今回の記事を最後に暫くまた、更新を休みます。期間はどの位になるかは解りません。また本当に調子が悪いです。毎日、身体が不調で寝て居ます。其れに、書く事ももう無いのですよね。今までは過去記事を修正したものに、少し最近の事を書いて居ましたが。私は、ほぼ最近は外にも行かないし、このblogを書いて居ると人から嫌がらせもされるのですよ。例えば、詩人の、にのみや・あきらさんは友人ですし、お互いに了解しあって居るからいいのですけど、彼が私とのコラボをしてくれたら、自分もどうだと言う人が現れまして。その人は、何の事は無い。私の名を使って自分のblogに人を集めたかっただけでした。まあ、始めから、そうだろうとは思って居ましたが、、仕方が無いですね。にのみやさんの場合はちゃんとした経歴がおありな方だから、コラボしても上手く行きましたが・・・・。
私を出しに使って自分の利益にしようと言う考えでは所詮は上手くは行きません。だから私はその人のblogに行くのはもう辞めました。其れから私のblogを見に来て居るひさえさん。何故、あなたのblogで私の書き込みが出来ないのでしょうか???。そしてリアクションボタンも押せない様にされて居ますね。あなたが嫌なら私はもうあなたのblogには行きません、失礼ながら、何か理由があるならその旨を掲示板に書いて下さいね。私に不満を持って居る、一部の方には今後来て頂きたくはありませんから。失礼ながら、此れらの事が守れない方はgoo事業部に通報致します。前にも私に難癖を付けて来た人が居たので通報したのですよ。その結果その相手のblogは削除されました。私は此の事は私に反感を持って居る一部の人に限って言っております。人の悪口を延々と言って居る人も居ます。仲良く出来ないのなら私としてはそうするしかありません。ご了承を、、
Break Down Live At Supermarket
此の間、銀行に行ったので、近所の喫茶店に入って、カマンベルチーズとビーフのサンドにマフェインそしてカフェラテを注文したのだが、トレイに乗せて置いて。空いて居ると思った席に行って、コートが片方の椅子に掛けてあるのを見過ごして、テーブルにトレイを置こうとしたら、50歳ぐらいのオバハンに英語で語り掛けられた。私は「えっ?」となって仕舞ったら、その人が今度は日本語で言って来た。「此処は席取ってあるのですけど、コートを椅子に掛けてありますよ」と言うので、そうかと思い。「すみません」と言って。大きな5人がけのテーブルに腰を掛けて食べ始めたが、隣に座って居た68歳ぐらいの初老の男が、私を怪訝そうな顔をして見て居る。多分髪が長いせいだろう。この21世紀ですら、長髪を嫌う人は居るものだと、こっちが逆に呆れた。
私は食事をしながら、その隣の初老の男の様子を何気なく見て居たのだが、何とその人は、携帯電話にスマホ、タブレット端末にノートパソコンを開いて見て居るでは無いか。私は「何だぁ〜いったい?」と思い見て居たら。携帯に入って居るメールを見ながら、スマホで調べ物をして、ノートパソコンから返事を送って居た。まぁねぇ、、何で携帯から返信メールを送らない。スマホで調べものをして居たらタブレット端末やら、ノートパソコンは必要無いでは無いか?何もったいつけて全ての通信機器を総動員して、携帯のメールを送って居るのだ?私は笑って仕舞った。携帯を今、まだ持って居るのも珍しいが。携帯に届いたメールならばそのまま携帯から返信をすればいいだけだ。それをそのメールを読んで、返信文をスマホで考えて、そしてノートパソコンから送って居るのだ。殆んど無駄な作業だ。そしてタブレットは何に使うのかなと思って見て居たら。携帯に届いたメール文をタブレット端末にその内容を書いて居るのだ。
私は「この親父、何考えて居るんだ?」とこっちが訝しがってその作業をずっと見て居た。大体がノートパソコンがあるならそれで全てやれる事だ、最近ではタブレット端末にキーボードを繋げれば、ノートパソコンの代わりにもなる。そして最新鋭のスマホはもはや、ノートパソコンの役割を肩代わり出来るだけの性能はあるのです。おそらくは金を持って居る金持ちだろう。仕事関係で使うのであれば、ノートパソコンは自宅用にして。タブレット端末に別売りのキーボードを付けて。スマホだけを持てばいいのでは無いか....。そうすればタブレット端末だけで事は済む。私もパソコン。iPad。スマホと思っているが、iPadはもう古い機種なので最近は使って居ない。iPadは1号機。2号機と所有して居ます。何故持って居るかと言うと。亡くなった弟が私の為を思って購入してくれたのですよ。思い出のタブレット端末だから使って居なくても手放せないのですよ。
