論理的な思考の要素
1、論理的思考とはそもそも昔の詭弁者たちが使っていた手法であります。論理的解釈とはもっぱら概念の問題であり、そこに実際の事象が関わる必要はありません。例えば花についての話題で、花という一つの概念を決め、そこに白い花や黒い花などの細かな概念を花という大きな概念の中に吸収させていきます。そういう情報が集まれば集まるほど花の概念の整合性は高まります。しかしこれはあくまで概念についての記述であって、根本的な事象よりは不確かなものになります。もしここで精密や議論を行う場合は、常に事象の正確なデータを提示しながら行う必要があります。もしこれを行わない場合は事象についての根本的誤謬がおきても気付かないのです。これが頭の中だけ、すなわち抽象的解釈しか行わない論理的思考の欠点です。
2、ではシステム思考はどうかというと、これも欠点が往々にあるといわざるを得ません。例を出して説明しますと、まずブレーンストーミングのルール①について言えば、相手のアイデアがどこから出てきたのか?が問題となります。相手が実際の事象の正確なデータを述べているのならばそれは当然批判ではなく、実際の事象を確かめればいいのです。これは意見ではなく、明証を伴った見解です。しかしそれが仮説ならばこれは反対の見解となります。相手のこの仮説とはもちろん前提条件として事象の直観的解釈を必要としますが、これが一定の仮説となって出てきている以上は、当然それは抽象的な解釈に移行しています。このような概念の問題になった時点から、そこには概念の整合性を高める批判が必要になってきます。これはアインシュタインとニールス・ボーアが行った量子力学の根本的解釈についての論争でも見られることです。どちらにしても事象のデータを示す見解か?それとも仮説か?によって大きく対応が変わるといえます。全体を通して相補的見解から見ればこの種の論争においては批判や事象そのものについての直観的見解、双方が必要になってくるといえます。これが正しい論争です。
3、 最後にこの論争を満たす諸条件を言いたいと思います。まず論争を行うときには同じレベルの人たちでやる必要があります。このレベルとは知識や論証法、もちろんそれに伴う熟慮であります。もしこれを行わない場合はそこには嫉妬や虚栄心が紛れ込み、意見についての論争ではなく、相手に対しての誹謗、中傷になる恐れがあります。このことは一般人たちの中にしばしば見られることであります。
さらに一番重要な点でありますが、批判というのは相手の意見についての見解であり、その人に直接向けられたものではありません。この解釈をなおざりにした人たちと論争をすれば、そこは誹謗、中傷、言い訳の場所になります。人はこのことを誤って解釈しがちですが、これは馬鹿な人に頻繁に見られる批判と非難の混同であります。よってこのような論争における根本的解釈を自らのうちで行っていない者は、話し合う権利を有しないのであります。
参考文献
[1]
ショーペンハウアー 「意志と表象としての世界Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ」 中公クラシックス
(2004)
「随感録」 白水社 (1998)
「孤独と人生」 白水社 (1996)
[2]
ベルクソン 「哲学的直観ほか」 中公クラシックス (2002)
[3]
キケロー 「キケロー弁論集」 岩波文庫 (2005)
[4]
プラトン 「ソクラテスの弁明ほか」 中公クラシックス(2001)
「国家」上、下 岩波文庫 (1979)
[5]
ニールス・ボーア 「因果性と相補性」 岩波文庫 (1999)
[6]
R・ミルン R・ブル 「取調べの心理学」 北大路書房 (2003)
[7]
フロイト 「性愛と自我」 白水社 (1995)
1、論理的思考とはそもそも昔の詭弁者たちが使っていた手法であります。論理的解釈とはもっぱら概念の問題であり、そこに実際の事象が関わる必要はありません。例えば花についての話題で、花という一つの概念を決め、そこに白い花や黒い花などの細かな概念を花という大きな概念の中に吸収させていきます。そういう情報が集まれば集まるほど花の概念の整合性は高まります。しかしこれはあくまで概念についての記述であって、根本的な事象よりは不確かなものになります。もしここで精密や議論を行う場合は、常に事象の正確なデータを提示しながら行う必要があります。もしこれを行わない場合は事象についての根本的誤謬がおきても気付かないのです。これが頭の中だけ、すなわち抽象的解釈しか行わない論理的思考の欠点です。
2、ではシステム思考はどうかというと、これも欠点が往々にあるといわざるを得ません。例を出して説明しますと、まずブレーンストーミングのルール①について言えば、相手のアイデアがどこから出てきたのか?が問題となります。相手が実際の事象の正確なデータを述べているのならばそれは当然批判ではなく、実際の事象を確かめればいいのです。これは意見ではなく、明証を伴った見解です。しかしそれが仮説ならばこれは反対の見解となります。相手のこの仮説とはもちろん前提条件として事象の直観的解釈を必要としますが、これが一定の仮説となって出てきている以上は、当然それは抽象的な解釈に移行しています。このような概念の問題になった時点から、そこには概念の整合性を高める批判が必要になってきます。これはアインシュタインとニールス・ボーアが行った量子力学の根本的解釈についての論争でも見られることです。どちらにしても事象のデータを示す見解か?それとも仮説か?によって大きく対応が変わるといえます。全体を通して相補的見解から見ればこの種の論争においては批判や事象そのものについての直観的見解、双方が必要になってくるといえます。これが正しい論争です。
3、 最後にこの論争を満たす諸条件を言いたいと思います。まず論争を行うときには同じレベルの人たちでやる必要があります。このレベルとは知識や論証法、もちろんそれに伴う熟慮であります。もしこれを行わない場合はそこには嫉妬や虚栄心が紛れ込み、意見についての論争ではなく、相手に対しての誹謗、中傷になる恐れがあります。このことは一般人たちの中にしばしば見られることであります。
さらに一番重要な点でありますが、批判というのは相手の意見についての見解であり、その人に直接向けられたものではありません。この解釈をなおざりにした人たちと論争をすれば、そこは誹謗、中傷、言い訳の場所になります。人はこのことを誤って解釈しがちですが、これは馬鹿な人に頻繁に見られる批判と非難の混同であります。よってこのような論争における根本的解釈を自らのうちで行っていない者は、話し合う権利を有しないのであります。
参考文献
[1]
ショーペンハウアー 「意志と表象としての世界Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ」 中公クラシックス
(2004)
「随感録」 白水社 (1998)
「孤独と人生」 白水社 (1996)
[2]
ベルクソン 「哲学的直観ほか」 中公クラシックス (2002)
[3]
キケロー 「キケロー弁論集」 岩波文庫 (2005)
[4]
プラトン 「ソクラテスの弁明ほか」 中公クラシックス(2001)
「国家」上、下 岩波文庫 (1979)
[5]
ニールス・ボーア 「因果性と相補性」 岩波文庫 (1999)
[6]
R・ミルン R・ブル 「取調べの心理学」 北大路書房 (2003)
[7]
フロイト 「性愛と自我」 白水社 (1995)