こう言った映画で自分が泣くとは思わなかった、、、
しかし、泣けました・・・・・・・・・。
映画『ミッドナイトスワン』925秒(15分25秒)予告映像
草彅剛のニューハーフ役が良かったですよ、、
いやトランス・ジェンダー、、勉強不足でよく
分かって居ないけど。苦しみは分かります。
中学生の女の子の演技も良かったです・・・・・・。
悲しい映画ですけどもね、、
まあ、悲劇ですから、最後はね・・・・・。
この映画で草彅剛は日本アカデミー賞の
主演男優賞を取りましたよね・・・・・・・。
良い映画でした・・・・。
今度の日曜の7月23日と、次の日曜の30日にCS放送の
「日本映画専門チャンネル」で、2回だけ放映されますので、、
まだ見て居なくて、興味を持たれた方は、ご覧になられて
見たら良いかなと思いますよ。参考までに・・・・・。
吾妻光良 & The Swinging Boppers 【 I Am Wine 】Peter Barakan’s Live Magic!
私は小学校低学年の頃は流行りのグループ・サウンズが好きだった。ザ・タイガース。テンプターズ。ザ・ジャガーズなどを聴いて居た。またテレビではアメリカのザ・モンキーズというアイドル・バンドの「ザ・モンキーズ・ショー」などが放映されて居た。当時既にサイケデリック・ロック。などという言葉も耳にしていた。しかし私がロックに目覚めたのは、ラジオから聴こえてきた。ジミ・ヘンドリックスのウッドストックでの即興演奏の「スター・スパングルド・バーナー」だった。私は当時ラジカセもラジオも持って居なくて、おもちゃ屋で四百六十円で買った鉱石ラジオを聴いて居た。アンテナは無く、シールド線を電話機のコードに挟んで電波を受信して聴くものだった。そして或る日聴いた途端に自分の耳を疑った。「なんだこのギターの音は?」物凄い爆音とも取れる演奏だ。初めてエレキギターでこんな音が出せるのかと耳を疑った。当時は何しろ小学生なのでエフェクターの存在も知らなければ、のちに知る事に成るフィード・バック奏法などと言う言葉も意味も知らなかった。ただ、ただ四百六十円の鉱石ラジオのイヤホンから聴こえてくるその演奏に衝撃を受けた。
1969 Jimi Hendrix :: The Star-Spangled Banner @ 432 Hz
夜が明けて朝早く、下宿人の学生のお兄ちゃんに聞いてみた。「昨日、ラジオでエレキギターのこんな演奏を聞いたんだけど、あれ誰なの?」すると「ああ、それ、ジミヘンだよ」と言われた。「フルネームはジミ・ヘンドリクスと言って、最近では有名な黒人のロックギタリストだよ」と聞かされて、初めて誰だか分かった。そして小学校3年の時にサンヨーのラジカセを親から買って貰った。もうグループ・サウンズも何もなかった。ロックを聴かなければと心底思った。それからラジカセのラジオで掛かるロックを片っ端から録音し始めた。また。下宿人の大学生が持っているオーディオテープをダビングさせて貰った。テン・イヤーズ・アフター。CCR。オールマン・ブラザースバンド。ジョンメイオール&ブルースブレイカーズ。EL&P。ピンク・フロイド。キング・クリムゾン。ザ・フー。ビートルズ。ローリング・ストーンズ。一挙に覚えた。またサイモンとガーファンクル。エルトン・ジョン。カーペンターズなども聴いた。
またNHKで放映された、ディープ・パープルやらフリーのライブ演奏も観て、ラジカセにイヤホン端子から録音した。一気に音楽を聴くスタンスが変わって行った。そしてディープ・パープルと共に驚愕したバンドがレッド・ツェッペリンだった、あと、アル・クーパーとマイク・ブルームフィールドの「スーパーセッション」でブルースという音楽を初めて知った。小学校も5年生頃に成ると、軽音楽部の放送で昼時にシカゴの「長い夜」やらグランド・ファンク・レイルロードの「ハートブレイカー」レッド・ツェッペリンの「胸いっぱいの愛を」とかが流れ始めた。不思議と学校の先生は文句を言わなかった。時代は変わって行った。しかし大抵の同級生たちはロックに興味を抱かなかった。友人にロックのテープを貸しても、解らない見たいだった。私は小学校時代、無地のなんの線も引いていないノートに漫画を描いていた。思い付いたものをだが、クラスでも私が毎年絵画やらポスターで賞状を貰うので、私はある程度評価されて居たと思う。休み時間に漫画を描いているとクラスの女の子たちが私の周りに集まって来て、上手い上手いと褒めて見てくれていた。
壁新聞も描いて教室の壁に貼り付けていたが。何しろ、皆んなやる気が無い。記事のネタを拾ってきてくれと言っても何もしないのだ。ある友達に文句を言ったら「だって、解らないし、〇〇くんみたいに絵が描けるわけじゃないし、出来ないよ」と言われた。。。
