1970年代の終わり頃に私はブルースバンドを組んで居たのは前にも話したが、実は二つのバンドを掛け持ちして居た。一つは此間だblogに書いた自分がブルースハープを吹くバンドと、それとは別にジャズ・ブルースをギターで弾くバンドだ。此方の方のバンドは高校の同級生が中心のバンドだった。初めはロック・バンドとしてスタートしたのだけども、ツイン・ギターでもう一人のリード・ギターは兄貴がなんと漫画家の石ノ森章太郎のアシスタントをやって居た。ベースの兄貴はSF小説家だった。私が高校生ぐらいの頃は男が少女漫画を観ると言う事が流行った。何故なら、萩尾望都の「ポーの一族」やら、一条ゆかりの「デザイナー」水野英子の「フャイヤー」などに代表される女流漫画家の作品は滅法面白かったからだ。そのベーシストの兄貴がSF作家で、尚且つ、少女漫画は哲学的だと言って漫画本を所有して居た為、当然弟のベーシストも影響を受けて居て、私に「こんな面白い漫画があるぞ」と貸してくれて居たのだった。私は当時「ガロ」でカムイ伝、つげ義春の「ねじ式」を知り、「COM」で「漫画家残酷物語」の永島慎二。そして「少年マガジン」で、ちばてつやの「あしたのジョー」「少年ジャンプ」で「デビルマン」などを知って居た。私は一部のSF小説やら、セリ・ノワール。文学作品と同列にそれらの漫画を読んだ。私にとって松本零士は「宇宙戦艦ヤマト」や「キャプテン・ハーロック」では無く。「男おいどん」なのだ。
バンドは初め「ロビン・トロワー」やら「クリーム」の曲を演奏して居たが。もう一人のリード・ギターは、自分のバンドを結成したくて辞めて行った。ドラマーは明星大学の男とやって居たが、同級生のベーシストが突然ベースをやめてドラマーになると言い出して、気まずい関係になって、ドラマーは辞めて行った。さて、問題はベーシストだ。「ギターマガジン」にベース募集の広告を出したら。何故かギタリストの応募が殺到した。5人は来た。或る者は、アメリカ育ちでサイドギターでいいから一緒にやりたいと言う。「残念ながらギタリストは募集して居ない」と言ったら。「お前の腕前はどうなんだ!人を図れるだけの腕前があるのか」と言う。そこで仕方なく自宅で12小節のブルースを演奏して、7thやら9thを弾いてくれと言ったら、急に言われても解らないと言うので、弾いて見せたら、「フン、俺を断れたらリーダーとして認めてやる」と言う。此方は穏便に引き取って貰いたかったが、そうはいかず駄々をこねるので「俺がリーダなんだよ!お前とは一緒に出来ない!!」と怒ったら。「怒れるとは大したものだ、俺はアメリカで、あのマイク・ブルーム・フィールドとセッションもした事もあるんだぞ。」と言うので、「ああ、そうですか、でもね、此処は日本なんだからお引き取りを!!」と言ったら、要約帰っていった事があった。そして、今度は28歳のギタリストが、また会いたいと電話を掛けて来た。私はじゃあ、京王線の代田橋の喫茶店で待って居るからと言うと「わかった代田橋だな」と言って、1時間半も経っても来ない。代田橋の喫茶店とは高校の先輩が経営していた純喫茶だった。主に映画音楽を流して居た。その店の電話が突然けたたましく鳴って、出てみたら「貴様、年下のくせに俺を愚弄する気か!」と怒って居る。今何処に居るんだと言うと、「駅の出口に居る。お前が言った純喫茶の名前を言っても誰も知らないと言って居るぞ!!」と怒り心頭だ。。。
ROBERT JR. LOCKWOOD 神LIVE②/「Ain`t Nobody`s Business」
バンドを組んでから初めて演奏した曲は、Otis Rushの「 I`Cant Quit You Baby」だった。心配して居たベースからドラムに変わった同級生は、ベースと共にドラムも練習して居ただけあって、まあ、及第点だった。30代のボーカルも中々の嗄れ声でいい味を出して居た。サックスはジャズの先生に付いて居た為か、要領が分からないと言った面持ちで居たので、私が「バックで吹いてくれれば良いよ。ホーンセクションは任せたから」と言うと要約落ち着いた様だった。あとはベースだ。しかしベースはイマイチだった。元の様に。今ドラムを叩いている彼に、ベースに戻って貰いたいぐらいだった。しかも、このベーシスト、確かに年は私より上だが、態度が横暴だ。私が或る日、ジャズ風にイントロから入ったら、なんか、様子がおかしい。それで一度中止したら。ベースが「リズム感が何にもなかった」と言うので、アフタービートの曲なのでギターもゆったりとしたフレーズで弾いて居るのにだ。明らかにリズムがおかしいのだ。「ギターを早く弾け」と言うので、まあ、テンポを上げて弾いて見ても、おかしい。要するに文句を言っているベースのテンポが遅いのだ。サックスが「ベースのテンポが遅いんじゃないか?」と言ったら。「俺は完璧だ!」と怒る。他のメンバーもシラけてしまい。そしてある時に、慶應大学のリード・ギターと一緒にツイン・リードでギグをしたら、そのベースが私なんかより上手いとベタ誉めで、ベースから電話が掛かって来て「あいつをメンバーにしろ」と言う。しかしねぇ、そのギタリストは私に「あのベーシストは下手だし、性格が悪いから辞めさせた方が良いよ」と忠告をしてくれて居た。だからそのギタリストから知り合いのベーシストを紹介して貰う事になった。バンドのベーシストには「バンドは解散するから」と言った。すると「じゃあ、メンバーの連絡先とあのギタリストの電話番号を教えろ!!」と言う。私は一言「なめるな、バカ野郎!!。」と言って電話を切った。風の噂ではその後、そのベーシストはいく先々のバンドでトラブルを起こして居たと言う。そして次に入ってきたベーシストは気さくな良い奴で、腕も確かだった。このバンドは5年間活動を続けた。。。
Otis Rush: I`Cant Quit You Baby
Led Zeppelin-I Can't Quit You Babe Live with lyrics
『I Can’t Guit You Babe』日本語訳。
君とは別れられない、ただしばらく離れていたいだけだ
君とは別れられない、ただしばらく離れていたいだけだ
君は俺の幸せな家庭を滅茶滅茶にした、俺にたった一人の子どもを虐待させた
俺が愛しているのは知っているだろう
君への愛を俺は隠すことができない
俺が愛しているのは知っているだろう
君への愛を俺は隠すことができない
