A collection of epigrams by 君塚正太

 君塚正太と申します。小説家、哲学者をしています。昨秋に刊行されました。本の題名は、「竜の小太郎 第一話」です。

直観と意識

2007年08月17日 18時42分32秒 | 哲学
直観と意識

 大部分の神経科医、脳科学者が間違いを犯している。それは意識と直観の混同である。あくまで直観とは目でとらえたもの、また触角に触れ、喚起される現象の事を言う。そして意識とはいったん、直観から得た情報を脳内で分析する事を言う。現在の科学者たちはこの区別をはっきりとおこなっていない。彼らは意識や自我を重んじるあまりに直観の重要性を忘却してしまっている。これは由々しき事態である。哲学の勉強をせずに、やみくもに自我や意識を取り出してもしょうがないのである。
 ではこれから仔細に一つ、一つの定義を見ていくことにしよう。
 まず自我の問題から、始めよう。自我とは生まれてから、次第に発達してくるものである。幼少期には自我が未発達のため、周囲の人間を同一視する。これは子供の自由奔放な動き方を仔細に眺めれば分かる。彼らは自我の境界を持たないがために、周りにそう振舞うのである。しかしそれも時を経るにつれて、暫時減少してゆく。いわゆる自我の発達とは段階的に行われるものであり、そこに異論はない。そして成人すれば、自我は完璧になり、周囲との調和もはかれるようになる。そもそも自我とは自己認識であり、そこには様々な要素が絡んでくる。自尊心や虚栄心などもそうである。もちろんこの根本的な原因は性格にある。性格とは将来を通じて、ほとんど変わる事はない。これはショーペン・ハウアーの叡知的性格に由来するものでもある。自我は生まれてから、発達するものであり、性格は生来上のものである。自我の歩みは遅くとも次第に自分の中に蓄積される。それから先天的な障害も自我の発育を遅らせる働きをする。思春期遅滞、自閉症やアスペルガー症候群などはその良い例である。彼らは外界との接触を嫌い、さらには周りと調和が取れない。これこそが自我の未発達の良い例である。だがここで一つの疑問がわきあがる。はたして外界との調和は自我の未発達なのであろうか、と言う疑問である。私は断固として、この疑問を払拭する。アインシュタイン、ニールス・ボーア、ゲーテ、クレッチュマー、ショーペン・ハウアー、カントらも人間関係がうまくなかった。彼らは時に激情的に民衆を罵倒し、孤立していた。しかしそれでも彼らの自我は未発達ではなかった。彼らは人生の荒波を人より苦労しながら、生き抜いた。そこに自我の未発達という陳腐な言葉は当てはまらない。あくまで自我とは自己認識、自己洞察をへて、感得されるものであり、決して生まれもったものではないのである。一般の人々は天才を人々の記念碑として見ている。人類の稀有な変種である天才に一般の人々の見解は通用しない。巷に出回っている、天才たちと一般の凡人たちを比較する事には憤りを覚える。もしエジソンが発達障害ならば、いかにして彼の非凡な研究の数々、透徹した判断力はどこから生まれてきたのであろうか?これだけでも十分な論拠になる。自閉症の子供はヒステリーをしばしば起こす。彼らには社会に適応する能力がかけている。そして自我とは社会や周りの人々、いわゆる主観と客観の統合を行う事によって形成されてくるのである。
 次に性格を見てみよう。昔の哲学者から言わせれば、性格とは普遍なものらしい。だがそれは違う。ラマルク、ダーウィンの本を読めば、分かるとおりに生物は少しならずとも性格を変遷しているのである。もしそれがなければ、人間は進化しないであろう。長い年月をかけて、性格とは形作られる。これは遺伝学的な見解である。人は青春期に能力のほとんどを使いはたしてしまう。そしてその後に結婚し、子供にその能力が受け継がれるのである。むろん、メンデルが述べた、優性遺伝、劣性遺伝も考慮しなければならない。(優性遺伝とは子供に親の能力が遺伝する事を言う。また劣性遺伝は祖父母の遺伝が顕現する事を言う。)たとえ、自分の子供に親の優秀さが伝わらなくても、それが後の子孫に現れる事がしばしばある。シラーやショーペン・ハウアーはその良い例である。そして性格とは人の根源に根をはり、知らないうちにその人の行動を規定している。これがショーペン・ハウアーの述べた叡知的性格の源である。だが前に述べたとおり、性格とは変化しないものではない。しかしそうやすやすと変化するものでもないのも事実である。人は何かと自由を主張するが、実はその自由を妨げているのが、自己の性格である事に気がつかないのである。
