「天下統一の仕上げに
とんでもない虎が残りましたな」
と黒田家では語られていましたが、
一方、大阪城では鶴松を育てる為に、
茶々を大坂城に入れて、代わりに北政所を
聚楽第に体よく追っ払うことにしました。
なんとも腹立つ話です。
豊臣秀長さんは官兵衛を誘って一緒に
お酒を飲んで、
官兵衛が頼りだと、秀吉政権の不安定さを危惧します。
いやいや、秀長さんの方が、まだ秀吉に対して
強く言えるだろうに・・・・。
どーも、この大河の秀長さんは、いまいち頼りない
感じが見受けられます。
秀次さん・前田利家さんに関しては・・・・
どこにおるんやろ・・・・??
と言う感じです。(笑)
一方・・・・・
三成さんとこには、増田さん長束さんなど・・・・
新三馬鹿役が・・・・・。(苦笑)
どーも、追従する部下が変に出てくるのも、
この大河の特徴です。
(しかも、この追従する部下の末路は、
主が勢力を衰えさせると、
ヤドリギなごとく枯れ果て、
哀れなものが多いのも特徴です。)
ついについに、小田原を征伐する決意をする関白・秀吉。
上杉謙信・武田信玄を退けた小田原城を背景に、
絶対の防御力に自信をみせる、
伊吹吾郎(ちゃうちゃう、北条氏政さん・笑)
そして、小田原への進軍方法を
ホワイトボードをみせて(そんなの出てない・笑)
示す石田三成・・・・。
官兵衛は意見を求められて、
「大軍に策なしと申します」
と、申し上げます。
裏を返せば・・・・・。
「は~ん。こんなの。22万もいるんだから
何やっても、負けるわけなかろうが!!」
と曲解翻訳されてもおかしくないような話し方にも
見えます。
三成も内心、「嫌なやつ」だなぁ~~~~と
思ったのかもしれません。
会議終了後に、家康と話す官兵衛。
秀吉さまが城を借りたいと言ってくるかも
しれないので、駿府城を修繕しておけば
いいのでは。とのアドバイスに
なるほど。と、早速駿府城を修繕し、秀吉を
出迎えることにしました。
でも、石田三成は
それを
『罠だ!!』
と言うのです。
おいおいっ、先ほどの官兵衛・家康の会話を盗みぎき
してたら、逆に罠とは思わんやろ・・・・。
要は、官兵衛のやることが
いちいち気に障るだけじゃねえかよ。(笑)
ああ、なんか、嫌な奴にしようとして、
なんか、利発には見えない三成。
つらいです。
豊臣側の主だった大名主力:
豊臣秀吉、徳川家康、織田信雄、蒲生氏郷、黒田孝高、
豊臣秀長、宇喜多秀家、細川忠興、小早川隆景、吉川広家、
堀秀政、池田輝政、浅野長政、石田三成、長束正家、
立花宗茂、大谷吉継、石川数正、増田長盛、
高山右近、筒井定次、蜂須賀正勝、大友義統、加藤清正、福島正則。
約17万。
水軍:長宗我部元親、加藤嘉明、九鬼嘉隆、脇坂安治。約1万。
北方隊:前田利家、上杉景勝、真田昌幸。約3万5千。
推定総計約21万。
後北条側の主だった諸将小田原城:
北条氏直、北条氏政、北条氏照、成田氏長、垪和康忠、松田憲秀、
笠原政晴、笠原政尭
その他の城:松田康長(山中城)、成田泰季(忍城)、北条氏規(韮山城)、
大道寺政繁(松井田城)、北条氏邦(鉢形城)
ウィキより。
圧倒的な大軍で小田原城を囲む秀吉軍に対して、
伊吹吾郎さん(北条氏政)も意気軒昂で、
相変わらず、「上杉・武田も落とせなかった城」を
強調します。
過去の実績にあぐらをかいている、
馬鹿上司の感を受けます。
つらい所です。
が、まだまだこう着状態なので、三成に
「たまには武功を上げてみよ。」
と忍城(おしじょう)攻めに向かわせます。
そして、利休の竹の茶入れ?花入れ?を庭に放り投げ、
「つまらん」とかいう秀吉。
う~む・・・・秀吉を悪人に仕立て上げる為に
わざわざそんな演出を加えんでも・・・・・。
(いやな性格やなぁ~~~~・笑)
相変わらず、「ちゃちゃ、ちゃちゃ」
という秀吉ですが・・・・
「茶々、
おねのことをとやかく言うことはゆるさん!!」
と釘を刺すのも忘れない、小田原の秀吉でした。
そして、例の一夜城を北条に見せつけ、
北条の士気を下げさせます。
官兵衛、ここで講和を進言。
相模・伊豆の二カ国安堵で北条存続を
願います。
講和の使者としては、家康と官兵衛に絞られましたが、
家康が渋ったので、あっさりと官兵衛に
決まりまして、
