「原田芳雄エッセイ集・B級パラダイス」より抜粋。
~栄養失調と養成所との不思議な縁~~
地下鉄に乗ってて、東映のプロデューサーにスカウトされたりしたのも、その頃のことだ。青山1丁目の、アドリブって喫茶店で話したんだけどね。
こっちは、そんな生活しながらも、芝居が面白くて仕方ない時分だからね。やりたくないのひと言で断わった。気が変わったら電話をくれって名刺を置いてった。 片桐譲さんって人だったな。片桐さんがすすめてくれた作品は、本当に映画化されて、千葉真一さんが主演していた。
だけど2年間で、相棒も俺も、疲れきっちゃってたんだ。どうしようもなくなってね。栄養失調になってしまったし。胃痙攣は起こすしね。
ちょうどその頃ですよ、心ある友人が、俳優座養成所ってところがあるんだ、と教えてくれたのは。 3年間、芝居を勉強するところなんだよ。そこでみっちりやったらいいんじゃないかって。
相棒も、そんなことを考えていたらしくてね。ただ、俺は東映のあと、松竹からも話があったりしてたんだ。 だから相棒に、おまえやれよ、俺は大部屋にでも入ってやってみるからっていってたんだ。 もう、2年間でたまらなく疲れちゃったから、大部屋へ入るよっていって。
ところが、その相棒が、芝居やめる、といい出してね。俳優座の試験が近づいてきたら、そいつヒヨッちゃったんだ。
試験は20倍ちょっとぐらいの倍率でした。大勢きてましたよ。筆記試験、パントマイム、リズム感とか、いろいろあるんだね。俺は試験の前の日に、浅草で胃痙攣起こして倒れちゃってね。 あくる日は、あきらめて寝てたんだ。体も痛いしね。
だけど、千円ぐらいだったかな。なけなしの金で受験料払ってあるんだね。それがもったいなくて、下宿のおばちゃんにクルマ呼んでもらって、ともかく試験場へ行った。
筆記試験なんて、ほとんど白紙ですよ。何も知らないんだからね。
「すいません」って隣の人に聞くわけですよ。
「あの、スタ、スタニスラフスキーって、なんですか」
「えっ?スタニスラフスキー?ロシア人じゃないですか」
「ああ、ロシア人なんですか」
その隣の人が、檀一雄さんの息子さんの太郎さん。だけど、その程度でしたからね、俺は。 ほとんど白紙でした。
実技がね、パントマイム。”彼は、失意落胆して部屋に入ってくる”という題。その時の気持ちがピッタリだったんですよ。こっちは体は痛むし、胃は痛いしで、とにかく試験を 受けにき たっていう感じだったからね。胃を押えたまんま入って行った。それがよかったんだね。それで1次試験、通ったんじゃないかな。
履歴書はみんなインチキ書いてね。養成所は、それまで刻苦勉励だったのが、俺らの頃から変わってきてね。親が月謝払える家じゃないと入れない、ってなこといわれた。
でも無理ですよ。2年間、家も勘当同様になって、ルンペンの遊びしてたんだから。でもまあ、適当に裕福な環境みたいなこと書いてね、出しといたんだ。
入学金はいくらだったかな。その金がなくてね。友達のステレオを質屋に持って行かせてもらって、それで払ったんだ。そのステレオ、質流れになる寸前に、 同期の連中が金を出しあって、受け出してくれたのを覚えてるね。うれしかったよ。
~なんだかんだで10年の歳月が流れた~~
でも俺は最初から、何やってもうまくいかないし、どうせダメだろう、と思ってたんだ。そうしたら、やっぱり落第してね、3年のところを、4年やったわけ。
だから入ったのが14期で、卒業は15期なんだね。14期っていうと、清水紘治とか佐藤信、吉田日出子、佐藤憐。今の68/71や自由劇場やってるのがほとんど。 あと15期っていうと、栗原小巻とかね。
13期ぐらいまでは、月謝滞納しても平気だったんだね。で、そいつらが、原田、大丈夫だよっていってくれたんだけど、入る時、半年分くらい前納して、そのあと1年半、 月謝ためてたんだ。そしたら、ある日、突然呼び出されて、1年間休学ってことになった。
その間、ホテル・ニューオータニの花屋で働いてたんだ。長嶋茂雄の結婚披露宴の飾りつけなんかやったな。そこに、高倉健さんがきていてね。こっちはあこがれていた 人ですから。ただただ圧倒される思いで、すごいなあ、なんて見てました。
花屋でもスムーズにはいかなくてね。問題起こして、1回クビになって、また復帰したり。まあ、そんなのも結構、楽しんでやってたんだけどね。