もし他人の性格の変化の兆しを見たとしても、それは単なる幻想でしかない。その幻想は生来上のものであるが、実際にはそれが隠れている場合が多い。そしてその幻想は本人の下層知性から導き出されるのである。また性格と能力を混同する人もいる。これは有名なアードラーが行った手法である。彼は「過剰保障」という言葉を用い、ことごとく天才や非凡なる者の虚栄心の強さを過剰保障のせいにした。しかしこれは大いなる間違いであった。一般の人々にも虚栄心が強い人はたくさんいる。だがはたしてその中に天才を見出そうとするのは困難を極める。確かにニーチェは虚栄心が強い人物であった。けれども彼の能力と性格は別個に考える必要があったのである。アードラーは過剰保障を虚栄心の強い人々に用いた。アードラーの見解によれば、「弱い生き物だという自覚があるからこそ、自分を強く見せたがる」という事である。また彼はこうも言った、「自らの弱さを隠すために彼らは努力をするのである。」と。しかしこれらの諸見解ははなはだしく間違っている。遺伝学者ゴットシャルトの報告によれば、遺伝素因は環境素因のそれより二倍半大きい。また努力に関しては、六・三倍環境素因のそれより遺伝素因がたち勝っている。したがってここに一つの命題の帰結が生じる。性格と能力は別個に考える必要がある。ただし性格が能力にどれほど寄与するかも研究しなければならない。
今までの研究ではクレッペリンを中心とするチュービンゲン学派、ロシアのパブロフ、さらにはアメリカのライトなどの学者らによって複雑な神経系統、脳の事がわかってきている。例えとして、私がここにひとつの仮説をたてることにしよう。それは記憶に関することである。これは意識とも密接に連関しているため、はぶく事はできない。まず異常な記憶力を持つアメリカ人を例にとることにしよう。彼の記憶力はおよそ九千冊の本に値する。彼の脳には脳梁がない。さらには感情のこもらない表象と概念のみを記憶している。クレッチュマーがその著書で「感情のこもらない概念は存在しない。」と、述べた。だが現にそのような人がいる事を鑑みれば、クレッチュマーの意見は現実には適わない事になる。そして感情のこもらない原因として挙げられるのは、脳側頭葉と海馬が連関していない事である。人とはなにかしらの強い情動作用を引き起こす表象や概念に出会ったときにそれを記憶する。だが先ほど私が述べた人物は記憶力に特化しているが、それを情味豊かに表現する、いわゆる芸術的感覚が欠如している。誤解をまねかないために一つ述べるが、私の述べた芸術的感覚とはゴッホやレンブランドなどの独創的な思考が欠如している事を言う。また性格に関して、もう一つ例がある。ある男性が発破工事中に事故にあった。鉄の棒が頭に刺さってはいたが、一命はとりとめた。しかしその後の男性の性格は一変し、粗暴な振る舞いなどを常習的に行うようになった。だがそれも暫時収まっていった。臨床結果を述べれば、脳前頭葉の損傷がその男性には著しく見られた。そのため、彼の性格をつかさどる部分は損傷し、代償として側頭葉、脳幹が働いていたと思われる。普通、理性によって人々の欲望はある程度押さえ込まれている。しかしいったんそれがなくなれば、欲望の赴くままに行動する事になるのである。また男性の自然治癒力を哲学で言い表すならば、「意志」になる。盲目的に生を求める意志。それこそが万物の基礎であり、なおかつ人々が驚嘆の念を持って、推奨する、生への問題にもつながってくる。ともかく性格とは遺伝と外傷によって変わるものである。むろん、遺伝の影響は脳外傷の影響より大きい。いったん、脳に障害をおった人でも、治癒すると本来の性格に戻るのである。
さて次は意識の問題に入りたいと思う。フロイトが提唱した「無意識」の問題を中心に議論を進めたいと思う。彼は無意識や夢分析に没頭していた。けれども最後まで明確な無意識の定義を決めることはできなかった。そもそも無意識とは下層知性に通ずるものである。クレッチュマーがフロイトの無意識の曖昧さを指摘したのは、正鵠を得ている。無意識とはいかなるもの?無意識とは何を意味するのか?そのような見解をクレッチュマーは提起している。次にまず無意識とは認識されていない意識である。自己を見つめる事でおのずと無意識の意味が分かってくる。ユングの言葉を借りれば、「無意識は意識に昇った時点で意識的になる。」そしてユングのこの言葉がフロイトの曖昧な無意識を廃絶したのである。しかし無意識の問題はなおも残っている。人とは視覚や聴覚を使った直観を用いて、論理を始める。あくまで無意識とは下層知性に属するもので、様々な情報を蓄える部位と密接に連関されている。やはり、その無意識も直観を基に機能している。何気ない風景の中で、突如として湧き上がる思想は下層知性が働いているおかげである。ルソーやショーペン・ハウアーも適度な運動をする事によって、考えが浮かびやすくなると述べている。それはその通りである。人とは一つの問題を考え続ける事はできない。だから身体的な運動をし、脳を活性化させる必要があるのである。私は無意識の定義をこう述べる。「下層知性の所産で、無意識の活動は行われる。したがって無意識とは下層知性の謂いである。また象徴化理論にもこれは当てはまる。象徴化は個人、個人特有の見識で定められる。もちろん、それは万人に当てはまる。国が違えば、象徴の意味合いも違ってくるのである。」