だから記事のネタは自分で探し4コマ漫画も自分で書き。イラストも自分で書き、要するに全部自分で書くことになってしまった。要するにそう言った文化面より皆んなは草野球をやったり、サッカーをしたりして遊んでいた方が楽しいのだった。私は幻滅を感じて行った。そして中学生になった。クラスで友達も出来た。この頃になると、ギターを演奏したくて堪らなかった。そう思っていたら。金持ちの友達がエレキギターを買った。しかしそいつは弾けなかった。当時「成毛滋のロックギター教則テープ」と言う物があってそれで皆んな練習したものだが。そいつは何も出来なかった。運命とは皮肉なもので、金があって自分の欲しいものがすぐに手に入っても、才能が無いのでは使いこなせないのだ。だから私がその友達の家に行くたびに弾かせて貰っていた。とは言え。私とて弾けると言う程では無い。いつも弾くのは「ホール・ロッタ・ラブ」のイントロのリフとか簡単なロックのメロディーだけだった。しかしその友人の父親は弁護士だった。書斎を見せて貰って、私の父親とは真逆だと思った。何しろ蔵書が凄い。
私は親が本を読まないので、それまで本に興味は示さなかった。それまでに読んだ本は「レ・ミゼラブル」一冊だけだったからだ。それで、中学の図書室で、読みたい本を読む様に成った。しかし悪ガキで私に付きまとっている3人組がいたのだが。その話は以前にblogに書いたので此処では省くが。その事が、未だに不思議なのだが。旧日本軍が中国人の女の人をレイプしている写真集が置いて合ったのだ。中学校の図書室にだ。その3人組はそれを見て喜んで居る。その馬鹿さ加減が嫌に成り。隣町の図書館に行った。会員になると本をリクエスト出来ると言われた。しかし此処でも、あの図書館に集まっている人たちの雰囲気が何故か好きに成れ無かった。私は結局、自分で好きな本を買う事にした。古書店に行ってハヤカワ文庫のSFシリーズを買った。何冊か買って読んでみたが、あまり馴染めず。そしてノワール小説。ハードボイルド小説などを読みだした。私の母は私と姉さんのためにジュニア文学全集と言う15冊の単行本を家庭を回って売っている業者から買ってくれていたのだが、しかし私はそのうち「レ・ミゼラブル」と「15少年漂流記」くらいしか読んで居なかった。姉も余り読まなかった見たいだ。しかしこれがあとで役に立った、後から生まれて来た、弟が物凄く喜んで全冊を読破したのだ。弟は確かに頭が良かった。弟は高校生になると、国立図書館で調べ物をする様に成って行った。勉強の虫だった
中学時代の話ですが、ある男が、女の子を私の見ている前で打ったので、慌てて仲裁に入ったのですが、私は殴られてしまい。その打たれた女の子が心配してくれて、、まあ、だから私は公立の学校は行くのが嫌だったんですよね。私の学生時代は暴力沙汰が絶えなかったですね。カツアゲなんぞは中学時代は日常茶飯事で当たり前で、何しろ担任の教師が体育の教師の丸バカ野郎だったから。大体がその担任は「今日は女子が居るから言わないが、女の体のあそこの事は俺が男子に教えてやっから・・・」とかバカな事しか言わない。何が嫌だってなんで私があんなバカ連中がいる中学に行かなければ成らないんだという思いが強く。隣町の中学校はモデル校だったのでそっちに越境して行けば良かったのですがねぇ・・・・・
私は職業に貴賤はないと思っていますが、そう思っていても、親の職業が悪いとねぇ、、大抵その家の子は不良になるし、現にさっき女の子を引っ叩いた男は、ぶくぶくと太っていて、あだ名がダボハゼと言われてましたが。女の子をいい気になって引っ叩いてるので辞めさせたら。私を思いっきりぶん殴って置いて、ポーカーで1万も負けて払えと言われて、なんと私の家にまで来て「一生のお願いだから金貸してくれ」と言って、「誰がお前に金を貸すと思うんだ、バカヤロー!!」と言ったら「お前と俺の中じゃねえか?」と言うのだ。だから「女を打って置いて、止めた俺を思いっきり殴って置いて金くれだと、誰が貸すか!!」と怒鳴ったらようやく帰って行った。そいつの家はスナックだった。私がロックが好きだと学校中に知れていたので、他のクラスの不良がビートルズのジョージ・ハリソンとエリック・クラプトンの写真を引き延ばしたものを1枚700円で買えと持って来て、もう面倒は嫌なので1400円払ったら「おめえはダチだ」とその不良が言って来て、チンピラみたいに唾をペッペと吐いている男だった。
親はヤクザだ。そいつが私のクラスのチンピラ先公に難癖つけたら、その体育の先公に「おい、お前、いい度胸しているじゃねえか、こっちに来い」と体育館の裏に連れて行き袋叩きにされていて。はたから見ているこっちにしたらチンピラ同士が何遊んでるんだと言った感じだった。最近教師の暴力沙汰が問題だとか、まあねぇ、そんなものは1970年代当時は日常茶飯事だった。小学校の時にも一人ヤクザの子供がいて、クラスの生徒がそいつに「てめえなんざ、死んじまえ!!」と言い、砂場にいたその子に石をクラス中の子が投げて、そいつは頭から血を流しても不敵に笑っていて。小学生成りにヤクザの子だからと可哀想な事をするなと思っていたが・・・なんだか私も以前クラス全員で公園の壁画を作っていたのだが、図工の先生が完成するまで、家に帰るな学校で寝泊まりして完成させろと言っていたら、誰かが「もう帰っていいと言ったぞ」と言うので皆んなして帰ったら翌日に、図工の先生が「誰が昨日帰っていいと言った!!」とクラス全員の子を並ばせて、帰った理由を聞いて往復ビンタだ。