それに私は携帯に写真を入れないで、iPadに入れて居た。だから処分出来ないんです。今、iPhone8を使って居ますが。矢張り写真は入れては居ない。何故ならデジカメを持って居るから。最近はスマホで皆さん写真を撮るから、デジカメは高性能のものが本当に安く手に入りますよ。私はデジカメ派です。私が写真を撮る用途はほとんどがblogにアップする事に使いますから。スマホに写真を撮り溜めると言う事はしませんよ。だから幾らいいカメラがスマホに搭載されて居ても私に取っては宝の持ち腐れですよ。ただね、最新鋭のiPad・Airとキーボードを揃えて持ちたいですね。まあ、夢ですが、、、確かにスマホがあればいいのでして、ただ大画面で見れるのと、キーボードが付けばもう、ノート・パソコンですよ。セカンド・パソコンとして欲しいですがね。まあ、買えませんね、そして、その親父は、私の方を向いて突然、「最近の若いものはなっとらん、、」と言うので、私は「ああ、俺も今年で63歳だよなぁ」と言ったら、驚愕の顔をして、「歳行って居るのに若作をしおってからに・・・・。」と言いながら全財産をキャリングケースに収めると喫茶店を後にした。私は一言言いたくなった「此れだから年寄りは....。」と、
=自分の生き方について=
何をしても何をしなくてもこの世に答えなんて無い。何が正解で何が不正解なのかなんて誰にも解らない。正解が無いのだから正解を求める必要もない。正解を求める位なら自分の信じるものを信じればいい。自分の信じたいものを信じればいい。だって正解は無いのだから。他人に何と言われ様とも自分の信じる道を進めばいい。その道を進んで行って自分が納得し満足出来たのだとしたらそれは自分の中での正解だ。逆に正しい道へ進んで行ったとしても、自分の納得する選択が出来ずに悩んで居たとしたら、それは本当に正しい道かどうかは分からなくなって仕舞うだろう。他人の意見など全く関係ない。客観的な意見なんて全く関係ない。正解不正解なんて関係ない。ただ自分の信じる道を進めばいい。その自分の道を進んだ結果、自分が後悔したとしたら反省すればいい。
自分の信じた道に進んだ結果失敗したのならそれはきっと自分では納得出来るのだから。自分がそうしたいと思うのならそうすれば良い。自分の信じたものを信じろ。そして自分自身を信じよう。信じたく無いものや信用出来ないものを信じて、その結果裏切られたとしたら本当に後悔するだろう。自分の信じる道を進む事が一番自分に取って後悔のない納得する人生を送る為に必要な事。答えが無い世界の中で何かを求めるのなら自分が信じるしか道はない。答えが無い世の中なのだから答えをどんなに探しても見つからない。答えが無い世界で答えを探すには自分を信じる他ない。自分自身を信じ、自分の選択した道を信じる。それが答えの無い世界で答えを探す事が出来る唯一の道だ。仮に答えを探し出す事が出来ても、その答えが本当の答えかどうかなんて誰にも解らない。その答えが正解かどうかは自分自身が決めるしか無い。だから何も気にする必要はない。全て自分が選択し自分が答えを導き出せば良いだけの事。己を信じ、己の道を信じよ。それが自分に出来る唯一の選択なのだから。
The Animals - House of the Rising Sun (1964) HD/Widescreen ♫♥ 55 YEARS & counting
The Beatles - Don't Let Me Down
人間は自分で考える事を辞めて仕舞えば、他人軸や世間の評価ばかりに合わせて生きて仕舞うものです。自分が解ら無いと言う人が増えて行くのも、自分と向き合う事もしないで、他人の事ばかりを気にして居る事で、ますます増えて行く様に思えます。自分が自分自身と正対し自分を丸ごと認める事なしに、他人から認めて貰いたい事ばかりを求めても、自分の道を歩んで居る事にはなりません。自分自身の道を深めて行くと言う事が物事を実践する事であり、自分の道を往く中で、それぞれ人として大切な事を修得して行く様にも思います。
松下幸之助氏に自分の道を歩む事の大切さが語られた詩があります。
「自分には 自分に与えられた道がある。天与の尊い道がある。どんな道かは知らないが、他の人には歩めない。自分だけしか歩めない、二度と歩めぬかけがえのないこの道。広いときもある。狭いときもある。のぼりもあれば、くだりもある。坦々としたときもあれば、かきわけかきわけ汗するときもある。この道が果たして良いのか悪いのか、思案にあまる時もあろう。なぐさめを求めたくなる時もあろう。しかし、所詮はこの道しか無いのではないか。あきらめろと言うのではない。いま立っているこの道、今歩んでいるこの道、とにかくこの道を休まず歩むことである。
自分だけしか歩めない大事な道ではないか。
自分だけに与えられて居るかけがえの無いこの道ではないか。
他人の道に心を奪われ、思案にくれて立ちすくんで居ても、道は少しも開けない。道を開く為には、まず歩まねばならない。心を定め、懸命に歩まねばならない。それがたとえ遠い道の様に思えても、休まず歩む姿からは必ず新たな道が開けて来る。深い喜びも生まれてくる。」
