「十三歳で、五経を完璧に読めるとは。
司馬遷は、できたのだろうか」
「読めることが、
そのまま理解とは言えません。
気長にやらなければならないことが、ひとつ見つかりました。」
「いい晩年になりそうではないか、司馬遷。」
「酒がうまい、と感じることがあるのですよ。食べ物も。
新鮮な驚きが、日々の中にあるのです。」
by 史記 武帝紀七 北方謙三さん 第三十四章 雲漠の中 300ページより
将棋でも当てはまりそうな言葉・・・・・ではある(笑)
わたしも、将棋の名人戦の棋譜は読もうと
思えばよめる・・・・が、
その内容を精査してちゃんとしたものにして、
自分の言葉にしようと思えば、
おそらくは1億回、十二分に見てもわかるまい。
そんな感じはする。
そして、わたしにはおそらくは・・・・
・・・・もうそんな時間は残されてはいないのだ(笑)
そして、6巻である・・・・
「動く寸前には、読め。
間違っててもいいから、ひとつの読みを、心の中に抱け。
そう思っていれば、かなりのところまでは、読めるようになるものだ。
おまえが一軍を指揮するまでには、まだいくらか時がある。
読んでから動く、という習慣をつけろ。
動いて間違った読みをしていると感じたら、
動きながら修正せよ」
by 史記 武帝紀6巻 第二十六章 68ページ 懐抱は淡く より
コンピューター将棋のすごさ。それは、
動きながらでも修正できること。
それはもうわかっているのである。
そして、そのコンピューターの正しい手・間違った手を
作ったのは、
現代までの将棋指しの連綿たる棋譜。
(名局もあれば、凡局もあるのだが・・・・)
まあ、『電王戦』というのは、今までの将棋の知識と
今の棋士の対決なのであろう。
ただ、動きながらの修正は、やはり先入観に囚われる
人間さまでは少し不利である。
それだけは否めない。
となると、後は、※大局観である。
※大局観(たいきょくかん)とは、
将棋や囲碁などのボードゲームで、的確な形勢判断を行う能力のこと。(下述。)
概要[編集]
囲碁や将棋、チェスなどに置いて、部分的なせめぎ合いにとらわれずに、
全体の形の良し悪しを見極め、自分が今どの程度有利不利にあるのか、
堅く安全策をとるか、勝負に出るかなどの判断を行う能力のこと。
大局観に優れると、駒がぶつかっていない場所から意表を突く攻めを
行うなど、長期的かつ全体的な視野のもと手を進めることが可能となる。
反対に大局観が備わっていなければ、盤上の一部での駒のぶつかり合いや、
短期的な駒の損得しか考えられなくなる。
多分に直感的なもので、コンピュータでは再現が難しいとされる。
比喩[編集]
転じて、物事の全体像(俯瞰像)をつかむ能力のことを
「大局観」または「大局」と呼ばれる。
う~む・・・・今の所の『電王戦』では、人間さまが大局観で勝った
将棋があったのか無かったのか??
わたしクラスの実力では、まったくちんぷんかんぷんである。
(そもそも、電王戦を見てないので論外だが・笑)
結果だけ見れば、もはや抜かれているのであろうことは
明白なのだが・・・・
例の”『儀式』”がすんでいない以上、
コンピューターさんに抜かれている・・・・どうこうを言うのも
なんか変である。
う~む。まあ、コンピューターさんが『理解して将棋を指している』
とは・・・・・まだ思えないんだがなぁ~~~~~。
と、史記 武帝紀を読みながら、漠然と思った次第である。
司馬遷は、できたのだろうか」
「読めることが、
そのまま理解とは言えません。
気長にやらなければならないことが、ひとつ見つかりました。」
「いい晩年になりそうではないか、司馬遷。」
「酒がうまい、と感じることがあるのですよ。食べ物も。
新鮮な驚きが、日々の中にあるのです。」
by 史記 武帝紀七 北方謙三さん 第三十四章 雲漠の中 300ページより
将棋でも当てはまりそうな言葉・・・・・ではある(笑)
わたしも、将棋の名人戦の棋譜は読もうと
思えばよめる・・・・が、
その内容を精査してちゃんとしたものにして、
自分の言葉にしようと思えば、
おそらくは1億回、十二分に見てもわかるまい。
そんな感じはする。
そして、わたしにはおそらくは・・・・
・・・・もうそんな時間は残されてはいないのだ(笑)
そして、6巻である・・・・
「動く寸前には、読め。
間違っててもいいから、ひとつの読みを、心の中に抱け。
そう思っていれば、かなりのところまでは、読めるようになるものだ。
おまえが一軍を指揮するまでには、まだいくらか時がある。
読んでから動く、という習慣をつけろ。
動いて間違った読みをしていると感じたら、
動きながら修正せよ」
by 史記 武帝紀6巻 第二十六章 68ページ 懐抱は淡く より
コンピューター将棋のすごさ。それは、
動きながらでも修正できること。
それはもうわかっているのである。
そして、そのコンピューターの正しい手・間違った手を
作ったのは、
現代までの将棋指しの連綿たる棋譜。
(名局もあれば、凡局もあるのだが・・・・)
まあ、『電王戦』というのは、今までの将棋の知識と
今の棋士の対決なのであろう。
ただ、動きながらの修正は、やはり先入観に囚われる
人間さまでは少し不利である。
それだけは否めない。
となると、後は、※大局観である。
※大局観(たいきょくかん)とは、
将棋や囲碁などのボードゲームで、的確な形勢判断を行う能力のこと。(下述。)
概要[編集]
囲碁や将棋、チェスなどに置いて、部分的なせめぎ合いにとらわれずに、
全体の形の良し悪しを見極め、自分が今どの程度有利不利にあるのか、
堅く安全策をとるか、勝負に出るかなどの判断を行う能力のこと。
大局観に優れると、駒がぶつかっていない場所から意表を突く攻めを
行うなど、長期的かつ全体的な視野のもと手を進めることが可能となる。
反対に大局観が備わっていなければ、盤上の一部での駒のぶつかり合いや、
短期的な駒の損得しか考えられなくなる。
多分に直感的なもので、コンピュータでは再現が難しいとされる。
比喩[編集]
転じて、物事の全体像(俯瞰像)をつかむ能力のことを
「大局観」または「大局」と呼ばれる。
う~む・・・・今の所の『電王戦』では、人間さまが大局観で勝った
将棋があったのか無かったのか??
わたしクラスの実力では、まったくちんぷんかんぷんである。
(そもそも、電王戦を見てないので論外だが・笑)
結果だけ見れば、もはや抜かれているのであろうことは
明白なのだが・・・・
例の”『儀式』”がすんでいない以上、
コンピューターさんに抜かれている・・・・どうこうを言うのも
なんか変である。
う~む。まあ、コンピューターさんが『理解して将棋を指している』
とは・・・・・まだ思えないんだがなぁ~~~~~。
と、史記 武帝紀を読みながら、漠然と思った次第である。