私をビンタしようとしたが、なぜかその前に「〇〇、お前は、なぜ昨日帰った?」と聞くので、「僕は先生が帰ってもいいと言っていると聞いたもので、それでいいと思い帰りました」と言ったら「誰が言った」というので、仕方が無く「〇〇と〇〇そして〇〇の3人が言っていたので」と言ったら、その3人は先生に確認を取られてそして本当だというと袋叩きにあって居た。最近はいい時代になったものだ。先生が暴力振るうとテレビマスコミがすぐ騒ぐが、昔はそんな甘いものじゃなかった。まあ、体育の教師なぞは先生のうちでも最低な部類に入るから。図工の先生は暴力を振るう人だったが、理屈は解るし、私は殴られたり打たれたりした事は一度も無い。まあ、私の描く絵を気に入ってくれていて何時も毎年ある公募のポスターに選んでくれたり、書いた絵をコンクールに出してくれて、毎年2回は賞状を貰っていた。いつも朝礼の時に校長が「今日は賞状を授与する生徒が居ます」と言うと一斉に学校中の生徒が「〇〇だ!!」と言う程、有名だった。同級生からは羨ましがれたが。暴力中学に行くと前にも書いたが、美大出身の美術の女教師が私の描く絵に何時もいちゃもんを付けていて。まあねぇ、先生はせめて年齢制限で30歳以上と決めた方がいいと思う。一見歳が若いといいような気がするだろうけど、25歳位じゃあ、生徒をライバル視して来るから、若いうちはダメなんですよね・・・年取り過ぎも良くないけど........
都内の公立学校 中学生の暴力、毎年増加
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しかし、私の母は、苦労した割には物事をよく解って居ない人だった。例えば1980年代にビデオデッキが故障して修理人を呼ぶのだが、その修理人が帰ろうと車に乗って伝票の整理をしていると母が、「〇〇、この袋を今の人に渡して来なさいと3千円が入った封筒を渡して来いと言う。私が「母さん、こう言うのって良くないよ?」と言うと「お前は世の中のことがわからないんだ!!いいから渡して来なさい!!」と怒鳴り付ける。私は車のドアを叩いて開けた修理人に、これ母からですと渡したら、封筒の中を見た修理人が、ビックリして「こんなものは貰えないよ!!」と突っ返して来た。私は母にそう言うと、「お前の渡し方が悪いのだろう」と言う。私は「母さん、時代劇じゃあ、あるまいし、今時はこうゆうやり方はダメなんだよ!!」と怒ったら、要約、辞めたが、それ以来、ビデオデッキを修理に来て貰うと、ノイズが出ると言う度に、「ヘッドを交換しましょう」とヘッドを直ぐに取り換える様になった。ビデオヘッドはデッキの心臓部だ、交換代は1万8千円から2万4千円程する。それも何か問題が起こって連絡する度に他の場所が壊れて居ても、ついでにヘッド交換をするのだ。明らかに足元を見られて居る。
それから歯医者だ、町のヨボヨボの歯科医のいる処に行けと言う。私は駅前のスーパーマーケットの2階の脇で開業して居る最新鋭の医者がいいと言ったら。「お前はバカだね。母さんの言う通りにしなさい」と言ってしかも和菓子を買って先生に渡せと言う。「母さん!!いい加減にしなよ!!」と怒ってもそうしなさいと言う。仕方がなく買って持って行き、「これ、ほんの心ばかりのものですが」と先生の奥さんに渡したら、その奥さんは「ああそうですか、すみませんねぇ」と受け取ったが、治療はでたらめで歯を削って、痛み止めに机の中にある使いかけのバッファリンを2錠程手渡し三百二十円と言う始末だ。私は嫌になりスーパーの歯科に行って診てもらうと、先生が怒って、「この歯治療したのはどこの医者だ!!、歯科医師協会に訴える」と言うのだ。わたしは慌てて「先生、どうかしたのですか」と聞いたら、「被せ物の中が空洞で中に脱脂綿が入って居る」と言うのだ。わたしは、「またか!全く母の言うことは全く何にも成らない。😤」と思って頭に来た....。
その後、あの会社の経営者の息子はバカだと噂を立てられる始末だ。金輪際、親の言うことは聞くまいと思った。しかしその手が、おおっぴらに横行している処がある、大学院だ、特に医大、教授は生徒の論文をなかなか通さない。私の弟も、義理の兄も金を要求された。姉が以前言っていたが、余りに旦那の論文が通らないので不思議に思っていた。幾ら書いても、幾ら書いても、通らないのだ。そして、ある日、他の教授からその教授がいつも義理の兄の論文を受け取ると、ろくに見ずに机の中にしまって鍵を掛けていると聞かされた。考えた姉は、銀行から300万ほど降ろして来て、折菓子を持ってその教授のお宅に伺い、折菓子と現金300万を渡すと、その教授は目を爛々と輝かせて「君、ようやくわかった見たいだな、宜しい!」と言い、次の日に論文は通り博士号がその後授与された。弟もそうだったようだ。私の通帳から200万を引き出した分と後100万は自分で貯めた金だろう、それを足して教授に渡したはずだ。だから、私は教授成り先生は大嫌いだ。前に知り合った筑波大の大学院を出た男も、後輩の女の子が研究室に入れて自分は入れなかった。その子からメールが来るが、嫌なので返事も書いて居ないと言っていた。理由?それはその男が教授に金を渡さなかったから研究室に入れなかったのだ。
スカッとする話【復讐 因果応報】大学の教授によって酷い仕打ちを受けていた友人。その教授退任の最終講義で数々の悪行をばらしてやった…【スカッとオーバーフロー】