君を身近に感じる時君は俺のひとつの希望なんだ
呻き声を上げる時俺は心の奥底に激しい痛みを感じている
呻き声を上げる時俺は心の奥底に激しい痛みを感じている
俺が君の名を叫ぶ時 君は俺のひとつの希望なんだ
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私はこのバンドを組む前に小学校から付き合っていた法政大学のドラマーと一緒にコテコテのシカゴ・ブルースのバンドを組んだ事があった。彼はすごいテクニシャンで、どのジャンルも難なく演奏出来た。ただ好きな音楽はキング・クリムゾンとビートルズ。そして10CCとクラシックだった。メロディーが綺麗なロックを好んで居たのだ。ある日「ブルース喫茶」にメンバー全員で行ったら。マスターが様子を察してアーバン・ブルースを掛けてくれた。
アーバン・ブルースの特徴はJAZZとの繋がりをより深めた処にある。同じようにJAZZの影響を受けた「クラシック・ブルース」と違い、JAZZに飲み込まれること無く、また、「シティー・ブルース」ほど弾語りへの執着も無かった。1940年代に入ると、アーバン・ブルースは大きな展開をみせ、テキサスではTボーン・ウォーカーが初めてエレキ・ギター(電気ギターと言った方が適切)をブルースに取り入れた。Tボーン・ウォーカーはロニー・ジョンソンやチャーリー・クリスチャン(JAZZに初めてエレキギターを取り入れたギタリスト。ちなみにTボーンはチャーリー・クリスチャンよりも早くエレキを使い始めたと言われて居ます。)らとも親交があり、コンボ・スタイルのバンドをバックに、イントロや間奏でギターソロを弾くと言う現在のロックにも通じるスタイルを確立した。その後、ラジオの普及によりブルースの地域差はしだいに無くなり、これらのアーバン・ブルースはメンフィスのB.Bキングらの手により統合され「モダン・ブルース」と呼ばれる様になった。
「〇〇さぁ〜。こういうブルースもあるじゃない。何でカントリー・ブルースを演奏するの?」
Hound Dog Taylor "Wild About You Baby"
Elmore James Jr "Broomdustin"
1940年代前半、多くの黒人たち同様デルタのブルースマンたちがシカゴへ移住してきた。 当時のマックスウエルズ・ストリートはストリート・ミュージシャンであふれかえり、その中から後のシカゴ・ブルースの屋台骨を支える素晴らしいブルースマンが数多く発掘された。
シカゴ・ブルースの基礎を築き上げた「マディー・ウォーターズ」も1943年ミシシッピからシカゴへ移住した一人だ。彼は最初典型的なデルタの弾語りスタイルだったが、当時流行していたシティー・ブルースのバンドスタイルとデルタ・スタイルを融合することで、一種の泥臭さの有るシカゴ・ブルース・スタイルを確立して行った。マディーのバンドからは、オーティス・スパン、リトル・ウォルター、ジミー・ロジャース、ジェイムス・コットンなど多くの有名ブルースマンが巣立ち、彼は「シカゴ・ブルースの父」と呼ばれる様になった。
1940年代後半から一気に広がったシカゴ・スタイルは1956年B.Bキングの影響を受けたオーティス・ラッシュのデビューによりモダン・ブルースとの統合を果たし、ブルースの代名詞となって行った。
私は「なら、俺はこのバンド辞めるから、最後にキング・クリムゾンの曲をやるよ」と言って、ライブでキング・クリムゾンの「21世紀の精神異常者」「エピタフ」と言う曲を演奏した。ドラムは吃驚しながらも喜んで私を見て居たが。私は辞めるつもりで居たので。ドラムが「やれば出来るんじゃないか!!何でブルースに拘るんだよ?」と言うので、私は「黒人の音楽がやりたいんだよ」と言った。他のメンバーも「ブルースなんか辞めてロックをやろう!!」「おまえさぁ、プログレや、ハードロックも弾けるじゃないか」と言うのだが、「まあ...でもね」と言って当時クリエイションの竹田和夫に心酔していたハードロックのギタリストを入れて、ウィッシュボン・アッシュの「剣を捨てろ」を演奏してから、私は後をそのギタリストに任せて脱退した。彼らはその後ハードロックのバンドに成って行った。Wishbone Ash - Throw Down the Sword - 40th Anniversary
高校から大学生の頃、私は毎日その日の授業が終わると、高円寺にある「ブルース喫茶」まで通って居た。宿題やレポートも店の中で済まして居た。或る日、同じぐらいの大学生が隣に座って、「あのさぁ〜君、オーティス・ラッシュの事、どう思う?」と訊いて来た。「俺はコブラ盤が一番好きだよ・・・」と言ったら、「俺もそう思う」と言って、友人に成った。その男は漫画に詳しく当時ビックコミック・スピリッツ関連で単行本に成って居た「カムイ外伝」を貸してくれたので、私は講談社から単行本に成って居た「男おいどん」を貸した。そして次第にレコードの貸し借りなどもするように成っていった。マスターは私には何時も出がらしのコーヒーを入れてくれて居た。何しろ、2時半ぐらいから6時までいるのでコーヒー一杯では持たない。そうしたらマスターが「君さあ、たまには酒飲まない?」と聞いて来たのでウイスキーの水割りを水を多めにしてもらい飲んだ。私はアルコールに弱い。と言うか殆ど下戸に近い。ビールなどは飲めないのだ。腹が空くと、焼きそばを注文して食べた、当時340円だった。常連の客は色々な人が居た。そして暗黙の了解があった。偶にその事を知らない客が来店して相手にされて居なかった。