ただ、養成所のアカデミックな授業の中では、俺なんかのやってることが、ものすごく汚れたものとして映ったらしいんだな。あれは忘れないな。
「なんて汚ない奴だ、動くな!」
いちばん最初にいわれたんだよ。歌なんかも、授業の時に二期会のすごい声出す先生がくる。そうすると、俺が汚ない方の見本なんだ。もう1人、同じクラスで イタリアオペラにこってる奴がいて、これはきれいな方の見本。
それでも、養成所時代は楽しかったね。いろんなバイトやったよ。
海の家も3年やったね。”俳優座海の家”っていうのを自分たちで経営してたんだよ。最初の出資を、先輩たちから寄付してもらってはじめるんだから、もうけちゃいけないんだ。 差引ゼロで、閉店しなくちゃいけない。
基本的に、2年生が軸になるんだよ。1年の時、俺と河原崎次郎がアシスタントで行って、翌年は俺たちが軸になって。でも、俺は落第したからね。3年目も行ってさ。
もうかったんだ、俺たちの時は。だから、差引ゼロにするために、2重帳簿つけてたよ。やれ盗難にあったとか、地元青年団との親交を深めるための費用だとか。 そんな理由をつけちゃ、帳尻をあわしてたな。
同期生40名。その中から4,5人を俳優座が指名して、残るんだ。俺はそのまま、準劇団員として残った方。準劇団員たって、基本給が5千円。生活できるわけがない。 相変わらずの バイト生活。
公演では、ガヤばっかりだった。入って2年目くらいしてからかな、役らしい役をもらったのは。当時は、田中邦衛さんとか、仲代達矢さんね。やっぱり口きけないですよ、 あこがれちゃってるから。
それから劇団員になって、俳優座は、だから6年くらいいたのかな。養成所入れると、10年だね。21歳から30いくつまで。アッという間だったけどね。 俳優座の舞台は、同期の中 でも、俺は少なかった方でしょう。
ー俳優座からできるだけ遠ざかりたくてー
圧倒的な影響を受けたのは、清水邦夫さんの『狂人なおもて往生をとぐ』ね。気狂いの青年の役をつけてくれたんです。自分は大体、論理的な組立てのできないたちの人間だからね。 とにかく稽古に入ったら、本当に発狂しなきゃいいな、発狂するんじゃないかって、恐れてたくらい、ショックだった。
『狂人……』をやってからは、特に舞台は少ないでしょう。あの時分、まわりの激しい状況を反映して、俳優座内部も、それを反映して色分けされてたからね。 そんななかで、キャスティングにしても、最初からチョイスされてるような感じがあったから。
俺自身、清水さんの『あなた自身のためのレッスン』をやってから、退団届けを書いていたんだ。
俳優座やめて、そのあとどうしよう、という考えがあったわけじゃない。もちろん、芝居をやめるつもりもなかった。
ただ、その時分は、唐十郎さんの『状況劇場』や、鈴木忠志さんの『早稲田小劇場』なんかが出てきてね。俺はそういう動きに、直感的に影響受けてたし、コンプレックスを 持ったからな。
それに、『狂人……』のあと、はじめて日活へ行ったんだ。『反逆のメロディー』をやってから、日活最後の1年に、6本ダアーッとやったでしょ。
その時分は、「まだ俳優座にいるのか!?」が、撮影所へ行くたびの、挨拶がわりになってたしね。 とにかく、自分にとっての俳優座から、できるだけ遠くへ行きたいというのが、その時のテーマだった。
ただ、俳優座の中にも、色分けされてた、我々の側のグループがあったからね。そんな連中に黙ってやめちゃ悪いと思って、
「今月いっぱいでやめるよ。悪いけど、もう退団届も書いたし」
って、そう電話したんだよ、ひとりずつに。事前に了解を得とこうと思ったんだ。そしたら、みんなが急遽、俺の家へ集まって、
「これからどうするんだ」
「わからない。何も考えてないから」
「どうだ、気分として、もう1年だけ退団を待てないか」
「ウーン……」
ということで、説得されたんだね。その時はまだ、集団で退団する気配もなかったし、俺自身、仲間と一緒にやめるとか、そういうつもりもなかったんだけど。結局、その時は退団せずに、 1年待ってやめたわけだ。
ー原田芳雄ー
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