ついに単身、小田原城に向かうこととなりました。
「城を落とす気はござらん。
このまま、何年でも囲み続けるまで」。
と、『立ち枯れ』を匂わせ威圧する官兵衛。
器が違いすぎました。
小田原開城・・・・となりました。
またまた、
たった1週での速攻でした。(笑)
一方、石田三成の忍城は・・・・
忍城(おしじょう)の戦い[編集]
1590年(天正18年)6月5日から7月17日まで続いた。
忍城攻撃軍の編成
石田三成 1,500人
直江兼続 3,000人
真田信繁 3,000人
忍城守備軍(成田氏長の配下)
忍城攻めでは、石田三成を大将、長束正家を副将に佐竹義重や宇都宮広綱、
結城晴朝などの常陸、下野、下総の諸大名や
真田信繁など上野の諸将を先鋒に、
本陣を忍城を一望する近くの丸墓山古墳(埼玉古墳群)に置いて忍城を包囲した。
秀吉は三成に近くを流れる利根川を利用した水攻めを行うよう命じ、
岩槻城を抜いた徳川勢の後詰も導入され、利根川から忍城付近まで
石田堤の建設が進められたが、利根川の水量が貧弱であったため
水攻めの効果は薄かった。
その後の増水により堤が決壊して石田方に溺死者がでるなど水攻めは失敗に終わり、
忍城攻めは7月に入っても続くことになる。
最終的には落城しないまま小田原城開城を受けて開城することになった。
ウィキより
はっきり言いますと、三成が戦争が苦手なのでは
ないのです。
『水攻め』で落とせという関白秀吉の足かせも
ありながらもよく頑張っている・・・・
と言うところなのです・・・・が、
「戦争は官兵衛じゃ」
といわれてしまう、三成・・・・・。
屈辱的でありました。
とはいえ・・・・
官兵衛曰く、
「三成殿は、いまや殿下の右腕でございます。」
と利休に語るありさま・・・・。
ちなみに・・・・
二カ国安堵な予定な北条氏でしたが、
急に状況がかわりまして・・・・・
(『吾妻鏡』が写っていました。)
氏政切腹・・・・氏直高野山追放
家康に関東を与える・・・・・
こととなってしまいました。
「小田原の落日」と言いながらも
今回は、約束を違(たが)える秀吉の落日
とも言える内容なのでした。
おわりっ。
とんでもない虎が残りましたな」
と黒田家では語られていましたが、
一方、大阪城では鶴松を育てる為に、
茶々を大坂城に入れて、代わりに北政所を
聚楽第に体よく追っ払うことにしました。
なんとも腹立つ話です。
豊臣秀長さんは官兵衛を誘って一緒に
お酒を飲んで、
官兵衛が頼りだと、秀吉政権の不安定さを危惧します。
いやいや、秀長さんの方が、まだ秀吉に対して
強く言えるだろうに・・・・。
どーも、この大河の秀長さんは、いまいち頼りない
感じが見受けられます。
秀次さん・前田利家さんに関しては・・・・
どこにおるんやろ・・・・??
と言う感じです。(笑)
一方・・・・・
三成さんとこには、増田さん長束さんなど・・・・
新三馬鹿役が・・・・・。(苦笑)
どーも、追従する部下が変に出てくるのも、
この大河の特徴です。
(しかも、この追従する部下の末路は、
主が勢力を衰えさせると、
ヤドリギなごとく枯れ果て、
哀れなものが多いのも特徴です。)
ついについに、小田原を征伐する決意をする関白・秀吉。
上杉謙信・武田信玄を退けた小田原城を背景に、
絶対の防御力に自信をみせる、
伊吹吾郎(ちゃうちゃう、北条氏政さん・笑)
そして、小田原への進軍方法を
ホワイトボードをみせて(そんなの出てない・笑)
示す石田三成・・・・。
官兵衛は意見を求められて、
「大軍に策なしと申します」
と、申し上げます。
裏を返せば・・・・・。
「は~ん。こんなの。22万もいるんだから
何やっても、負けるわけなかろうが!!」
と曲解翻訳されてもおかしくないような話し方にも
見えます。
三成も内心、「嫌なやつ」だなぁ~~~~と
思ったのかもしれません。
会議終了後に、家康と話す官兵衛。
秀吉さまが城を借りたいと言ってくるかも
しれないので、駿府城を修繕しておけば
いいのでは。とのアドバイスに
なるほど。と、早速駿府城を修繕し、秀吉を
出迎えることにしました。
でも、石田三成は
それを
『罠だ!!』
と言うのです。
おいおいっ、先ほどの官兵衛・家康の会話を盗みぎき
してたら、逆に罠とは思わんやろ・・・・。