「ねえ、マスター、ロバート・ジョンソンのスイート・シックスティーンを掛けてよ!」「???」要するに分かって居ないのだ。その曲は BBkingの曲だ、しかしそう言った変な客は居場所が無く成り帰って行く事になる。或る日店の常連から、当時、まだレコードには成って居なかった、マジック・サムの「アン・アーバー・ブルース・フェスティバル」での音源を録音した幻のテープを聴かされた。噂には訊いて居たがその演奏に驚き。テープをダビングして貰った。勿論店のマスターもだ。中にはアメリカのシカゴのクラブまで行ってオーティス・ラッシュの生演奏を録音してきた強者もいた。勿論ダビングさせて貰った。当時私はギターとブルースハープを演奏して居て。特にオーティスのギタープレイには心底影響を受けて居た。そうした時に年上のブルース・ハーピストに店で出会った。彼は上手かった。私は彼の元でギターを弾く事に成った。或る日、スタジオで音合わせをして居て、さて始めるかとばかりに、典型的なシカゴ・スタイルのイントロのリフから入ったのだが、その男は、アドリブを吹かないで、なんとリトル・ウォルターの曲のソロを吹き出したのだ。それで一緒には出来ないと成って仕舞ったのだが、当時知り合いの女性のブルースシンガーに一緒にやろうとしたハーピストの事を話したら「ああ、あいつは、駄目よ。何しろコピーしたまましか吹けないんだから、自分のフレーズ吹けないんだからね」と言って居て、成る程と思った。その後に、ウイーピング・ハープ・セノウさん率いるオフ・ザ・ウオールと言うバンドを妹尾さんが解散させて、新しいハーピストで再結成されたバンドを渋谷の道玄坂で演奏するのを観に行って。実は自分もブルースハープをやっていると言うと。なんとそのハーピストは私が持っていたウオークマンをアンプの上に置いて録音させてくれた。そのハーピストは今日は風邪を引いて居て、本調子では無いと言いながらも、演奏は素晴らしかった。
ブルース喫茶では他に服飾デザイナーを職業にしている男とも友人に成って。彼のアパートに遊びに行った事がある。彼の部屋は上半身のマネキンが置いてあり、なぜかユーライア・ヒープのポスターが壁に貼ってあった。狭い部屋ながらもセパレートステレオを持って居て、しかし大きなスピーカーからは音が鳴らせないので、ラジカセにステレオのラインアウト端子から繋げて聴いて居た。彼はブルース以外のロックも好きで、パンク・ロックのバンドを作ろうと仕手居た。その人からも貴重なロックやらブルースの海賊音源をオーディオ・テープにダビングさせて貰った。「ブルース喫茶」の方はだんだん経営が苦しく成って行き、ある日、私がカウンターで水割りを飲んで居て、ふと、「マスター、店、辞めるつもりでしょう?」と言うと「そうなんだ、来週の土曜日にボトルを用意して待ってるから、閉店のお別れ会に来てくれよな!!」と言われたが。私は働き始めたので、用事が出来、行けなかったのが未だに悔やまれて居る。。。
或る日、見知らぬ相手から電話が掛かって来た。「俺はオニオン・スライスと言うロック・バンドのリードギターだけども」と言って話を続けた。「あんたポール・バターフィールド知ってるか?」「知っていますよ。」と言ったら、「彼みたいに吹けるか」と聞く。彼は白人のハーピストの中でもずば抜けて高度なテクニックを持って居る。私も一応はコピーをしたが彼見たいには吹けない。断ろうとしたら続けて言う「処でデビット・カヴァーデイル知ってるか?」「ディープ・パープルの第3期のボーカリストでしょう。のちにホワイトス・ネイクを結成した人でしょう。」と言ったら「よく知ってるなぁ、、いやあねぇ〜なかなかロックを知って居る人がいなくてさぁ〜〜」と言うのだ。こちらは曲がり成りにも小学生から高校までロックを聴いて来た。そのぐらいは解る。そしたら「ウチらはロックバンドだけども、ハーピストを探している」と言う。なんだか嫌な気になって断ろうとしたら、「渋谷のスタジオに俺の名前を言ってあるから明日夕方の4時に来てくれ」と言って電話が切れた。この私の話をずっと読んで来て解らないかも知れないが、1970年代から1980年代当時は、ブルースマンとロッカーは対立していた、そう昔イギリスでモッズとビートニクが対立して居た様にだ。モッズ (Mod、Mods、Modernism or sometimes Modism) は、イギリスの若い労働者の間で1950年代後半から1960年代中頃にかけて流行した音楽やファッション、それらをベースとしたライフスタイル、およびその支持者を指す。ロンドン近辺で発祥した。モッズ・ファッションとしてよく連想されるものとして、髪を下ろしたMod Cut、細身の三つボタンのスーツ、ミリタリーパーカー、多数のミラーで装飾されたスクーターなどがある。1951年にアメリカ軍に採用されたミリタリーパーカー(M-51)は、モッズの人々に愛用され、「モッズ・コート」(「モッズ・パーカ」とも呼ぶ)として知られて居る。
モッズは衣服や音楽に興味を示し、彼らが好んで聴いた音楽はアメリカのレアな黒人音楽、R&Bやソウル・ミュージック、ジャマイカのスカ(多くのスカのレコードを出したレコードレーベル名により、ブルービートとも呼ばれる)などであった。またイギリスのグループとしてはザ・フー、スモール・フェイシス、キンクス(ただし、レイ・ディビィスはモッズを嫌って居たと言う説がある)、スペンサー・ディビィス・グループなどが好まれた。ビートルズは、デビュー前は正反対のロッカーズ・ファッションをして居たがマネージャーの指示によりモッズ・ファッションでデビューした。1955年から1964年頃にかけて、アメリカ合衆国の文学界で異彩を放ったグループ、あるいはその活動の総称を、ビートニク(Beatnik)と呼ぶ。生年で言うと、概ね1914年から1929年までの、第一次世界大戦からから狂騒の20年代までに生まれた世代に相当する。最盛期にはジャック・ケルアックやアレン・キングバーグそしてウイリアム・バロウズを初めとするビート・ジェネレーションの作家たちは多くの若者達、特にヒッピーから熱狂的な支持を受け、やがて世界中で広く知られる様になった。
そしてこの2つのジェネレーションは仲が悪かった。それと同じことが1970年代の後半から1980年代の日本で起きて居た。はっきり言って仕舞えば、ロックを聴いている連中ないし評論家はブルースを敵視して居たのだ。例を挙げれば1970年代当時、仕事中にラジオを付けたら、丁度、永井隆と上田正樹と柳ジョージと成毛滋の対談をやって居たのだが、司会者があからさまに永井と上田にキツく当たり、柳ジョージとかには優しく接しているのだ。そして黒人のブルースとそれのカバーのロックで演奏している曲を交互に掛け、黒人のブルースは音楽的に成って居ない。ロックの方が上手いのだと言う。そう言う偏見があった時代でした、私に言わせれば、安易なロック・バンドしか知らないから、黒人のエネルギッシュに溢れたブルースやらR&B、ソウルはよく解らなかったのだと思う。処で、私が中野サンプラザにハーモニカ・フランクとフィリップ・ウオーカーのコンサートを見に行った時に、丁度隣の席に音楽評論家の中村とうようが座って居て。