最早、今は令和の時代だ、平成さえも終わった。もう21世紀も23年が過ぎた。平成の時代は技術革新。インターネットの普及と携帯電話の普及の30年間だった。私は昭和30年代生まれだ、丁度、高度成長期から、IT革命、AI時代まで、日本の発展を見て来た。私は、今時の若いのはとは言わないし、思わない。時代がもう変わったのだ。私は算盤が出来ない。何故なら小学校の年寄りだったが進歩的な先生が、教えなかったのだ。「これからは皆んなタイプ・ライターを使う日がやって来る(ワープロ・パソコン)」。そして「割り算掛け算が出来れば、それ以外の複雑な計算は機械がやる様に成る。(計算機)」と言うのだ。昭和30年代、1960年代にそう言って居たが、その先生は当時の保守層のPTAからは良く思われず、睨まれて居た。まあ、私立向きの先生だったのだろう。時代は変わったのだ。今は小学生がノートパソコンを使い、AIを使って勉強をして居るのです。最早、そう言う時代になったのです。
The Fabulous Thunderbirds - Hawaian Eye
Can't Stop Rockin - T-birds
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「この記事だけ読めば、『ユングの心理学』の事は全て解りますので。少し長いですけど読んで見て下さいね...。」
ユング(1875-1961)はスイスの精神科医でした。彼の心理学が実験心理学のような客観的な心理学とやや趣を異にしているのは、分裂病の患者の心を治療をしていく過程で彼の分析心理学が打ち立てられていったことにあります。
患者の心の分析や自分の経験などを通じて、無意識の存在を認め、さらに自我が意識の中心であるのに対して、意識と無意識を含んだ心の全体性の中心として自己という存在を唱えたのです。
ユングのいう自己というのは仏教でいう仏性に非常に似ています。ヨーガでいえば真我のようなものかもしれません。自己の概念自体が非常に難解で、ユング研究家も頭を悩ましている部分があります。
そのころ、意識障害として二重人格とか、夢中遊行などの治療が研究されたのですが、これらの現象を説明するのにフロイトやユングは無意識の存在を提唱しました。
しかし、フロイトがこれらの現象を無意識内の性的動因にその原因を集約しようとしたのに対して、ユングは心の全体性という目的論的な観点を導入したことに大きな違いが生じたのです。要するに、ユングは心の病というものはより高い心の成熟のためのメッセージだということを主張したのです。
そして、個人の中に内在する可能性を実現し、その自我を高次の全体性へ向かわせる努力の過程を個性化の過程あるいはセルフリアライゼーション(自己実現と訳されているが自己の悟りのほうが意味に近い)の過程と呼び、人生の究極の目的と考えたのです。
仏教では誰にも仏性はあると言いますが、それに近い理論ではないでしょうか。そして仏教でいえば悟りをひらくことが、人生の目的だとしたのです。
自己は意識と無意識の統合の機能の中心であり、そのほか、人間の要素に対立する要素、男性的なものと女性的なもの、思考と感情などを統合する中心とも考えられました。
そして、この自己の概念は東洋思想との結びつきが強く、東洋と西洋の橋渡しとして、この考えが大きな役割を果たすものと考えられます。
ユングは中国の「道」の考えや、インドのクンダリニーヨーガからも影響をうけており、瞑想をしたりしていたこともあるようです。
また、宗教にも関心が深く、父が牧師であったため、小さい頃からキリスト教にふれてきたのですが、次第にその教えに対して疑問を抱くようになったのです。特にキリスト教のいう神のイメージがあまりにも人間的な面があり、ピンとこず、やがてキリスト教異端のグノーシス派の研究をするようになりました。そしてこのグノーシス派からキリスト教に欠けていたものを見いだすようになったのです。
グノーシス派は仏教に非常に近い考え方をしており、人間の本質はより全一的で充足した世界に属していて、そこには知られざる神が実在するということを唱えているのです。この存在しない神というのは仏教でいえば空の世界、一元の世界といえるでしょう。ユングのいう自己に近いものともいえます。
ユングは「信ずると信ぜざるとにかかわらず神は実在する」ということばを自宅の玄関の扉にほりこんでいますが、この神というのがアートマン、仏教でいえば空に匹敵するものなのです。ユングはその存在を心理療法の中で患者の心を分析していくうちに感じとっていたのです。このように、ユングが臨床現場で観察しつづけた心というものは、東洋の思想に近いものとなっていくのでした。
後年、ユング派の人がセルフリアライゼーションの過程を禅の悟りの過程を描いた「十牛図」にたとえているような研究もあり、仏教の解脱、悟りにも近いことだと考えられます。
また、日本でユング派の第1人者である河合隼雄氏がだんだん仏教に興味をもちはじめ、心理療法の上でも仏教の影響を受けるようになるといった事実もあり、ユングと仏教の類似性を唱える人も多いのです。
また、ユング心理学とチベット仏教に関する書籍や、ユング心理学と仏教を比較した書籍も何点かあり、両者の背景には似通ったものがあると考えられています。ユング自身クンダリニーヨーガの書籍もだしており、ヨーガのチャクラの研究などもしていたようです。
