルシュテンの「外套」を見て度肝を抜かれた。ロシアを代表するアニメーション作家、ユーリー・ノルシュテイン。主にセルロイドに緻密に描き込まれた切り絵を用いる短編アニメーション映画などで知られる映像作家である。ソ連→ロシア国籍の東欧系ユダヤ人である。彼は30年以上の歳月をかけてゴーゴリ原作『外套』のアニメーションを制作して居るが、しばらく撮影をして居ない。2019年6月、モスクワにあるノルシュテイン・スタジオ“アルテ”。おびただしい数のスケッチ、キャラクターパーツ、誇りをかぶった撮影台・・・。世界が待望する『外套』は何時、完成するのか。。。

1980年からゴーゴリの短編小説『外套』の制作が始めるものの、ソビエト連邦の崩壊による社会的混乱や政治変動と言った背景もあり、何度か制作が中断され、30年以上経った今も未完の状態となって居る。現時点では30分ほどの長さの作品が完成しており、毎年少しずつ新しいシーンを追加しており、作品を完成させる意思はあるようだ。現在もまだノルシュテインは『外套』の制作を続けて居る。この映画プロジェクトは数多くの財政トラブルや誤った発進を経験したが、現在は幾つかのロシア国内外のスポンサーから信頼出来る資金提供を受けており、少なくとも25分は完成しており、2本の低解像度のクリップが公開されて居る。映画の最初の20分はロシア美術館におけるノルシュテインのさまざまな展示内で上映されて居る。なお、完成作品は60分程度の作品になる予定だと言う。

 

 

外套(がいとう)

貴重!アニメの神様の制作風景-『ユーリー・ノルシュテイン《外套》をつくる』

 

 

 

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そして又、イメージフォーラムで観た。「哀しみのベラドンナ」である

絵画止め絵を中心にして、色彩アニメーションだったりして、美しかった。絵柄も非常に好みだし、水彩画アニメや油絵アニメなど、非常に手が込んで居て、今見ても美しさに圧倒される。哀しみのベラドンナはあまり動かないパートと、動きすぎる部分があるが、音楽と挿入歌の使い方が上手いから統一感あるし面白い。劇伴音楽もいいし、小林亜星の歌曲もアートとインパクトの両面で素晴らしい。阿久悠のドラマチックな作詞も最高だし中山千夏のナレーションと歌もいい。そして映画前編を通り抜けるサイケデリックな感覚がいいのです。まあ、エロスを追求したとも言えるアニメですが・・・・

 
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山本暎一インタビュー 
── 『千夜一夜』『クレオパトラ』でヒットを飛ばし、ついに『哀しみのベラドンナ』の制作が始まるわけですけれども。これは企画の成り立ちからして前2作とは、違うわけですね。『クレオパトラ』までのヒットを受けて、ヘラルド側は「その路線で3作目を」とは言ってこなかったんですか。
山本 もう少し虫プロが続いてれば、「この路線の3作目を」と言ってきたと思いますよ。『ベラドンナ』は、それとはまた別に、さっき言った『イエロー・サブマリン』の路線を、と言うのがあって始まったものだから。
── その別路線は、山本さんから提案した形なんですか。
山本 いや向こうから言ってきたんですよ。
── え、ヘラルドから言ってきたんですか! それは「前衛的なもの」と言うような言い方だったんですか。
山本 やや前衛的な要素の入ったもので。一般にも受けなきゃいけないんだけど、ちょっと前衛的なもの。
── エロチックなものと言うのも前提だったんですか。
山本 うん、それは客の入りがいいように。当時はまだ(大人向けアニメの)実績がないからね。エロチックと言うのは、必要な条件だったんですよね。それが3作、4作と出来た後なら、エロチックなシーンがなくてもいいんですけど。
── で、内容に関してはヘラルド側からは提案されずに、山本さんの方から出すかたちだったんですか。
山本 企画はね、結構いろいろ考えました。苦労したんだけど、最終的には「魔女」と言う小説みたいな、ドキュメンタリーみたいな、詩の本みたいなのを見つけて、それに基づいてやろうと言う事になったんですよ。とにかく、純粋に大人向きの大衆娯楽映画で、『千夜一夜物語』と『クレオパトラ』が、ごく一般向けのもの。それとは別の路線で文芸的な香りの高いもの、と言う事で、僕がやる事になった。企画は結構苦労しました。

