熊本・熊本城 ~第四回~
地図を参考に☆
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/20/87/43571d567ccd05473b08a354c957a3bf.jpg
有名な宇土櫓と高石垣を望む場所の隣に
その名の通り加藤清正公を祀った、加藤神社がある。
1月5日ということもあり、初詣の客で賑わう。
次に目指すは現存櫓の一つ監物櫓(けんもつやぐら)を目指す。
途中、監物台樹木園の敷地の入り口に冠木門を発見。
立派な石垣の割に小振りな門だと思ったら、本来は櫓門だったようです。
復元の資料が十分になかったため、写真のような冠木門で市政100周年にあわせて再建?されました。
監物櫓(現存)
熊本城主細川家家老であった長岡監物が、この地に屋敷を構え熊本城の北の守りとして固めていたことに由来
だが実際は長岡図書(ながおかずしょ)の敷地で、明治になり陸軍が誤って登録しまい、現在の名が定着
熊本城総合事務所の向かい側にある、百間石垣
一間は1.8mなので百間石垣は180mです。
そして二の丸御門跡から
二の丸広場へ
二の丸広場から三天守を望む(手前の塀は近年の復元)
そして復元された西出丸の櫓群
まずは戌亥櫓(いぬいやぐら)
次に元太鼓櫓(奥)と西大手門(手前)
最後に未申櫓(ひつじさるやぐら)
二の丸には、明治の士族の反乱の一つ、「神風連の乱(変)」の石碑がいくつかありました。
西大手門から西出丸内へ
西出丸
熊本城は茶臼山を中心に、北と東は断崖、南に坪井川と天然の要害だが、
本丸の西はなだらかな斜面が続き、弱点と言われていました。
清正は西に2重の空堀を巡らせ、空堀の間に出丸を築きました。
そして「西から敵に攻撃されてもここだけで100日は持ちこたえられる。」豪語したと伝わります。
江戸時代、西出丸の北半分には「西の御蔵」という巨大な米倉が設けられ、南半分は奉行所が置かれていました。
ここで一つ不思議な景色が目に入ります。
西の大手門のすぐ近くに
南大手門(復元)がありその横に車の道路。
入り口が3つもあるように錯覚しますが、昔はこの生活道路は存在せず、
南大手門を潜り西出丸に入り、それから本丸に入っていたのです。
のちのち、この道路は閉鎖されるという話も......わかりませんが......
ついでに北大手門も復元してくれたと思ってしまいます。
加藤神社の駐車場に車を止めていたので、一度車に乗り込み、次に城の東側、
千葉城エリアへ
千葉城は中世城郭です。現在はNHKが建っています。
熊本大神宮
熊本城稲荷
逆行ですが、須戸口門
熊本城稲荷の向かい側にある高橋公園には
西南戦争の時の熊本城の司令官 谷干城(たに たてき)の像と
横井小楠と明治維新の偉人達像がありました。
(左から坂本龍馬・勝海舟・横井小楠・松平春嶽・細川護久、
その下プレートで竹崎健次郎・内藤泰吉・嘉悦氏房・徳富一敬・長野濱平・山田武甫)」
横井小楠
藩校時習館(じしゅうかん)に学び
幕末維新期の大思想家
松平春嶽の政治顧問として招かれ、福井藩の藩政改革。
さらには春嶽が幕府の政事総裁職に就任した際は、顧問として幕政改革に貢献。
勝海舟と親交があり、坂本龍馬にも影響を与える。
明治元年、政府の参与に出仕、抱負の実現を図るが、翌2年正月、京の町で志半ばに凶刃に倒れました。
最後に熊本らしい景色を一枚
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
熊本城を訪れたのは今回が4回目
僕のお城好きの決め手になったといっても過言じゃありません。
行くたびに、来場者が増え、活気に満ちているように感じ、嬉しく思います。
現在も復元工事は着々と進み、
段々往時の姿に取り戻して行くのを、僕自身とても楽しみにしています。
熊本市が、熊本市民が、お城を愛し、お城とともに生きている感じがとてもします。
熊本城は、熊本の中心で、市民の誇りなのでしょう。
戦火にあっても、城主を失ってもなお、輝きを増し続けてる熊本城のこれからに、期待せずにはいられません。
見所と写真の数が多く、四回もかかってしまいました。
長い間のご愛読ありがとうございました!!!