自分の道に気づくのは、自分の道を覚悟した時かも知れません。その姿勢が本当に自分が受け容れた道であるのなら、この道を歩ませて頂きたいと言う謙虚な心が定まる様に思います。こんなはずではないとか、もっと出来るとか、環境さえあればとか無いものねだりをしては、他人の道を羨み自分自身の事を自分自身で深掘って行こうとしないでは、自分自身の事が解るはずがありません。自分自身の事が解ると言うのは、自分の心が解って来ると言う事です。自分の心を大切に生きて居る人は、必ず自分自身の事が結ばれて行きます。自分と自身が結ばれる時、人は他人軸が気に成らなくなり本当の自信を持てる様になります。
自信とは何か、それは結果が出てから持てるものでもなく、評価されたから持てるものでも無く、それは自分が自分を信じられる時持てる様になるものです。その為に信念があり、その信念によって磨かれて磨がれて居るうちに本物の輝きを放つ様になると私は思います。
サイモン&ガーファンクル『明日に架ける橋』和訳 歌詞
サウンド オブ サイレンス
Simon & Garfunkel - Scarborough Fair/Canticle (Audio)
Simon & Garfunkel - Mrs. Robinson (Audio)
〜最近の自分〜
私は最近体調が良く無い。薬の後遺症で午後1時を過ぎると眠くなって仕舞う。だから何時も午後1時過ぎから夕方の4時までは寝て居る。そして夕方5時に夕飯を食べてから、パソコンに向かってblogを見たり更新したりして居る。ネットも見る。お陰で夜遅くまで起きて居る。テレビは最近は余り見ない。と言うのは見たい番組は皆んな、Blu-rayレコーダーのHDDに取り溜めて居るからだ。私はテレビに振り回される生活は嫌なのだ。だから取り溜めた番組を後からじっくり見る。そして残して置きたい番組だけをBlu-rayに焼く。私は高校まで自分の部屋らしい部屋は無かった。中学の頃は自分の部屋が無くて廊下の踊り場に机と椅子を置いて、自作のスピーカを一つ置いてその上にラジカセを置き、そしてラジカセの音を音が良い自作のスピーカーに繋いで聴いて居た。その当時、同級生で益田と言う男が居た。彼の家はお金持ちで、彼は8畳間の部屋があり、ステレオがあり。16型のテレビがあり。エレキギターを持って居た。そしてラジカセを持って居た。その同級生の親は弁護士だった。一度父親の本棚を見せて貰ったが、哲学書のラテン語で書かれた本やら。六法全書。経済書。趣味の本やらが置いてあって、私は自分の参考にさせて貰ったものだ。しかしその息子である友達はダメだった。エレキギターを買って貰って居るのに自分では弾く事が出来ずに、何時も私が遊びに行って弾いて居た。彼はレコードも月に5枚ぐらいは買えた。小遣いが多く貰えて居たからだ。
彼は何時も私を指標として居た。私のやる事は皆、真似た。私がロックを聴いて居るから自分もロックが好きになり聴き始め。そして私が絵を描いて居るから、イラストを描き始めた。しかし、ある時に、学校の教室で私に突然腕を絡ませて言った。「俺は何でお前に勝てないんだ!!」それは鬼気迫って居た。それはそうだろう。そいつは主体性が何も無かったからだ。そいつが得意になって私に見せる事は、すでに私が経験して居る事だらけだった。そのうちに私がブルースを聴き始めると、「ブルースってどんな音楽だ。お前がエアチェックしたカセットテープを俺に寄越せ!」と言って来た。私は「もうこいつと付き合う必要は無いな・・・」と思い。それ以降、付き合わなくなった。要するに他力本願なのである。その後、彼は私に、自分の書いたイラストを得意に成って見せた。私は言った「上手いじゃない」するとその一言で、ようやく自分の本当に好きなものが判った様だった。それ以降彼は漫画雑誌を収集し始めてちょっとした漫画博士になった。私が高校生になってそいつの部屋を尋ねると。部屋には日本中の漫画本があるのかと言う位、漫画本に溢れて居た。しかし「ガロ」と「COM」は無かった。私は思った。親が子供に金を渡しても、子供に何も才能がなければ、その金は無駄金にしか成らないと....。
私は高校になると部屋を貰えた。実家の6畳半の鰻の寝床の様な部屋だ。私はアルバイトでモジュラーステレオと新しいラジカセを買った。そして音楽を聴いて居た。月日は経ちバンド演奏の為に楽器が加わり。テレビとビデオデッキがそれに加わった。そして映画を収集し始めた。今、私はその頃から引き続いて映画の収集。音楽の収集をして居る、子供の頃に培った経験は一生に渡って続くものだと思う。私は何時からか哲学書も読むようになって行った。所蔵の本の半分は哲学書です。私は持病を抱えては居るが、今の生活で満足だ。こうやってblogを書き。音楽を聴き。映画を見て、読書をして、ブルースハープを吹く。確かに若い頃の夢は潰えたけど、それはそれで・・・、そして此れで良かったのかとも思う。何故なら、私は障害者だ。普通は障害を持てば色々と文化的な事は出来無くなるのだから。よく訪問看護師に「〇〇さんは自分の趣味があるけど、普通の患者さんには何も無いですよ」と言われる。私は中学の頃までバカな同級生に付き纏われた。私がロックが好きで、テレビの音楽番組を観ようとすると、決まってサッカーをやろうと言って来る。私は彼らにロックのレコードを貸した事がある。しかし彼らは解らないのだ。私はお陰でサッカーが嫌いになった。野球は親父がテレビで応援して居た。特に大リーグ。「ゴッジラが吠えるぞ〜」と松井を見て言って居る。私はそれで野球も嫌いになった。
