雪が溶けると出てくるのが草ヒロ。
サニーの初期型である。
製造国
日本の旗 日本
オーストラリアの旗 オーストラリア
販売期間
1966年4月 - 1970年1月
乗車定員
5人
ボディタイプ
2・4ドアセダン
2ドアクーペ
2ドアライトバン
ピックアップトラック
エンジン
A10型 1.0L 直4 OHV
駆動方式
FR
変速機
3速AT
フロア式4速MT
コラム式3速MT
サスペンション
前:ダブルウィッシュボーン・横置きリーフ
後:リーフ・リジッド
全長
3,820mm
全幅
1,445mm
全高
1,345mm
ホイールベース
2,280mm
車両重量
645kg
ブレーキ
前:
ツー・リーディング式ドラム
後:
リーディング・トレーリング式ドラム
データモデル
1000
-自動車のスペック表-
当初は2ドアセダンから先行発売された。大型プレス材を有効に用い、少ない部品点数で組み上げられた軽量モノコックボディのデザインは、サイズや横置きリーフスプリング使用の前輪サスペンション構造ともども、1962年(昭和37年)に開発された西ドイツ(当時)の大衆車、オペル・カデット(そのバッジエンジニアリング版にあたるイギリスのボクスホール・ヴィーヴァを含む)の影響が非常に強いものであった。アメリカ資本の欧州メーカー製小型乗用車からの影響は、後輪駆動時代のサニー、カローラ双方において非常に色濃い。
ボディタイプは順次追加され、2ドア / 4ドアセダン・2ドアクーペ・2ドアライトバン・トラックの計5種類のラインナップとなる。また、この初代サニー用に開発された直列4気筒のA型エンジンは実用上好成績をあげ、その後改良を受けつつ30年にわたって作り続けられ、傑作エンジンの評価を得た(当初、1,000ccハイカムシャフト[注釈 2]、ターンフロー、OHVのA10型)。軽量、簡潔でバランスの良い経済型エンジンであるだけでなく、低回転域の柔軟性と高回転まで軽快に回る良好な特性を備え、レーシングエンジンとしてのチューニングのポテンシャルも高かった。クランクシャフトは当初3ベアリング仕様だったが、後に5ベアリングとなって強化されている。
発売されると市場で好成績を収めたものの、続いて発売されたトヨタ・カローラのデラックスさをアピールする販売戦略の前に後塵を拝し、以後長年にわたる両車の販売競争が勃発することになった。
1965年12月 - 日産自動車としては初の新型車名公募キャンペーンを実施、ティザー/プレキャンペーンをマスメディアで展開。翌1966年2月、約800万通の応募からサニー[注釈 3]が決定された。
1966年2月19日 - 東京・千駄ヶ谷の都立体育館(当時)でサニーの車名発表会が開催される。発表会には日産創業者の鮎川義介も立ち会っている。
1966年4月23日 - B10型サニー2ドアセダンを販売開始。発売当初の車名は「ダットサン サニー」(車検証上の車名も「ダットサン」)である。当初のグレードは「スタンダード」と「DX」の2グレードで構成され、トランスミッションはコラムシフトの3速MTの1種類のみの設定だった。
1967年4月 - 4ドアセダン発売。「DX」に4速MT・フロアシフトの「スポーツ」シリーズ、および、クラス初となる3速AT車を追加。
1967年7月 - 最初のマイナーチェンジ。
1968年3月 - ファストバックスタイルの2ドアクーペ(KB10型)を追加。荷室はレジャーユースに対応したトランクスルー式となった。
1968年10月 - マイナーチェンジ。テールランプに橙色を追加してブレーキ・ウインカーを独立。
1969年8月 - 一部改良。これに伴い上級グレードの「GL」を設定。
モータースポーツ
1967年(昭和42年)10月 - オーストラリアのバサースト500マイルレースに出場、ワンツーフィニッシュを飾る。ロクスバーグル・ホワイトフォード組(ともにオーストラリア)がクラス優勝[注釈 4]、高橋国光・大石秀夫組が2位となる。これがB10型サニーのメジャーレースでの初陣である。
1968年(昭和43年) - マレーシアGPでクラス優勝[注釈 5]、総合で6位。
1968年(昭和43年)8月 - 全日本選手権、雨の鈴鹿サーキットで宿敵カローラを下す。ドライバーは北野元。
Wikipedia参照