 

 


英題は「Belladonna of Sadness」

                  

                

── で、かなり初期の段階で、イラストをカメラワーク主体で見せるかたちで作ろうというプランになった訳ですね。
山本 それは僕が考えたものです。ヘラルドは違うと思った様ですよ。違うと言ってもどう考えていたかは分かんない。要するに、あんなには止まらないだろうと思って居た様で。
── (笑)。でも、「虫プロ興亡記」だと、最初にイメージを伝えるためにカメラワークでイラストを撮ったようなものを観せたら、その反応がよかったと書かれて居るんですけど。
山本 最初のパイロットフィルム見たいたいなものを作ってね、渡したら、それは非常に反応がよかったんですよね。
── それも全然動いてない訳ですよね。静止画をカメラワークで見せてるだけで。
山本 うん、動いてなかったと思いますね。その時は「いや、これはこれでいいんだ」と思ったんじゃないかな。あの映画は一番最初に、白一色の画面に線が一本出て来てね、その線がいろんな風に形が変わって、キャラクターになって、色もだんだん増えて来て、と言う風に始まっていくでしょ。あそこからすでに実験精神ですよね。それで、どんどん押してしまった。
── 「魔女」を原作に決めてから、深井さんの起用までは、どのくらい期間があったんですか。
山本 これはすぐでしたね。もう深井さんしかないと言う感じで。
── その起用を決めたのは、山本さんなんですね。
山本 ええ。
── 深井さんを選んだ理由はなんだったんですか。
山本 若い頃に、深井さんは非常に変わった画を描いて居て、画のバリエーションが毎週変わるものをやって居たんですよ。僕はそれを見てて。
── それは媒体はなんだったんですか。
山本 雑誌の名前はちょっと忘れましたけど。
── 雑誌なんですね。
山本 ええ。大人の雑誌で。とにかく、画は抜群に巧いし、動物もいいし、何と言っても女ですね。だから、深井さんに決めました。
── 制作開始時に、深井さんに「現場に詰めてください」とお願いしたんですか。
山本 そうです。毎日は無理なので、1日おきだったかな。
── 深井さんはアニメーションの経験がまったくなかった訳ですが、山本さんとしては、どこまでのお仕事を期待してしたんですか。
山本 やなせさんと小島さんは、キャラクターデザインだけなんですよ。実際にフィルムにして行く段階では何もしてない。『ベラドンナ』は深井さんに(本編の画を)全部描いて欲しかったんです。でも全部は無理なんで、一部をアニメーターが手伝うと言う形で。
── 原画は深井さんで、アニメーターが動画を受け持つぐらいの感覚ですよね。
山本 そう。実際問題としては、とてもそんなにはやりきれないんで。結構アニメーターもやってますけども。原則的な考え方としてはそうなんですよ。1人のイラストレーターが全部を描いてしまうと言う。
── 動きのあるカットに関しては、実際に深井さんがお描きになったものを原画として扱って、アニメーターが中割をして居るんですか。
山本 ……そう言うシーンもあります。深井さんは動く絵は描かない訳です。元の絵は描きますけど。1枚描くだけで。
── その場合、深井さんが描いた画を、アニメーターがクリンナップして、さらに動画を描く訳ですか。
山本 そうです。深井さんの画をそのまま撮影してる所もあります。あるひとつのやり方で全部通してる訳じゃなくて、色んなやり方をミックスしてる訳です。
── 動きで見せるカットで、全く深井さんの元絵がない状態でアニメーターが作ってる所もあるんですか。
山本 いえ、それは無いです。
── 全カット、深井さんが何かしら描いてる?
山本 そうです。
── それはキャラクターが居るカットに関しては、と言う事ですよね。街の崩壊シーンとかは深井さんは関わって無いですよね。