ステージ上が暗くてブルース・ハープのキーが解らなくてハーモニカ・フランクが慌てて居たら。「暗くて見えないじゃないか!!ステージの裏方、ちゃんとしろ!!」と怒って檄を飛ばして居た。中村とうよう氏は私が尊敬して居た音楽評論家で、ピアノも弾けた人だ。彼のラグ・タイム・ピアノはプロ級だった。当時彼は「ブルースの世界」と言う、ラジオ番組のパーソナリティーをして居て。日本にブルースを根づかせた張本人だった。私はこの時の模様を密かに録音したオーディオ・テープを未だに所有している居る。話が大分飛んだが、そう言う訳で渋谷の道玄坂にあったヤマハのスタジオに行って見て受付に名前を聞いて見ると名前は聞いて居ないと言う。丁度、喉が渇いたので、缶コーヒを買って飲んでいたら。派手なミニスカートにブレスレットをつけた女の子が男とやって来た。私の前に座るとその女の子が「あんた、タバコ持ってんだろ!頂戴よ!」と言う。すると男の方が「俺がギターでこいつがボーカル」。「あんたの名前を聞いても知らないと言われたよ」と言うとにやりと笑って、「そう。」と言う。そうしたらドラムとベースがやって来て。「さて、メンバー来たからおっぱじめるぞ」と言う。私はなんだかなぁ〜と嫌な気分で居たが。リードギターが「 Need Your Love So Bad 」をやるからハーモニカ吹いてくれと言う。この連中はブルースの事は何も知らない様だった。
Gary Moore - Need Your Love So Bad (HD) traducida español - Live Montreux 1999
それで演奏が始まるとヘビーメタルの曲ばっかりで、黙って聴いていると、「何してるんだブルースハープを吹け」と言う。セカンド奏法で吹こうにも唯でさえ曲のキーも教えられず、まるでギターを弾く如く、一本のブルースハープで全ての曲が吹けると思って居る。何も解って居ないのだ。それでやりようが無いのでめちゃくちゃ吹いて見た。そうしたら、ボーカルの子が「結構やるじゃん」と言う・・・。そして「Need Your Love So Bad」に成ってこの曲はキーを知っているので順調に吹けた。すると、「ポール・バターフィールドとはいかないけどいい感じじゃん」と言う。その後はブルースを3曲ほど演奏した。(と言ってもロックのブルースだが)もうそろそろ時間だとスタジオの従業員が知らせに来たので。そこまでにして終わりにして防音室を出ると、ギターが「又連絡をするからな、」と言う。嫌なセッションだったが一つ言えることは、これまでの黒人のタイプのブルースでは無くロックに成って居たと言う事だ。ウオークマンを持って行ったので録音して来たが、そのテープは弟が聴かせてくれと行って持って行ったきり、ついに返して貰えなかった。まあ、あれはブルースではない、ロックだった。。。その後そのギタリストから電話は掛かっては来たが、私は居留守をして断って貰った。どうも、相性が悪すぎたし、あくまで私はブルースに拘って居るのだから。。。
The Ali Maas Band - Need Your Love So Bad
ピアニストとしての活動の間、艶のある声を買われて、歌手としても活動するに至った。1944年、歌手として「ストレイトン・アップ・アンド・フライ・ライト(Straighten Up and Fly Right)」を大ヒットさせた。
私は、サックス中心の曲で行くぞと言い、サックス奏者にレコードを貸してコピーをさせた。しかし,ベースはブルースではないと嫌がった、最も、ジャズのベースなので特に嫌だったのだろう。この曲はボーカリストも気に入ってくれて、ほとんど練習もせずに一発で演奏出来た。我乍らよく出来たと思い録音したテープは大切に持って居ようとしたが、サックスがテープを聞きたいので貸してくれと言う。私は絶対に返せよと念を押して貸したのだがテープは帰って来なかった。ボーカルも聴きたくて私の処まで来のだが、、、そのくせ次の練習は何時なんだとサックスから電話が掛かって来た。私は「お前には、あれほど念を押してテープを貸したよな、返さないのか」と言っても「返さない」と言う。だから私は「お前は今日限りで首だ!!」と言った。そうしたら黙って居る。「バンドのメンバー間の決まりを守れない者とは一緒に出来ないね!!」そう言って電話を切った。それまでもサックスの面倒は見てやって居た。ジャズが好きなくせに「ソニー・ステット」のレコードも聴いて無かったぐらいで、レコードを貸してコピーをさせて居た程だ。恩を仇で返すと言うのは正に此れの事だ。それにほぼ5年間に渡るバンド活動で心底疲れても居た。
サックスはまた一緒にやりたいと何遍も電話を掛けて来たが無視をした。そんな時にあるギタリストから電話が掛かって来た。ブルースハープ奏者を探して居ると言う。会って話がしたいと言われた。そして会う場所はその男のアパート、いや下宿だった。行って見ると3畳半の部屋にギブソンのギターが置いてあって何時も磨いて居ると言って居た。少し興ざめした。仕事は長距離トラックの運転手だった。部屋の鴨居には、高価な毛皮のコートが数着掛けてあったが、それとギターとラジカセだけが置いてあった。他は何も無かった。缶ビールを飲めとくれたが、私はビールはダメな方なのであまり飲まなかった。バンド編成を聞いて見ると、女の子のボーカルに、ベース、ドラム、ギターの編成だった。聞くと女の子のボーカルもブルースハープを吹くと言う。私は、「ならば自分は必要ないだろう」と言ったが、やはりブルースハープは男がいいと言う。
やる曲はと言うとマジック・サムの「I need you so bad」「I Feel So Good」それとアルバートキングの「Bom Under a Bad Sign」リトルウォルターの「juke」 だった。
Magic Sam LIVE I need you so bad
Magic Sam-I Feel So Good (I Wanna Boogie)
Born Under a Bad Sign Albert King Ohne Filter
Little Walter - Juke
秋口だったので冷えて来て、トイレはどこだと聞いたら、3畳半の部屋の前に出たところの外にあると言う。いったい、この男はどうしてこんなに貧乏暮らしを、仕手居るのだろうかと思ったが、訳は聞かなかった。人には色々と人には言えない事情があるものだ....