●タイプ理論
ユングのタイプ理論はよく知られていますが、彼は人間は大きくわけて外向タイプと内向タイプにわけられ、さらに四つの心理機能として、思考タイプ、感情タイプ、感覚タイプ、直感タイプにわかれるとしました。
外向タイプに四つの心理機能がつき、外向思考タイプ、外向感情タイプ、外交感覚タイプ、外交直感タイプに分かれ、内向タイプにも同じように内向思考タイプ、内向感情タイプ、内向感覚タイプ、内向直感タイプと合計8つに分かれます。
関心が外の世界に向いている人が外向タイプで自分の内に向いている人が内向タイプといえます。
思考タイプは物事を論理的に考えるタイプ、感情タイプは何事も好き嫌いの感情でとらえてしまうタイプ。感覚タイプは何事も感覚的にとらえ、音やにおい、舌、触覚に敏感なタイプ。直感タイプは何事もぱっと直感敵に考えるタイプです。
人はこの心理機能のどれか一つが発達していて他の機能は未発達になりやすいとしています。
ユングの考える心の構造というのは、まず、人の心には意識と無意識があり、意識の中心として自我があり、無意識には個人的無意識と普遍的無意識とがあるとしました。そして意識も無意識も含めた心の全体の中心として自己を打ち出しました。
ユングのいう個人的無意識は個人的な内容で、そこにはコンプレックスが存在しています。コンプレックスは劣等感という意味よりもむしろ観念の複合体で、いわゆるひっかかりのようなものです。コンプレックスにふれると、その人の感情がよくも悪くも、大きく揺れ動くのです。
普遍的無意識は人類に共通した普遍的な型を見出すことができると考え、それを元型と呼びました。仏教でいえばコンプレックスが個人のカルマのようなもので元型は集団のカルマのようなものといえるかもしれません。
ユングのいう元型の代表的なものにはペルソナ・影・アニマ・アニムス・自己・グレートマザー・老賢者と名付けられたものがあります。この元型を簡単に説明していきたいと思います。人にはこのような傾向があるとユングは主張してます。
●影
影はその個人の意識に生きられなかった反面、その個人が容認しがたい心的内容をさします。
人間は性格の一部のみを発達させていきやすいのですが、未発達の性格は無意識の中に取り残されて、それが未熟で幼稚な一つの人格を形成するのです。この人格がユングのいう影なのです。
たとえば普段はとてもまじめな人が、乱れ出すと手がつけられなくなったり、無意識の中におきざりにされてきた一面が何かのきっかけで現れてくることがあります。これがひどくなるとジキル博士とハイド氏のような二重人格になってしまうのです。
ムシがすかない相手というのは、自分の持っている嫌な面をもっており、自分の中の影が刺激されて、その相手に無意識のうちに、自分の影のイメージを投影してしまっているのです。しかし、この自分の中にあるいやなもの、欠点や否定的な面を知り、それに直面して、その中に肯定的なものを見い出し、自我に統合していく必要があるのです。それによって自分の性格も広がり、行動パターンももっとひろがってくるのです。
この影を自分のものとして認めがたい場合、他人に投影して、悪いのはすべて他人だということにしやすいのです。それが、グループ、国家の単位になってくると、戦争にさえなりかねないのです。
仏教でも、他人を批判する場合その嫌な面というのは結局は自分の中にあるものだといわれてます。まさに、その人が意識化していない自分の嫌な部分を他人の中にみているだけなのです。ですから、他人を批判する部分というのは実は自分のひっかかりでもあるわけです。それと影は似ています。自分の無意識のひっかかりなのです。
●ペルソナ
ペルソナは我々が外界に対してつけている仮面にたとえられます。父親は父親らしくするであろうし、母親は母親らしい態度をとるでしょう。現実の社会に対して見せているタテマエのようなものです。人間関係を円滑にするためにもこのペルソナは必要です。
人は無意識のうちにその局面に応じていろいろなペルソナを使いわけています。たとえば会社ではエリート社員としてのペルソナをつけていても、家に帰れば良き父親としてのペルソナをつけ、よき夫のペルソナをつけるといった具合にです。
社会的にうまくいかなかったり、対人関係がうまくいかなかったりしたときは、自分の今つけているペルソナが、合っていないということになるのです。
●アニマ
アニマは男性が無意識の中に秘めている未発達な女性原理のことです。男性のこころの中にある女性像ともいえます。この未発達な女性原理を意識の中に統合しながら発展させていくことによって、その人はより高次の全体性に近づくのです。
アニマの最初のイメージは母親のような女性です。そして次に娼婦タイプの女性、次に聖女タイプ、聖なる愛が特徴です。そしてその次に賢い女性、叡智のアニマがあります。これはユングが多くの男性の分析の結果として経験的に生じてきたものなのです。
●アニムス
アニムスは女性の無意識の中にひそんでいる未発達な男性原理です。女性のこころの中にある男性像ともいえます。アニマが男性の魂であるなら、女性の精神はアニムスといえます。