山本 崩壊シーンは違いますね。
── 例の『イエロー・サブマリン』的な、色々なイメージが登場する所も深井さんは関わって無いですね。
山本 そうです。
── キャラクターが居るカットは、深井さんが何かを描いてると言う事ですね。
山本 ええ。崩壊のシーンについても、一番最後に空に骸骨見たいな人間が浮かんで居るでしょう。あれは深井さんが描いて居ます。
── (「虫プロ興亡記」を見ながら)此処に載ってる深井さんの原画は、動きを追ってますよね。此れを見ると、まるで要所要所で深井さんが原画を描いてる見たいですが。
山本 これは僕が描いてるんですよね。
── ええっ!?
山本 元を僕が描いたんです。(映画の後半で)ジャンとジャンヌに会いに来て、二人の気持ちが高まって、愛撫になって、それがベラドンナの花に収斂するところ、なんかをね。それで、それを深井さんに清書してもらったんです。まあ、いろんな実験的なやり方を、やってる訳です。だから、極端に言いますと、カットによってやり方が違うと言うかね。
── イラストレーターのウノ・カマキリさんが作画協力としてクレジットになってるんですけど。
山本 ウノさんはね、描いてもらったんだけど、1カットしか使ってないんですよ。
── どこですか?
山本 ペストが流行ってくる時のね、群衆の一つですね。人がいっぱい並んでる絵が一枚、1カット(笑)。それだけですね。
── さっきも話題になった、ベラドンナが悪魔と契った後に、イメージシーンが始まりますよね。あそこはコンテはどうなってるんでしょうか。
山本 大体ね、コンテと言うのもないんですよね。決まった形が。
── え、それは『ベラドンナ』全体として?
山本 うん。全体ね。大きな紙にいっぱい描いてるのもあるし、一枚の紙に数カットだけ描いた所もある。いろんなのがあるんですよ。
── コンテは、一冊にはまとまって無い訳ですか。
山本 まとまってないんですよ。まとめられない。だから、そこをどう言う風にやったかちょっと分からないんです。
── 『ベラドンナ』全体の構成は、山本さんの頭の中だけにある、と言う感じで作ってったんですか。
山本 そうですね。前の『千夜一夜』や『クレオパトラ』は、演出コンテを、つまりストーリーボードを作ってた訳ですよ。『ベラドンナ』では、これが全然ないんですよね。
── じゃあ衣装のデザインも、全部深井さんがやって居るんですよね。
山本 ええ。
── 時代考証的には自由に描かれてるものなんですか。それともある程度18世紀の風俗にのっとって居るんですか。
山本 そういう点では自由ですよね。ただ、「中世ヨーロッパに見える様にはしてくれ」とは言いましたけど(笑)。でも、ジャンが税金取る役人になった時に、サングラスをかけてたりするんですけど。そういう点は自由でしたよ。
── 深井さん以外の方が色を塗る場合、色の選択はどうして居たんですか。
山本 色はね、基本的に深井さんですよ。後で、他の人が適当に決めちゃったって部分もあるんでしょうけど、基本的には深井さんですよ。
── 『ベラドンナ』のフィルムのバージョンについて確認させてください。制作過程で作られたダミー版は別にして、ベルリン映画祭に持って行ったバージョン、最初に劇場公開された時のバージョン、劇場公開中にラストを変えたバージョン、後にリバイバル公開された時の女子高生バージョン、ポニーキャニオンでソフト化された時のバージョンがあるわけですね。
山本 最初はジャンヌが火あぶりになった後に、群衆の中に悪魔が立って居て、悪魔が笑って終わって居たんです。ですが、ベルリン映画祭に持って行った時に、それが不評だったので、日本に帰って気てから、そこを切っちゃったんです。
── ベルリン映画祭から帰って来てから、日本での公開だったんですか。