まあ、その頃はハープもろくに吹いては居なかったから、承諾した。。。
1ヶ月後、渋谷のスタジオでの演奏と成った。ボーカルの女の子は、男勝りで、「あんた、なんかより、私のハープの方が上手いわよ、きっと!!」と言って威嚇して来た。その子はボニー・レイットとココ・テイラーが好きだそうで、見たところハープについてはダメだと思った。持ち方がちゃんとして居なかったからだ。演奏が始まると、多少ボーカルがヒステリー気味になるが、全体としてはまとまって居た。処でブルースハープは、なんと言うかダブルハープの二重奏に成って仕舞った。予想した通りだった。一歩も引かないのだ。リードギターが痺れを切らせて、その子にハープを吹くのを辞めさせた。そしてリトル・ウォルターの「Juke」は私が演奏した。その子はふてくされて聴いて居たけど。。。私は此の頃に成ると持病が悪化して来て居て、とてもバンドを続ける気には慣れなかった。それでバンドの方は休止する事と成った。
Robert Johnson- Crossroad
CREAM Crossroads 1968
CROSSROAD
十字路へ行ってひざまずいた
十字路へ行ってひざまずいた
天の神様、どうかこの可哀想なボブをお助けください
ああ、十字路に立って車を止めようと手を振った
十字路に立って車を止めようと手を振った
誰も俺に気がつかず、みな通り過ぎてゆく
ああ、日が沈み、闇が俺を取り囲む
ああ、闇が俺を取り囲む
俺を愛してなぐさめてくれる女は、ここじゃ一人も見つからなかった
走れ、走れ、それで友達のウィリー・ブラウンに言ってやるんだ
走れ、走れ、それで友達のウィリー・ブラウンに言ってやるんだ
神様、十字路に立ち尽くす俺はこのまま沈んでいって仕舞います
親父の会社で働いて居た頃。前のblog記事でも書いたが、バンドをやって居る、 女の子がパートのアルバイトとして会社に来て居た。その子は変わった子で、「プエルトルコの子とヴェトナムの子とシンガポールの子とで昨日、働いたのよ。」とか、「昨日さあ、ライヴの打ち上げでライブハウスの楽屋の通路に居たら、『レイジー・キル』のベーシストがさあ、私のベースを蹴って行ったんだ。考えられる?頭来ちゃうわよ。」「アパートの隣の部屋の白人がさあ〜〜ジャズだと言ってピアノ弾くんだけどさあ、無茶苦茶なのよ。」働きに来て居るのか、音楽の話をしに来て居るのか解らない。
終いには、「〇〇君は私のバンド聴きに来てくれたけど、〇〇さんは来てくれないじゃない!!」と私に言う。段々と図に乗って来る。私もバンドでブルースとかジャズを演奏して居たが、私のブルースハープのバンドのメンバーは、ボーカルの〇〇が、仕事場に来たといって、怒って居たぐらいだ。もっとも、私がブルースハープで、本来は歌も歌うのがいいのだけど、当時は自信がなくて、中央大学出身の21歳の男をボーカルとして居た。芸大を出たベースとドラムは可成り上手くて、まさにプロだった。私が19歳の時に2人共30歳だった。丁度ベーシストの奥さんが、私と同じ拓殖大学出身で、話が盛り上がった。何時もスタジオでの練習の帰りに居酒屋の「村さ来」でビールとツマミのおかずを注文して、皆んなで音楽談議に花を咲かせていた。そのベーシストの奥さんはライブハウスで演奏するときにも、何時も見に来ていて、私は「自分もこんな奥さんを持ちたいなぁ」と思って居たぐらいだ。そのせいで当時付き合って居た彼女が怒って居たが。中央大学出身の男は、「自分は大学に入ってから音楽を聴いたんだ。皆んな見たいに、勉強をしなくて音楽を聴いて居たのとは訳が違う」と言って居て、ベースとドラムは鼻で笑って居た、「あいつ、あんな事言っているけど、英語の歌詞分かって歌っているのかねぇ...」練習中にボーカルが歌って居ると。「おい、お前さあ、チャパティーって言ってるけど、なんだそれ〜〜」「そう聞こえるよ」「へ〜〜、そう」「一度レコードの歌詞良く読んでみな!!」
しかし不思議と私には皆んな何も言わなかった。多分歳が若い事で多目に見られて居たのだろう。ハープの腕前もまだまだだったのにだ。此の間、探したらその当時の練習中のオーディオ・テープが出て来た。今、改めて聴いてみるとボーカルの歌と私のブルースハープが下手だ。。。ギタリストは同志社出身だった。暫くは京都と大阪で活動して居たと言って居た。ブルースとジャズに精通して居て、テクニックは可成りあった。歳は矢張り私より上の27歳だった。ベースとドラムはプロとして活動もして居て、楽器屋でも働いて居た。ギターは小さな喫茶店の経営者だった。漫画喫茶で中古レコードなども売って居た。夏になると良くアメリカにレコードを買いに行って居たので、私はアメリカ盤のブルースのレコードをよく彼を通じて買って居たものだ。ロッド・ピアッツアとかウイリアム・クラークなどアメリカ西海岸のブルース・ハーピストをそれで知った。このバンドはライブハウスで8回目の演奏をした後に、私は病気になり脱退した。その後はロックバンドに成って行ったらしい。私はあえてメンバーと連絡は取って居ない。皆んなは私が辞めると知ったら、慌てて何回も電話をくれたが、皆んな母が断って仕舞った。当初私は、何で自分に電話を渡さなかったのかと怒って母に文句を言ったが。。。。今はそれで良かったと思って居る。これが1970年代後半から1980年代の半ばに掛けてです。丁度この当時、ヘビメタのバンドでリードギターを弾いて居た高校時代の友人が行方不明になったと電話が掛かって来たが....その後彼がどうなったかは知らない。処でメンバーを集めるには、音楽雑誌や、ライブハウス、果ては電柱にまでメンバー募集のチラシを張った。