アニマが男性にエロス的要素をもたらすように、アニスムは女性にロゴス的要素をもたらします。それは、力、行為、言葉、意味などがその発達の特徴です。
最初は父親的なイメージ、次はスポーツ選手などの力をもった男性、そして次は指導的な勇ましい行為をもった男性、次の段階ではジャーナリストや学者のような知的な男性、最後は知的で完成された老賢人のイメージになるのです。
男性も女性もこの自分の無意識の中にあるアニマ・アニムスを意識化し統合することによって、セルフリアライゼーションの過程が進むのです。
●グレートマザー
グレートマザーは「母なるもの」の元型であらゆるものを育てる偉大な母のイメージです。その肯定的な面は人を守り、育み、支えるというところにあり、これに対して否定的な面は人を呑み込み、破壊し「死」に追いやるというところにあります。ようするに子供を過保護にしすぎて、本能的に抱きしめて絞め殺してしまう、自立できない子供にしてしまうような危険性もあるのです。
●老賢人
老賢人は男性の理想像で仙人のようなイメージで永遠の生命、力、理性などを持ち合わせ、人間のあらゆる可能性を実現した完成された人間、英知に輝く父なるものの元型です。グレートマザー同様いい面だけでなく、死や破壊のイメージなどが否定的な面です。
グレートマザーは男性のマザーコンプレックスと密接にかかわっており、老賢人は女性のファザーコンプレックスと密接な関係があります。男性も女性もこれらのイメージをのりこえて自立していかなければならないのです。
ユングは元型の中でもこのアニマ・アニムスを重要なものと考えていて、男性も女性も劣等機能である自分の中の異性性を発達させることによって、自分を完成させる方向に向かうことができるといっています。いわゆる男性原理と女性原理の統合ともいえます。
グレートマザーや老賢人はアニマ・アニムスという考え方もできるのですが、あえて別の元型としてとりあげたのはアニマ・アニムスとはまた別の影響を及ぼすからなのです。
●夢
これらの元型は無意識の奥深くに潜んでいるのですが、夢を通じてわれわれにその存在を教えてくれやすいのです。
ユングは独自の夢の象徴の解釈によって、その人の無意識を探っていきました。フロイトが夢を抑圧された性欲を中心に解釈し、アドラーが権力欲を中心に解釈していったのに対して、ユングは夢は新しい可能性をもたらし、意識を超えたより大きな視点で、自分と自分を含めた全体の世界を教えてくれるものだとしています。
夢は自分の無意識にある元型やコンプレックスからくるイメージなので、自分のコンプレックスがどういうものかを知るのに役立つのです。それに気づき意識化して統合していくことによって自分が成長していくのです。
たとえば、夢の中に同性のちょっとイヤな人が出てきた場合、よく考えてみると自分の中にもその相手のイヤな部分があるのです。
これが影なのです。そういう自分の無意識の中にあった未発達な部分に気づくことによって自分の性格をもっとひろげることができるのです。夢はそういった自分を成熟させる可能性を示してくれるのです。自分が変われば、とりまく現実もかわってきて、人間関係もよくなっていきます。
仏教でいえば自分のひっかかりを証智することにもつながってきます。無意識の意識化は仏教でもいわれていることです。自分の中の煩悩をいかに証智することが大切か。しかし、それはなかなか難しいことでもあります。
夢がなぜ有効かというと、大きな情動をともなった体験ができるので、心に深く入ってきやすいのです。
頭だけで考えるのではなく、夢の中である程度実感のこもった経験ができるので、意識化しやすいのです。
夢にあらわれる人や動物、自然などについては人類共通のイメージがあり、たとえば、ユング心理学では海は無意識の象徴としてとらえています。
その他には夢の中の異性は男性ならアニマ、女性ならアニムスと考えられます。グレートマザーは年長の女性や老婆、花瓶とか地下など、老賢人は仙人、童子、老人、雷鳴などが考えられます。
ユングは心理療法において、患者の夢を聞くことを中心に行っていました。そして、その夢を彼独自の方法で分析していきました。そして、患者の無意識の意識化の手助けをしていったのです。
夢は無意識からのメッセージとして、患者の無意識を探るのに一番よい方法だったのです。この夢の研究をしていく上で彼の無意識の理論は打ち立てられていきました。
仏教でも夢は古くから重要視されています。
たとえば、マルパは弟子の夢で将来を予言しました。
その他にもナーローパやマルパは夢によって示唆をうけたり、ガンポパは夢をミラレパに解説してもらい、修行の状態を教えてもらったりと、夢は修行と非常に密接なものとなっているのです。
さらにいえば夢見のヨーガとなると、夢を修行に活用しており、相当大きな意味をもってきます。マルパやミラレパは神秘的な力によって夢を非常に微細に解釈しています。まるで夢が無意識からのメッセージであるということを知っていたかのようです。
ユングの夢の解釈は拡充法といって、夢の素材について、連想や主題の解明などによって、その意味を豊かにしていきました。神話やおとぎ話やを調べることもあったり、その象徴の解釈は広範囲にわたっています。