山本 いや、並行して居た(※編注:「虫プロ興亡記」によれば山本監督が帰国した時、すでに国内で公開中だった)。で、帰って来てから切っちゃった。だから、(封切りの)最初の頃に観てる人はそれを観てると思うけど、途中から消えちゃってるの。
── 劇場公開時の初めの頃には、悪魔のシーンもあるんですね。
山本 ある。
── フランス革命のくだりは、その時には無かったんですか。
山本 それは無いです。その後にまた封切りをしようと言う時に、今度は女子高生向けにエロチックなシーンを切った訳ですよね(※編注:女子高生バージョンとは、アート好きな高校生にも観て貰う為に手を入れたバージョン)。
── そのバージョンの最後が、フランス革命だったんですか。
山本 その時にフランス革命がどうだったかは、覚えてないですけどね。それからさらにポニーキャニオンのバージョンがあって、その時は、フランス革命がついて居るんですよ。
── 何時かは分からないけれど、新たに深井さんに作画をし直していただいて、ラストのフランス革命の部分が作られたんですね。
山本 うん。ポニーキャニオン用にそうしたのか、女子高生向けにもそうしたのか、そこがちょっと分からない。
── 悪魔が笑って終わる方が、お話的にはまとまりがいいですよね。
山本 いや、今の方(フランス革命で終わるバージョンの方)がまとまりはいいですよ。
── あ、そうですか(笑)。
山本 僕としてはその、悪魔で終わるやつはいいけれど、それ以後のバージョンは、違うなと言う感じがするんですよね。だから(認めているのは)一番最初のと、一番最後のバージョンか。
── 悪魔で笑うか、フランス革命か。その二つが、どちらも完成形なんですね。
山本 うん。
── 『ベラドンナ』のクレジットに、カメラマンの森山大道さんの名前が入っているんですが。
山本 森山大道さんは、中間に挟む実写を撮ってもらったんですよ。で、結局使わなかったんです(苦笑)。
── 使わなかったんですか(※編注:「キネマ旬報」1973年7月夏の特別号の「KINEJUN 試写室」によれば、第1回目の試写では森山大道による実写パートがあり、その後、カットされたとある)。
山本 最初は使いたかったんですけどね。まったく現代の女の人なんですよね。現代の女の人が出てきてセックスシーンなんかあるんだけど。なんか合わないなあと思って。申し訳ないけど、お手紙出して、カットさせて貰いました。
── クレジットされてると言う事は、結構な量だったんですか。
山本 そうです、結構あるんですよね。
── 悪魔と契った後に、ジャンヌが花畑見たいな所で目覚めますよね。あのシークエンスは、林静一さんが描かれてるそうですが。あれはグラスペインティングですよね。撮影台の上で直に描きながら撮影して行く。
山本 あそこは彼に頼みました。まず、基本的な作画をして貰った訳ですよ。普通の作画で。で、「これでいい。これを油(絵の具)で描いて来れ」と言って。
── あ! そうなんですか!
山本 だから、元はあるんですよね。
── それを下に敷きながら、あたりをとって、描いてるんでしょうか。
山本 下に敷いては居ないだろうけど、元になる作画はあるんです。
── あのシークエンスは、色も含めて林さんに任せたって感じなんですか。
山本 そうです。
── それから、いろんなイメージがめまぐるしく展開するところですけど。電車が走ったり、写楽が出てきたり、ゴルフクラブを振ったり(笑)。あそこはどなたが?
山本 あれはね、タカちゃんっていう。名字は児玉……。
── あ! 児玉喬夫さん!
山本 そうです。児玉喬夫。
── 児玉さんが作画からやられたんですか。
山本 ええ。実写に換えてあれを入れてるんですよね。
── そうなんですか。実写がなくなって、あのシーンが入ったんですね。いずれにせよ、あそこに強烈な何かが欲しかったわけですね。
山本 そうです。