当時、アンダー・グラウンドで、今で言う、インディーズ・シーンだけども、よくバンドのメンバー同士を引き合わせる人間が居た。電話で問い合わせると、すぐに各楽器をやっている人たちを紹介してくれたが、電話で話して見ると、みんなロック・バンドを組みたくて、ブルースは一緒にはやれないと言った話だった。1980年代になるとパンク・ロックやらテクノ・ロックが出て来て、日本でもブルースは余り良く聴かれて居なかった。まあ、私は、丁度、親父が「自分の会社なら、お前も余り身体の事は心配せずに働けるだろう」と私を会社に入れた。処が此れが裏目に出た。先に会社に入って居た。親父の兄貴の従兄弟二人が、よく思わなかった。特にゆきかずは私に「会社は俺が次期社長になるんだ!お前はなぜ入って来た!!」私が黙って居たら。「体が悪いなら、働くな!!お前は俺の座を狙っているのだろう!!」と言うのだ。「そんな事はないよ。」と言っても、「嘘だ!これからお前をいびり切ってやるからな!!」と言う。そしてそれを実行した。初めの内は社員旅行やら忘年会やら出て居たが、私はそのうち出なく成って行った。ある忘年会の座敷で、カラオケが置いてあり、皆んなは歌を歌って喜んで居たが、私は「横浜ホンキートンク・ブルース」しか毎回歌わないので、何だと思われて居た。だから何時もベルトにフォルスターを付けてオールド・スタンバイを持歩いて居るので、まあ、仕方が無いので、アドリブで即興演奏をしてみた、カラオケのマイクを使ってカラオケに繋げて吹いたのだけども、そうしたら皆んな、呆気に取られて、「今の何だ、バッハか?」「いやぁ、ジャズだろ?」親父が「こいつが、今吹いたのはブルースですよ。」と言ったら丁度、食料品メーカーの人も来て居て、驚かれた事があった。従兄弟のゆきかずは、ハーモニカを見せろと言い、「穴が10個しか無いのに、よくあんな音が・・・」と、皆んな当時はブルースハープなんて聴いた事が無かったらしい。私ぐらい吹ける人は山程居る。当時は知っている人でも、単に小さなハーモニカで、良くフォーク・ミュージシャンがピーピー吹いているのを知って居るぐらいだったらしい。従兄弟が「なんて曲だ」と聞くので「アドリブだよ」と言ったら「アドリブってなんだ?」と言うので「即興演奏」と言ったら「けっ!!」と言って居た。
最近若い頃のバンド活動で思う事がある。それは私が20歳の時に音楽喫茶で共演した二人組のディオの事だ。当時私は、バンド活動は小休止して居たのだったが、そこにこの二人連れから声を掛けられた。私の事は知って居ると言う。それで1時間半程のライブに参加した。二人はガットギターを持って椅子に腰掛けて、その前にシュアのマイクがマイクスタンドにセッテングされてあり。私はセッティングのミキサーからダイナミック・マイクを渡されて、それをボーカルアンプに繋いでブルースハープを吹いた。マイクのインピーダンス・マッチングはちゃんとされて居た。インピーダンス・マッチングとはマイクロホンに大きな音を加えた場合には、出力に波形歪を生じる。この歪みが限度を超えないまでの、簡単に言えばマイクロホンが歪まずに使える入力音圧の限度。数値が高い方が大きな音に耐えられる。コンデンサー型はインピーダンス変換を行なうための電気回路を積んで居るので、1KHzの出力に一般的には1%歪みが出る時の入力音圧(限界を超えた過大な入力)を電気的に測定してデシベル(dB SPL)で表示して居る。ダイナミック型はかなり高い入力レベルに耐えられる構造をもって居る上、過大入力による歪み方も聴感上は穏やかで、電気的測定が難しいので一般的には表示して居ない。電子楽器、マイク、エフェクター、アンプ、ミキサー同士をケーブルで接続して演奏や録音をする際、この「インピーダンス」を知っているかそうでないかによって、実は出音に大きな違いが生じて仕舞う事もあるのです。確かにダイナミック・マイクを繋いでボーカルアンプから出る音はアコースティックな音だったが、私は単なるフォーク・ミュージシャンが吹く様なソロは吹かなかった。ジャズのソニーステットとチャーリーパーカーのフレーズを混ぜてリトル・ウォルターのスタイルで吐き出したフレーズを吹いたのです。だから持って行った。「グリーン・バネット」でアンプに繋げて音を歪ませて吹きたいと言ったのだが・・・。セッテング・ミキサーは露骨に嫌な顔をして、、それはそうだろう、フォーク・ミュージシャンが吹く様な軽いタッチのフレーズだろうと思って居たのだから。案の定。演奏が終わると、すぐにやって来て「マイクを寄越しな!!」と言って奪い取る様に取って行った。そして、二人はなぜか黙って居たのだった。客もシーンと成って仕舞った。私は少し気まずく成って来て居た。やる前には片方のギタリストと音楽論議をして居たが、二人とも黙って居るのだ、だから約束通りボーカルの方から先に言われて頼まれて居た”ボーヤ”を連れてその場を後にしたのだった。
George Harmonica Smith
my one and only love ブルースハープでジャズ