たとえば、ユングは第2次世界大戦がはじまる前の十年間、ドイツ人の患者の夢が、「ラグナロック」という神々のたそがれに関する北欧神話の要素をたくさん満たしていると感じていました。
ラグナロックは北欧神話で、世界の終末における神々と巨人族の壮絶な戦いでは、神々も滅びるという内容です。彼はゲルマン民族の集合的な魂の中にこの元型が浮上しつつあるという結論をくだしたのです。
彼はこれが大きな世界的破局を呼び、最終的にはドイツ人の自己破壊に終わるだろうと予言しました。それがラグナロックが象徴する内容だったのです。ご存知のとおり、ドイツはヒトラーによって第二次世界大戦に没入し、大敗し自己破壊してしまいました。この予言もあたっていました。
ユング的にいえば、これは集合的無意識の元型が歴史も支配しているといえます。
仏教的にいえば元型とは集団のカルマのようなもので、ゲルマン民族のカルマによって起こったといえるでしょう。
ユングは修行者でもなく一精神科医だったのですが、まるで神秘的な力をもっているかのように思われます。しかし、そうではなく、長年研究して培った、ある種科学的な彼の理論の結果なのであす。夢は科学的にもそれだけ無意識を知るのに大きな力をもっているといえるでしょう。
昔の修行者が、それをすでに修行上いろいろ参考にしていたというのは夢の持つ重要性を感じさせます。そして、ユング心理学と仏教の類似点を強く感じるのです。
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五社英雄監督のフランスのPAL盤DVDBOX「ローニン&ヤクザ」のDVDです。
(東京サウンド)石川二三夫氏談。
このアンプは、ブルース・ハーモニカ・プレイヤーの妹尾隆一郎氏を中心に、八木のぶお氏、続木力氏、そして私、この4人での監修。1994年頃、ビンテージ・マイクから現行のマイクまで使用できるようにとのコンセプトで制作。アンプ製作中に、あくまで個人的な意見だが、“トーンがまろやかすぎるので、Hi・Mid・Low全体を、もっとエッジの利いたはっきりしたトーンにできないか?”という意見に対しエンジニアの方は「簡単にできますよ」と答えてくれたが、特に何もしなかったようだ・・・。
2012-10/27@BT 小出斎and石川二三夫 。blues Duo Live
20180805 四谷三丁目 ブルーヒート 6 石川二三夫さん オンステージ!
過去に教則ビデオも出していました。
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過去blogですが、是非見て下さい。宜しく。
下は、押井 守氏の「人狼」「紅い眼鏡」から、創作した「紅い少女」です。見て下さいね。
紅い少女(ケツネコロッケのお銀)
持っている本の一部です。大した本は読んでは無いですけど。まあ、見て下さいね...。🙏
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さて、映画です。今回も西部劇です。「レッド・サン」です。
「レッド・サン」(Red Sun, フランス語 Soliel Rouge)は、1971年公開のフランス・イタリア・スペイン共作のマカロニ・ウエスタンです。日本映画を代表する三船敏郎とハリウッド映画を代表するチャールズ・ブロンソン、フランス映画のスター、アラン・ドロンの世界3大スターが共演した異色の西部劇です。
レッド・サン 予告編(1971)チャールズ・ブロンソン 三船敏郎 アラン・ドロン 西部劇 Red Sun(Soleil Rouge)- Official Trailer
三船プロが、パラマウント映画に対し、三船敏郎主演の侍を主役にした西部劇の企画を持ちかけたのが1965年の事でした。この企画に賛同したのが製作者のテッド・リッチモンド。しかし、当時アメリカ本国やイギリスでは007を中心にしたスパイ映画ブームが起きており、西部劇(しかも侍が主演の)に興味を持つ者は少なかった。だが、テッドは諦めず、遂にフランスのロベール・ドルフマンと合意して実現した経緯があります。
監督に『007』のテレンス・ヤング。音楽に『アラビアのロレンス』、『ドクトル・ジバコ』のモーリス・ジャールを起用しました。
欧米人は太陽を「黄色/Yellow」と感じる。子供の絵でも黄色を使って描く子が多い。日本人は太陽を赤で描くことが多い。この映画の題名は「日本人」を表現している。
この映画は初めサム・ペキンパーが監督候補として挙がっていた、そして、クリントイーストウッドがアメリカ側の共演者と決まっていた。「レッド・サン」の企画の具体的な話し合いのため、三船は、三船プロ制作部部長、田中寿一と渡米した。そこで、先方のプロデューサーから、同席していたテレンス・ヤング、エリア・カザン、サム・ペキンパーの3人の中から監督を選ぶ様に勧められた。しかし、ペキンパーは自身の映画製作のため難色を示し残りの二人と成ったが、その場では返事出来ないので、次の日返事をする事に成ったそうです。テレンス・ヤングだけが、三船に対し「あなたに会えて幸せだ」と挨拶したと言う。また、『007』の撮影も終えて、『レッド・サン』のシナリオも読んでいたので、考えた末、彼に決めたという。そして主役3者のうちクリント・イーストウッドは新作映画に取り掛かっているため、代わりにチャールズ・ブロンソンに決まった。三船とブロンソンは決定したが、後一人はヨーロッパの俳優ではどうか、と田中が提案し、日本でも人気のあったアラン・ドロンに決まったと言う。この映画の撮影中、三船は「サッポロビール」のCMを撮影する為、カメラを廻し、アラン・ドロンとチャールズ・ブロンソンと共に撮影するが、このフィルムは現在まで日の目を見ていない。又、三船は紳士服ブランドとして立ち上げた「ダーバン」のCMにアランドロンを引っ張りだす為に、「フランスではCMは俳優業より低く見られているが、日本では有名ブランドのCMに出ることは、俳優として名誉な事だ。」と諭して、ドロンをダーバンのCMに引き出す事に成功した。