 

 

 

BELLADONNA OF SADNESS - Official Red Band Trailer

Belladonna (1973)

 

 

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=哲学者「東浩紀」=

「東浩紀」の画像検索結果

 

 

東京三鷹市出身。学部時代の専攻は科学史、科学哲学であり、大学院時代の専攻は、哲学(現代思想、フランス現代思想)、表層文化論である。本人は「現代思想好きのオタク」を自認する。思想系の研究者としての道を歩む中で、情報社会論も専門として居るが、決して社会学者ではない。大学教員としては、東京大学大学院情報学環客員助教授、国際大学グルーバル・コミュニケーション・センター副所長・教授、東京工業大学世界文明センター人文学院特任教授。早稲田大学文学学術院教授などを歴任している。しかし、2013年3月に早稲田大学教授を退職して、同年4月以降は大学への所属はない。

小説家でもあり、サイエンス・フィクション作家である。日本推理作家協会賞会員。

 

 

【徹底討論】インターネット変革、でもバカはバカ?(堀江貴文・東浩紀・宮台 真司)

 

 

東浩紀の仕事は一貫して居る。彼は二十歳に下ろした批評「ソルジェニーツィン試論」から「存在論的、郵便的ージャック=デリダについて」を通過し、現在(とは言えもう過去の)の「思想地図ーアーキテクチャ」に至るまで、その一貫した仕事は、端的には人間、情報(より広範囲の)、構造(やや反復だが)に対しての興味に貫かれて居ると言えるのではないかと思う。その中で本書は彼の中心的出発点であると言える。(それは有る意味では、終点でもある。)

どう言う事か。彼は、当初、博士論文において「デリダとメディア」(「自由を考える」参照)との関連で様々な文献を調査して居た。その中で、博士論文として書き下ろしたのが本書であるが、本書を読めばいかにハイデッガーーデリダーフロイトにおいて東浩紀ー哲学者が見いだす存在論的脱構築、郵便的脱構築が我々の認識、欲望、構造に由来して居るかが分かるはずだ。

つまり、デリダの理論を通過し、無限の脱構築の世界に突入した彼は、極めて形而上学的な議論(デリダが形而上学的言説を脱構築しようとも我々の愚かな能力は再び形而上学する)の果てにポストモダンの社会を見事に描いて見せて居る。(かなり消極的にではあるが)改めて簡単に述べるなら、デリダの理論を有る意味では終点とし、開かれたポストモダンを新たな出発点(それも有る意味では終わりである)としたと言える。以上の事を受けての議論は「動物化するポストモダン」「東浩紀コレクション」「思想地図」等々のすべての著作において明確に具現化して居る。そう言った現代において、人文学が行き着いた先は自らの開かれた限界だった訳だ。(もしかすると、これはデリダが考えて居た脱構築の意味とは違うかも知れないが、)その現実を見つめつつ彼の行動を見ればすべてが理解出来るではないだろうか。(価値観は共有出来ないにしても、彼の議論は現実的だ。) 

 

「動物化するポストモダン」

70年代までの「大きな物語」が有効だった時代に対し、80年代はイデオロギーや「大きな物語」が消失し、その空白を埋めようとして生じた「物語」消費の時代となった。しかしポストモダンが全面化した90年代に入るとそうした「物語性」ではなく、深層にある情報(データベース)とその情報の組み合わせである「小さな物語」を消費するというデータベース・モデルに移行したと言う事。

では、70年代までを支配した行動原理・世界観とはどの様なものだったのか。

東氏は「一方には、私たちの意識に映る表層的な世界があり、他方にその表層を規定している深層=大きな物語」があり、70年代までの近代的世界観では「その深層の構造を明らかにする」事が求められて居たのだと語る。

例えば自分たちの身近にあった裕福な家庭と貧しい家庭。こうしたものもかってであればマルクスによる階級闘争に歴史の1断片として取り扱う事も出来ただろうし、それを克服するものとしての「共産主義」が信仰されただろう。あらゆる「小さな物語」は背景にある「大きな物語」の表象であり、常に「大きな物語」とつながって居たのだ。

しかしこうした「大きな物語」に対する信頼は、ベトナム戦争や共産主義国家の現実、あるいは「連合赤軍」の終焉など、70年代を通じて失墜して行く事になる。

現実には「大きな物語」は凋落して仕舞ったものの、とは言え「大きな物語」を求める心性はそう簡単に無くなるものではない。例えば79年から放送され未だに根強いファンを有する「機動戦士ガンダム」。この「ガンダム」のファンたちは単に「ガンダム」のストーリーを追いかけて居るだけではない。その背景に広がる「世界観」こそを求めており、それこそが《架空の》大きな物語として消費されたのだ。

こうした状況を大塚英志は「消費されて居るのは、1つ1つの<ドラマ>や<モノ>ではなく、その背後に隠れて居たはずのシステムそのもの」だとし、このシステム=「(架空の)大きな物語」を消費する為に、1つ1つの「小さな物語」=「1話」やそれぞれの「商品」を購入する様子を「物語消費」と呼んだ。これが80年代のスタイルとなった。