さて、話を戻すことにしよう。無意識はこの世には存在しない。なぜならそれは単なる戯言であるからだ。確かに精神分析は世界に貢献した。だがその中のいくつかの部位は間違っているのである。まずここで直観と意識の問題が出てくる。人や動物は直観によって、得た情報を基に概念、想像を構築する。意識的な問題に入る前に絶対的な権威を振るうのは直観である。直観なくして生物は存在しない。この存在しないとは、主観的に存在しない、という意味である。意識を構成するのは、直観である。自分自身、感じるものを得る事によって人は初めて自我の芽生えをむかえる。そしてそれに貢献するのが、直観なのである。人は経験した表象なくして、何ものも構築できない。例えば、スフィンクスは様々な動物によって構成されている。しかしその中には何一つ目新しいものはない。様々な表象が組み合わさり、スフィンクスはできているのである。もちろん、先験的な空間は別個に考える必要がある。なぜなら空間は意識の中においても消し去る事ができないからである。反対に時間は観念的なものであり、意識の中で除外できる。
我々は先験的な問題に直面した時に、それは明証されているという。しかしこれあくまで言葉の謂いであり、我々は意識的な問題をさかのぼって考える事により、初めて先験的なものを見出すのである。これは様々な意識過程を通じて、連想される、種々様々な問題に対してもそうである。私が前に述べた空間とは先験的である、という命題は思考実験を繰り返す物理学者には周知の通りである。まず我々は自我を確立し、主観を会得する。そしてそこから様々な個性や世界が見えてくるのである。「主観によって、客観は規定される」これは十九世紀の終わりから二十世紀の半ばまでの研究で分かったものである。ほんの些細な事に気がつくのもこの能力のおかげである。セネカがその哲学的著作や科学的著作の中で述べているのはまさにこの事である。彼は些細な事にも用心を怠らず、あらゆる天賦の才をその著作の中でいかんなく発揮している。
 ともあれ、直観と意識の関係は根強い。意識過程とはアンリ・ベルクソンが述べたように、流動的で捉えないようなものである。直観の前提として、意識があることはここまでの叙述で明白に分かったはずである。そして最後に我々は直観過程から今度は意識過程に逆戻りをして、より明白な概念を得る事を臨むしだいである。
 直観とはある意味無意識の動作である。目に映る景色を見ているときも直観と言う言葉は使われる。その流れる風景に心打たれる人もいれば、他方無関心な人もいる。したがって、直観とは個人の主観的意識を基にして、成り立っていると言える。脳科学的にいえば、水晶体、網膜を媒介して視床下部に電気信号が伝わる。その時にでるパルスの強弱がその人の目の感受性となる。そしてこれを意識まで昇らせるのである。この意識下に置かれる状態とは海馬と前頭葉、間脳、側頭葉、そしてそれらをつなぐ脳梁が関係している。もっと深くいえば、天才的な人物とは脳のあらゆる部分が連関し、常人よりはるかに脳を酷使しているものである。直観とは主に視床下部からでたパルスが海馬に至らない間に前頭葉に行ったときに起こるものである。この事から記憶媒体のない生物にも直観は存在する事になる。また、直観に必要な材料は目と脳ということになる。前頭葉と言う高度に発達した機関を持たない生物は替わりのものとして、脳幹を使用する。これはたこやいかが捕食する際に見せる行為から容易に導き出せる。そしてその使用が連続的に行われ、生物界ではその手法が妥当しなくなった時に対応するために進化とは存在するのである。
 次に意識と進化の過程を見ると、その隔たりがあまりに大きいのに気づく。意識とは高度に進化した生物の思考過程の初期の段階の事を言う。まず意識とは直観の前提にはなり得ない。さらに意識は進化の代価にもなりえないのである。先立って進化があり、直観が生まれる。この順序は高度な生命体に変貌し続けると、次第に逆転してくる。そして最後に意識が残るのである。

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