私の周りには知的な人。魅力がある人。私の参考に成る人は居なかった。私は何でも自分で身に付けて行った。高校の頃はギターを弾いて居た。中学の終わり頃に漫画研究会に入った。その研究会の先生がロックが好きだったのだ。私は先生から「何か楽器をやったらどうだ」と言われた。私はギターを選んだ。高校になってブルースを聴く様になってから、エレキギターを弾き始め、高校3年間はロックの曲も弾いて居たが。本格的にブルースを弾く様になって行った。そして大学の頃はそれプラス、ジャズを勉強し出した。そしてそれと並行してブルースハープも吹き出した。しかしギターは限界が来た。私には余り合って居なかった様だ。ジャズギターとブルースギターを掛け合わせようとして失敗したのだ。そして大学の時にある事から精神障害を持つ様になって仕舞った。音楽は諦めなくては成らなくなって仕舞った。私は持って居たギター。エレキギター2本とフォークギター1本そしてベースギターを楽器屋に処分した。ブルースハープは当時使って居たものは粗方壊れて仕舞って居た。それで音楽は諦めたはずだった。しかし、それから18年程して、ブルースハープだけはもう一度やろうと思い、楽器屋で全セット12本をまた買い込んだ。そして今だ。ブルースハープは単純な楽器だが奥が深い楽器だ。管楽器だから勿論、息を吹き込んで音を出す、だから体調が悪いと演奏はズタボロになる。それ以来ブルースハープを演奏するのが生き甲斐です。この先どれぐらい演れるかは解らないけど、恐らくは死ぬまで吹いて居る事だろうと思う。さて、もう夕食の時間だ。戯言は此の位に仕手置きます。
趣味がない大人に贈る!一生ものの「自分らしい趣味」の見つけ方
13. 大人の習い事 テンホールズハーモニカ ( ブルースハープ ) 教室 /ハーモニカ バラエティー HAMONICAFE(ハモニカフェ)
While My Guitar Gently Weeps (Taken from Concert For George)
URIAH HEEP JULY MORNING 1972
URIAH HEEP - Sympathy
Ziggy Stardust | David Bowie
処で、今、不動産管理会社から、電話が掛かって来た。出て見たら、何か険悪そうな声だ。「あのですね。12月分の家賃がまだ振り込まれて居ないんだけども!!」と可也手厳しい。私は振り込んだ気になって居た様だった。今、通帳を見てみると振り込んだ形跡が確かに無い。多分言われた通り振り込んだつもりになって居て、振り込んで居なかったのだろう。この間は月も五日にもなって入って居たと言って居たが、言い訳をしようとしたが辞めて於いた。確か月の終わりの連休と月初の連休が重ねって、私は30日には振り込んだのだが銀行のその間、連休と言う理由で5日に遅れて振り込まれたのだ。不可抗力だったのです。銀行が遅らしたのだから.....。
まあ、私のアパートの大家は結構厳しいのです。だから「明日振り込む」と言ったら。「来月の分もちゃんと今月の30日に振り込んでくれ」と言うので、「明日、来月分と纏めて2回分振り込む」と言った。そうでもしないとあの大家は機嫌が悪くなるだろうから。まあ、私の方が心配だ。来月分も振り込むのだから。家賃は5万だ、合わせて10万だ。大家にして見れば纏った金が入るのでホイホイだろう。そう言ったら、不動産屋はホクホクな声を出して居た。人生、金が全てだ。それは余りに侘しいと言う人も居るだろうが、金が全てなのですよ。人生も人付き合いも。出世も。寿命も。趣味も。全ては金です。私の母は下宿屋をして居たが、その事を身体で覚えたのは父の実家に居た時でした。まだ自分ら夫婦は家が持てず、父方の実家で暮らして居たのです。母は、姑がやって居た下宿屋を姑と共に切り盛りして居ました。
ある日、下宿人の大学生が、下宿代が払えなくなって下宿代を1円負けろと言ったそうです。たまたま1円無かったらしい。姑はその学生に怒って言ったそうです。「1円ぐらい、どうとでもなると言う甘えた根性が嫌だ。あんたは下宿を出て行きなさい!!」そしてその学生は出て行ったそうだ。私は母が実家で下宿屋をやって居たので、金の大切さは身を持って知って居るつもりだ。でも、私はケチケチはしない性分です。勿論お金は大切だし。節約は考える。だが、掛かって仕舞ったお金は高額でも仕方がないと思って居る。前にもblogで書いて居るが。物事半分も叶えばそれでいいと思って居る。つい、前に、夏場に買って居た長袖のシャツを着ようとしたら。サイズが小さくて入らない。私は普通Lサイズだが、Mサイズの様に小さいのだ。私が太って仕舞ったからかと一瞬考えがよぎったが、そうではなくそのシャツの作りがLサイズでもMサイズぐらいの大きさなのです。