しかしこのモデルはポストモダンの本当の姿ではない。連合赤軍が「理想の時代」の終焉を告げた様に「オウム事件」が「虚構の時代」の終焉を告げる事になる。

90年代に注目を集めたものとして「萌えキャラ」がある。こうした萌え系のキャラクターは、メイド服、ネコ耳、ネコしっぽ…。などの形式化した「萌え要素」の組み合わせで構成されており、オタクたちがそうした萌えキャラに「萌えた」のは、キャラクター(シュミラークル)への盲目的な没入や感情移入と同時に、その対象を「萌え要素」に分解しデータベースの中で相対化しようと試みたからだった。

「同人誌」やマッド・ムービーの制作など、本来の「ストーリー」とは別に、個々の要素を抽出・マッシュ・アップし、盗作やパロディやサンプリングとは違う原作と同じ価値をもつ「別バージョン」を生み出そうと言う欲望が背景にあったのだ。

此処にポストモダンの行動原理である「データベース消費」の構造が見られる。萌え要素のようなデータベース(大きな非物語)から必要な「情報」を読み込み、「小さな物語(シュミラークル)」を作り続ける。それは近代のツリー・モデルのように「小さい物語」の背後に「大きな物語」がある訳ではない、そこにあるのはあくまで意味を持たないデータベースであり、即時的な「小さな物語」が無限に生産・消費され続けるのだ。

こうした変化は「大きな物語」が失われた後に登場した「日本的スノビズム」から「動物の時代」へ移行したと言う事も出来る。コジェーヴによれは人間は「欲望」を持つが動物は「欲求」しか持たないと言う。「欲求」とは、空腹→食べる→満足と言う様に、ある対象の欠乏とそれを補う事で完結する単純な回路だ。これに対して「欲望」は満たされる事がない。

学校で1番の美人を彼女に出来たとしよう。それで満足するかと言うとそうではない。彼女に自分の事だけを思って欲しいとか、他人から羨ましく思って欲しい・自慢したいとか「他者の欲望を欲望する」という間主体的な感情を持って仕舞う。これを動物的な「欲求」と対比して「欲望」と言う。

かっての様に深層に「大きな物語」が存在しない以上、ポストモダンに生きる人々が「生きる意味」を与えてくれるのは表層の「小さな物語」だけである。データベースは意味を与えてくれない以上、そこから紡ぎ出される「小さな物語」によるお手軽な「感動」を楽しみ、感情移入するしかない。こうして「ポストモダンの人間は『意味』への渇望を社交性を通しては満たす事が出来ず、むしろ動物的な欲求に還元する事で孤独を満たして居る。」「世界全体はただ即物的に、誰の生にも意味を与えず漂って」居るのだ。


---
今、この著を読み返す意味は、1つにはインターネットを含めた現代の状況を確認する事だ。此間読んだ「東京から考える」では、経済のグローバリズム化や消費社会の進展にともない都市そのものも動物化した時代に即した「ジャスコ的郊外」が広がって行くとあった。

確かにそうだろう。インターネット上でのサービス・IT技術の進展はそうした状況をますます加速させるのだろ。人は便利なものに慣れ、手軽じゃないないものは避けるかも知れない。エンターテインメント分野では1つの「ヒット」をもとに要素の組み合わせで無数の類似作品が生み出されるかも知れない。

しかし同時に20年代に来た今、それだけでは物足りない動きも感じられはしないか。コロナによる弊害から生まれるものも出て来て居る。

 

ーーーーーーー

以上過去blogの記事からでした。少しだけ修正し、追加文を新しく一部分加筆しました。。。。

 

コメント一覧

kiyasume
chorus-kazeアッコさん、書き込みどうも有難う御座いました。
手塚治虫は天才でしたね。彼が居なければ日本の漫画もアニメも無かったですよね・・・・・・・・。