「レッド・サン」
初めて西部に乗り込んだ“サムライ”と強盗団との、大統領献上の宝刀をめぐる確執を描く。製作は「夜の訪問者」のロベール・ドルフマン、製作協力はテッド・リッチモンド、監督は「クリスマス・ツリー」「夜の訪問者」のテレンス・ヤング、脚本はレアード・コーニグ、撮影はアンリ・アルカン、美術はポール・アポテケール、音楽は「ライアンの娘」のモーリス・ジャール、編集は「明日に向かって撃て!」のジョニー・ドワイヤーが各々担当。出演はチャールズ・ブロンソン、アラン・ドロン、三船敏郎、ウルスラ・アンドレス、キャプシーヌ、モニカ・ランドール、中村哲、田中浩など。
ストーリー
日米修好の任務を帯びた日本国大使、坂口備前守(中村哲)と随行の武士、黒田重兵衛(三船敏郎)、名室源吾(田中悟)の一行は、合衆国大統領に献上すべき宝刀を護衛しながら、特別列車でアメリカ西部を東に向っていた。ところが、この列車に連結された、金貨の納められた郵便車を、西部名うての強盗団、ボスのリンク(C・ブロンソン)と相棒のゴーシュ、(A・ドロン)一味に襲われ、警護騎兵隊の意表をついた見事な策略で、金貨を奪われてしまう。同時に大統領に献上する宝刀をも奪われた黒田(三船)は1週間の期限付きでゴーシュに裏切られて捕まったリンクと共にゴーシュを探す旅に出る。途中、リンクは黒田を出し抜こうと謀るが、その企みは尽く、黒田の柔術やら侍の武道の前に敗れる。そして、売春宿でリンクが懇意にしている若い女将に、ゴーシュの女がその売春宿にいることを知らされた2人は彼女(U・アンドレス)にゴーシュの処まで案内をさせようとするが、西部の荒野にはアパッチの脅威やら、危険な状況が待っていた。そして、ゴーシュの女はアパッチに捕まってしまい、彼女を救い出し、要約ゴーシュを探し出すが、又もやアパッチに取り囲まれた彼らは、一時休戦状態を結び、アパッチを撃退する。盗まれた、宝刀を取り戻した黒田は、死んだ侍の仇の為、油断をしているゴーシュを後ろから斬り殺そうとするが、一瞬躊躇った、その気配を知ったゴーシュは黒田を撃つが、リンクはそんなゴーシュを許しはしなかった。ゴーシュの女にゴーシュを殺しては財宝の在処が解らなくなったと罵声を浴びせられるが、黒田との友情を胸にリンクは、宝刀を列車の通過点の電線に吊して去って行ったのだった。
この映画は日本の侍を、世界に広めた映画史に残る名作です。テレンス・ヤングの三船リスペクトに溢れている演出も良かった。スタント部分はスタント・マンを使わず、三船は全て一人で演じています。そればかりか、とかく日本人と言うと外人の変な勘違いだとか、ましてや侍と言ったら変な演出をされがちなのですが、三船は監督とデスカッションを重ね、日本人の言う侍とはどう言う者か、武士道とはどんなものかと言うことを徹底して監督に解らせました。ガンマンと親善大使の侍が盗賊アラン・ドロンに奪われた刀と金を取り戻す。それをブロンソンと三船が真剣に演じています。西部で三船から貰った握り飯をブロンソンが「うめえな!」と言って喰うシーンと三船の最期は『七人の侍』のオマージュです。この作品は、初め、サム・ペキンパーが監督で、ブロンソンの役はクリント・イーストウッドでした。アラン・ドロンは決まって居ました。この映画が製作されると訊いた、私は映画月刊誌「スクリーン」を読んで、その製作状況を固唾を呑んで、見守っていました。何せ1970年代当時の、人気スター、クリント・イーストウッドとアラン・ドロン。そして日本が誇る名優、世界の三船敏郎が共演するとあっては、もう、最大限の賛美を送っていました。ましてや、監督はあのバイオレンス映画で有名な、サム・ペキンパーと訊いていたからです。
しかし、監督はサム・ペキンパーに代わってテレンス・ヤングに変更され。役者も、クリント・イーストウッドの代わりにチャールズ・ブロンソンに成りました。当時は少しがっかりしましたが、チャールズ・ブロンソンは好きな俳優だった為。この変更も止む無しと思ったのを今でも憶いて居ます。ただ、今となるとサム・ペキンパーに撮らせたかったと思いますが。しかし、テレンス・ヤング監督も中々良かったですね。そして世界の3大名優が揃って撮ったこのレッド・サンは後世に残っていく映画であると言えると思います。
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マカロニ・ウエスタンとは?
それでは、今回は此れで、、、、、╰(*´︶`*)╯♡