要は、官兵衛のやることが
いちいち気に障るだけじゃねえかよ。(笑)
ああ、なんか、嫌な奴にしようとして、
なんか、利発には見えない三成。
つらいです。
豊臣側の主だった大名主力:
豊臣秀吉、徳川家康、織田信雄、蒲生氏郷、黒田孝高、
豊臣秀長、宇喜多秀家、細川忠興、小早川隆景、吉川広家、
堀秀政、池田輝政、浅野長政、石田三成、長束正家、
立花宗茂、大谷吉継、石川数正、増田長盛、
高山右近、筒井定次、蜂須賀正勝、大友義統、加藤清正、福島正則。
約17万。
水軍:長宗我部元親、加藤嘉明、九鬼嘉隆、脇坂安治。約1万。
北方隊:前田利家、上杉景勝、真田昌幸。約3万5千。
推定総計約21万。
後北条側の主だった諸将小田原城:
北条氏直、北条氏政、北条氏照、成田氏長、垪和康忠、松田憲秀、
笠原政晴、笠原政尭
その他の城:松田康長(山中城)、成田泰季(忍城)、北条氏規(韮山城)、
大道寺政繁(松井田城)、北条氏邦(鉢形城)
ウィキより。
圧倒的な大軍で小田原城を囲む秀吉軍に対して、
伊吹吾郎さん(北条氏政)も意気軒昂で、
相変わらず、「上杉・武田も落とせなかった城」を
強調します。
過去の実績にあぐらをかいている、
馬鹿上司の感を受けます。
つらい所です。
が、まだまだこう着状態なので、三成に
「たまには武功を上げてみよ。」
と忍城(おしじょう)攻めに向かわせます。
そして、利休の竹の茶入れ?花入れ?を庭に放り投げ、
「つまらん」とかいう秀吉。
う~む・・・・秀吉を悪人に仕立て上げる為に
わざわざそんな演出を加えんでも・・・・・。
(いやな性格やなぁ~~~~・笑)
相変わらず、「ちゃちゃ、ちゃちゃ」
という秀吉ですが・・・・
「茶々、
おねのことをとやかく言うことはゆるさん!!」
と釘を刺すのも忘れない、小田原の秀吉でした。
そして、例の一夜城を北条に見せつけ、
北条の士気を下げさせます。
官兵衛、ここで講和を進言。
相模・伊豆の二カ国安堵で北条存続を
願います。
講和の使者としては、家康と官兵衛に絞られましたが、
家康が渋ったので、あっさりと官兵衛に
決まりまして、
ついに単身、小田原城に向かうこととなりました。
「城を落とす気はござらん。
このまま、何年でも囲み続けるまで」。
と、『立ち枯れ』を匂わせ威圧する官兵衛。
器が違いすぎました。
小田原開城・・・・となりました。
またまた、
たった1週での速攻でした。(笑)
一方、石田三成の忍城は・・・・
忍城(おしじょう)の戦い[編集]
1590年(天正18年)6月5日から7月17日まで続いた。
忍城攻撃軍の編成
石田三成 1,500人
直江兼続 3,000人
真田信繁 3,000人
忍城守備軍(成田氏長の配下)
忍城攻めでは、石田三成を大将、長束正家を副将に佐竹義重や宇都宮広綱、
結城晴朝などの常陸、下野、下総の諸大名や
真田信繁など上野の諸将を先鋒に、
本陣を忍城を一望する近くの丸墓山古墳(埼玉古墳群)に置いて忍城を包囲した。
秀吉は三成に近くを流れる利根川を利用した水攻めを行うよう命じ、
岩槻城を抜いた徳川勢の後詰も導入され、利根川から忍城付近まで
石田堤の建設が進められたが、利根川の水量が貧弱であったため
水攻めの効果は薄かった。
その後の増水により堤が決壊して石田方に溺死者がでるなど水攻めは失敗に終わり、
忍城攻めは7月に入っても続くことになる。
最終的には落城しないまま小田原城開城を受けて開城することになった。
ウィキより
はっきり言いますと、三成が戦争が苦手なのでは
ないのです。
『水攻め』で落とせという関白秀吉の足かせも
ありながらもよく頑張っている・・・・
と言うところなのです・・・・が、
「戦争は官兵衛じゃ」
といわれてしまう、三成・・・・・。
屈辱的でありました。
とはいえ・・・・
官兵衛曰く、
「三成殿は、いまや殿下の右腕でございます。」
と利休に語るありさま・・・・。
ちなみに・・・・
二カ国安堵な予定な北条氏でしたが、
急に状況がかわりまして・・・・・
(『吾妻鏡』が写っていました。)
氏政切腹・・・・氏直高野山追放
家康に関東を与える・・・・・
こととなってしまいました。
「小田原の落日」と言いながらも
今回は、約束を違(たが)える秀吉の落日
とも言える内容なのでした。
おわりっ。