「ブラック・ジャック」は天才的な手術の腕を持ちながら、医師免許を持たず、法外な治療費を請求する悪名高い外科医。 毎回、ほかの手塚治虫漫画のキャラクターが登場する読み切り連作シリーズでした。 医学漫画の先駆けともなった手塚治虫後期の代表作ですね。

此の作品はアニメ映画化をされて居ますよね。テレビ・アニメ化も、しかし私は、テレビ・アニメでは無くて出崎統監督が撮ったOVAシリーズの方が好きですよ。どの作品も名作ですからね。此処にその中から1話だけ上げて置きますね。観て見て下さいね、、、


https://www.youtube.com/watch?v=sqWkhJRER2Q&t=692s


「ブッタ」は潮出版社の少年漫画雑誌『希望の友』にて、1972年から1983年まで連載されて居ました。 一般に“釈迦”・“仏”・“ゴータマ・ブッダ”等と呼ばれる仏教の開祖で、釈迦族の王子ガウタマ・シッダールタの僧としての生涯を描いたものですよね・・・・・・・・。♪( ´θ`)ノ

そして、手塚治虫本人が、かなりフィクションを入れたと言って居る様に、「ブッダ」には、お経に説かれて居ない創作部分が沢山あります。其れから此の「ブッダ」は2010年には3部作がアニメ映画化されて居ますよね。。。下は映画の予告編です。。。


https://www.youtube.com/watch?v=U0fjCreDCLs&t=322s


此処の処、寒くなって来ました。十分に体に気を付けてお過ごし下さいね。また来て下さいね。其れではまた。。。。( ´∀`)
chorus-kazeアッコ
こんばんは。
手塚治虫さんの漫画で、既に手元には無くなっていますが
「ブラックジャック」と「ブッダ」というのを持っていました。
ブラックジャックは、特に医学部の人たちがこぞって読んでいたようです。
「ブッダ」も、いつからかうちの家から無くなっていますが
お金持ちのうちに生まれて育ったお坊ちゃんの、俗名を
ゴータマシッダルタでしたっけ、お釈迦様が出家する下りを
読んだ記憶がありますが、紛失して以来読んでいません。
何巻かになっていたように思います。
手塚治虫さんって凄い方ですね❣️
kiyasume
矢張り単行本化当時に買って貰ったのですね、、
いや、セル画は、弟が自分で描いたのですよ、、、

あいつは絵が上手かったから、特に鉄腕アトムとユニコは
上手かったですね・・・・・・・・。色もちゃんと塗って、、
文化祭に出展して居ましたよ・・・・・・・・・。

そうですね、弟は今から5年前に亡くなりました。
48歳の若さでした・・・・・・・・。(● ˃̶͈̀ロ˂̶͈́)੭ꠥ⁾⁾


「ユニコ」と「ユニコ魔法の島へ」は確か、サンリオ作品だったと
思います、TSUTAYAで借りる事が出来ると思います。。。
あとDVDで無ければ、NetFelixで見られるかと思いますよ、、
パソコンかテレビで鑑賞出来るはずですよ。。。。♪( ´θ`)ノ

「銀河鉄道999」はドルビーアトムス・プラス、確か4Kで今月から
劇場公開の再ロードショーが控えて居ますね・・・・・・・。( ´∀`)

まあ、親父はねぇ、、訳解らない事しかしない人だったから、、
老人は扱い難いですよ、何時の世もね、、訳解って居ないから。
だから若者から老害と悪口言われてしまうのですよね、、

また来て下さいね。訪問書き込み有難う御座いました。。。( ◠‿◠ )
101000dotline
kiyasumeさんが、この日のページで紹介してくださっている、銀河鉄道999は、無事再生できました。
ありがとうございます。

メーテルは神秘的ですよね。鉄郎の、銀河の鉄道の旅。宮沢賢治さんの世界の映像化のような、美しいアニメーション作品、私も、子供のころ怖がりつつも楽しみにしていました。

kiyasumeさんは、口では「バカ」とお父様のことを表していらっしゃいますが、筋のとおった、凛としたお父様でいらっしゃったのですね。
101000dotline
kiyasumeさん、早速のお返事、有難うございます。
お医者さんだった弟さんは、やはりお亡くなりになったのですね…

鉄腕アトムは、アニメ世代です。
ユニコとアトムのセル…都会は、当時からいろいろなものが売っていたのですね!田舎暮らしから見ると、魔法のような世界です。
図らずも思い出させてしまったのですね。
何と言葉を紡いだらよいのか、言葉に詰まります。

映画が2本公開されていると教えていただき、感謝申し上げます。

地元でも借りられるか検索してみます。
ありがとうございました(^o^)/(*^ー^)ノ
101000dotline
kiyasumeさん、

こんにちは!

