過日BSNHKで「パブロ・ピカソのゲルニカ特集」をやっていました。「ゲルニカ」の解説を聞いていて、今のウクライナ戦争の悲惨さと同じようにピカソの気持ちが理解出来ました。スペイン内戦中であった1937年4月26日、自由と独立の象徴的とされていたゲルニカ小都市が、ヒトラーのドイツ軍によって無差別に空爆される「ゲルニカ爆撃」が起きたのです。今から85年前のことです。私はピカソは詳しくありませんが「世界文化紀行」で取り上げようと決意しました。
彼は近代美術を語る上では欠くことのできない人物で、鮮烈な個性で人々に衝撃を与え続けてきました。 現代美術に通じる新たな様式を生み出したピカソです。 ピカソの時代ごとに変化する作風は、新しい表現への貪欲さ、そして自身の心情が大きく影響しています。 今回は、代表作を中心に、作品にインスピレーションを与えた女性たちの存在を交えてご紹介します。
初期
ピカソは、幼い頃から父親を通じてドローイングや油彩画を学び、すぐに才能を開花させていきました。 ピカソの優れた能力を確信した父親は、伝統的な美術様式を教えるなど徹底的な指導をしたそうです。 ピカソが13歳の頃、父親はピカソの能力が自身を超えたと感じ、以後は絵画制作をやめたというエピソードがあります。 1890年、15歳のピカソは『科学と慈愛』をコンクールに出品し、審査員を驚かせるほど高い技術を身に着けていました。
「科学と慈愛」1897年
1897年、ピカソがコンクール用に描いた初期の代表作です。父親の指導のもと「生と死」をテーマに制作。結果的に金賞を受賞し、この作品はピカソの神童ぶりを示しました。ピカソは亡くなるまでこの作品を手放さなかったそうです。
「青の時代」
青を基調とした絵画が描かれた青春期を、ピカソの「青の時代」と呼びます。
ピカソは1900年から親元を離れ、同じく画家で親友のカサヘマスやパリャーレスらとともに初めてパリを訪れました。ところが1901年にカサヘマスの死を経験し、その悲しい出来事をきっかけに、生と死、そして貧困といった主題に打ち込むようになりました。この時代の作品は、ピカソの孤独と不安を内包しています。明るくあたたかな色が消え、青く暗い色に覆われた作品が数多く制作されました。
「人生(ラ・ヴィ)」1903年
口語短歌
「人生で 親友の死を 経験し 青い暗色 孤独さ募る」
この作品は「青の時代」の集大成であり傑作とみなされています。作品の左側の男女は、親友のカサヘマスとその恋人ジェルメールで、2人に起きた悲劇が描かれました。カサヘマスの死はジュメールとの失恋が原因でした。
「キュビズムの時代」
1907年頃には、ピカソの画家としての生活に安定の兆しが見え始めました。
しかし、ピカソは新しい表現方法を模索し続けます。この時代は、ピカソにとっては挑戦の時代でした。伝統的な遠近法を用いずに、三次元の事物を表現する手法を探求。ピカソはジョルジュ・ブラックとともに、複数の視点から対象を把握し画面に再構成する「キュビズム」を創出しました。当時「キュビズム」は美術界から受け入れられませんでしたが、周囲への影響は大きく、多くの追随者を生みました。
「アビニヨンの娘たち」1907年
口語短歌
「逆風の キュビズム作品 立ち向かう 呪術的な 悪魔祓いも」
キュビズム最初の作品で、現代美術の出発点と言えます。1907年、スペインのバルセロナにある娼婦を題材に描かれました。この作品はアフリカやアメリカの原始的な絵画や彫刻に影響を受けています。そのため、娼婦の顔はイベリア彫刻やアフリカ彫刻のように描かれました。当初は多くの批判を受けた作品ですが、ピカソは自ら「悪魔ばらいの絵」と表現し、この作品を逆風に立ち向かうための呪術的存在としていたそうです。
「シュルレアリスムの時代」
フロイトによって始まった精神分析学をもとに、人間の無意識や夢の世界に注目した新しい芸術運動が「シュルレアリスム」です。 1925年から1936年にかけてピカソはこの芸術運動の影響を受けた作品を残しており「シュルレアリスムの時代」と呼ばれるようになりました。 この時代は妻オルガへの不満から、ピカソの精神の不安定さが作品に投影されているとも言われており、描かれた人物は、現実を超えたイメージで表現されています。
「ヌード、観葉植物と胸像」1932年
口語短歌
「名作は 生き生きとした 色使い シュルレアリスム 最高傑作」
愛人のマリー・テレーズを描いた本作品は、青とライラックを中心とした色使いが特徴的で目を引きます。しなやかな曲線によって、テレーズの裸体・観葉植物の生き生きとした様子や胸像の滑らかさを表現。また、植物とカーテンのモチーフは、ピカソとマリーの愛人関係の暗喩とされています。この絵は60年近くコレクター個人が所蔵しており、『幻の名作』となっていました。2010年に、当時絵画作品のオークションでは最高額となる1億650万ドルで落札され、現在はロンドンのテート・モダンに展示されています。
「戦争の時代」
スペイン内戦中であった1937年4月26日、自由と独立の象徴的とされていたゲルニカが、ヒトラーのドイツ軍によって無差別に空爆される「ゲルニカ爆撃」が起きました。ピカソはこの出来事に衝撃を受け、同年の5月から6月に反戦絵画である『ゲルニカ』を描きました。また、1939年から1945年の第二次世界大戦中、ピカソは監禁状態の中でも精力的に制作活動をしたそうです。しかし、ピカソの絵画はドイツ軍の芸術的な理想と合わなかったため、作品を公に発表することはできませんでした。
「ゲルニカ」1937年
口語短歌
「戦争の 悲惨さ知るも ゲルニカで 反骨精神 自由を示す」
戦争の恐怖や苦しみといった人間の普遍的な感情が示されている作品です。ピカソは、もともと1937年のパリ万国博覧会への出展を依頼されていましたが、「ゲルニカ爆撃」にショックを受け、急遽この作品の制作を進めました。そのため、油絵具より乾きの早い工業用ペンキが使用されています。スペインが民主国家となることを強く望んでいたピカソの意思が尊重され、この作品はスペイン民主化が実現する1981年まではニューヨーク近代美術館に保管されました。
「泣く女」1937年
口語短歌
「空爆の 被害で叫ぶ 泣く女 恋人含め ダブルイメージも」
1937年、ピカソは『泣く女』を主題とした絵画を100枚以上制作しました。モデルは愛人のドラ・マールです。この作品はシリーズの最後に制作され、最も高く評価されました。そして「泣く女」は、ドラのポートレイトであると同時に、同年に制作されたスペイン市民戦争におけるドイツ軍による空爆図「ゲルニカ」 の後継作であることも重要です。「泣く女」と「ゲルニカ」は互換性のある作品で、ピカソは空爆の被害を受けて悲劇的に絶叫する人々の姿、特に死んだ子どもを抱いて泣く女を基盤にして描いたのが「泣く女」である。ドラ・マールをはじめ泣く女とをダブル・イメージで描きました。
参照
https://media.thisisgallery.com/20208200
「2021年軽井沢レイクガーデンに咲いた薔薇たち」
「ユースティシアヴァイ」2021年10月7日撮影
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