”ボーヤ”とはロックバンドのアシスタント・スタッフの事です。ミュージシャン志望の若者が多いため、“ボーヤ”と呼ばれて居るが、男性ばかりでなく女性も居る。マネージャーと同じように、ミュージシャンの身の周りの世話をするが、仕事は、楽器の管理、修理、セット、片付けだ。楽器車の運転を任される事もある。私は17歳のその"ボーヤ"を連れて自宅に帰り、その子と話をして見た。その子は「ねえ、ハーモニカ教えてね!」と言う。私は何時からあの連中の”ボーヤ”をやって居るのだと聞くと半年前からだと言う。出身はと聞くと「秋田です」と言う。聞いて見るとその子は楽器は何も出来なくて、ただその二人組と一緒に居れば、自分もミュージシャンになれると思って居る。私は「なんだかねぇ...」と思い。その子を2晩泊めた。そして鰻の寝床の様な自分の部屋で過ごさした。食事はスーパーで適当に弁当などを買って来て食べさした。そしてその子は3日目の朝に成るとあの2人連れのディオ・グループの元へと帰って行った。その日の夜、九時頃に、電話が掛かって来た。なんとあの二人連れのマネージャーからだった。「近いうちにあの二人があんたに、また会って話がしたいそうだ」と言って来た。そして「実はあの二人はレコーディングを控えて居て、あんたの事が気に入った見たいだ。レコーディングには参加してくれ」と言う。私は少し慎重に成って居た。彼らと組めば文字通りのプロ・デビューが出来る。しかし考えた末にその誘いを断って居た。私は当時まだ若干20歳だ。自分のブルースハープの腕前は自分が一番良く解って居た。とてもではないが、商業ペースの音楽業界で果たしてこれから先に通用して行けるとは思えない。それに障害の事もあった。あの二人組が私を気に入ってくれて。メンバーとして本格的にレコーディングに参加させようと思ってくれたのはとても嬉しかったが、私はその申し入れを断った。
しかし、今の身の上に成って締まって、私も考える。あの時に、あの連中と一緒にやって居れば。少なくとも今の様に暮らし向きに困ると言う事は無かったろう。まあ、しかし、障害者になればお仕舞いか。当時はブルースハープで本格的にブルースを吹く人は少なかった。皆んな、フォーク・ミュージシャンの様にファースト・ポジションで単なるハーモニカの流れとしてプカプカ、またはピーと吹くだけだった。何も私はフォーク・ミュージシャンを馬鹿にするつもりは無いし、そう言った吹き方もありだ。あれはあれでテクニックが居る。ただ私はクロス操法で、本格的なブルースやらジャズを吹きたかったのです。私はその後、最後のバンドを組んだ。そしてそのバンドで、自主レコードをメンバー全員で80万ほど都合を付けて作った。30枚プレスだ。そのレコードは手元にはもう残って居ない。スタジオで演奏した音源をレコード化した物だ。なんか聞く処によると、このblogでコメントを偶にくれる。若い女の子が年上の友達から譲り受けて持って居ると言うのだが...よく1970年代、80年代のミュージシャン崩れは自分の音源を自主レコードにして居た。今は、なんか最近トレンドのカセットテープに録音して、インディーズ・シーンで売るのが流行って居るそうだ。今は 自主CDを作るよりも自主カセット・テープを作るインディーズ・バンドが多いらしい。昔も今もミュージシャンは変わらないんだなぁと思います。此処までバンド活動について書いて来たが。私はその後エレキ・ギターとベース・ギターなどは処分をした。今はブルースハープだけを吹いて居る。しかし私より上手いギタリストやら、ブルースハーピストは星の数ほど居る。私は音楽活動はいい思い出として心に留めて於たい。そしてまだ此処に書けなかった話などもいずれ、、まあ、機会があったら、また書くかも知れません。此処まで読んでくれて有難う。
Jason Ricci, Spring Harp Fest
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ジャズ喫茶。「サムライ」新宿南口にあります。私が通って居た、1970年代からは様変わりして居ますが。最近は猫迷宮になって居るみたいですね・・・・。
店の佇まいと聴こえてくる音色から、「アナログレコードを掛けて居る!」と思い込まされるが、じつはデータ音源が殆んどで、インターネットラジオも流して居る。とは言え、店にはモダンジャズから知る人ぞ知るプレイヤーまで約6000枚のレコードがあり、勿論リクエストもOKだ。そんな宮崎さんにもっとも気に入っていプレイヤーをたずねると、「南アフリカ・ケープタウン出身のアブドゥーラ・イブラヒムですね。人種差別や厳しい政治状況に置かれても、孤高で魂を揺さぶる演奏をして居ます。本当に素晴らしいです」
次から次へと話題がつきない、マスターの宮崎さん。
宮崎さん愛するアブドゥーラ・イブラヒム(ダラー・ブランド)やドラマーのマックス・ローチなど、壁にはサイン入りのレコードがずらりと掲げられて居る。
一見、シャイな宮崎さんではあるが、此方から話かければ、その糸口からさまざまな話題が展開する。ジャズはもとより、俳句に回文、江戸に庶民文化、武士道に生類憐みの令、仏教に儒教、神道、政治に陰謀説…と、その幅広さは天下一品。会話が進むうちに、このお店が「サムライ」と言う名前である事に合点が行くはずだ。
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---「仕事の訳あり話・大学行くか、職人になるか」---