そこは若者向けのネット・ブティックですが、シャツは初めて購入したのです、私は諦めた。最近は外資系の会社が多い。服などは殆どが外資系だ。私はユニクロと日本のメーカーが経営して居るブティックでもシャツを購入して居た。5着のうち、2着が小さくて着られなかった。安いシャツだが1着1千3百円です。2着だから2千6百円の損だ。私は捨てるのはもったいないし、どうしようかと思って居た。まだ腕も通して居ないのだ。だから私は、訪問看護婦の若い女の子が旦那が居ると聞いて居たので、上げる事にした。彼女は散々貰えないと言ったが。貰えないと捨てる事になると言った。「古着屋に持って行けば」と言うが。私は以前、買取業者を頼んだ事がある。そうしたら服やらシャツなどは有名ブランド物しか引き取らないのだ。よく何でも引き取る業者が居ると言うが。大抵はタダで引き取るのです。UNIQLO、GUのシャツなぞは、絶対に引取りませんよ。
今、流行りの古着屋に持って行くのはいいけど。電車賃で足が出る勘定です。こう言った場合は身近な人に挙げるのが一番です。まあ、2千6百円の損ですが、外で美味しい物でも食べたと思う事にしました。私の母は、物を買うときにケチるなと私に教えて居ましたねぇ、、私は小心者なので、初めてカラーテレビを購入しようとした時に、14型のものを購入したのですが、母に怒られました。「後1万円ぐらいの処で、ケチって14型のテレビを買うよりも1万円出して16型のテレビを買った方が良かった」と言われました。そして「お金を掛ける時には、躊躇せず、多めにお金を掛けなさい」と言いましたよ、「お金は掛けただけある物が手に入る」と教えられましたよ。安物買いの銭失いにはなったら行けないと、
だからカード決済などもリボ払いなどは持っての他。一括で払えと言われた。月賦も勧めないと言われましたね。理由は、つい、月賦だからと複数の品物を購入して仕舞うから。私は持ち金で暮らして居ますが、お金にこそこそはして居ませんね。掛けるときはお金を掛けるし。ただ、最近、無駄金かなと思うことがあるので、気を付ける様にはして居ますよ。持ち金であと半年暮らして、そのあとは如何なるか、成る様にしか成ら無いでしょうから。処でこんな話をして居ると「ダンサー・イン・ザ・ダーク」と言う映画を思い出しますね。人生はお金ですね。映画まだ未見な人は見て下さい。しかしあなたの心が不快になるのは責任を持てませんが。((((;゚Д゚))))))) 主演は「ビョーク」です。ラース・ファン・トリアー監督作品です。この監督の映画では「エレメント・オブ・クライム」と言う映画が好きですね。近未来のフィルム・ノワールです。
【ショック】中古買取店で服を売ったらいくらになる?[セカンドストリート]
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中古レコードを見てみた。
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CDを見て居る客が多かった。。。
他の階のレコード・プレイヤー売り場を見てみた。今流行のアタッシュケース型のレコードプレイヤーがあった。
そしてアンプ内臓型のレコード・プレイヤーが置いてあった。
DiscUnionを後にして東口の紀伊国屋書店の本店へ行く。。。
紀伊国屋別館、DVD売り場に行く。
マカロニウエスタンのDVDを発見。。。最近でもマカロニの人気はまだ衰えない。。。
そして、帰って来た。もう夕方だ。。。
歩いて居る間中、スマホから流れて来るストーリーミングでJazzを聴いて居た。帰りは電車の中で、Bluesを聴いた。確かにストリーミングは便利だ。聴きたいアーティストの曲がアルバム単位で聴ける。ただ、惜しい事に全てのアルバムを聴ける訳では無い様だ。まあ、私が操作の仕方を解って居ないだけかも知れないが....。今日は新宿は歩行者天国だった。歩いて居たら外人の女の人にジィーと見られた。歳取った堅太りの男が長髪だからだろうか?でも外国では普通だろうにと思う。しかし書店は寂しいですね。哲学書関係の本が1冊も並んで居ない。私は小説はもう読まないのです。あとは芸術書籍関係だが、それも置いて居ない。こんな事だから本離れが起きるのだと思う。哲学書は机の上の戯言と見る人も居るだろうが、物事の指針になりますよ。