そうですね!単行本化当時に買ってもらいました!
kiyasume
101000dotlineさん、書き込みどうも有難う御座いました、、

「ユニコ」は一角獣=ユニコーンの子供ですよね、、
確か1976年当時の連載だから、手塚氏の中では、
半ば頃の作品でしょうか・・・・・・・・・・。

単行本化は1983年だと言う事なので、その頃に、、
買ってもらったのでしょうか・・・・・・・。

私は、此の作品は通り一遍しか知りません、、💦
ユニコはその後、単行本化する前に
1981年には映画「ユニコ」が公開され
1983年にも「ユニコ魔法の島へ」が公開
されて居ますよね。

私の亡き弟が、よくユニコと鉄腕アトムの絵をセルを買って来て、
色を付けて描いて居ましたっけ、、懐かしいです・・・・・・・。

また来て下さいね、、、(๑>◡<๑)
101000dotline
こんにちは、こちらのblogでも、ご挨拶させていただきます。
101000dotlineです。

記事のなかで、手塚治虫先生のお話が出たので、私が、現在66才の叔母に、子供の頃人生で初めて買ってもらった漫画のことについて、書きますね。
当時の地元の書店で買ってもらったのが、「ユニコ」です!

ユニコ|マンガ|手塚治虫 TEZUKA OSAMU OFFICIAL


面白かったです。

ユニコは、ユニコーンの事なんですよねp(^-^)q
kiyasume
そうですね、、「哀しみのベラドンナ」は懐かしいです、、
と言っても私は、輸入盤の4Kレストラ盤のBlu-ray
を所有して居ますが・・・・・・・・・・。

私がビデオソフトで初めて購入した映画なんですよ、、

以来、レーザーディスク、DVD,そして4Kレストラ盤と
購入して来ました。作画監督をした深井国さんは最高の
仕事をしてくれましたよね。声優も、仲代達矢、長山藍子、

米倉斉加年、中山千夏と豪華でした・・・・・・・・・・・。


そうですね、深井さんは推し絵を書いて居ましたよね、、
ハヤカワSF文庫懐かしいです。私はアニメ映画で一番最初に
観て居て、欲しいと思った作品でした。あの深井さんの絵柄と
音楽を担当した、、

佐藤允彦のプログレチックな音楽が好きですよ・・・・・・・。

この映画は1970年代にイメージフォーラムと虫プロ映画祭で
上映されたモノと、あと映画小屋でフランス公開バージョンの
現存する公開バージョンの3作品を見て居ますよ、、

本当に昔だから、あの悪魔は表現できたのでしょうね・・・・・・。
あの悪魔のせいでおそらくは民放でベラドンナが罹らないのだと
思います(笑)3バージョンはラストが違ったものやら、、

途中がカットされたものやら、、当時の資料には、スタッフの中に「実写撮影」
の役職で前衛的な作品で知られる写真家の森山大道の名がありました。
実は当初、劇中に実写パートが挿入される予定であり、そこに彼が撮った
映像を使うプランだったと言われて居ます。

まあ、私は幸いにも現存する3バージョンの「哀しみのベラドンナ」の
映画を観ましたから、、ただ、4Kレストラ盤のBlu-rayが一番いいですね。

また来て下さいね...。宜しく。。。。(๑>◡<๑)
mobilis-in-mobili
懐かしいですね、哀しみのベラドンナ。
アニメの原画を描いたのが確か深井国画伯だったはず。この人の描く表紙絵欲しさにハヤカワのSF文庫(フィリップ・ホセ・ファーマーの階層宇宙シリーズとか)を買い漁った記憶があります。
仲代達也が声を担当した悪魔は、よくボカシが入らなかったものだと、思います。
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