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あれの事故から10年

2021-03-12 05:32:00 | 日記

3月11日 14:46分 に起こりました、東日本大震災から昨日で10年。
東日本大震災で亡くなられた方々のご冥福をお祈り申し上げます。
東日本大震災が起こった時、私は23歳で、この日に起きた地震の事をアルバイト先から帰ってからのテレビで知りました。
津波で流される家屋と高台へと避難する人、そして、福島第一原子力発電所のが吹き飛んだ光景を。
次の日の3月12日の15時36分に1号機で水素爆発が起き、2日後の3月14日11時01分に3号機が水素爆発を起こしました。

この事故から2年後に私は福島原発で原発作業員として3号機の真裏(海側)での作業でしたが、放射線を遮る遮蔽物の一切ない場所で、自分たちで鉛版をかけるラックを運んで取り付けて遮蔽物を作り、その中で汚染水くみ上げの配管を組む作業を行いました。

作業中に顔を上げると、自分がテレビで見た。

爆発を起こした3号機がそこにあるのです。

この時の私は被曝のこともよくわかっていませんでした。

私が未だに忘れられないのは、人の立ち入りを制限された町です。

福島ジェイビレッチで福島原発に向かうバスに乗り、福島原発のある大熊町へ向かうのですが、警官隊が街の入り口で厳重な警備をしており、許可がない人は通さないようにしていました。
先ほどまで誰かがいたのではないかと思ってしまうほど生活感のある町中を見たときに思ったことは「これがもし、唐津で起こったらどうなるのだろう?」でした。

私が住む佐賀県唐津市は、玄海町とお隣に位置しており、その玄海町には玄海原子力発電所があります。

もし、同じような規模の原子力災害が起こってしまったら、どうするのかを考えるよりも、もう二度と原子力災害を起こさせないために、今を生きる大人たちの手で、早いうちに再生可能エネルギーへ転換していき、これからを生きる子供たちや若者に手渡していかなければならない時期に来ているのではないでしょうか。

あれから7年が経ちました。
今だに事故の収束が見通せないままになるとは、当時の私は思いもしなかったことでしょう。







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