確かに屁理屈が書いてあって難しい本と言うイメージがあるが、読んで見ると成程と思う事があります。ある事象に付いて哲学者が色々な事を言って居ます。読む方はその事を、自分に合う論理を学べば良い。私は哲学論争は支度も無いし。不毛な事だと思って居ます。良く相手の言葉尻を掴んで自分の論理が正しいと論争を吹っ掛けて来る人も居ますが。私は論争は苦手だし、他人にも論争は仕掛けない。不毛な事ですから。あいつよりも自分の理屈が正しいと言う自己陶酔ですよね。そう言った事は嫌いです。ただ知識として知って居ればいいと思うのですよ。最近読んだ哲学書では清水高志著。「セール、想像のモナド」と言うミッシェル・セール論の本が良かったです。この本は、書店ではなくネットから購入しました。
思考は思考対象が招き寄せるのだと考えるなら、その陥穽は論理が決定論的なものになりがちだと言う事だろう。セールの言うノヮズゥ、つまりノイズの積極的認知によって、西洋的論理によるモノ・コトの定義を解体する事。論理を一度括弧に入れる事。新しい存在論を獲得する事。バルトのエッセイやプルーストと共に枕頭に置こう。世界をもう一度眺め直す折に、本書をめくって見ようと言う気になる分析本です。ポスト構造主義の限界を抉り出し、西田哲学との通底性を探り出す。ミッシェル・セール論です。「海の騒音の上に立ち上がる乱流のヴィーナスを想像しなければならない。」混沌として居て、騒々しく、生き生きとして居て、そこから予測不可能なものが生まれうる様な「多」への賛美。その様な存在を、合理的で生気のない単一性(一)へと還元する事なく、多の侭に考え、多の侭に表現しようとする試み。その為分かりやすい理解を拒むように、詩的な表現がおびただしいほどに連ねられて居る。きっとこの詩的なイメージに多への感性が刺激される事でしょう。
セールはロマン主義批判を問題意識として持って居ました。有限性が徹底して相対化され、否定されて行く中で、直接的に無限が出て来るのがロマン主義であると言う主張をして居る。レヴィナスもデリダもこうしたロジックから抜け出せて居ないと考え、ミシェル・セールを突破口にして新しい局面に向かうべきだと言う議論をして居ます。有限なものを否定するには、むしろほかの有限のものが必要なのです。複数の有限なものが競合する状態を考える必要がある。西田幾多郎もそう言う事を考えて居ました。「個は個に対してはじめて個」と言う有名な彼の言葉があります こうした競合状態を考える時、手がかりになるのが、対象オブジェクトとしての媒体です。セールの準-客体はそうしたモデルを提示したものです。
「個は他の個や、他の諸々の個の多様性と対峙するものでなければならない。こうした新たなコンテクストに於いては、無限の問題はパースペクティヴの問題と切り離すことが出来ない」。問題は、多様で変化する諸々のパースペクティヴを、それ自体進行中の全体性、開かれた全体性のうちにはめ込む事です。思うに、ロマン主義に欠けて居るのはこれです。ロマン主義はパースペクティヴに付いての明確な概念を持って居ない。存在とその他者の弁証法を探求し、有限という見地から語る事をより好んだヘーゲルにしてもまた然りです。しかし更に、ライプニッツからドゥルーズ、セール、ラトゥールへと逃れて来たもう一つの伝統がある。そんな事を語って居る本です。。。
話を元に戻しますが、、ストリーミングはいいですね。私は聴かず嫌いでした。しかしストリーミングのお陰で、CDショップは全然売れて居ませんね。なんかタワーレコードを今日南口で探したのだけども、私の探し方が悪いのか見つからなかったです。そういえば昨日の夕方から夜に掛けて、ルパン三世・TVシリーズ・パート5がCS放送で全話やって居たので途中から観ました。最後に向けて話が加速して行きましたが。「ヒトログ」と言うネットサービスを作った男との争いに挑んだルパンがネットの情報で、隠れ家も。変装パターンも。泥棒の手口も全部知られて仕舞い。引退を考える寸前まで追い詰められると言う話だったが、ヘーゲル的な話の展開に見て居て今風の話だなと思って見て居ましたが。時代は変わるものですね。話の中で相棒の次元が「俺は今の世の中には着いて行けねえ」と言って居ましたが。私も最近の情報化時代には辟易して仕舞います。もう若くは無い証拠ですよ。
ただ何でも情報化されてデータとして消費される昨今。私は形あるものに拘ります。カセットテープしかり。今のブームの断捨離に意を唱えて居ます。確かに一見断捨離はいい様な事に思うかも知れないけど。自分の思い出、自分の過去の栄光まで捨てて仕舞う事に違和感を覚えますよ。だって物は生きた証なのだから。全て棄てて仕舞って、その時はいいでしょう。でも物は自分の生きて来た証明なのだと言う事を忘れないで貰いたい。自分の証明書でもあるのですよ。私は過去にバンドで演奏して居たし、漫画も下手ながら描いて居た。でも、もし全部捨てて仕舞って、他人に話したら、信用されますか?あいつは嘘を言って居ると思われても仕方が無いですよ。人は証拠が無いと人の言う事はホラだと決め付けます。何故か、自分の出来ない事を他人が出来ると言う事は認めたく無いからです。人をちゃんと評価する人は勿論居ますが、殆どの人は評価出来ないのです。
