今日は、ちょっと妄想的な・・・ 戯言みたいな日記。
あまり深読みしないでさらっと読み流してください~~
私が美麻の土を踏ませていただいたのは、きっと たぶん おそらく
偶然ではないのだと思っています。
もともと、motoの山村留学も「美麻」ではなく、「八坂」しか考えていなかったし
というより、motoも私たちも、“山村留学イコール八坂”・・でしたから
美麻の存在自体を知らずにいました。
何もなければ、そのまま八坂の学校に行くところを
東京での入園面談の直前に、美麻に山村留学していた先輩と逢い
「美麻は給食美味しいよ」のたったひと言で
迷うことなく、美麻志望に変更し半ば無理やり入れていただいたわけで
一度も美麻に視察に行くでもなく学校見学に行くでもなく
その瞬間のノリで2人で即決してしまった似たもの親子です(笑)
それから、実は何度も美麻と縁が途切れそうな局面(修園)があったにも関わらず
次男Joの山村留学に襷を繋ぐ形で、足掛け4年。
なんとなく・・・ 4年かけて
美麻先代のみなさんから「通行手形」をもらえたかな~ なんて感じてます。
棚田は昔の美麻の象徴的なところだったのか、人が集まるような場だったのか
実際は分からないのだけど
私の心のどこかで、さわさわと、棚田に先代の人々が集まってくるような
そんな「イメージ」が沸くことがあります。
棚田復活は、少なからず 喜んでくれている気がしています。(たぶん)
私は、この土地の人間ではないので
本格的に棚田の復活作業に入る前に、一度きちんとご挨拶しておかなければと
イメージが沸いてきた、ここ数ヶ月。
その適当な方法は?と考えていました。
棚田は、いろいろな地主さんがいらっしゃるので、地主さんもそうなんですが
この村を守ってくださっている土地や山の神様や先代の方々には、
どう、ご挨拶すれば失礼がなく伝えられるのかな。。。と。
そして、この通行手形は、ある意味、「バトン」のようなもので
ずっと途絶えないように、手から手へとつなげていく約束をした「つもり」でいます。
(あくまでも勝手な思い込みですけど)
農家の父さんは、この土地や棚田のキーになる人。
父さんの重い腰を持ち上げる片棒を担いでしまったことは
父さん母さんに少し申し訳ないような気もしてるけど
ちょっとは「親孝行」もするから許してね(^^
応援してくれてるのは、先代の皆さんだけではないようです(^^
あまり深読みしないでさらっと読み流してください~~
私が美麻の土を踏ませていただいたのは、きっと たぶん おそらく
偶然ではないのだと思っています。
もともと、motoの山村留学も「美麻」ではなく、「八坂」しか考えていなかったし
というより、motoも私たちも、“山村留学イコール八坂”・・でしたから
美麻の存在自体を知らずにいました。
何もなければ、そのまま八坂の学校に行くところを
東京での入園面談の直前に、美麻に山村留学していた先輩と逢い
「美麻は給食美味しいよ」のたったひと言で
迷うことなく、美麻志望に変更し半ば無理やり入れていただいたわけで
一度も美麻に視察に行くでもなく学校見学に行くでもなく
その瞬間のノリで2人で即決してしまった似たもの親子です(笑)
それから、実は何度も美麻と縁が途切れそうな局面(修園)があったにも関わらず
次男Joの山村留学に襷を繋ぐ形で、足掛け4年。
なんとなく・・・ 4年かけて
美麻先代のみなさんから「通行手形」をもらえたかな~ なんて感じてます。
棚田は昔の美麻の象徴的なところだったのか、人が集まるような場だったのか
実際は分からないのだけど
私の心のどこかで、さわさわと、棚田に先代の人々が集まってくるような
そんな「イメージ」が沸くことがあります。
棚田復活は、少なからず 喜んでくれている気がしています。(たぶん)
私は、この土地の人間ではないので
本格的に棚田の復活作業に入る前に、一度きちんとご挨拶しておかなければと
イメージが沸いてきた、ここ数ヶ月。
その適当な方法は?と考えていました。
棚田は、いろいろな地主さんがいらっしゃるので、地主さんもそうなんですが
この村を守ってくださっている土地や山の神様や先代の方々には、
どう、ご挨拶すれば失礼がなく伝えられるのかな。。。と。
そして、この通行手形は、ある意味、「バトン」のようなもので
ずっと途絶えないように、手から手へとつなげていく約束をした「つもり」でいます。
(あくまでも勝手な思い込みですけど)
農家の父さんは、この土地や棚田のキーになる人。
父さんの重い腰を持ち上げる片棒を担いでしまったことは
父さん母さんに少し申し訳ないような気もしてるけど
ちょっとは「親孝行」もするから許してね(^^
応援してくれてるのは、先代の皆さんだけではないようです(^^
関東支部として、御酒を献上し、祭礼参加の希望があるのなら、地域に亙りをつけようかな?
祭礼は氏子(20人)全戸がそろう。
若干の負担が必要。
当日は、昭和12年4月20日の大火(集落全部燃えた)の思いを忘れないように、鎮火の行事もある。