2009.1.5
地図を参考に☆
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/20/87/43571d567ccd05473b08a354c957a3bf.jpg
有名な宇土櫓と高石垣を望む場所の隣に
その名の通り加藤清正公を祀った、加藤神社がある。
1月5日ということもあり、初詣の客で賑わう。
次に目指すは現存櫓の一つ監物櫓(けんもつやぐら)を目指す。
途中、監物台樹木園の敷地の入り口に冠木門を発見。
立派な石垣の割に小振りな門だと思ったら、本来は櫓門だったようです。
復元の資料が十分になかったため、写真のような冠木門で市政100周年にあわせて再建?されました。
監物櫓(現存)
熊本城主細川家家老であった長岡監物が、この地に屋敷を構え熊本城の北の守りとして固めていたことに由来
だが実際は長岡図書(ながおかずしょ)の敷地で、明治になり陸軍が誤って登録しまい、現在の名が定着
熊本城総合事務所の向かい側にある、百間石垣
一間は1.8mなので百間石垣は180mです。
そして二の丸御門跡から
二の丸広場へ
二の丸広場から三天守を望む(手前の塀は近年の復元)
そして復元された西出丸の櫓群
まずは戌亥櫓(いぬいやぐら)
次に元太鼓櫓(奥)と西大手門(手前)
最後に未申櫓(ひつじさるやぐら)
二の丸には、明治の士族の反乱の一つ、「神風連の乱(変)」の石碑がいくつかありました。
西大手門から西出丸内へ
西出丸
熊本城は茶臼山を中心に、北と東は断崖、南に坪井川と天然の要害だが、
本丸の西はなだらかな斜面が続き、弱点と言われていました。
清正は西に2重の空堀を巡らせ、空堀の間に出丸を築きました。
そして「西から敵に攻撃されてもここだけで100日は持ちこたえられる。」豪語したと伝わります。
江戸時代、西出丸の北半分には「西の御蔵」という巨大な米倉が設けられ、南半分は奉行所が置かれていました。
ここで一つ不思議な景色が目に入ります。
西の大手門のすぐ近くに
南大手門(復元)がありその横に車の道路。
入り口が3つもあるように錯覚しますが、昔はこの生活道路は存在せず、
南大手門を潜り西出丸に入り、それから本丸に入っていたのです。
のちのち、この道路は閉鎖されるという話も......わかりませんが......
ついでに北大手門も復元してくれたと思ってしまいます。
加藤神社の駐車場に車を止めていたので、一度車に乗り込み、次に城の東側、
千葉城エリアへ
千葉城は中世城郭です。現在はNHKが建っています。
熊本大神宮
熊本城稲荷
逆行ですが、須戸口門
熊本城稲荷の向かい側にある高橋公園には
西南戦争の時の熊本城の司令官 谷干城(たに たてき)の像と
横井小楠と明治維新の偉人達像がありました。
(左から坂本龍馬・勝海舟・横井小楠・松平春嶽・細川護久、
その下プレートで竹崎健次郎・内藤泰吉・嘉悦氏房・徳富一敬・長野濱平・山田武甫)」
横井小楠
藩校時習館(じしゅうかん)に学び
幕末維新期の大思想家
松平春嶽の政治顧問として招かれ、福井藩の藩政改革。
さらには春嶽が幕府の政事総裁職に就任した際は、顧問として幕政改革に貢献。
勝海舟と親交があり、坂本龍馬にも影響を与える。
明治元年、政府の参与に出仕、抱負の実現を図るが、翌2年正月、京の町で志半ばに凶刃に倒れました。
最後に熊本らしい景色を一枚
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熊本城を訪れたのは今回が4回目
僕のお城好きの決め手になったといっても過言じゃありません。
行くたびに、来場者が増え、活気に満ちているように感じ、嬉しく思います。
現在も復元工事は着々と進み、
段々往時の姿に取り戻して行くのを、僕自身とても楽しみにしています。
熊本市が、熊本市民が、お城を愛し、お城とともに生きている感じがとてもします。
熊本城は、熊本の中心で、市民の誇りなのでしょう。
戦火にあっても、城主を失ってもなお、輝きを増し続けてる熊本城のこれからに、期待せずにはいられません。
見所と写真の数が多く、四回もかかってしまいました。
長い間のご愛読ありがとうございました!!!
2009.1.5
東京の王子付近を走る 都電荒川線を思い出しました(^-^)
kogakenさんがお城がお好きになった決め手がこの「熊本城」だったのですね♪
チンチン電車と、熊本の街並、僕も大好きです☆
確かに東京じゃ路面電車は荒川線くらいですもんね。
実はこの写真のタイトル、もう一つ意味がありましてw
関東ではあたり前に見るPARCO
実は九州には熊本市にしかないんです!
そして、PARCOは熊本が福岡と九州1番の都市を張り合う、一つの武器なのですw
(こんな事を言ったら、熊本人を敵に回しますがw)
でも残念な事に、あと二年後くらいに、福岡にPARCOができます(笑)
とまぁ、九州人にしかわからないネタでした