自分のプライドが許さないのです。私は勝手のバンド時代の音源を僅かですが持って居ます。だから信用しない人にはそれを聴かせます。ブルースハープも吹いて聴かせます。そうすると何も言わなくなるのです。ただ、高校の頃に描いた漫画を見せると、大抵は、あまり良い事は言いませんね。素直には慣れない人が居ます。チャチャを入れて来るのです。ですが描いて居たと言う証明にはなります。その事に付いては誰も否定出来ません。自分の存在理由を知らせる事が出来るのです。もし断捨離で全て棄てて仕舞ったら、思い出さえも無くなって仕舞うでしょう。確かに物が多くて棄てなければならない事はありますよ。棄てていい物ならばいいですが。思い出が詰まった。自分の存在理由がある物は捨てるのを辞めましょうよ。それでなくても最近は形がある物が無くなって行きます。これは危惧しなければならない事です。自分の存在理由を捨てますか?考えて下さいね。。。
〜〜懐かし映画館〜〜
「人斬り」
写真が無いので、ビデオテープのケースから...。
『人斬り』は、1969年(昭和44年)公開。監督は五社英雄製作はフジテレビジョン+勝プロダクション。配給は大映。司馬遼太郎の短編『人斬り以蔵』を参考文献にしたオリジナル作品で、脚本は橋本忍が担当した。この年に劇場用映画製作に進出したフジテレビが第1作『御用金』に続いて放った第2作目で、勝プロダクション初の時代劇製作映画でもある。公開当時は映画倫理管理委員会より成人指定(映倫番号15909)の指定を受けた。
動乱の幕末を舞台に、下級武士出身ながらも今日の都を震撼させ「人斬り以蔵」の名を轟かせた土佐最強の暗殺剣士・岡田以蔵の半生を、土佐勤皇党の党首・武市半平太との関係を基軸に描いた娯楽歴史劇である。キャストは勝新太郎、仲代達矢、三島由紀夫、石原裕次郎といった豪華な顔ぶれで、特に本業が俳優でない三島の起用が大きな話題を呼んだ
人斬り予告
ーあらすじー
時は幕末。文久2年(1862年)の土佐の谷里郷に、剣術の才覚がありながらも藩内の厳しい身分制と言う壁に阻まれ立身を望めず、その日暮らしに甘んじていた青年・岡田以蔵が居た。彼は背に腹は替えられぬ思いで、ついに家の隅で埃をかぶる先祖伝来の鎧兜を、骨董屋に売り払うも相手にされず悲嘆に暮れて居た。
そんな時、土佐随一の政治力を握って居た土佐勤王党の武市半平太は、土佐藩執政・吉田東洋をクーデターよって追い落とし自ら取って代わる事を計画する。師の武市に呼び出された以蔵は、東洋暗殺の様子をじっくり視察せよと命じられた。その夜が、まだ人を斬った事の無い以蔵を変えた。人を斬る、とはこうする事なのか。俺ならもっと上手く斬ってやる、と以蔵は次第に人斬りとしての本能を呼び醒ましてゆき、東洋暗殺現場で耳にした「天誅!」と言う言葉を心の中で何度も繰り返した。
その年の夏、武市率いる土佐勤皇党は京都に上洛した。瑞山と号した武市は数年後に勤皇一派の中心人物となり、都で栄華の限りを尽くして居た。以蔵もまた武市の下で多くの謀略・破壊工作の実行役として加担し、もはや昔のくすぶっていた以蔵ではなく、名うての「人斬り以蔵」として鳴らして居た。そして、土佐勤皇党はこの自分で持って居る様なものだ、とまで得意の絶頂を誇示する以蔵の前に、武市とは異なる道を選んだ男・坂本龍馬が現れる。以蔵と龍馬は子供の頃からの知り合いであった。
本間精一郎、井上佐一郎らを新たに葬った以蔵だが、坂本龍馬は以蔵に人斬りを辞める様忠告した。当初は聞き入れるつもりもなかった以蔵だったが、身分の上下もなく誰も気にする事のない時代を切り開く、との龍馬の言葉に次第に共鳴を覚えてゆく。それは、かつて武市に随行した際に逗留した攘夷派の急進的公卿・妹小路公知邸を訪れた時に出逢った美しい綾姫の存在を忘れる事が出来ずに居たからであった。
綾姫は姉小路卿の妹で、以蔵は惚れた想いを告げるどころか、以蔵の野蛮な容姿に恐怖を覚えた姫から「けだもの」と蔑まれた。だが、想いは一層強くなり、いずれ自分が武市の下で立身出世するか、龍馬が言う新しい時代になった時、綾姫を自分のものに出来るかも知れない、と以蔵はささやかな希望を宿して居た。
そんな折、以蔵の人斬りが目立ち、天皇から自重する様にお達しがあったため、武市は次の大天誅から以蔵を外す事を決め、以蔵にしばらく骨休めの期間をもうけて居た。以蔵は、勤皇派が以前から内密に計画していた大天誅・近江国石部宿での襲撃の先遣隊から、自分が外された事を知るや無我夢中で駆け出し、辛くも襲撃隊に合流して薩摩侍・田中新兵衛と共に目覚しい働きを見せるも、その際に藩名と自身の姓名を声高に叫んだ失態を武市から厳しく叱責された。
さらに以蔵は、龍馬から武市の為にもなると依頼され、勝海舟の護衛を務めた事も武市の逆鱗に触れ、土佐に帰れと面罵された。以蔵は武市からの離反を試みるが、武市を気づかい、その政治力を恐れた諸藩らから以蔵は雇い入れを拒まれた。やけ酒を飲んで荒れる以蔵を田中新兵衛は慰めた。以蔵の情婦となって居る女郎・おみのは、武市に謝罪する事を薦め、以蔵はやむなく武市のもとに戻り、人斬りの運命から逃れる事が出来なくなって行った。
