A collection of epigrams by 君塚正太

 君塚正太と申します。小説家、哲学者をしています。昨秋に刊行されました。本の題名は、「竜の小太郎 第一話」です。

宗教と道徳

2007年01月27日 22時19分34秒 | 思想、警句
 まず私が話したいのは宗教がどう、生活に関わっているか?である。話を始める前に一つ、述べると日本ほど宗教を信仰しない国はない。ともあれ、それでしっかりとした国が成り立っているので問題はないが、国勢をさらに増加させるためには一定の宗教が必要である。これはまがう事ない事実である。実際、周辺諸国は宗教制度のおかげで大部分成り立ち、成功している。何に成功しているかといえば、それは国民の統制である。人とは何かしら心に不安などの雑念が入ることを嫌う。そしたそれを解消するのが宗教なのである。そのため、欧米諸国が宗教を重んじる結果になったのである。
 さて、次に目を転じよう。次の課題は天才と宗教である。この場合、一般人と違いあまり宗教は天才には寄与しない。なぜなら天才とは既存の概念を打ち砕き、外の世界に飛び出してゆく生物だからである。そのような人物に対して、宗教的な信仰は性に合わないであろう。そしてこれらを考慮した天才たちは、教会から遠ざかり、宗教と縁を切ったのである。もちろん、忘れてはいけない事だが、宗教の創設者や少数の天才は宗教との間に密接な関わり合いがあった。これは忘れてはならない。自身天才であった使徒パウロは、自分のことを「肉体に棘を有するもの」と呼んだ。これは精神障害と天才との関連を示す一つの教訓録でもある。
 これでこのお話しは最後になる。もちろん、その課題は倫理観と宗教の関係である。精神科医のクレッチュマーが述べた通りに、「あまりに禁欲主義が流布するとその時代の宗教は、今度は反対に鞭で体をたたいたりするサディスティックな方面に波及する。」この箴言は正鵠を得ている。つまり、クレッチュマーが述べたのは倒錯についてなのである。倒錯の意味はこうである。あまりに禁欲主義に傾くと、それはサディスティックなものに昇華される。また反対の場合、マゾヒストが過激な方向に走り、その結果、誘拐を引き起こし、他人を拷問した事例がある。これは米連邦捜査局の資料に細かく出ている。非常に温和な老人が実は裏で殺人を犯している場合もある。そしてそこに宗教が関係していないとは言い切れない。なぜなら宗教の過度期におうおうにして、その様な事件が多発するからである。これは古い文献を調べれば分かる事である。そして結果を述べれば、宗教は倫理観を保持する点において有用な働きと有用でない働きがある。そのため、宗教はあまりに厳しい戒律を定めず、一般的な範囲内で活動するのが望ましいのである。もし禁欲主義が善であったとしても、宗教はその一線を越えてはならないのである。
 ドイツのことわざにこうある。「倫理とはスープにおける塩のようなものである。その味が勝ちすぎてもいけない。」と。
 むろん、カントみたいに道徳律を振りかざし、民衆を理性的にするよう務めてもそれは徒労に終わるのである。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。