働いて居た20代の頃。ある年長の社員が私を連れて来いと言って居る、スナックの主人が居ると言うので、その社員の車に乗ってその店まで出掛けたのだが。その当時私はまだ若く体重も58kgぐらいしか無くて。今、思えばそんなに食べ物を食べなかったのですね。少食で食べるとすぐにお腹が一杯に成って仕舞い。やはり30代の終わり頃から太って来たと言うか、でも50代になると痩せ出して、まあ40代の終わり頃に毎回書いて居る様に、一気に28kg近くも痩せまして。まあ、何遍も言う様に30kgある一斗缶を両手で100缶トラックに積むと言うことを毎日2ヵ月夏の炎天下にやったら、スクワットの要領ですよね、トレーニングジムで炎天下トレーニングした様な感じで痩せたのです。何遍も言うけど病的に痩せたので社員の人たちは心配してくれたのですが。かしろう、ゆきかず、けんじは3人で見に来て笑いながら「痩せられて良かったじゃない」と言うのですよ。でもまあ、かしろうはとっくに死んだし、ゆきかずは70歳を超えたし。けんじは、もはや痴呆だしね。でもね、一度受けた仕打ちは私が生きている限り消え無いのです。
話はまた元に戻りますが、それで、そのスナックに連れられて行くと。そこの73歳の主人が、「まあ、座れ」と言って。「ねえちゃん、ええとな、ハンバーグに、カレーライス、うどんにな、ピラフにな、スパゲッティ作ってくれや」と言うのですよ。私は私以外に誰か人が結構来るのかと思って居たら、その料理がテーブルにヅラっと並べられて、そうしたら、「おめえはまだ若えんだ、全部食え」と言うのです。私は「あのう、12時に昼食べて来たので、それに食べてないにしても、こんな量一辺には食べられませんよ。何かすみませんけど、このアイス・コーヒーだけ飲ませて頂きます。」と言ってアイス・コーヒーを飲んだら。「おめえは若えくせにこんなものも食えねえのか?」と言うので「せっかくのご厚意ですが頂けませんので、すみません」と言ったら、「勿体ねぇ、俺が喰う」とガツガツ食べ始めた。しかし自分も食べられずハンバーグにスパゲッテイ喰べたら、フーフー言って居る。そして「これからはな学問は関係ねぇ、おりゃ〜小学校しか出てねえけれども、こうやってな、スナックを5店舗も持って居るんだ」と言うので「それは凄いですね」と言うと「おめえ、これからは大学なんて行っても何にもならねえぞ!!」と言うので流石に「いやぁ、大学出たからってどうにもならない事も確かにあるけど勉強は大切ですよ」と言ったら。「大学出て俺みたいに、スナック、5店舗も持てるか?」と言うのだ。弱って仕舞って居たら電話が掛かって来て、「何、そんなか、今すぐ3号店に向かう、待ってろ!!」と言って「せっかく呼んで悪いがな、急用が出来たそれじゃあな!」と居なくなった。
そこへ会社の年長の社員がやって来て、「あれ社長は?」と言うので「今、急に用事が出来た様で出て行きましたよ?」と言うと「なら、俺の得意先のパン屋に寄ってから帰るぞ」と言うので「そうですか」と言ってそのパン屋に行くと。そこの主人も何だか「あんたに聞きたい事があるのだがね?」と言うので「何ですか?」と言ったら。奥さんが出てきて「あなた、大学行ったって聞いたから聞くのですが、息子は今、中学生だけども、どこか大学に入れた方がいいかねぇ?」と聞くのだ。私ははっきり言った「奥さん、大学行くのもいいけど、お父さんはフランス料理店銀座に3店舗あって、その他ブティック、リサイクルショップが青山に5店舗あってそして此処麻布でケーキ屋とパン屋経営していて、有名なホテルなりレストランに入れて居るのでしょう?」と言ったら、「まあそうだけども」と言うので、「息子さんは大学行くより、お父さんの跡を継いだ方がいいのではないですか?」と先ほどの老人ではないが私はそう思うと言った。そうしたら「大学って矢張り難しいのか?」と聞いて来るので。「そこそこの処なら私も行ったぐらいですから行けるけど。よしんば一流校に行って、何になるのですか?」と言ったら黙って聞いている。「私が息子さんだったらお父さんの跡を継ぎますよ」と言ったら。二人とも黙って居るので
「お父さんの仕事を継ぐのには高校卒業してから修行しないと行けないんでしょう?」と聞くと「まあな・・・」と言うのでそしたら会社の社員が「中学卒業してからですよね社長!!」と言うので、「それで私に聞いて来たのですか?」と言ったら、「まあ、そうなんだ」と言うので、「大学行くのも時と場合がありますよ、職人の道は厳しいんでしょうから、でも、これだけの仕事を息子さんが継がなくってどうするんですか?」と言ったら旦那と奥さんが笑顔になって「ありがとうね、大学行った人に聞いてみたかったのよね」と行ってフランスパンを3本とケーキをくれて、帰って来る途中で年取った社員が「〇〇ちゃん、高卒はみんなコンプレックスがあるんだから、大学に行かせろと言えば良かったのに」と言うので「〇〇さん、それは時と場合によりますよ。あの旦那さん月どのくらい収入あるのですか?」と聞いたら「月に数千万稼いでる。」と言うので。「大学行ったってそれだけ稼げませんよ」と言ったら「でもねぇ、〇〇ちゃんは俺らの苦労が分からないんだ」とか言っていたけども、それから8年経ってその年長の社員に、「あの時の息子さん今どうして居ます?」と聞いたら「親父と事業をさらに発展させて凄い金持ちになったよ。〇〇ちゃんの言った通りになったよ」と言って居た。人間、学問がいくら出来ても貧乏していたんじゃ、どうしようもない。私はそう聞いて安堵した。幾つになっても学問の勉強は出来る。あの場合、ああ言うしか無かった。
世良 公則 X 野村 義男 「 身も心も 」
世良 公則 「 少年 」
世良公則 - 銃爪
桑名正博 月のあかり
Ningen Isu / Heartless Scat(人間椅子 / 無情のスキャット)
今回は此処までです。全体的に総集編ですので、今まで書いて来たものをまとめたものになりました。最後までご覧になった方にはお礼申し上げます。どうも有難う御座いました。