武市は田中新兵衛の刀を以蔵に持たせて、意見の相違が生じていた姉小路卿の暗殺を密命した。以蔵は驚いたが命令をなんとか実行した。姉小路殺しの嫌疑を掛けられ京都町奉行に捕えられた新兵衛は、犯行を否定したが証拠として自分の刀を見せられると、申しひらきもせず突然その刀で自ら切腹した。以蔵は姉小路卿までも斬り、友の新兵衛まで裏切る形となった直後から、酒に溺れる様になり名声は凋落した。
浪人狩りの網に掛かった以蔵は六角牢に投獄され、「土佐の岡田以蔵だ」と名乗るものの、知らせを受け面会に来た武市から、「岡田以蔵ではない」と見知らぬ者扱いされ見捨てられた為、その尽「無宿者の虎蔵」と名付けられて牢で厳しい拷問に掛けられた。そんな以蔵に手を差し伸べたのは坂本龍馬であった。要約、以蔵は8か月後に赦免されたのち、龍馬の門人として新しい時代を築くために残りの人生を尽くそう、と思い始めた。慶應元年、以蔵は龍馬と九州に行く為に、待ち合わせ場所の土佐に居た。
一方、反動政策により吉田東洋暗殺の嫌疑で武市も土佐で拘束され、藩は東洋暗殺の下手人を探して居た。土佐勤皇党の1人は、以蔵が捕えられるとまずいと考え、土佐から離れるように促した。しかし武市は非情にも以蔵を消し去ろうと図り、かつて以蔵が目をかけた弟分・皆川一郎に毒殺役を命じた。春祭りの酒を持って来た皆川を疑いつつも、毒味で2杯飲んだ皆川が平気な為、以蔵もその酒を飲むが数分後毒が回り始め、皆川が死んで、以蔵は辛くも助かった。
以蔵はこの事で勤皇党の幕を下ろそうと決意し、自らの行なってきた謀略の人斬りと武市一派が行なった計画の全てを告白するため高知城の番所に出向いた。以蔵は武市を売る金の三十両を、借金で遊郭稼業に縛られて居る、貧しいおみのに先渡しすることと引き換えに、洗いざらい話した。
5月の土佐の春祭りの日、龍馬は以蔵を迎えにやって来る。だが、そのとき以蔵は磔台に居た。武市が政治犯として切腹を命じられ、自分は一介のならず者の人斬りとして処刑されることを聞いた以蔵は、武市から自由になったと言い、祭囃子を遠くに聞きながら磔の刑に処されて壮絶な最期を閉じた。
「人斬り」岡田以蔵 暗殺剣 [ Hitokiri ] Okada Izou Assassination Sword
この映画はDVD等が出ておらず、なかなか見る機会に恵まれない映画の一つなのであるが。私はレーザーディスクで所有して居たし。フランス盤のPAL盤のDVDをフランスから取り寄せて観て居た。最近では CS放送やらBS放送で結構放送されて居ます。幕末の「人斬り以蔵」として有名な岡田以蔵を主人公に、彼と武市半平太や、坂本龍馬、田中新兵衛らの関係を描いて居るが、橋本忍の脚本は矢張りしっかりとして居て、武市の命令で次々に暗殺を遂行した以蔵が、結局は使い捨てにされて仕舞うと言う悲劇性がよく描かれて居て、見ごたえがある映画で、素直に面白かった。(昔、まだこの映画を観て居なかった頃は、観たいと思いながらも五社英雄監督と言う事で、凄い映画なんだろうなと思って居たが、今まで見た五社監督の映画の中では一番面白い映画だと思う。)勝新主演映画を見るのが久し振りなのだが、演じる以蔵は豪快な存在感があり、座頭市とはまた違う勝新の魅力を感じる事が出来る。仕事に参加させて貰えなかった以蔵が一日掛けて長距離を走るシーンは映像的にとても美しく、異様な迫力があり、印象に残るし、勝新は「薄桜記」の冒頭とかでも走って居るが、どこか「決闘高田馬場」の阪東妻三郎を彷彿とさせるものがある。
武市役の仲代達矢はギラギラした存在感で、武市のこれでもかと言う様な非情さを上手く演じて居て、メイン・キャストの役では久しぶりに見る気がするのだが、あらためて名優だと感じた。この二人に対して龍馬を演じる裕次郎は勝新との共演が見どころとなるが、矢張りと言うか何と言うか違和感があり、裕次郎には、時代劇は似合わないかとも思って観て居たが、見て居るうちに良く見えて来ると思う。そして忘れてはいけない三島由紀夫演じる田中新兵衛。三島由紀夫を俳優として見るのは「からっ風野郎」以来、二度目なのだが、本作でも演技は硬い。しかし、独特の存在感とオーラを放って居て、その演技の硬さも新兵衛に不思議とマッチして居るし、なかなか味があり、良かった。本業が俳優では無いながら、この役は三島由紀夫の俳優としての代表作になるのではないだろうか。本作は三島事件の一年数か月前に公開されて居るが、濡れ衣を着せられた新兵衛が、切腹するシーンはその後の三島由紀夫の運命を、予言して居るかのようで驚かされる。そうそう、三島由紀夫の先祖と本物の田中新兵衛とは、大縁があるとは後で知ってびっくりです。
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其れでは、今回で更新の方は一旦休止します。皆さんのblogには見に行きますからね。宜しく。其れでは暫くさようなら。。。